<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
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その昔、アイドルは神聖なものであった、というような気がする。

百恵ちゃんはトイレには行かない。
とか、
淳子ちゃんは屁をこがない。

といった基本的な要素はともかくとして、男性女性に限らず、アイドルはある意味、仮想の恋愛対象であったのではなかろうか。
従って、

聖子ちゃんは清純だ。
とか、
今日子ちゃんはいつもキラキラしている。

といった恋人相手に考える幻想まで加味されてアイドルは神聖化されていたように記憶するのだ。

芸能プロダクションもアイドルの教育に対してはプロフェッショナルだった、と思う。
これらファンが持ち続けている幻想を打ち消すようなスキャンダルが絶対に起こらないようにマネージメントに努めていたことが伺える。
伝える方も、スターはスターとして扱い、それなりの敬意を払って「幻想」が打ち消されないように努力した。
それはまるで、色街のルールと似通った、厳しい仕来りのようなものがあったのではないかと思われてならない。
ある意味、それはアイドルは芸人としてプロの中のプロの時代だったのだろう。

例えば、山口百恵と三浦友和のカップルは当時、大いに注目され、羨望の的であったが、二人がプライベートにデートをしているところも、ましてやホテルから出てくるなんてところは一切報道されることはなかった。
二人が理想的なカップルである、というイメージはグリコのCM、映画、明星・平凡といった雑誌などで伝えられ、プロモートされていった。

だから逆にスキャンダルについては一切厳禁だった。
もし、事実が外に漏れるとそのアイドルは抹殺されもした。
城みちると伊藤咲子、高部知子、その他、色々。
事例を挙げれば切りはない。

アイドルは生身の人間だが、芸能の世界に生きる限り、幻想を貫き通すのがプロというもので、それは演じる方も、演じさせる方も、見る方も、すべてお約束として成立していた。

あれから数十年。

今、アイドルは神聖なものではなくなってしまった。
お友達感覚のアイドルはお粗末な歌と踊りを優れたビデオ編集技術でごまかしている。
芸が幼稚だから飽きられやすい一方、ギャラが安いうちが人気の絶頂期に当たるため、ギャラが上がってから起用する必要がないのでカネがかからにというメリットがある。
しかし、このようなご都合がいい芸人は、畢竟奥行きがない。
だから独立して単品タレントになった元グループアイドルは、関西生まれの一般人のインパクトもないのだ。

現代アイドルの代表選手AKB48のメンバーの一人が文春の記者に恋人の男とお泊りした所をスクープされ、反省の印として坊主頭になった。
女が坊主頭。
空恐ろしいというか、やり過ぎの不気味というか、「阪神タイガースが優勝を逃したら坊主にします」、はよく聞くセリフだが、「男が出来たので坊主にします」というのは私の知る限り初めてだ。

「あんたと一緒のところを見られたのよ!私坊主になるわ」

なんて言われたら相手の男はきっと「なんでやねん!」と自信をなくすことだろう。
それを考えただけでも、アイドル=虚像の資格は無いように思う。

AKBはもしかするとアッカンベーの略なのかもしれない。

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