近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

楠木正成物語 楠木氏の出自・末裔あれこれ

2006年10月12日 | 歴史
南河内地方は“源掛儲”を祖とする河内源氏発祥の地であり、頼信・頼義・義家の源氏三代の墓が存在する。
その子孫が南河内地方の守護を代々務め、その下で地頭職を預かっていたのが南河内金剛山麓の土豪であった楠木氏とする説。
正成が当主となった頃には、衰退した源氏に代わって、河内国一帯に勢力を持つようになったと云う。



例えば、源氏と繋がりがあった観心寺は、楠木氏とも関係が深く、正成の代になると一層結びつきが強くなり、楠木家代々の菩提寺となり、正成の曽祖父が当寺を再建するなど、先祖代々信仰心が篤い家柄であったと云う。

一方楠木氏は、敏達天皇の孫・橘諸兄を祖とする橘氏、橘遠保を祖とする伊予国の橘氏の流れを汲み河内国の豪族とされる説、北条得宗の一族が河内へ移ってきたとする説、武蔵国の出身であるとする説など諸説紛々。
このような諸説のうち、河内源氏の末裔とする説に説得力があるように思えるが・・。

室町後期から戦国時代にかけて、武士の間で“太平記”が多く読まれ、人気を博したため、楠木正成人気・崇拝熱が高まり、自称正成の子孫が続出したと云う。
楠木家末裔話の中の一人が、演出巧みな“楠長譜”であった。

正成と同じ河内国の出身であったことに着目して、楠木の家系を最大限利用して、政界での地位を確保したというように、時流に上手に乗った人物。
織田信長・豊臣秀吉に右筆(書記官)として仕えた戦国武将で、正成の子孫と称した楠長譜によって、北朝を擁立した足利幕府の時代に北朝に仇をなした逆賊扱いであった楠木氏の名誉回復のため、長譜は朝敵の赦免を嘆願され、正親町天皇の勅免を受け、朝敵でなくなった。
正虎自身も晴れて楠木氏を名乗り、楠木正虎と改名し、正成の子孫として、河内守の地位につくことができたと云う。
正虎の処世術はペテン師のようにも見えるが、彼の尽力のお陰で、楠木一族朝敵の汚名を返上できたことで、彼の果たした歴史的意義は大きいと云える。
その流れが江戸時代には水戸学の尊皇史家によって、正成の忠臣としての美談化が一層浸透していくことになる。

又正虎の子と称した軍学者・楠木正辰の娘婿となった由井正雪も、ゲリラ戦法を得意とした楠木流軍学を講じていたと云うが、確証は無い。



上の写真は野口雨情で、北原白秋、西條八十と並ぶ「童謡三大作詞者」の一人。
また大正期から本格化した日本の「流行歌」の基盤をなした人物でもあった。
明治末から昭和初期の作詞家野口雨情の先祖は、正成の弟の正季であると云う。

南朝の凋落と共に楠木一族も一時は没落したが、南北朝合一後は、楠木氏が忠臣の代表として賞賛・顕彰されるようになり、楠木氏末裔と称する一族が続けて名乗りをあげるようになるとは、人間社会の貪欲な一面と先人にあやかりたいとする野望を思い知らせた。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