先ず弥生時代の画期的な農業生産基盤から生まれた前方後円墳について考察すると
1、弥生時代に急展開した水田稲作農耕の農業土木・技術は、大型の前方後円墳築造を可能にし、広め、定型化・巨大化する路を拓いた。
写真は、弥生時代の方形周溝墓の原形。
弥生時代を象徴する方形周溝墓の方形から、古墳時代の円形へ激変する埋葬主体部は、共同体から首長に、祭祀の主人公を祀り上げた画期的な墓制であり、首長の霊力で主宰する祭祀へと劇的な変化を遂げた。
2、もう一つ弥生時代との境界を画する劇的な違いは、銅鐸祭祀の廃絶と権力の象徴としての銅鏡の出現が挙げられる。
銅鏡については、流水紋銅鐸は水の祭祀、袈裟欅銅鐸は水田の祭祀に欠かせない道具であったのが、前方後円墳の祭祀では銅鐸は廃絶され、首長の霊力・権力の象徴としての銅鏡が出現した。
ということで、水田稲作農耕の重要な農耕祭祀・銅鐸祭祀が廃絶された背景は、共同体が主宰する祭祀から、首長が主宰する共同体を超えた祭祀が出現したことになる。
と同時に、銅鐸に替わって銅鏡が首長の副葬品として、或いは霊力・権力の象徴として、その地位を確立した。
写真は、黒塚古墳から出土した三角縁四神獣鏡。
奈良県天理市の黒塚古墳のように、33面の銅鏡が副葬され、銅鐸を凌駕した祭祀の呪具に使われていたと見られる。
3、奈良県天理市の渋谷向山古墳は、300m余りの墳丘を築造し、後円部は真上から見て正円になるように施工している。
写真は、天理市の渋谷向山古墳・景行天皇陵の上空写真。
写真のような正円が「日輪」を象徴し、ヒノミコ(日の御子)たる霊力を具えた権能を象徴していると云える。叉後円部の正円は、太陽信仰を象徴している。
4、多様化した前方後円墳は、複数の王統系列を示している。
埋葬主体部の後円部では共通する築造企画を共有していても、前方部の企画・形態には複数あり、それぞれの喪葬祭祀の独自性や首長の出自・系譜性などを前方部の墳丘形態の違いとして、複数の王統が並立していたと云える。
例えば後円部直径の二分のⅠ以下の比率の短小な前方部を持つ、帆立貝形墳墓は大王政権下で、従属的な身分を墳丘外形に視覚的に現したと見られている。
一般的には、前方部と後円部の全長規模でランキングを比較しているが、後円部直径の対比と前方部の長短で築造企画の相違点を読み取ることが、相対的に比較する方法として認知されている。
5、前方後円墳を造営した土木工学的な技術には、縦横基準線の水平を維持して直交させ構成する、「丁場」(作業現場)工法と遣り方工法(杭などで土工面や構造物の位置を表示し施工の目安にする)があったが、現在でも日本の大工の伝統的な工法として使われている。
築造企画の計量に使われた「物差し」の起源は、首長の身度尺・ヒロ(両手を広げた長さ)で地割りする方法が、首長霊力で荒ぶる大地の神を鎮魂する儀礼として、叉首長の霊力を神格化するとして使われていたと見られている。
身度尺を起源として、制度的な尺度に止揚していった。
大ヒロは成人男性・162cm前後、小ヒロは成人女性・150cm前後に相当する長さが身度尺であったと考えられている。
1、弥生時代に急展開した水田稲作農耕の農業土木・技術は、大型の前方後円墳築造を可能にし、広め、定型化・巨大化する路を拓いた。
写真は、弥生時代の方形周溝墓の原形。
弥生時代を象徴する方形周溝墓の方形から、古墳時代の円形へ激変する埋葬主体部は、共同体から首長に、祭祀の主人公を祀り上げた画期的な墓制であり、首長の霊力で主宰する祭祀へと劇的な変化を遂げた。
2、もう一つ弥生時代との境界を画する劇的な違いは、銅鐸祭祀の廃絶と権力の象徴としての銅鏡の出現が挙げられる。
銅鏡については、流水紋銅鐸は水の祭祀、袈裟欅銅鐸は水田の祭祀に欠かせない道具であったのが、前方後円墳の祭祀では銅鐸は廃絶され、首長の霊力・権力の象徴としての銅鏡が出現した。
ということで、水田稲作農耕の重要な農耕祭祀・銅鐸祭祀が廃絶された背景は、共同体が主宰する祭祀から、首長が主宰する共同体を超えた祭祀が出現したことになる。
と同時に、銅鐸に替わって銅鏡が首長の副葬品として、或いは霊力・権力の象徴として、その地位を確立した。
写真は、黒塚古墳から出土した三角縁四神獣鏡。
奈良県天理市の黒塚古墳のように、33面の銅鏡が副葬され、銅鐸を凌駕した祭祀の呪具に使われていたと見られる。
3、奈良県天理市の渋谷向山古墳は、300m余りの墳丘を築造し、後円部は真上から見て正円になるように施工している。
写真は、天理市の渋谷向山古墳・景行天皇陵の上空写真。
写真のような正円が「日輪」を象徴し、ヒノミコ(日の御子)たる霊力を具えた権能を象徴していると云える。叉後円部の正円は、太陽信仰を象徴している。
4、多様化した前方後円墳は、複数の王統系列を示している。
埋葬主体部の後円部では共通する築造企画を共有していても、前方部の企画・形態には複数あり、それぞれの喪葬祭祀の独自性や首長の出自・系譜性などを前方部の墳丘形態の違いとして、複数の王統が並立していたと云える。
例えば後円部直径の二分のⅠ以下の比率の短小な前方部を持つ、帆立貝形墳墓は大王政権下で、従属的な身分を墳丘外形に視覚的に現したと見られている。
一般的には、前方部と後円部の全長規模でランキングを比較しているが、後円部直径の対比と前方部の長短で築造企画の相違点を読み取ることが、相対的に比較する方法として認知されている。
5、前方後円墳を造営した土木工学的な技術には、縦横基準線の水平を維持して直交させ構成する、「丁場」(作業現場)工法と遣り方工法(杭などで土工面や構造物の位置を表示し施工の目安にする)があったが、現在でも日本の大工の伝統的な工法として使われている。
築造企画の計量に使われた「物差し」の起源は、首長の身度尺・ヒロ(両手を広げた長さ)で地割りする方法が、首長霊力で荒ぶる大地の神を鎮魂する儀礼として、叉首長の霊力を神格化するとして使われていたと見られている。
身度尺を起源として、制度的な尺度に止揚していった。
大ヒロは成人男性・162cm前後、小ヒロは成人女性・150cm前後に相当する長さが身度尺であったと考えられている。
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