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 年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

節電の結果

2011年05月16日 | 築地市場にて
3月11日以後節電し始めたのだが先月は20日分しか電気料金に結果が反映していなかったので10%以上は節電していたと思うが実際のところわからなかった。本日東京都から市場の使用料と電気料金の請求書が来た。前年比30%程電気料金が減っている。やはり4月に比較すると気温が上がっているせいか冷蔵庫の電気は節電の効果なく使用電気量が増えている。あと夏場にかけて節電できるのはエアコンの使用を控えるため、網戸を設置することを考えよう。窓にフィルムを貼って断熱、常夜灯にスイッチを付け一部を消灯することも検討する。
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文明東漸史

2011年05月15日 | 福神漬
文明東漸史 藤田茂吉著 明治17年(1886)9月
高野長英の記録を読んでいるとこの本に出合うこととなる。明治17年に出版されたこの本によって世間に忘れ去られた高野長英・渡辺崋山の功績の再評価された。また根岸党の一員となった森田思軒が序文を漢文で書いてある。
 明治17年ともなれば自由民権運動が内部対立によって自滅する時代でもあった。この様な時、福沢十哲の一人といわれた郵便報知新聞社記者藤田茂吉によって、明治維新が薩長の力だけではないと書いた本だった。本は評判となり、高野長英の逃走劇となって歌舞伎・講談となった。特に講談師松林伯円は高野長英を取り調べた南町奉行筒井政憲と交友があり、筒井から聞いた事実を巧みに取り入れて講談に仕立てたので評判となった。筒井は実子である下曽根金三郎と高野長英の関係から事件に対して難しい処理だったと思われる。伯円の講談の中ではあっさりとした事務的な情の無い取調べであったという。当時の幕府上層部の権力闘争の中では筒井は実子まで罪が行かないようにするのが限界だったのだろうか。また藤田の説では内田弥太郎が伊賀者同心なので情報収集状況が前もって知れていたのではないかと書いてあった。しかし高野長英は冤罪であっても裁判の場で無実を証明する自信があったので自首したという。

 内田弥太郎は養子になったので根っからの伊賀者でないので歴史小説家はここで苦労している。内田は数々の事件に関与しながら罪になっていないのはなぜだろうか。
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芝公園の伊能忠敬測量記念の碑

2011年05月14日 | 築地市場にて
天気の良い日に芝公園内にある伊能忠敬の碑を見に行きたいと思っていた。ここは伊能忠敬が日本を測量し始めた時最初の測量地点であるという。新しく広くなった芝増上寺の公園の奥に小高い場所がある。そこに伊能忠敬の碑がある。小高い丘は古墳の跡らしく、よく見れば前方後円墳とも見える。東京の陽だまりで公園の芝生の上には寝転んでいる幼児がいる。
 伊能は最上流和算家会田安明に学んだという。千葉は結構和算文化が発達していた。たまには福神漬の資料から離れてのんびり公園散策。
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西神奈川で

2011年05月13日 | 築地市場にて
神奈川県西部でとれる足柄茶で放射能が基準値より上回ったため、小田原の梅の梅産地でも急遽放射能の調査を行うという。梅に関しては塩漬した段階で半分の水分が出る事となるのだがもし残留するとなれば大変である。
 足柄茶に関してはカリウムと間違えてセシウムを茶の木が取り込んだと考えられると言っていた。こんなことがあるのだろうか。体内に入ったカリウムは塩分(ナトリウム)によって体外に排出される。同じ事が人間でもあるのだろうか。今まで嫌われ攻撃されていた塩分は役に立つのだろうか。
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明治前日本数学史 第5巻から

2011年05月12日 | 福神漬
内田五観の伝記
内田観、通称弥太郎、初め恭といい、後観または五観という。文化2年(1805)江戸に生まれ、明治15年死す。78歳。
五観は11歳の時、日下誠の門に入り、18歳(1822)の時和算関流の免許を受ける。この本の資料によると恭編という著書は比較的若い時代のものが多いように思える。嘉永元年(1848)相模浦賀詰、西洋砲術取建、海岸切所測量。異船渡来の節万端取扱等を命ぜられた。ある資料によると後に講武所の調べ方に勤め、ツキジ渾官所の脇に住むという。
 明治に入って改暦の担当になり、太陽暦の採用に当たっては学者の中心として活躍した。

 福神漬の名前の由来を追いかけているのだが内田弥太郎が黒船来航時前後に浦賀でどの様な行動をしていたのだろうか。また内田の千葉の門人花香安精は次男に恭の名をつけ恭法としたのだろうか。この本によると黒船来航時に浦賀で働いていたようである。開明派幕臣のネットワークが福神漬の命名の後ろに隠れているように思えてきた。
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10月になれば

2011年05月11日 | 築地市場にて
この頃来客の人と話す話題は震災後の状況である。調査会社から電話がかかってきて、現在の状況のコメントを求められたが10月になって、原発の行方の見込みがつけば、節電要請も消え。中国人労働者が日本に戻らないと予想され、低賃金・悪条件の労働は人がたりなくなるだろう。ただ今は不景気なので人手不足ではないが築地のコンビニでは中国人はだいぶ少なくなった。
 先行きの目標が定まった時は周囲の同意の得やすく商談も進みやすい。今年は節電・省エネだろう。
寒い気温は台風の勢力を弱め、災害を減らす。台風1号は心配しなくても良さそうである。
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台風1号

