朝野旧聞 藁(ちょうやきゅうぶんほうこう)編纂事業からから考える。
江戸幕府を作った徳川氏の最も詳細な史料であると言われる編纂事業に戸田寛十郎氏栄が参加している。この史料編纂事業は幕府の命令により、大学頭林述斎以下20余名の幕臣が参加している。この史書編纂事業は1819年(文政2年)から23年間かかったという。戸田氏栄(1799年生まれ)が初期から参加していたのであるとすると20歳頃から参加し、完成した時(天保13年?)は43歳になっていたと思われる。
天保の改革の中の事業に『印旛沼工事』というものがある。天保14年に始まり、翌年の弘化元年(1843年)に老中水野忠邦の失脚により中止となった。この印旛沼工事に目付として戸田氏栄と町奉行鳥居耀蔵が参加している。戸田は工事途中で経費が予算より掛かり過ぎる事を知り、工事規模の縮小を水野に鳥居と共に進言したが逆に左遷され、戸田は駿府奉行となった。
もう少し戸田氏栄の経歴を書くと、天保12年(1841年)、西丸小姓から、徒頭に昇進した。天保13年(1842年)年7月に使番、天保14年(1843年)2月には目付となり印旛沼工事を担当すると昇進を重ねた。同年9月に左遷され駿府町奉行となり、弘化4年(1847年)1月には日光奉行、同年2月に浦賀奉行に着任し、従五位下伊豆守に叙任した。
戸田氏栄の経歴から、40歳過ぎまで今の感覚だと史料編纂に参加していた学者が急にワイロの多いとされる幕府の印旛沼工事事業の監視役に抜擢されたと思われる。当時の幕府の財政事情から工事の目付という職は誰もやりたくない仕事だったかもしれない。また同僚となった町奉行鳥居耀蔵の評判から手を挙げる人が少なく、仕方がなく戸田氏栄に目付の役が回ってきたかもしれない。この様に推測できるのだがこの裏事情が解る文献があった。(井関隆子日記)
福神漬の命名に関する経緯を探っているうちに日本史の中で比較的無視されている事実が浮かび上がってくる。戸田伊豆守氏栄はペリー来航時の日本代表の浦賀奉行であったが久里浜での応接では一言も発することも無く、日本史から消えた。当時の老中阿部正弘が異国船対応があると予想される浦賀奉行になぜ戸田を抜擢したのだろうか。今のところ納得いく文献は見当たらない。
江戸幕府を作った徳川氏の最も詳細な史料であると言われる編纂事業に戸田寛十郎氏栄が参加している。この史料編纂事業は幕府の命令により、大学頭林述斎以下20余名の幕臣が参加している。この史書編纂事業は1819年(文政2年)から23年間かかったという。戸田氏栄(1799年生まれ)が初期から参加していたのであるとすると20歳頃から参加し、完成した時(天保13年?)は43歳になっていたと思われる。
天保の改革の中の事業に『印旛沼工事』というものがある。天保14年に始まり、翌年の弘化元年(1843年)に老中水野忠邦の失脚により中止となった。この印旛沼工事に目付として戸田氏栄と町奉行鳥居耀蔵が参加している。戸田は工事途中で経費が予算より掛かり過ぎる事を知り、工事規模の縮小を水野に鳥居と共に進言したが逆に左遷され、戸田は駿府奉行となった。
もう少し戸田氏栄の経歴を書くと、天保12年(1841年)、西丸小姓から、徒頭に昇進した。天保13年(1842年)年7月に使番、天保14年(1843年)2月には目付となり印旛沼工事を担当すると昇進を重ねた。同年9月に左遷され駿府町奉行となり、弘化4年(1847年)1月には日光奉行、同年2月に浦賀奉行に着任し、従五位下伊豆守に叙任した。
戸田氏栄の経歴から、40歳過ぎまで今の感覚だと史料編纂に参加していた学者が急にワイロの多いとされる幕府の印旛沼工事事業の監視役に抜擢されたと思われる。当時の幕府の財政事情から工事の目付という職は誰もやりたくない仕事だったかもしれない。また同僚となった町奉行鳥居耀蔵の評判から手を挙げる人が少なく、仕方がなく戸田氏栄に目付の役が回ってきたかもしれない。この様に推測できるのだがこの裏事情が解る文献があった。(井関隆子日記)
福神漬の命名に関する経緯を探っているうちに日本史の中で比較的無視されている事実が浮かび上がってくる。戸田伊豆守氏栄はペリー来航時の日本代表の浦賀奉行であったが久里浜での応接では一言も発することも無く、日本史から消えた。当時の老中阿部正弘が異国船対応があると予想される浦賀奉行になぜ戸田を抜擢したのだろうか。今のところ納得いく文献は見当たらない。