先ずは、既に詳述したように、顕家が戦死する1週間前に、陣中から後醍醐天皇に宛てた「6ヶ条からなる諫奏文」を指摘せざるを得ない。
要約すると、民の困窮、人材登用や褒美の乱れ、佞臣のはびこり、行幸・酒宴による経費の無駄使いなどに言及し、痛烈な苦言・批判を堂々と述べている。
そして顕家は、「先非を改められず、太平の世に戻す努力が為されないならば、私は陛下の元を去り、山野に隠れることでしょう。」と締めくくっている。
決死の戦いを前にして、死の覚悟を決めていたと思われる。
このように後醍醐天皇の取り巻きたちの腐敗への怒りを抱えつつも、朝廷の窮地を救うべく、一命をかけたと云える。
写真は、北畠顕家の肖像及び大阪阿倍野区に所在する北畠公園内の顕家墓所。
若干16歳の若き武将が陸奥国に派遣され、旧鎌倉幕府御家人や北条残党が数多く残る、陸奥を瞬く間に治めてしまう手腕は、尋常ならざる才能の持ち主であったからで、北方の雄である南部家・伊達家・相馬家らが進んで顕家に従ったことも、彼の魅力・指導力の現れであったと思われる。
しかし若き有能な公家・武将の顕家が歴史上に登場したのは一瞬であった。
顕家が陸奥から奥州兵を率いて尊氏の背後を突き、尊氏を九州まで敗走させた戦績は、鮮やかな勝利として記録に残されてはいるが、21年の短い生涯と一瞬の栄光だけに、余りにも悲しく忍びない。
顕家奥州軍の動きは素早く、彼の騎馬軍団は、足利北朝軍が立ちはだかる中、途中の足利軍を蹴散らかして20日余りで、京まで千キロほどの道のりを疾走する速さは神業であったと伝えられている。
要約すると、民の困窮、人材登用や褒美の乱れ、佞臣のはびこり、行幸・酒宴による経費の無駄使いなどに言及し、痛烈な苦言・批判を堂々と述べている。
そして顕家は、「先非を改められず、太平の世に戻す努力が為されないならば、私は陛下の元を去り、山野に隠れることでしょう。」と締めくくっている。
決死の戦いを前にして、死の覚悟を決めていたと思われる。
このように後醍醐天皇の取り巻きたちの腐敗への怒りを抱えつつも、朝廷の窮地を救うべく、一命をかけたと云える。
写真は、北畠顕家の肖像及び大阪阿倍野区に所在する北畠公園内の顕家墓所。
若干16歳の若き武将が陸奥国に派遣され、旧鎌倉幕府御家人や北条残党が数多く残る、陸奥を瞬く間に治めてしまう手腕は、尋常ならざる才能の持ち主であったからで、北方の雄である南部家・伊達家・相馬家らが進んで顕家に従ったことも、彼の魅力・指導力の現れであったと思われる。
しかし若き有能な公家・武将の顕家が歴史上に登場したのは一瞬であった。
顕家が陸奥から奥州兵を率いて尊氏の背後を突き、尊氏を九州まで敗走させた戦績は、鮮やかな勝利として記録に残されてはいるが、21年の短い生涯と一瞬の栄光だけに、余りにも悲しく忍びない。
顕家奥州軍の動きは素早く、彼の騎馬軍団は、足利北朝軍が立ちはだかる中、途中の足利軍を蹴散らかして20日余りで、京まで千キロほどの道のりを疾走する速さは神業であったと伝えられている。
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