2011年05月10日 | 築地市場にて
南の海上に台風1号が発生したようで予報円の位置から日本に接近しそうでその影響が心配である。昨年3月末の冷害で不作となった梅の在庫が少なく、今年も台風によって落果が増えればまた不作となる。節電の夏に熱中症の予防に梅干が薦められているが今年の梅干は粒が大きく販売に苦戦すると予想されているがどう変化するのだろうか。
今のところ梅の産地である和歌山県に接近した時は風が弱まっていて雨台風となる予報となっている。
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暗い東京

2011年05月09日 | 築地市場にて
名古屋から東京に来た人は東京が暗いという。中部電力の原子力発電所が停止となれば余力が少なくなり,中部地区も節電仲間となる。東京は既に節電しているので秋になればと我慢しているが節電のない関西では漬物営業マンも二枚舌を使って、西は要冷蔵の商品を販売し、東は常温で販売できる商品を売っているようである。
 停電があればスーパーの営業が出来なくなるだけでは無く、家庭の冷蔵庫の中で腐る事となる。家庭の節電リストで冷蔵庫は比較的電力を使用するのだがこれだけコンビニがあれば無理して家庭に在庫を持つ必要はない。ある人はビールを冷やすだけ冷蔵庫を使用していて、普段は外食だった。中国香港は朝から外食で過ごす人は多い。これも食文化の一種である。
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無臭にんにく

2011年05月08日 | 築地市場にて
焼き肉店の事故から、昔話となってニンニクの話題となった。今はあまり無臭ニンニクと言わなくなった気がする。それは大手のニンニク健康食品のメーカーの宣伝文から見かけない。無臭という言葉の定義が定まっていないので事実誤認の宣伝と指摘される可能性がある。優良誤認とする時は問題となるのだが無臭ニンニクは果たして優良誤認となるのだろうか。にんにくは嫌いな人は臭わなくても食しない人がある。今は品種改良で臭いの出る量が少ないものがあるという。漬物用のニンニクは塩分のせいで比較的臭いが消えている。昔のニンニク漬物は無臭という言葉が商品名に付いていたのが多かった気がする。
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ようやく

2011年05月07日 | 築地市場にて
ようやく肉の事故で市場経由の生食用肉が無いことが一般に知れたと思われる。肉食の歴史の浅い日本は危険性の知識が少なかった。明治の日本は文明開化と共に肉食を奨励した歴史がある。それは体格に差があり、日本人の体格の改良には肉食が良いと思われていた。今回の事故の法的不備は日本の食文化が肉食の歴史の浅さから来るものである。
漬物だって長い間保存食としてあったが最近の塩分除去による事によって保存性が失われている。思いもよらない食べ方を消費者がするかもしれない。
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開化廼魁(かいかのさきがけ)

2011年05月06日 | 福神漬
高野長英渡辺華山開化廼魁
松林伯円講演 今村次郎速記 明治29年9月出版
大田区立馬込図書館 城昌幸記念文庫所蔵
 今では忘れ去られた講談。
高野長英が南町奉行所に自首したのは天保10年5月20日だがこのときの月番は南町奉行所で町奉行は筒井伊賀守だった。筒井は後のペリー来航時の国書翻訳に立ち会ったほどの人物で蘭学好きとして知られていた人物だった。また当時の北町奉行所は同じく名奉行といわれた遠山景元だった。
 高野は筒井の公平な裁きを期待して、逃亡続ければ冤罪を認めることとなるので南町奉行所が月番になった時に出頭したのである。しかし筒井は吟味与力に取調べを任せ、淡白に事件を処理したと伯円は述べている。伯円は一時筒井の隣に住んでいて筒井家に出入りしていた関係から南町奉行で処理した事件を留守居役となった筒井から事件内容を直接聞いていたと思われる。明治になって藤田茂吉によって文明東漸史が著され渡辺崋山・高野長英が一般の人たちに知れるようになった。伯円は藤田の本に刺激を受け、筒井から聞いていた事件の内容を講談にしたようである。

講談師松林伯円は筒井から南町奉行で処理した事件を講談にしたものがある。松林伯円は明治38年に亡くなっているので、福神漬を食べたことがあるのだろうか?また松林伯円こと若林義行は築地の隣の京橋区木挽町9-7に住んでいた。これは今改築中の歌舞伎座付近である。
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外れの宝くじ(ガンくじ)

