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とつぜんリストラ風雪記 8

とつぜんリストラ風雪記7

第8回 求職活動費
 面接がコンスタントに入るようになった。面接の前日までに、必ず下見をするので、交通費が結構かかる。また、この時分から携帯電話を持つようになった。新しいパソコンを買ってインターネットも始めた。このへんの機器は求職活動の必需品。収入が雇用保険だけになって、手元がまことに不如意ではあるが、職探しもお金が結構かかる。困ったもんだ。

2003年2月19日(水)
 午前中、三宮ハローワークへ。1件見つける。Hテレフォンという携帯電話の部品を作っている会社。面接してくれる。午後下見にでかける。場所は明石。
 JR明石駅からバスに乗って20分ほど。えらく不便なところ。もし採用されたら、神戸市東灘区から通うのは大変。

2月20日(木)
 芦屋税務署へ確定申告に行く。サラリーマンじゃないから確定申告をしなくてはいけないらしい。こんなことやるの、生まれて初めて。簡単だった。

2月21日(金)
 午前中、Hテレフォンで面接。小さな会社だ。社長が面接をしてくれた。仕事は携帯電話の部品の組み立て。ある程度の感触をつかむ。ここまで通勤するのは大変だが不可能ではない。
 午後はパソナと梅田ハローワークへ。

2月24日(月)
 三宮ハローワークへ。紹介できる案件は1件だけといわれる。つまり、Hテレフォンの件のカタがつくまで、次の案件は紹介できないとのこと。しかたがないので灘ハローワークへ行くも、午前中の業務終了。いったん帰宅して昼食後に灘ハローワークへ出直し。
 収穫1件。N社。大阪の電設資材の会社。あさって面接。
 この時期はまだ小生、ハローワーク使いがヘタだった。今はどうか知らないが、当時は1軒のハローワークで紹介してくれる案件は1件か2件。求職活動は数をこなすことが大切。1件づつ片付けて行かないで、多くの案件を同時進行させる必要がある。そのため、できるだけ多数のハローワークを使うことが大切。と、いって前回書いたようなことがあるから、効率よくハローワーク巡りをすることだ。
 小生のハローワーク巡りの最終形態は次の如し。
 月曜日 灘、三宮、神戸を週ごとローテーション
 水曜日 西宮、尼崎、伊丹を週ごとローテーション
 金曜日 梅田
 
2月25日(火)
 N社の下見。環状線西九条を降りて、安治川の向こう側に行ってしばらく歩いたところ。安治川のこの場所には橋がかかってない。川のこっち側にエレベーターがある。下に降りて川の下を通るトンネルを通って向こう側へ。エレベーターで地上へ上がる。こんな場所あんまり見たことがない。
 Hテレフォンが断ってきた。感触があっただけに残念。

2月26日(水)
 N社の面接。電設資材の卸の会社。社長は好人物だが、採用は難しそう。帰りしな西宮ハローワークに立ち寄る。

3月5日(水)
 伊丹ハローワークへ。HM社を紹介。人材派遣会社。面接の約束をする。

3月7日(金)
 HM社を下見に行く。梅田のアメリカ領事館の、道の向こう側のビル。場所が場所だけに、警察がえらい警戒をしていてものものしい雰囲気。
 下見の後、梅田ハローワークとパソナへ行く。

3月10日(月)
 尼崎ハローワークへ行く。このハローワークへはJR塚口から15分ほど歩くが、途中にイタリアのスポーツカーメーカー、ランボルギーニの代理店がある。スーパーカーが展示してある。こんな車はどんな連中が買うんやろ。買うやつがおるから売ってるのやろな。
 リストラされ、ハローワーク通いのおっさんもおるし、ランボルギーニを乗り回しているやつもおる。世の中いろいろ、タコの足はいぼいぼ、蜂の頭は真っ黒け、言語道断、歩行者横断、アメリカ軍のロケット騨。
 
3月11日(火)
 HM社へ面接に行く。人材派遣会社。採用されれば、身分はHM社の社員ということになる。働くのは派遣先の企業。給料はHM社からでる。保険などもHM社。これは派遣だからあたりまえ。
 派遣先の企業とHM社の契約が切れたらどうなるか質問をした。次の派遣先が決まるまで自宅待機とのこと。その間の給料は出ない。これではダメだ。失業ではないから雇用保険も出ない。まったくの無収入となる。
 その場で断る。すると、中年を過ぎての再就職は難しい、といいやがった。ほっとけ、お前ンとこの世話になるか。アホ。

3月17日(月)
 神戸ハローワークへ行く。体調が悪い。ちょっと前から胃がおかしい。ムカムカする。食間に痛む。胃潰瘍の再発か。小生、胃潰瘍が持病で、今まで2度出血し、2度入院している。
 
3月28日(金)
 西天満のハローワークへ初めて行く。情報検索用のパソコンがなく、就職相談専門のハローワーク。途中、大融寺と電子会館の前を通る。両方ともなつかし。大融寺で開催される落語会によく行った。
 昔、小生たちが神戸でSFフェスティバルをやった時、桂春輔師匠を呼んで一席やってもらった。その春輔師匠が10夜連続落語会をやったのが、この大融寺だった。春輔師匠はその後、師匠の3代目春團治師匠と、ちょっとしたトラブルがあって春團治門下を離脱されて。祝祝亭舶伝と名のっておられた。とてもユニークで破天荒な新作落語をする噺家で、小生も大ファンだった。その後個人的に1度お会いした。「ネバー・エンディング・ストーリー」という映画が公開された直後で、師匠も小生も見ていた。この映画の話をした記憶がある。喫茶店でお話したが、高座とおんなじユニークな人だった。今はどうしておられるだろう。
 電子会館には久保田宣伝研究所コピーライター養成講座大阪教室があった。若いこと通っていた。


                          つづく
 
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