近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

公家・武将の北畠家ファミリー物語 北畠顕能以降の歴代伊勢国司物語

2006年12月28日 | 歴史
顕能の子供が代々伊勢国司を継ぎ、北畠氏の嫡流となった。
その勢力は広く南伊勢、大和の宇陀郡さらに志摩、熊野まで広がっていた。
 
伊勢国司の顕能から顕泰、満雅、教具、政郷、材親、晴具、具教の代に至り、1569年、全国統一をめざした織田信長の軍の侵攻をうけ、多気の霧山城から、現在の松阪市・大河内城に主力を移した。




写真は、松阪市に残る、大河内城跡とその石碑。
丘陵突端部一帯にあり、坂内川と矢津川に挟まれるなど、自然の要害により守れている。

織田軍の5万とも言われる大軍と50日にわたり戦ったが、大河内城は、短期決戦で知られる織田軍に対し徹底抗戦に耐えて、武力制圧を諦めた信長は次男の信雄を北畠の養子に入れることで和議を結んだ。
具教は、信雄に家督を譲り隠居したが、翌年、信長に従った旧臣により攻められて、惨死。
 
難攻不落の堅城と称賛された大河内城も、信雄により解体されてしまった。
8代240年ほど続いた北畠氏が、織田信長により遂に滅亡したが、この地域は北畠氏の栄枯盛衰と共に発展していったと云える。
歴代伊勢北畠家国司の中で、特に際立った国司のうち、今回は満雅と晴具について、以下紹介する。

満雅は室町時代の人物で、伊勢国司北畠家3代当主で、顕泰の次男。
満雅は、1414年に始まり、天皇家の継承問題に対する室町幕府の違約、即ち皇統が北朝から南朝に譲られないことを不服として何度となく挙兵し、阿坂城に拠って幕府軍と激闘を繰返し、朝廷に忠臣を尽した。



写真は、松阪市桝形山山頂の阿坂城跡。
山頂には石碑があるだけで、視界を遮るものはなく、伊勢平野・伊勢湾を一望できる。

この時の逸話として、阿坂城が幕府軍の兵糧攻めにあい、水不足に悩んだ北畠軍は白米を馬の背に流して、水が豊富にあるかのようにみせかけたという白米伝説を残している。1982年国史跡に指定された。

以来、阿坂城は別名「白米城」と呼ばれるようになったが、結局阿坂城は落城。
北畠軍はその後も抵抗を続け、幕府軍に対してよく戦い、攻めあぐねた幕府は、1430年南朝の後嗣の即位があることを誓約して和議が成立した。
その後220余年、伊勢の国は比較的平穏な時期を過ごした。

晴具は伊勢国司北畠家7代当主。具方の子で、妻は細川高国の娘。
晴具は文武両道の名将で、弓馬は達人で和歌をよくし、能書家でもあった。
義父・細川高国らとともに歌合せを、北畠家本拠地の多気御所で実施したり、連歌師宗長を御所に招き、逗留させて連歌の興行を行ったりもしていたと云う。

また、高国が多気御所に造った庭園は、「北畠氏館跡庭園」と呼ばれ、現在国指定文化財の名勝、史跡となっている。



写真は、北畠氏の栄華を偲ぶことができる、全国三大武将庭園の一つ。

晴具は武将としても大活躍し、志摩国の鳥羽城を攻撃し、支配下に収めた。
その後大和にも進出して吉野を制圧して支配下に収めた。
又紀伊国へも進出し、熊野地方から尾鷲・新宮方面までを領有化、十津川まで支配領域を広げるなど、諸領地拡大に貢献した。

1536年には出家し、1553年には隠居して家督を嫡男・具教に譲っている。
以上のように、北畠家240年の繁栄・存続は、文武に優れた歴代の国司経営が効を奏したと云える。



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2 コメント

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北畠氏の歴史 (TonyMimu)
2006-12-28 15:29:39
26日27日版、読ませていただきました。懐かしい地名、大河内、阿坂、御所等です。白米伝説は聞いたことがあります。
また北畠氏館跡庭園は、なかなかすばらしいですね。
今度機会があればいってみたいと思います。
松阪城跡は松阪旧市内にあり、大河内城跡とは違いますね。
ではまた、次回分を期待しております。以上
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北畠氏の歴史 (tommz)
2006-12-28 16:46:07
主題の件、早速ご覧頂き恐縮です。
そうなんですよ。北畠氏ゆかりの居館庭園は、日本三大神社庭園として、超有名だそうです。
次期は、来春の桜開花シーズンか、或いは新緑の初夏が宜しいですね。一見の価値があること間違いなしです。
松阪城跡は、行きませんでしたが、一度機会があれば、立ち寄ってみたいですね。
北畠氏ゆかりの地を取上げた、ストーリーはこれからが内容の濃い、興味を誘うこと間違いなしですので、是非とも一読してください。

ご意見・ご批判はウェルカムです。



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