2011年05月05日 | 築地市場にて
築地市場では東京都が食の問題に対して色々な講演会を催している。築地市場協会から回覧が回ってくるので、一般の人でも傍聴は可能だが雰囲気から部外者は殆ど見えない。大抵業務の関係から1時頃から始まるのだが眠気に勝てる講演会は少ない。
 眠らなかった人の多い講演会の中に放射性物質の講演会があった。体内に入ったセシウムとかヨードはいずれ排泄されるが一部は体内に残り、遺伝子異常をもたらすという。従って幼児は長い期間にわたって攻撃されるのでガン化する確立が高くなる。濃度の濃い放射能を浴びることは宝くじの大量買いで当たる確立(ガンになる)が高くなる。宝くじは一枚買って当たる人もあれば大量に買っても当たらない人もある。幼児小学生には出来るだけ少ない放射能許容量が問題となる。
 高度を飛ぶ飛行機に長時間いると宇宙の放射線を浴び、同じ問題を生じるという。放射性物質はチリと表現される。葉物の野菜についたチリを洗い流せばかなり減るが消えたわけでもないのでどこかに蓄積する事となる。まだ放射性物質の流失が止まらない以上予断を許さない。
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業界の常識でも

2011年05月04日 | 築地市場にて
今生肉の事故で死傷者が出ている報道がある。東京都の市場関係者の衛生講習会では数年前からこの問題が指摘されていた。日本で生肉として食べる事の出来るように処理され出荷されている肉は市場を通過して流通していないという。つまり焼き肉店で生で食べて良いとして出している生肉は業者任せの事となる。肉食の歴史の浅い日本食文化は馬脚を現した事となる。と書いたらどうやら生の馬肉はありそうな報道だった。特に危険な生肉はトリと豚である。衛生講習会の余談として亡くなった女優の大原麗子さんはカンピロバクタ―菌で汚染された生肉を食し、食中毒となり、難病の後遺症が出たという。
 今の日本人は農水産業と分離されていて業界の常識と世間の常識が離れつつあるかもしれない。
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河村瑞賢と福神漬

2011年05月03日 | 福神漬
河村瑞賢が太平洋側の航路(仙台から江戸までの)を整備した時の地名が今度の震災で度々出てきて、気になって再び資料調査に向かう。
明治25年福島県(二本松)出身の高橋大華が少年文庫「河村瑞賢」を著している。史実かどうか不明だが(=河村瑞賢・古田良一著)河村瑞賢が品川海岸でお盆の精霊ための茄子で作った牛やキュウリで作った馬が海岸に流れついていて、それを子供らに集めさせ棺おけに漬けて漬物にし、江戸の工事現場で漬物販売し、金を稼いだという。この話がどうして福神漬元祖の話に転化するのだろうか考える。
 高橋大華は根岸党の一員として知られていて、福神漬は彼らの酒のツマミとして文献に出てくる。出典「露伴と遊び」塩谷賛 ここまでは過去の調査で解っていたことだがここに高橋大華と同郷の石井研堂が絡んでくる。石井は福島から高橋の後を追うように東京に出てきた。石井は先に少年雑誌で活躍していた高橋の手伝いなどもしていたようである。当然高橋の「河村瑞賢」を読んでいたと思われる。後に石井は「日本漂流記」を著すのだが漂流民の発生する時期は秋から冬に多いという。江戸時代の日本海運廻航システムを作り上げたのが河村瑞賢だった。消費地江戸の需要が一番多い時期に無理に出航し天候状況の変化で遭難し漂流すること多かったからである。石井は明治研究をしていて、そもそも開国の遠因は漂流民送還のゴタゴタから来ていると見ていたと思われる。漂流民送還しようとしたモリソン号を砲撃したことがペリーの強圧的砲艦外交をもたらし、日本開国となった。
石井研堂が「缶詰の始まり」に出てくる山田箕之助をどこで知ったのだろうか。日暮里浄光寺にある福神漬顕彰碑の裏面に山田箕之助の名前がある。
河村瑞賢と福神漬の資料調査はまだ消化不良である。

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千葉県教育史から

2011年05月02日 | 福神漬
千葉県教育史 千葉県教育会編 昭和10年刊の複製から
第1巻9章 759頁
和算家花香安精は関流荒木派の人物として記録がある。そして安精は内田五観(恭)の門人として記録もある。千葉県には内田恭の和算の門人が多数いたことが解る。高野長英を万歳村で匿った花香恭法は安精の次子である。(千葉県干潟町史より)つまり花香安精は次子の名前を内田恭(五観・弥太郎)から一字をもらい恭法としたと思われる。そして浦賀奉行戸田伊豆守氏栄の遺児の養子先を長井昌言(氏栄3男)から内田弥太郎に依頼があったとき、長井家の船橋の領地に比較的近い万歳の花香家を養子先としたのではないのだろうか。つまり花香恭次郎の恭は内田恭の一字から来ていることとなる。
 内田弥太郎は戸田氏栄の遺児鉄丸の養子先を世話する義理があったのは嘉永2年高野長英は逃亡先の四国から江戸に戻った頃、内田は浦賀奉行手付(補佐)として下曽根金三郎の下で浦賀の地で活動していて、嘉永3年10月高野長英が江戸で惨殺された時、戸田氏栄が浦賀奉行で内田弥太郎をかばったと思われる。
 自由民権運動の福島事件・花香恭次郎と高野長英との関係はこの様なことが想像される。福神漬の命名の裏には色々な複雑な事情がチラホラみえる。

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