山形の森 保守醒論

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北岡伸一座長代理は、「(大東亜)15年戦争史観」を振りまく、第5列学者と同じだ。

2015-03-24 18:36:51 | Weblog
「21世紀構想懇談会」の北岡伸一座長代理は、講演や有識者会議で、先の大戦について「日本は侵略戦争をした。」、と短絡的に述べている。
さらに、3.13開催の第2回会合議事録で、北岡は「日本は無謀な戦争でアジアを中心に多くの犠牲者を出した。1930 年代後半から植民地支配が過酷化した。・・・・」と、「(大東亜)15年戦争史観」を振りまく、第5列学者と同じ歴史観をお持ちの様である。
いわゆる、1931年の満洲事変を起点とする(1945.8終戦)「(侵略の)15年戦争論」である。
左翼学者の鶴見俊輔が、中央公論1956年1月号「知識人の戦争責任」の中で、「15年戦争」用語を使用したのが最初である。
これは、戦後10年を経て、「もはや戦後ではない」文芸春秋2月号(中野好夫)、とのエッセイがでた時と同時期であった。
経済的復興の兆しを感じたころに、戦争の悲惨さを忘れないように自虐足枷に考えられた、左翼の狡猾な思想戦略でもあった。
北岡を始めとする昭和二桁から全共闘世代までは、この「15年戦争論」が当然のように染み付いてしまったのだろう。
戦時年表をめくれば容易に解かることであるが、満洲事変以前に、6月の上海市ヌーラン事件、(1930)5月の間島省朝鮮人の反日暴動事件(第4次間島共産党事件)など、在留日本人殺害事件が多く発生している。
なにより、1927.7「田中上奏文」に始まるコミンテルン謀略戦は、日本共産党「1927年テーゼ(労農革命戦術)」と同時に進行してきたものである。
あえて、歴史的区切りを持って考察するのであれば、国際連盟発足の1919年(1920.1、パリで第一回総会)を起点にした、「25年戦争」として見るべきであろう。
満洲事変の首謀者とされた石原莞爾は、(1947.5.1~2)極東國際軍事裁判・酒田出張法廷(酒田市商工会議所2F)に証人出廷し、自ら、「自分が、戦犯でないのは納得できない。」と発言した。
証言後、宿舎の酒田ホテルでは内外記者団と会見、「君達、私の此れから話す事は、日本で発表してもらっては困る。自国に帰ってからにしてほしい。 当然マッカーサーの検閲を受けて、発表が禁止されるだろうからだ。」と前置きしながら、
「私は僭越ながら日本国民を代表して、日本が何十年もの間、アジアの諸国民にご迷惑をおかけしたことをお詫びする。日本は侵略者だといわれるが、欧米諸国が昔からやってきたことを日本が見習ったのも事実である。 反面、日本人の心の底には、アジアの解放があったことも確かだ。」、「(満州事変は日本軍の謀略かという質問に対し)、超満員の汽車の中で足を踏まれると、『お前が踏んだ』『いや、お前が先だ』という争いになって、どちらが先という決め手はない。 満州事変がどちらの謀略かというのも、当時の満州の情勢を知らない者のいうことだ。」、「アメリカの無差別爆弾や原子爆弾の使用は、全く非人道的な暴虐行為であり、国際法を完全に侵犯したものだ。 私が総理大臣だったら、アメリカに対して賠償を請求する。」、「ソ連が不可侵条約を一方的に破って戦争を仕掛けた上、何十万人もの人々を捕虜として酷使したことは、非人道の極みである。 これを見たらマルクスが地下で泣くだろう。」、「今度の戦争裁判なるものは、馬鹿げた猿芝居だ。 ルーズベルトは死んだから仕方ないが、トルーマン、スターリン、チャーチルを一堂に集め、日本からは及ばずながら私が出て、堂々と論戦したらよかろう。 それが本当の戦争裁判である。」、「この度の出張裁判の関係者は、特別列車を仕立ててやって来たそうだ。 ご覧の通り日本人は列車に溢れているのに、占領軍の僅かな連中が威張り返っている。 日本が満州や中国で威張っていたといっても、そんなことはやらなかった。 満員列車の中で、赤ん坊を抱いた日本人の母親が、ギュウギュウ押されて苦しんでいるのに、一方では占領軍が、がら空きの特別列車でキャアキャア騒いでいる。 こんなことが続くようでは、軍勢は完全に失敗するだろう・・・・・・・」、会見は2時間ほど続いた。
石原の堂々とした本音供述を恐れたのか、連合軍は石原莞爾を戦犯とせずに、勝者による敗者を裁く都合の良い復讐裁判に終始した。
解任帰国後のマッカーサー連合国軍総司令官でさえ、(1951.5)米上院軍事外交合同委員会において、「極東軍事裁判は間違いだった。 日本にとって安全保障に迫られての戦争(自衛戦争)であったと言える。」、「太平洋において、米国の過去100年における最大の政治的過ちは、共産主義者が支那において勢力を増大して行くのを黙過してしまったことである。」と反省する証言をしている。
安倍晋三首相が、今年夏に予定される戦後70年談話なるものは、「する、しない。」も含めて、特亜蛮族が仕掛けた政治的課題となっている。
安倍談話の内容に係わらず、1993年の河野談話、1995年の村山談話などは、未来永劫記憶に残る戦後70年の愚かな時代の売国奴談話として歴史に記されて行くだろう。
発言と態度表明の度合いは、相手の理解度(誠実さ)を計りながら相互主義視点で対処すべきであろう。
ヤクザにはヤクザ的に、チンピラにはチンピラ風に、(築地・竹橋などの)ゴロツキ新聞など気にとめずに、先人の誇りと想いを汚さない未来志向こそ求められている。
(1929.6)パリ不戦条約「戦争抛棄ニ関スル条約」の国際法解釈でも、「侵略の定義が曖昧で、定まっていない」のが国際実情。
北岡伸一座長代理は、「(大東亜)15年戦争史観」を振りまく、反日左翼の第5列分子と同じである。
これが、元東大法学部教授の歴史理解であるから、左翼浸透の病巣は根深い。

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