年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

埼玉文書館へ再び

2020年01月08日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
1月6日訪問し、休館だった埼玉県の公文書を保存公開している文書館へ再び7日に訪問した。初めてなので要領を係の人に聞いて又入館カ-ドを作った。無料とのこと。前日ネットで調べた(埼玉師範学校男子部同窓会発行・会員名簿・昭和25年1月現在)を出してもらった。すでに叔父は特攻死しているので名簿に載っていないかもしれないと思いつつ、少し時間が経って紙袋に入った状態で出てきた。この昭和の初めから昭和30年頃は紙の品質が悪く、出されたとき係の人から貴重書のような説明があった。
 昭和16年頃からの名簿に戦死した地名とか、戦病死とかの記載が目立った。戦後教員となった人は勤務先の学校が記載されていた。どうやら勤務先にない人は〇印があって死亡、もしくは行方不明のようだった。昭和18年9月に繰り上げ卒業となった、国立埼玉師範学校卒業生140名の名簿が出てきて、叔父の名前の上に〇印があった。数えると約18名が〇印があって勤務先が不明だった。多分戦死したのだろう。
この名簿が出てくるまで、文書館で開架のところにあった埼玉新聞を眺めていたら、肝心の昭和18年7月から9月にかけて欠損している部分があって当時の状況が不明だった。あとでこの件に質問すると毎日新聞埼玉県版の記事を出してもらったところ、昭和18年9月8日の記事で(学園に歓喜の渦)として埼玉県の学校から陸・海鷲合格者決まるという記事を見つけた。埼玉師範学校から10名の陸軍特別操縦士官の名前があった。しかし叔父の名前は無かった。また海軍には浦和高校2名で師範学校は24名合格だったようだ。従って少なくとも師範学校から10✙24✙叔父で35名以上の卒業生が死の危険性のある軍務に応募し、合格した。139名の9月卒業者の35名はどう考えるとよいのだろうか。1名は9月には卒業していないで遅れて卒業した人もあるようだ。
 叔父の名前が漏れたのはなぜなのだろうか。このことから親族に伝わる一時川辺小学校で教師をしていたということと繋がるのだろうか。
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