ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

秋深まるなか 石岡の歴史探訪ウォーキング

2017年12月01日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2017年12月1日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成29度第25回(2017年第41回)、「石岡の歴史探訪」ウォーキングに参加した。
この日のコースは、2012年2月17日(金)以来で、5年半ぶり2度目となる。

この日の第一集合場所は土浦ピアタウンだ。


土浦ピアタウンに集まったのは、12名。
予報は、曇りのち晴れということだが、未明まで雨だったこともあり、
参加を見合わせた人もいたのかも・・・
車4台に乗り合わせ、第二集合場所の石岡の柏原池公園へ。


柏原池公園には、10名が直行していた。
結果、この日の参加者は22名となった。


公園の一角で、準備体操


号令は、NGさんである。
すっかり板についてきた。


『肩を回して~っ』


『大きく深呼吸~っ』


10時3分、NGさんを先頭に、出発!


後に続く皆さん。


柏原池公園の前を走っている国道355号を横断し、


常陸国分尼寺を目指す。
『石岡は近いけど、石岡市内を歩くのは初めてだから、楽しみだよねっ』
前回(2012年2月17日)から5年半経っているので、顔ぶれも大分変わっており、
初めての人も多いようだ。


鹿の子遺蹟方面へ右折して進むと・・・


右手に常陸風土記の丘の龍神山が見えた。
二つに割れているのが特徴である。


常磐道の横断陸橋へ。


常磐道の車の流れは順調だ。


常陸国分尼寺を目指す。


常磐道を横断して数百m進み、「常陸国分尼寺」と書かれた石柱を左に曲がる。


50mほど進むと・・・
常陸国分尼寺跡の広大な芝生が広がっていた。


一段高くなった所に桜の古木があった。
奥のほうが金堂跡と思われる。


『建物があった所に説明があると良いのにねっ』
これまで幾つかの国分寺跡を観て来たが、必ずと言っていいほど
遺構跡には説明板があった。


広場を進んで行くと、国分尼寺の説明板があった。
説明板には、
国分寺・国分尼寺は、天平十三年(741)聖武天皇の勅願により、
鎮護国家(ちんごこっか)を祈るため国ごとに置かれた寺院である。
国分尼寺は、法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)といい、
常住の尼僧10名を置き、寺院の財政は水田10町によってまかなわれた。
一般に国分尼寺は、国分寺より早く衰退したらしく、今日ではその遺跡すら
どこにあるのか不明なものが多い、とある。


また、常陸国分尼寺跡は、一直線上に中門跡・金堂跡・講堂跡の礎石群が
基檀上にあって保存され、全国的に見ても極めて貴重な遺跡である、
と記されている。
写真は金堂跡と思われる。


常陸国分尼寺跡をパノラマ写真に収め、


国分尼寺跡を後にする。


国分尼寺跡前の道路を左に曲がると、


隣は石岡市立府中小学校だった。
子供たちが歓声を上げながら元気よく校庭を駆け回っていた。


石岡若松郵便局を過ぎ、住宅街を進むと、左手に府中クリニックがある。


府中クリニックの前を右折して進むと・・・


前方に大きな屋根が見えて来た。
常陸国分寺の本堂のようだ。


突き当りのこくぶんじ幼稚園を右に曲がり、


こくぶんじ幼稚園を左手に見ながら進む。


『目の前に見えてるけどなかなか着かないわねっ』


10時52分、ようやく常陸国分寺に到着した。
正面に大きな銀杏の木が聳えていた。
『いやぁ これはなかなか立派な銀杏だね~』


国分寺薬師堂
常陸国分寺跡の金堂の位置に建てられている。
ご本尊の薬師如来が安置されている。
毎年4月3日にはお釈迦様の誕生を祝う”花祭り”が行われ、
たくさんの人出で賑わうそうだ。


都々一坊扇歌堂
都々一坊扇歌は、文化元年(1804)医者岡玄策の子として、久慈郡磯部村
(常陸太田市磯部)に生まれ、幼名を子之松、のちに福次郎と改めた。
幼少の折、病により失明同様となったが、芸の道を志し、20歳のとき江戸に出て、
船遊亭扇橋の弟子となった。
その後、寄席芸人としての修行が続き、天保九年(1838)一枚看板を許され、
当時流行していた「よしこの節」「いたこ節」などを工夫して、
新しく「都々逸節」を作り、都々一坊扇歌と名乗った。
(石岡市教育委員会)
堂は市指定有形文化財になっている。


