近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

徳川慶喜物語 “プロ級の多趣味”とは!

2007年06月24日 | 歴史
慶喜は一橋家の養子となってからは、徹底した英才教育を受け、馬術・弓術・槍術・剣術については、免許皆伝の腕前、他にも砲術・兵学・絵画・音楽なども師匠の直接指導を受けていた。

一橋家を相続してからの慶喜は、もっぱら学問・術・稽古ごとなど文武両道の分野で研鑽を積んでいた。

と云うように10代の超過密な文武両道の研鑽が、隠居後の生活姿勢・嗜好に大きく影響したことは云うまでもない。

駿府移住・隠居後は、表舞台に一切出ることなく、元々多方面にタレント性が強かった慶喜の進むべき道は、自ずと定められていたと云える。

慶喜は合理主義者で、長い人生を慨嘆するのではなく、まさしく悠々自適の生活・退屈のない生き方を志向し、ともかく毎日のように外出したと云う。





写真は上から、慶喜が弓道を嗜んでいた姿及び狩猟に出かけた時の出で立ち。
弓道は毎日欠かすことなく、晩年まで続けたと云う。

昨日は鷹狩り、今日は鉄砲、明日は乗馬・投網等々極めて多忙な毎日であった。
10代の頃に培った君子の嗜みに加え、何をやっても生来凝り性・並々ならぬ好奇心及び洋癖が仕向けた嗜好の分野は、留まることなく広がって行った。

特に趣味の世界は、アウトドアー・インドアーとも多岐にわたり、馬術・弓術・狩猟・放鷹・打毬・投網・自転車・カメラ撮影などのアウトドアー、絵画・囲碁・将棋・書道・謡曲・作陶・和歌・刺繍・お菓子作りなどのインドアー等々多岐・多様にわたった。

カメラ撮影は、将軍現役時代から関心が高く、静岡に移住してからは、本格的に写真研究に取組み、現在静岡市内の“久能山東照宮博物館”には、当時慶喜が使ったドイツ・ゴルツ社のカメラ3台が陳列されている。

撮ることも・撮られることも好きで、和洋様々な服装の肖像写真が残されている。一族が集まると“カメラマン”よろしく黒衣を被って“暗箱”を覗いていたらしい。

将軍現役時代から撮り続けた写真は、今では幕末から明治期の貴重な文化的資料となっている。千葉県“松戸市戸定歴史館”には、約500枚のアルバムが所蔵されていると云う。





写真は、徳川慶喜作の数あるプロ級芸術品の中から、油絵風景画2点。

そのほか、風景油絵・西洋風景画・日本画・習字等々多数の作品が、文化財として、茨城県立歴史館・久能山東照宮博物館・福井市立郷土歴史博物館・松戸市戸定歴史館などに所蔵されている。




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