藤田山遺跡は、東藤田町に所在する、弥生時代から中世にかけての集落跡。
天野川左岸に沿ってのびる丘陵上に広がる集落跡で、中心になるのは弥生時代中期から後期で、遺跡北西部で発見された弥生中期に掘られたV字形の溝は、埋め戻された後、弥生後期には竪穴住居が建てられていた。



写真は上から、天野川左岸奥に広がる、藤田山遺跡が所在する細長い丘陵、弥生遺跡が発見された丘陵及び本遺跡現場から満開の桜越しに見上げる生駒山系の山々。
当地は中世には共同墓地になり、中国から輸入された宗銭や骨壷などが見つかっていると云う。
藤田山遺跡のうち、藤田山古墳は天野川沿いに点在する古式古墳の一つで、弥生末期の住居址上に築造されていたらしい。



写真は上から、藤田山遺跡が出土した、丘陵団地内の案内看板、藤田山古墳現場一帯及び本古墳から出土した画文帯環状乳神獣鏡。
本古墳は、標高約39m、周辺低地からの比高約33mにあり、墳長約50m・後円径25m・高3m、前方高約1mにある、古墳時代前期の円墳。
本古墳は、天野川流域の低湿地の周辺に村落を営んだ農耕氏族が築いてきた、4世紀型の古墳で、この地域は北河内でも前期古墳が多く分布している。
前期古墳には、上流から森古墳群、妙見山古墳、藤田山古墳、禁野車塚古墳、万年寺古墳などがある。
物部氏の遠い祖先は、西からやってきて大阪湾から当時の河内湖に入り、さらに淀川からその支流の天野川をさかのぼって大和に入ったと見られる。
その際に、天野川流域に住み着いたのが、物部の一氏族で肩野物部と呼ばれたと考えられている。
しかし藤田山古墳は丘陵上の南方200mほどにあったが、1957年以降、日本住宅公団の団地開発が進み、団地建設に伴う採土工事によって、保存の願いもむなしく、全壊・削平されてしまった。
本古墳からは3基の粘土槨の埋葬施設が発見され、その下層からは弥生時代の住居跡が見つかってと云う。
埋葬施設からは、画文帯環状乳神獣鏡のほか、銅鏃・碧玉製鏃形石製品・鉄斧・銅鏃・鉄剣などが出土したと云う。
天野川左岸に沿ってのびる丘陵上に広がる集落跡で、中心になるのは弥生時代中期から後期で、遺跡北西部で発見された弥生中期に掘られたV字形の溝は、埋め戻された後、弥生後期には竪穴住居が建てられていた。



写真は上から、天野川左岸奥に広がる、藤田山遺跡が所在する細長い丘陵、弥生遺跡が発見された丘陵及び本遺跡現場から満開の桜越しに見上げる生駒山系の山々。
当地は中世には共同墓地になり、中国から輸入された宗銭や骨壷などが見つかっていると云う。
藤田山遺跡のうち、藤田山古墳は天野川沿いに点在する古式古墳の一つで、弥生末期の住居址上に築造されていたらしい。



写真は上から、藤田山遺跡が出土した、丘陵団地内の案内看板、藤田山古墳現場一帯及び本古墳から出土した画文帯環状乳神獣鏡。
本古墳は、標高約39m、周辺低地からの比高約33mにあり、墳長約50m・後円径25m・高3m、前方高約1mにある、古墳時代前期の円墳。
本古墳は、天野川流域の低湿地の周辺に村落を営んだ農耕氏族が築いてきた、4世紀型の古墳で、この地域は北河内でも前期古墳が多く分布している。
前期古墳には、上流から森古墳群、妙見山古墳、藤田山古墳、禁野車塚古墳、万年寺古墳などがある。
物部氏の遠い祖先は、西からやってきて大阪湾から当時の河内湖に入り、さらに淀川からその支流の天野川をさかのぼって大和に入ったと見られる。

その際に、天野川流域に住み着いたのが、物部の一氏族で肩野物部と呼ばれたと考えられている。
しかし藤田山古墳は丘陵上の南方200mほどにあったが、1957年以降、日本住宅公団の団地開発が進み、団地建設に伴う採土工事によって、保存の願いもむなしく、全壊・削平されてしまった。

本古墳からは3基の粘土槨の埋葬施設が発見され、その下層からは弥生時代の住居跡が見つかってと云う。
埋葬施設からは、画文帯環状乳神獣鏡のほか、銅鏃・碧玉製鏃形石製品・鉄斧・銅鏃・鉄剣などが出土したと云う。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます