近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

古墳あれこれー間違って治定された天皇陵とは!そのⅠ

2011年09月13日 | 歴史
これからは、古墳あれこれと題して、古墳をいろいろな側面から観察してみたい。

先ずは、陵墓に指定されている古墳のうち、大阪・奈良地方には、天皇陵は41基・皇后陵は11基・皇太子などの墓は34基所在する。

全国的には、宮内庁管理の陵墓が、北は山形県から南は鹿児島県まで1都2府30県にわたって所在しており、歴代天皇陵が112・皇后陵など76で計188、更に皇族等の墓552基を数える。

これら陵墓は現在も皇室及び宮内庁による祭祀が行われており、研究者などが自由に立ち入って考古学的調査をすることができない。調査には宮内庁の認可を要するが、認可されて調査が実際に行われた例は数えるほどしかない。

現在の天皇陵比定とは裏腹に、実際に葬られている人物(天皇とは限らない)が誰であるかはほとんど分かっていないのが現状で、それが考古学・歴史学の常識でも有る。

実際に、天皇陵として比定されていない古墳で、確実に大王墓である古墳が数多く有る。

箸墓(280m)・西殿塚(220m)・メスリ山(230m)・桜井茶臼山古墳(210m)・土師ニサンザイ(290m)・今城塚(190m)・見瀬丸山(310m)・牽牛子塚(八角墳)など。

纏向の5つの纏向型の前方後円墳もその当時の首長の墓であることは間違いないと思われる。





写真は、メスリ山古墳空撮及びみかん畑越しの同古墳の森。

桜井市のメスリ山古墳はあまり著名ではないが、一度橿原考古学研修所へ行って見れば分かる通り、メスリ山古墳も大王墓以外の何物でもないと云える。

記紀が正しいとすれば、現在の天皇陵の中に、上述した大王墓だけは、確実に間違って比定されているはず。

中でも、今城塚古墳は、ほぼ確実に継体天皇陵であるといわれているもので、大王墓の中で唯一実年代が確定している古墳であると云われている。その代わりにはじき出されたのが、茨木市の現継体天皇陵・大田茶臼山古墳。





写真は、太田茶臼山古墳空撮及び同古墳サイドビュー。

写真の通り一重の周濠を巡らした、全長約226mの5世紀代の前方後円墳。

この古墳にはいったいだれが眠っていることでしょう?

また、牽牛子塚古墳は、斉明天皇と娘の間人皇女の合葬陵であるという説がかなり有力だし、見瀬丸山古墳は確実に大王墓ではあるものの、欽明天皇陵か宣化天皇陵かで意見が割れている。

欽明天皇陵も宣化天皇陵も別の古墳が当てられているので、この二つの内のどちらかは確実に別人の墓という事になる。もっとも、両方とも別人というのが一番確率は高いかもしれないが。

継体天皇が6世紀前半、宣化・欽明天皇が6世紀中頃から末、斉明女帝に至っては7世紀中頃。記紀の記述は6世紀頃からはそろそろ信用出来るといわれているが、その時代にしてこのありさま故、それ以前の天皇陵の比定の信頼性など無いも同じと云える。

記紀はともに、仁徳・履中・反正の三代の陵が『百舌鳥(耳原)』にあると記している。

そして、仁徳陵を『百舌鳥耳原中陵』、履中陵を『百舌鳥耳原南陵』、そして反正陵を『百舌鳥耳原北陵』とする延喜式の記述に基づいて、仁徳陵に百舌鳥古墳群の中央にあり、最大の大仙陵古墳(486m)をあて、その南の上石津ミサンザイ古墳(365m)を履中陵に、そして北の田出井山古墳(148m)を反正陵にあてている。

すぐ分かる通り、この時期としては田出井山古墳は極端に小さい大王墓ということになる。

このサイズでは、崇神天皇の時代であっても、黒塚古墳などと同じ規模の臣下の墓と見なされる。

行燈山古墳・崇神天皇陵の場合は、その陪冢の南アンド山古墳ですら100mを越えていることから、田出井山古墳がいかに小さいかが分かる。

それでも、百舌鳥古墳群では、大仙陵古墳より北ではこれが最大規模の古墳。

そして、実は百舌鳥古墳群には田出井山古墳よりはるかに規模の大きな古墳が存在している。その古墳は全長約290m、渋谷向山古墳に次ぐ全国第8位の墳丘長を有する、土師ニサンザイ古墳。

土師ニサンザイ古墳の規模は、百舌鳥古墳群中で大仙陵・上石津ミサンザイの両古墳を除く他の古墳を圧倒しており、誰かは別にして大王墓であることはほぼ間違いないと云える。



写真は、堺市百舌鳥古墳群の位置関係。

写真のように、仁徳陵・履中陵・土師ニサンザイと三陵の位置を見比べた時、大仙陵古墳を『中陵』と呼ぶのは相当無理がある。

更にもう一つ深刻な事実が待っている。仁徳陵・大仙陵古墳と履中陵・上石津ミサンザイ古墳の墳丘上の円筒埴輪の形式を比べた結果、上石津ミサンザイ古墳の円筒埴輪の方が明らかに古い形式。

土器や埴輪の編年というのは、絶対年代に関してはかなり信頼性が低いものだが、相対編年については非常に精密なものとされている。

従って、大仙陵古墳を仁徳陵とした場合、上石津ミサンザイ古墳は履中陵ではなく、仁徳天皇以前のいずれかの大王墓となってしまう。

この場合は、記紀の伝承が誤りとしなければならず、また、仮にそうだとした場合、上石津ミサンザイ古墳の適当な被葬者は見つからない。



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