国分寺・国分尼寺は、天平十三年(741)聖武天皇の勅願により、
鎮護国家(ちんごこっか)を祈るため国ごとに置かれた寺院である。
常陸国分寺は、金光明四天王護国之寺といい、金字金光明最勝王経の
一部を安置した七重塔を設け、常住の僧20名と、最勝王経十部を置いた。
寺院の財政は、封戸50戸、水田10町によってまかなわれた。
と記されている。


常陸国分寺は、また、真言宗智山派の寺院で、山号は浄瑠璃山。
院号は東方院で本尊は薬師如来である。
奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、
常陸国国分寺の後継寺院にあたる。


国分寺正面の参道に旧い門があった。
旧千住院の山門である。


千住院は府中における大寺のひとつで、末寺2ケ寺、門徒21ケ寺など多くの寺が
主に府中の町中にあったが、明治の初めにはほとんどが廃寺となってしまった。
また千住院も大正八年(1919)に国分寺と合併して廃寺となった。


現在はこの山門のみが残されている。
常陸国分寺の山門でもある。
市指定有形文化財となっている。


国道354号に出て、石岡駅方面へ。


石岡の市街地を進む。
国分町三丁目付近


旧い蔵造りの家が多い。
前回(2012年2月17日)訪れた時には、東日本大震災による
損傷の修理の真っ最中だったが、今では修復も一段落といった感じ。


酒屋もある。
『石岡産の銘柄は何て言うんだろうねっ?』


石岡駅近くの国府三丁目付近


左正面が石岡駅方面になる。


中町国府三丁目付近


中町国府三丁目の三差路を右折


スーパータイヨーの横を進み、


スーパータイヨー前の道路を進む。


細谷酒店の前を通過。
『虚心坦懐(きょしんたんかい)か、いつもこうありたいねっ』
(虚心坦懐:心にわだかまりがなく、平静に事に望むこと)


常陸総社宮へ


緩やかな坂道を進むと、


11時29分、常陸総社宮の大鳥居の前に出た。
笠木と貫が結わえられているが、落下防止のためなのだろうか?
『今度地震があったら、落ちるかもねっ』


掃き清められた参道を進むと、


参道は左に折れ、少し先に総社宮の随神門が。
随神門の両袖には、向かって右側に左大臣、
向かって左側に右大臣の随神像が祀られている。


境内には、いろんな神社(松尾神社・厳島神社・愛宕神社・星宮神社・
香丸稲荷神社・愛染神社)が合祀されている。


松尾神社(写真一番手前)には次のような説明が。
筑波山の清流が湧き出る常陸国府(現石岡市)は古来、
水の綺麗な場所として知られている。
江戸時代には酒造りが盛んになり、「関東の灘」の異名を
取るようになる。
松尾神社は、当地の蔵元により祀られた酒造りの神様で、
天保二年(1831)に鎮座した、とのこと。
『どおりで酒屋が多いと思ったよっ』


また、常陸国府の酒林(酒造会社)と主な銘柄が記されていた。
・石岡酒造「白鹿」「筑波」 ・白菊酒造「白菊」
・府中誉「府中誉」「渡舟」 ・藤田酒造店「富士泉」
『今度、飲んでみようかなっ』


日本武尊(やまとたけるのみこと)の腰掛石も。
日本武尊東方遠征の折、この地に立ち寄りここに腰を下ろして休まれた、
と言い伝えられている。


総社宮の社殿全体


昭和六十年に再建なった拝殿に参拝!


