近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

大阪市住吉区の帝塚山古墳とは!

2010年06月14日 | 歴史
帝塚山古墳は、大阪城付近から南に細長くのびる上町台地上にあり、大阪市内に残る4つ古墳である、天王寺区の茶臼山古墳、生野区の御勝山古墳、阿倍野区の聖天山古墳、住吉区の帝塚山古墳の一つで、出土した埴輪片の特色から、4世紀末から5世紀初頭の国指定史跡の前方後円墳。

町中にありながらも比較的良く原形を残していることから、国の史跡に指定されたと見られる。









写真は上から、帝塚山古墳の全景、同近景、森の間から覗く同古墳墳丘の様子及び民家の間から覗く帝塚山古墳の様子。

鬱蒼とした森に覆われた本古墳は、神秘的な雰囲気を醸し出している。

帝塚山古墳の規模は、現在は全長約88m・高さ約9mで、街中の北部高台にあり、すぐ隣まで民家が迫っているが、大和朝廷に高官として仕え、この付近に居宅があった“大伴金村”(5世紀から6世紀にかけての豪族)の墓という説もある。

帝塚山学院というハイソな学校のある高級住宅地に、あたかも小島のように浮かぶ古墳。
現存している塚は、前方後円墳として原形をとどめる市内唯一のもの。





写真は、帝塚山古墳の案内板と巨碑が見える帝塚山古墳内部の様子と同古墳の裏側に続く市立住吉中学校。

墳丘上に覗く巨碑は、明治天皇が陸軍特別大演習をここから統監されたことを記念して、当時の住吉村が建立されたものらしい。

現在は、帝塚山古墳は一つだけだが、明治時代までは、俗に「大帝塚」と「小帝塚」と呼ばれる大小二つの古墳があり、この地に館を持っていた古代豪族の大伴氏の大伴金村とその子の墓とされていたらしい。

大帝塚の方は、写真のような、現在の大阪市立住吉中学校の敷地となり、小帝塚の方が帝塚山古墳として現存している前方後円墳。

本古墳は、住吉古墳群の一つで、上町台地西端に立地し、上位段丘は標高12mあり、墳丘は前方後円墳。

前方部は2段築成・造出なしで、元々は幅20~30mほどの周壕があり、墳丘長約120m・後円径約57m・高約10m・前方幅約50m・前方部長さ約44m・高さ約8m・くびれ幅約30mの規模を持つ。

外表施設は、前方部に埴輪列が巡り、葺石も敷かれていたと云う。しかし石室・石棺などの内部構造は不明。

周濠の痕跡は皆無で、周囲が宅地や学校で囲まれているため、古墳保存には役立っているが、古墳らしい様子は窺えない。

帝塚山の文字面から、天皇の塚であると錯覚するが、この名称は明治以降に付けられたもので、以前は「手塚」または「手塚山」と呼ばれていたらしい。

明治天皇が大阪に行幸し、かつての南朝の後村上天皇の御所だった住吉行宮(あんぐうは天皇の仮の御所)に滞在し、当地に足を運んだことを機縁に「帝塚山」という名称に改めたとされる。

陪塚が数多くあったことと、帝塚という名称から天皇の墓という説や大伴金村の墓という説があるが、埋葬者は不詳。

埋葬者が不詳なこともあり、何かの秘密が帝塚山古墳に隠されているのではないか?或いは継体大王を大和に連れてきた大伴金村に関わる秘密が、どこかに残されているのではないのか?等々謎めいた古墳ではある。





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