近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

アイヌ民族・文化 大正から昭和20年頃までの歴史とは!

2007年11月10日 | 歴史
大正期は、“大正デモクラシー”と呼ばれたように、社会には自由な雰囲気が広がり、アイヌの人たちの活動も活発に行われるようになったと云う。

民族差別に対する抗議、アイヌ民族が昔ながらの原始的暮らしをしているという偏見や無理解への批判、自立できる道を探ることへの呼びかけなど、アイヌ自身による民族的な組織を結成する動きも出てきた。
町村の議会議員選挙に当選するアイヌ人たちも現われた。

昭和9年、“旭川市近文”でアイヌ人が居住地から追い出されそうになった運動に対して、アイヌ人たちは代表が東京で陳情運動を起すなど、土地が撤収されそうになるのを防いだ。

アイヌ語を後世に残そうとする“キャンペーン”を取上げると、明治以降イギリス宣教師やアイヌ語研究者・“金田一京助”らによって、まとまった形で本格的にアイヌ語が記録されるようになった。





写真は、萱野茂著の“アイヌ語辞典”及び山田秀三著の“アイヌ語の地名”。

叉明確に記録を辿れる範囲では、大正時代にはアイヌ人自身が、ローマ字などを用いてアイヌ語を書き残したのがキャンペーンの始まりとされている。
アイヌ語と日本語は地理的に近い位置で話されてきたにも係わらず、互いの間にはそれほど共通点が見いだせないらしい。

専門家の間では、アイヌ語は、日本語の基盤となったいくつかの言語の内の一つから発展した言語であるとする見方が一般的であるが、現段階ではアイヌ語は特定の語族に属さない、言語分類上では「孤立した言語」とされている。

次に北海道への移住キャンペーンを取上げると、明治19年に設置された北海道庁は、これまでの移民保護政策をやめ、本州資本の投資による開拓を意図した。これによって、本州の地主・華族・政商などによる投資が活発化し、本州からの移住者も急増した。

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写真は、北海道当別町に残る、“北海道開拓記念碑”。
明治30年代から大正時代前期にかけて、北海道への移住者は毎年5万人~8万人を数え、北海道内陸部の開拓が急激に進んだ。

「開道50年」にあたる大正7年の全道人口は約217万人(平成17年の国勢調査では563万人弱)、耕地面積は80万ヘクタールとなった。

これら移住者の多くは東北・北陸地方の出身者だったが、大正初期には四国地方からの移住者も多く見られ、日本各地の伝統的文化を北海道にもたらした。

その後、移住者は次第に減少していくが、大正末期には、許可移民という形の保護移民制度が復活し、根釧原野などの開拓にあたった。
明治2年から昭和11年までの北海道への移住者総数は約300万人に昇ったと云う。


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