江戸時代、今から思うと冤罪で捕らわれ、いつ釈放されるか見込みが立たず、先に釈放された囚人をそそのかし、牢獄付近を放火し、仮釈放した時、元に戻らず逃亡を続けたのが蘭学者高野長英だった。時が移り、司法関係者が冤罪と知っていてもやはり放火逃亡の罪は記憶に残り、南町奉行の役人のメンツから逮捕時撲殺された。
島国日本から日本司法の不当性を訴える被告人が釈放中に逃亡した。まだ裁判が行われていないので容疑者である。逃亡した彼の言い分を法廷で語ることもなく逃げた。この行為は日本司法に対する挑戦で明治日本が欧米列強と長く交渉した不平等条約の司法権の問題を思いだす。
江戸時代には島流しという判決があって、島では開かれた牢獄のようであった。ちょうど今近藤富蔵の評伝を読んでいるがゴ-ン容疑者は東京で釈放されていても島流しされていたと感じていたようだ。レバノンでの自由と引き換えに日本人の逃亡者を見る目が冤罪であっても厳しいこと知らないのだろう。これでレバノン人への見る目が変わる気がする。
パスポ-トをいくつも持てること日本人が広く知る事例となった。