拝殿前の御神木の楠
関 右馬允(せき うまのじょう)による『茨城県巨樹老木誌』にも収録された
県下第一の大楠。
昭和39年の火災で類焼したが、幹の周囲から次第に蘇生し、
現在でも力強い生命を保っている。黒くこげた木肌が痛々しい。
樹齢約600年、樹高約17m、樹周約4mとのこと。
『いやぁ たくましい木だねぇ』


時計は11時40分になろうとしていた。
この先、弁当を食べるのに相応しい場所は思いつかない。
社務所の方に境内での食事について問うと、
他の参詣者に支障のない範囲でならとのこと。
総社宮の厚意に甘えて、境内で弁当タイムを採ることにした。


本殿の裏で紅葉を眺めながらの弁当。
『ちょっと失礼!』


弁当が終わり、社殿をバックに記念撮影し、


12時13分、総社宮を後にした。


総社宮近くの住宅地を進む。
『どっかの武家屋敷跡のような塀の色だねっ』


横瀬医院前を通過。
『随分と旧そうねっ』
『今でもやってるのかしら?』


12時18分、昭和44年に石岡小学校の敷地内に移されていたが、
平成26年に市民の要望により、現石岡市民族資料館前に移築された陣屋門。
この門は、江戸中期から幕末まで、およそ170年間にわたって
この地を治めた府中松平家の陣屋の表門であった。


現存する門は文政十一年(1828)の建築で、鏡柱と控柱との間に
切妻屋根をのせる「高麗門」の形式である。


陣屋門の直ぐ裏が石岡市民族資料館になっている。


石岡市民族資料館の先を道なりに進むと・・・


青屋神社があった。
常陸国司は都から着任すると、鹿島神社に参拝するのが習わしであった。
国司が参拝するには高浜から舟で行くのが順路であったが、荒天で
出航不能の時は、高浜の渚にススキ、マコモ、ヨシ等で青屋(仮屋)を作り、
そこから鹿島神社を遥拝し参拝に代えたという。
これが青屋祭の起こりといわれている。


クリスマスの飾りに包まれた電気店


『あっ サンタさんが出て来たっ』
煙突の中から姿を現したり、隠れたりするサンタの人形に歓声が上がる。


若宮1町目交差点を左折すると、前方に若宮八幡が見えた。


12時24分、若宮八幡に到着


元文年間のものとされる神門には、左に青色の風神像、
右には赤色の雷神像が睨みを利かせている。


若宮八幡宮は、奈良時代の神亀五年(728)に建立されたと伝えられる。
常陸国分寺の守護神、いわゆる国分八幡宮の一つとされる。
平安時代の永保二年(1082)、八幡太郎源義家が奥州征討の折、
当社に朝敵退散を祈願したと伝えられる。
応永二年(1395)には太田道灌が参詣したと伝えられている。
天正十八年(1590)には佐竹義宣が府中を攻略した際に焼失したが、
慶長七年(1602)、別当福蔵坊と伝える僧が本社並びに拝殿を再興した。


若宮八幡宮を後にして、ゴールの柏原池公園へ。


『石岡は酒店が多いねぇ』
常陸総社宮の松尾神社の説明に納得。


12時34分、国分寺入口バス停を通過


午前中に右に折れて常陸国分寺へ向かった横断陸橋を、
今度は左側へと進む。
真っ直ぐ進むと、午前中歩いたのと同じ道を戻ることになる。
出来れば同じ道は避けたい。


左手に石岡市立府中中学校の体育館を見ながら進む。


常磐道を跨ぐと、


右手にコンビニがあった。


コンビニ前で最後の休憩だ。


『常陸風土記の丘まで3.3Kmか、意外と近いんだねっ』


国道355号の鹿の子交差点を右へ折れると、銀杏の並木が続いていた。


黄色い絨毯を踏み締めながらゴールの柏原池公園を目指す。


『もう直ぐ柏原池公園だよねっ』


『飲み放題1,000円って安いんじゃないのっ?』
カラオケ店の先を左に曲がり・・・


13時9分、ゴールの柏原池公園駐車場に到着した。


最後に整理体操(1)


整理体操(2)


整理体操(3)
(りんごを掴んで後ろへ回している様子)

『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』

2012年2月17日(金)以来2度目の石岡の歴史探訪コースを歩き終えた。
この日のコースは、石岡駅を起点・終点とする石岡の歴史を探訪する
2つのコース(①常陸大掾氏歴史コース4Kmと②健康ウォーキングコース6Km)
のうち、主に②の健康ウォーキングコース6Kmを歩いたことになる。
当会に相応しいコースだったと言えるだろう。
次に機会があれば、①の常陸大掾氏歴史コース4Kmを歩いてみたい。

この日の万歩計は、15,000歩を少し超えていた。

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