年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

戦時下の滋賀師範

2020年01月06日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
戦時下の滋賀師範: 昭和18年の卒業生 (淡海文庫) 
滋賀県平和祈念館 (編集)
 都立中央図書館の2階・開架のところにこの本があった。思わず読みふける。2016年の滋賀報知新聞の記事では(現在の滋賀大学教育学部は、第二次世界大戦中「滋賀師範」の名で親しまれ、生徒たちが教員を目指し、日々、勉学に励んでいた。
 戦争末期の昭和十八年は、戦況悪化で不足した戦場の指揮官や航空兵を補充するため、師範学校でも多くの卒業生が出征し、また、生還の可能性がない特別攻撃隊に志願した者も多かった。)
 多分戦後に生き残った人たちの文献ではこのような記事になるだろう。当時の様子が特に昭和18年の前半の日本の情勢と師範学校にある戦争の状況感がつかめない。昭和18年4月に県立師範学校が国立となり、さらに各県にあった女子師範学校も統合された。寮や授業は戦後まで統合していないようだが学校行事が統合され、男女が共通の空間にあることもあったようだ。昭和18年9月に卒業させられた男子学生の進路を決断する心境がよくわかる。陸軍から派遣された教官によって先生なることを諦めさせられた人が多かった気がする。
 人数的には海軍特攻隊員の方に応募した人が多いのだが知覧の陸軍特攻隊記念館の方が師範学校出身が目立っていて、戦後の評価の無念さが感じる。陸軍は行きたくないのに洗脳され志願させられたという思いの人が多いと秘かに思う。あの当時の学校の雰囲気では遅かれ早かれ召集が来ると男子学生は思っていたようだ。歴史はその年の暮れには学徒出陣となって、学びの学校はなくなった。
 都立中央図書館には全国の教育学部の歴史の本が多数ある。まだ数冊を昭和18年9月ころを重点的に読んでいるがなぜ教え子を戦争に向かわせた教師像の解釈が異なっているし、さらに記述が少ない本もある。語りたくないのもあるだろう。
 当時の大本営発表をそのまま信じていない状況で親に相談することもなく、同級生と寮で考えて、無断で死の危険の確立が高い飛行機搭乗を叔父は選んだようだ。
 

コメント
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