高槻市の地形・歴史を振り返ってみると、大阪平野の北東にあり、京都と大阪の中間に位置し、北は北摂山地に連なる山並みと丘陵、南は山間から流れ出る芥川・桧尾川などによって形成された平野が広がり、琵琶湖から大阪湾に流れる淀川が市域の南の境になっている。


写真は、高槻市を流れる芥川上流に広がる渓谷・摂津峡の光景及び北摂丘陵に広がる高級住宅地・南平台の光景。
高槻市は、このように変化に富んだ地勢と、淀川・山陽道(西国街道)という水陸2大交通路の要衝であったこともあり、数多くの歴史を育んできた。
弥生時代以来、豊かな田園を育ててきた人々の努力は、この地を三島地域の政治的・経済的中心として、歴史の流れに大きな影響を与えた。
大阪府三島地方とは、三島郡島本町を北限として高槻市・茨木市を含む淀川右岸縁の地方を指すが、三島地方は日本有数の古墳地帯であり、高槻市だけでも古墳や遺跡が約500ヶ所もあり、文化財の宝庫とも云われている。
この三島古墳群には、古墳時代初頭から終末期までの各時代を代表する古墳が含まれ、羽曳野・藤井寺周辺の“古市古墳群”、堺周辺の“百舌鳥古墳群”と並び称されるほどの規模を誇る。
三島古墳群は、大阪府茨木市西部から高槻市東部にかけて分布する、大阪府下最大の古墳群で、同じ古墳群でも兵庫県下の中山古墳などが地方豪族の墓であるのに対し、これらは大王やそれに次ぐ高位階層の墓が多く、日本版「王家の谷」とも云える。

写真は、名神高速道沿いの大型古墳群の集積地帯のマッピング。
名神高速道敷設工事に伴い、古墳の一部を削り取るハプニングもあったが、国家的レベルの貴重な史跡は大切に保存されている。
三島古墳群における代表的な首長墓は、邪馬台国時代の安満宮山古墳(3世紀中頃)からはじまり、古墳時代初期の岡本山古墳(3世紀後半)、弁天山古墳(3世紀末~4世紀初頭)へと変転していった。
今回、確認された闘鶏山古墳(4世紀前半)の存在は、王権がその後の弁天山l号墳(4世紀中頃~後半)から郡家車塚古墳(4世紀末)へ引き継がれたことを明確したと云う。
やがてこの三島地方の王権は、新池埴輪製作遺跡(5世紀中頃~6世紀中頃)と太田茶臼山古墳(現継体陵・5世紀中頃)の造営に象徴されるように、大和王権との結び付きを一層強固なものとし、今城塚古墳(6世紀前半)の段階では全国統治の頂点に立つという歴史的な展開をみせる。
ここからは、三島地方の代表的な大型古墳群を紹介する。


写真は、高槻市を流れる芥川上流に広がる渓谷・摂津峡の光景及び北摂丘陵に広がる高級住宅地・南平台の光景。
高槻市は、このように変化に富んだ地勢と、淀川・山陽道(西国街道)という水陸2大交通路の要衝であったこともあり、数多くの歴史を育んできた。
弥生時代以来、豊かな田園を育ててきた人々の努力は、この地を三島地域の政治的・経済的中心として、歴史の流れに大きな影響を与えた。
大阪府三島地方とは、三島郡島本町を北限として高槻市・茨木市を含む淀川右岸縁の地方を指すが、三島地方は日本有数の古墳地帯であり、高槻市だけでも古墳や遺跡が約500ヶ所もあり、文化財の宝庫とも云われている。

この三島古墳群には、古墳時代初頭から終末期までの各時代を代表する古墳が含まれ、羽曳野・藤井寺周辺の“古市古墳群”、堺周辺の“百舌鳥古墳群”と並び称されるほどの規模を誇る。
三島古墳群は、大阪府茨木市西部から高槻市東部にかけて分布する、大阪府下最大の古墳群で、同じ古墳群でも兵庫県下の中山古墳などが地方豪族の墓であるのに対し、これらは大王やそれに次ぐ高位階層の墓が多く、日本版「王家の谷」とも云える。


写真は、名神高速道沿いの大型古墳群の集積地帯のマッピング。
名神高速道敷設工事に伴い、古墳の一部を削り取るハプニングもあったが、国家的レベルの貴重な史跡は大切に保存されている。
三島古墳群における代表的な首長墓は、邪馬台国時代の安満宮山古墳(3世紀中頃)からはじまり、古墳時代初期の岡本山古墳(3世紀後半)、弁天山古墳(3世紀末~4世紀初頭)へと変転していった。
今回、確認された闘鶏山古墳(4世紀前半)の存在は、王権がその後の弁天山l号墳(4世紀中頃~後半)から郡家車塚古墳(4世紀末)へ引き継がれたことを明確したと云う。
やがてこの三島地方の王権は、新池埴輪製作遺跡(5世紀中頃~6世紀中頃)と太田茶臼山古墳(現継体陵・5世紀中頃)の造営に象徴されるように、大和王権との結び付きを一層強固なものとし、今城塚古墳(6世紀前半)の段階では全国統治の頂点に立つという歴史的な展開をみせる。

ここからは、三島地方の代表的な大型古墳群を紹介する。