近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

公家・武将の北畠家ファミリー物語 北畠顕家の和泉国堺・石津での惨劇とは!

2006年12月21日 | 歴史
頼みの綱であった楠木正成を失った後醍醐天皇の武力は著しく削がれた中で、鎮守守将軍として抜擢されたのが、若き公家・顕家であった。
既に前回取上げた通り、足利尊氏が天皇に反旗を翻して京都を占領した際、南朝方の武将として、東北の武士団を率いて奮戦し、尊氏を九州に追い遣った武功について、誰もが認めるほど、顕家は大功労者であった。

しかしこの武功が、1338年再び足利家から京都を奪回するために、顕家が招請されることに繋がった。
しかし今回は、早急な派兵要請に、戦力を立て直す暇もなく、東北の拠点・霊山を立ち、各地で北朝方の勢力と交戦しつつ西進し、美濃まで到達したが、顕家進撃の進路は阻まれ、美濃・奈良では高師冬らの北朝軍に連敗し、この時点で、勝敗の行方は見えていたと云える。
戦う前から敗北が分かっていた戦局でも、天皇を守り通す使命感を貫き通した点、或いは敵の大将から崇められた顕家の器量は、楠木正行とダブって見える。

結局近江を経て京都に進撃する表ルートを断念し、伊勢から大和に入り、南から京都に進撃する、いわば裏街道ルートを漸く進む兵力の戦意は既に挫かれ、和泉国・堺の石津の地では、生き残った僅か20騎ほどの武者が、最期まで獅子奮迅の戦いを見せたが、最後のあがきは届かず、壮烈な戦死を遂げた。




上の写真は、当時激戦が繰広げられた戦場で、現在は堺港に流れる、堺市石津川の光景及び川沿いに祀られている、顕家の供養塔。

顕家戦死の報がもたらされた吉野では、武士・僧・公家などが涙を流さずにはいられない悲痛なニュースに、父・親房の無念・落胆は言葉にならなかったと云う。
顕家を失った痛手は、その後の挽回不可能な痛撃であったと云える。

ところで、顕家戦死の場所は、石津川の河原、大阪阿倍野の二説があるが、堺市石津の地で「石津河原の戦い」にまつわる伝承・怪談・昔話など数多く伝わっており、こんにちでは、顕家戦死は石津の地とされている。


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