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 年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

千葉県教育史から

2011年05月02日 | 福神漬
千葉県教育史 千葉県教育会編 昭和10年刊の複製から
第1巻9章 759頁
和算家花香安精は関流荒木派の人物として記録がある。そして安精は内田五観(恭)の門人として記録もある。千葉県には内田恭の和算の門人が多数いたことが解る。高野長英を万歳村で匿った花香恭法は安精の次子である。(千葉県干潟町史より)つまり花香安精は次子の名前を内田恭(五観・弥太郎)から一字をもらい恭法としたと思われる。そして浦賀奉行戸田伊豆守氏栄の遺児の養子先を長井昌言(氏栄3男)から内田弥太郎に依頼があったとき、長井家の船橋の領地に比較的近い万歳の花香家を養子先としたのではないのだろうか。つまり花香恭次郎の恭は内田恭の一字から来ていることとなる。
 内田弥太郎は戸田氏栄の遺児鉄丸の養子先を世話する義理があったのは嘉永2年高野長英は逃亡先の四国から江戸に戻った頃、内田は浦賀奉行手付(補佐)として下曽根金三郎の下で浦賀の地で活動していて、嘉永3年10月高野長英が江戸で惨殺された時、戸田氏栄が浦賀奉行で内田弥太郎をかばったと思われる。
 自由民権運動の福島事件・花香恭次郎と高野長英との関係はこの様なことが想像される。福神漬の命名の裏には色々な複雑な事情がチラホラみえる。

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