北京オリンピックの開会式が、一ヶ月後と迫ってきた。
日本が初めて参加したのは、明治最後の45年(1912)第5回ストックホルム大会で、代表には陸上競技の三島弥彦(100・200m)・金栗四三(マラソン・東京高等師範)の二選手が日本のオリンピック選手第一号となった。
結果は奮闘むなしく初参加の史実を残しただけの評ではあるが、振り返れば約百年ほど前の画期的できごとである。
ところで、三島弥彦(東京帝大)が山形県初代県令・三島通庸の5男であることを知っているだろうか。
三島通庸が(1885.12警視総監就任)総監在任中の1886.2に5男として誕生。
三島通庸は警視総監現職の53歳(1888.10.23)で死去している。
マラソンの金栗四三も、当時の世界最高記録保持者として期待されたが途中棄権に終っている。
金栗は関東学連主催の「箱根駅伝」の創設者として伝えられてきている。
1911.7にオリンピック競技大会参加の母体として大日本体育協会が設立(会長・嘉納治五郎、現日本体育協会)。
日本初参加のストックホルム五輪大会の国内選考会(1911.11)は、日本陸上競技選手権大会として現在に引継がれている。
日本が初めて参加したのは、明治最後の45年(1912)第5回ストックホルム大会で、代表には陸上競技の三島弥彦(100・200m)・金栗四三(マラソン・東京高等師範)の二選手が日本のオリンピック選手第一号となった。
結果は奮闘むなしく初参加の史実を残しただけの評ではあるが、振り返れば約百年ほど前の画期的できごとである。
ところで、三島弥彦(東京帝大)が山形県初代県令・三島通庸の5男であることを知っているだろうか。
三島通庸が(1885.12警視総監就任)総監在任中の1886.2に5男として誕生。
三島通庸は警視総監現職の53歳(1888.10.23)で死去している。
マラソンの金栗四三も、当時の世界最高記録保持者として期待されたが途中棄権に終っている。
金栗は関東学連主催の「箱根駅伝」の創設者として伝えられてきている。
1911.7にオリンピック競技大会参加の母体として大日本体育協会が設立(会長・嘉納治五郎、現日本体育協会)。
日本初参加のストックホルム五輪大会の国内選考会(1911.11)は、日本陸上競技選手権大会として現在に引継がれている。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます