今回のトピックは、桜井茶臼山古墳から銅鏡破片331点が出土したというホットニュース。
桜井茶臼山古墳(3世紀末~4世紀初め)で、石室を覆っていた土の中から銅鏡の破片331点が出土したことを、県立橿原考古学研究所が、平成22年1月に発表した。
復元すると少なくとも計13種81面の鏡になり、一つの古墳の副葬品として最多となると云う。
写真は上から、茶臼山古墳の全景及び銅鏡破片が、3次元計測でそれぞれ適切な銅鏡に嵌め込まれたことを示す証と種類が特定できなかった破片が180点もあったことを示す展示例。
銅鏡の破片331点が、最新の3次元計測によって分析されたことで、81面の銅鏡に上ることが分かり、邪馬台国と大和王権との関係をはじめ、古代日本の国家形成を解き明かす手がかりとなったことは画期的な成果と云える。
しかし、完全な形に復元できるものは皆無で、盗掘を受けた際に壊され、大部分は持ち去られたと見られる。
邪馬台国の女王・卑弥呼が中国・魏に送った使者が帰国した年であり、或いは卑弥呼が中国・魏から鏡をもらった年に当たる、魏の年号「正始(せいし)元年(西暦240年)」銘入りの三角縁神獣鏡と同じ型で製作された鏡も含まれていたことで、初期大和王権が邪馬台国と直接結びつく可能性を示唆していると云える。
大和王権と邪馬台国が一続きの政治勢力であった可能性が高まった。今回の正始元年銘鏡の検出は、奈良県内では初めてと云う。
今回の発見で、大和王権が地方豪族に授けたとされてきた鏡が、大王自身も所持していたことが明らかになったことは、王権が支配を広げるには、権力を示す大量の鏡などが必要で、国内でも鏡を製造して求心力を強めようとしたことが分かると云える。
叉銅鏡の種類は100面余りあったとされるが、被葬者の倭国王に相応しい突出した権力を示していると云える。
大王墓級の巨大古墳に収められた副葬品の豪華さが、今回の発掘で初めて明らかになり、邪馬台国と初期大和王権の関連を考えるうえで、重要な成果となる。
銅鏡は初期ヤマト政権の権威の象徴で、大王墓クラスの古墳の全容に迫る成果として注目される。
出土した破片は最大縦11.1cm・横6.3cmを測るが、同古墳は60年前にも発掘調査されており、その際の出土品なども合わせた計384点を調査した。
384点の文様などを他の古墳で出土した銅鏡と照合し、上述したとおり、種類と枚数をほぼ特定したと云う。
その結果、三角縁神獣鏡26面や、内行花文鏡19面などを確認したが、破片のうち180点は種類を特定できておらず、鏡の総数はさらに多くなる見通し。
日本製の大型内行花文鏡(直径約38cm)なども含まれていたと云う。
写真は、はっきり見えないが、3次元計測データで復元した、“正始元年”銘の三角縁神獣鏡の破片で、“是”と刻まれた文字が確認できた。
叉卑弥呼が魏からもらったとする説と国内製作説の両方がある、三角縁神獣鏡26枚のうち、破片の1点(縦1.7cm・横1.4cm)に刻まれていた「是」の文字の形が、過去に蟹沢古墳(群馬県高崎市)で出土した、「正始元年」銘鏡とぴたり一致し、同じ鋳型で作られたと分かった。
今回の発見について、“正始元年”鏡は、邪馬台国が初期大和王権に発展したことを示すと考えられるが、3~4世紀の古代国家の成立を更に解明するには、政治・文化・社会を反映した、200m超の巨大古墳の発掘調査が不可欠。
しかし現状は、畿内33基のうち27基は、陵墓で調査が進まず、実態は不明。
写真は、ガラス製管玉及び石室に使用されていた、水銀朱彩された石材。
国内最長の長さ8cmほどのガラス製管玉などの副葬品が見つかり、大王の強力な権力を窺わせる。
副葬品は、玉製品ほかに、鉄製と青銅製の武器類などが検出されたと云う。
竪穴式石室の内部は、水銀朱を塗布した石材に囲まれた南北に細長い長方形の空間で、南北の長さ6.75m・高さ1.60m・幅1.27mを測ったと云う。
石室は、後円部の中央に長方形の墓拡を掘って安置し、木棺を納めたらしい。
木棺は腐朽と盗掘による破壊で原形を失っていたらしい。
墓壙は、南北約11m・東西約4.8m・深さ約2.9mを測り、竪穴式石室や埋葬後に石室上に築かれた方形壇、更にはそれらを保護する丸太垣など、これまで知られていなかった埋葬施設の存在が確認できたと云う。
今回の成果によって、古墳の被葬者の実力差や階級差などを細かく分析する資料が得られたと云われている。
桜井茶臼山古墳(3世紀末~4世紀初め)で、石室を覆っていた土の中から銅鏡の破片331点が出土したことを、県立橿原考古学研究所が、平成22年1月に発表した。
復元すると少なくとも計13種81面の鏡になり、一つの古墳の副葬品として最多となると云う。
写真は上から、茶臼山古墳の全景及び銅鏡破片が、3次元計測でそれぞれ適切な銅鏡に嵌め込まれたことを示す証と種類が特定できなかった破片が180点もあったことを示す展示例。
銅鏡の破片331点が、最新の3次元計測によって分析されたことで、81面の銅鏡に上ることが分かり、邪馬台国と大和王権との関係をはじめ、古代日本の国家形成を解き明かす手がかりとなったことは画期的な成果と云える。
しかし、完全な形に復元できるものは皆無で、盗掘を受けた際に壊され、大部分は持ち去られたと見られる。
邪馬台国の女王・卑弥呼が中国・魏に送った使者が帰国した年であり、或いは卑弥呼が中国・魏から鏡をもらった年に当たる、魏の年号「正始(せいし)元年(西暦240年)」銘入りの三角縁神獣鏡と同じ型で製作された鏡も含まれていたことで、初期大和王権が邪馬台国と直接結びつく可能性を示唆していると云える。
大和王権と邪馬台国が一続きの政治勢力であった可能性が高まった。今回の正始元年銘鏡の検出は、奈良県内では初めてと云う。
今回の発見で、大和王権が地方豪族に授けたとされてきた鏡が、大王自身も所持していたことが明らかになったことは、王権が支配を広げるには、権力を示す大量の鏡などが必要で、国内でも鏡を製造して求心力を強めようとしたことが分かると云える。
叉銅鏡の種類は100面余りあったとされるが、被葬者の倭国王に相応しい突出した権力を示していると云える。
大王墓級の巨大古墳に収められた副葬品の豪華さが、今回の発掘で初めて明らかになり、邪馬台国と初期大和王権の関連を考えるうえで、重要な成果となる。
銅鏡は初期ヤマト政権の権威の象徴で、大王墓クラスの古墳の全容に迫る成果として注目される。
出土した破片は最大縦11.1cm・横6.3cmを測るが、同古墳は60年前にも発掘調査されており、その際の出土品なども合わせた計384点を調査した。
384点の文様などを他の古墳で出土した銅鏡と照合し、上述したとおり、種類と枚数をほぼ特定したと云う。
その結果、三角縁神獣鏡26面や、内行花文鏡19面などを確認したが、破片のうち180点は種類を特定できておらず、鏡の総数はさらに多くなる見通し。
日本製の大型内行花文鏡(直径約38cm)なども含まれていたと云う。
写真は、はっきり見えないが、3次元計測データで復元した、“正始元年”銘の三角縁神獣鏡の破片で、“是”と刻まれた文字が確認できた。
叉卑弥呼が魏からもらったとする説と国内製作説の両方がある、三角縁神獣鏡26枚のうち、破片の1点(縦1.7cm・横1.4cm)に刻まれていた「是」の文字の形が、過去に蟹沢古墳(群馬県高崎市)で出土した、「正始元年」銘鏡とぴたり一致し、同じ鋳型で作られたと分かった。
今回の発見について、“正始元年”鏡は、邪馬台国が初期大和王権に発展したことを示すと考えられるが、3~4世紀の古代国家の成立を更に解明するには、政治・文化・社会を反映した、200m超の巨大古墳の発掘調査が不可欠。
しかし現状は、畿内33基のうち27基は、陵墓で調査が進まず、実態は不明。
写真は、ガラス製管玉及び石室に使用されていた、水銀朱彩された石材。
国内最長の長さ8cmほどのガラス製管玉などの副葬品が見つかり、大王の強力な権力を窺わせる。
副葬品は、玉製品ほかに、鉄製と青銅製の武器類などが検出されたと云う。
竪穴式石室の内部は、水銀朱を塗布した石材に囲まれた南北に細長い長方形の空間で、南北の長さ6.75m・高さ1.60m・幅1.27mを測ったと云う。
石室は、後円部の中央に長方形の墓拡を掘って安置し、木棺を納めたらしい。
木棺は腐朽と盗掘による破壊で原形を失っていたらしい。
墓壙は、南北約11m・東西約4.8m・深さ約2.9mを測り、竪穴式石室や埋葬後に石室上に築かれた方形壇、更にはそれらを保護する丸太垣など、これまで知られていなかった埋葬施設の存在が確認できたと云う。
今回の成果によって、古墳の被葬者の実力差や階級差などを細かく分析する資料が得られたと云われている。
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