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 年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

マテマテカ塾

2011年05月19日 | 福神漬
幕末におけるヨ-ロッパ学術受容の一断面-内田五観と高野長英・佐久間象山-
川尻信夫著
内田五観(弥太郎)が文政12年(1828)頃江戸にて和算の塾を開き、マテマテカ塾と名付けた。ここでは従来の和算塾と違うようなものを指向したと思われる。塾を開いた時は内田は23歳頃でまだ高野長英とは面識が無かった。長英のところに入門したのは塾を開いてから2~3年後のことである。内田は高野からさらに新しい海外の数学知識を学ぶための情報を得るため高野に接近したのではないのだろうか。数学や測量知識では既に当時の日本では内田は一流人で高野から学ぶものはなかったと思われる。多くの文献では内田は高野の門人としているが内田が必要だった知識は西洋における理科系の情報を高野から得ようとしたのではないのだろうか。

 川尻信夫氏の本によると明治以降の日本の近代化にとって実用数学が必要とされ、応用数学を蘭学者から得た知識で和算家が改革していたので、比較的に他のアジア諸国よりスムーズに和算から西洋数学にとって変わった。これは幕末和算家の活躍かもしれない。しかし純粋数学を学ぶ明治の人は少なかったという。
 西洋数学の中にあるキリスト教の影響を避けて数学を学ぶことは鎖国していた江戸時代は困難であった。蛮社の獄という事件は今の感覚だと言いがかりとしかいえない口実で西洋の知識を学ぶ人たちを弾圧した事件である。キリスト教を排除することを目的とする鎖国と西洋の学門の後ろにあるキリスト教思想とは蘭学を学ぶほど衝突する事となる。
 内田弥太郎が蛮社の獄で取り締まりのリストに載っていても、幕臣であったため取締りの方針情報を理解していたのではないのかと思われる。また長英が嘉永3年に自決した時も内田の親族である宮野家が廃絶となったが陰で逃亡を手助けしていた内田は何も咎めが無かった。これは高野の脱獄の罪の問題で、獄に入った問題は当時でも既に冤罪と思われていた。しかし長期間逃亡され、さらに江戸市中に潜伏されていては江戸町奉行所のメンツの立たず、逃亡事情を話さないように撲殺したと思われる。嘉永3年の頃は内田は浦賀で戸田氏栄の下で砲術、測量など数学知識を使い働いていた。
 万延元年、内田の学問上の弟子だった花香安精の子(花香恭法)にペリー来航時活躍した戸田伊豆守氏栄の遺児を、恭法に子供がいるのに養子(花香恭次郎)にしたのは何かあったと思われる。
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