近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

古墳あれこれー前方後円墳の伝播とその推進力とは!続編Ⅶ

2011年12月13日 | 歴史
前方後円墳陸路伝播ルートの探索を続けます。

群馬県高崎市の綿貫観音山古墳は、高崎市綿貫町にある古墳時代後期の前方後円墳で、副葬品はきわめて豊富。

本古墳は、高崎市の市街地の東方6kmにあり、井野川西岸の平野に立地し、北面して築造されている。

6世紀後半、薬師塚古墳造営中に榛名山の噴火が起こり、墳丘と一重濠まで完成し、二重濠の築造中に中断したらしい。





写真は、綿貫観音山古墳全景及び同古墳墳丘の様子。

本古墳の規模は、墳丘長約97m・後円部径約61m・高さ9.6m・前方部幅約64m・高さ9.4mmを有し、二段築成で、二重の馬蹄形の周堀を持ち、また、前方部の幅と後円部の径、前方部の高さと後円部の高さはほぼ等しい数値を示しており、きわめて整然とした形態を有している。







写真は、復元された綿貫観音山古墳の上空写真、同古墳の実測図及び大阪羽曳野市の誉田御廟山古墳実測図。

同時代、ヤマト政権・応神天皇と系譜関係を結んでいた、綿貫観音山古墳被葬者との強固な絆が窺い知れる。

榛名山の噴火・降灰のため、その後支配拠点を東方に移したらしく、綿貫観音山古墳は6世紀末から7世紀初頭の時期に築造されたにもかかわらず、保渡田古墳群と全く同一設計・同大の5区型設計の古墳で、その首長系列とヤマトの5区型大王との強固な紐帯を引続き窺わせる。

出土した副葬品や須恵器の特徴から、6世紀後半以降の造営と見られている。

墳丘上の各所には埴輪を配置しているが、葺石は全く認められない。1973年(昭和48年)に「観音山古墳」として国の史跡に指定され、現在は史跡公園として整備されていると云う。

横穴式石室の開口部から前方部にかけて中段テラスに配列された形象埴輪は、新首長の首長権継承儀礼ではないかと考えられている。

あぐらをかいて座している男子に容器を差し出す女子、そのそばに三人の女子、靫を背負う男子三体の集団が中核集団になっている。



写真は、綿貫観音山古墳から出土した首長埴輪。

さらに、付き従う皮袋をもつ女子、威儀を正した女子、盛装男子、甲冑武人、農夫、盾を持つ人などが続いている。わが国の多くの埴輪人物像の例中でも、きわめて稀例に属するもの。

この中核場面と離れた前方部に飾り馬が並べられ、後円部頂には複数の家形埴輪や鶏の動物埴輪・器財埴輪が立てられている。

埋葬施設としては、後円部中段に両袖型横穴式石室があり、西南に向かって開口するように設けられており、石室内はほぼ埋葬当時の状態を保っている。



写真は、綿貫観音山古墳玄室内部の様子。

石室の規模は群馬県最大で、全長12.65m・玄室の長さ8.12m・奥の幅3.95mなど。

壁石は角閃安山岩が使用され、天井石には牛伏砂岩と呼ばれる石が使われている。

石室の崩落が、後世の盗掘から内部を護る役目を果たしたと云える。重さは最大で22トンあるが、古墳の周りには巨大な石は見当たらないと云う。

1968(昭和 43)年の春から冬にかけて群馬県教育委員会が、保存を前提とした学術調査を行った。

その結果、玄室からは2枚の銅鏡、金製・銀製・ガラス製の装身具、大刀、小刀、刀子、矛、鉄鏃、冑、挂甲などの武具、金銅製轡、鞍、鐙、雲珠などの馬具、須恵器の大甕、壺、坏、土師器の壺、高杯、銅製の水瓶などの容器類が見つかっており、副葬品の総数は500点を越える。

2面出土した銅鏡のうちの一面は、面径23.3cmの獣帯鏡で中国製と推定される。

後年、韓国の公州で偶然発見された百済・武寧王陵の石室内から出土した獣帯鏡と、同笵鏡であることが判明。

『日本書紀』にも登場する百済王の副葬鏡と、史的因縁の糸で結ばれている点は注目に値する。



写真は、綿貫観音山古墳から出土した、中国製の金銅製馬具。

古墳の副葬品の中で特筆すべきことは、きらびやかな馬具類の多いことであり、本古墳の副葬品ほど絢爛豪華な内容を示す例は、ほかにない。

更にこれらの武器・武具や装身具・馬具類などの副葬品は、観音山古墳に埋葬された当時の最有力首長の政治的優位性を示している。

それは古代の上毛野に君臨したばかりか、大和政権との政治的な関係も濃く、その遺品からは中国・朝鮮と古代日本との密接な歴史舞台を物語っていると云える。

以上のように、古墳築造企画の基本パターン図は、墳丘の大小にかかわらず、比例図法的に多様な前方後円墳に適用され、その設計・企画を解読することが出来る。

ということで、地域に分布する前方後円墳の築造企画を比較・対比することによって、当時の王統の勢力や影響力の伝播とそのルート、ヤマト大王地と地域豪族との同盟・服属関係、政治地図などが窺い知れる。







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