<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地



テレビの時代劇が曲がり角にさしかかっている。
あの「水戸黄門」が放送終了してしまうというニュースは日本国内のみならずフランスでまでトピックとして取り上げられるぐらいのショックが走っている。
今回の「水戸黄門」終了は別に「大岡越前」や「江戸を斬る」にバトンタッチされるというものではなく、単純に「もう、製作されない」ということを意味している。

私は別に水戸黄門のファンでもないが、あの番組が無くなるということは、日本のテレビドラマの一つの形式が消えてしまうことになると思ってる。
タイムテーブルがあるかのような「いつも似たようなストーリー」はもう見ることができないのだ。

でも、時代劇を代表するシリーズである「水戸黄門」が近い将来消えてしまうことは、番組制作にビデオカメラが使われ始めたときにその片鱗は窺えた。
当時、時代劇ファンだった私の友人のひとりは、
「ビデオで撮影している水戸黄門見ていると、なんか、コントみたいでつまらんな」
と言っていたものだった。

単にフィルムからビデオに変わるだけで、時代劇の質感は大きく変わってしまい、見るものの受け取る印象も致命的なダメージを受けるものだと、この時つくづくと感じたのであった。
それに主人公の黄門様を演じる役者も「?」なのであった。
西村晃までは許せるとして、佐野浅夫、石坂浩二、そして現在の里見浩太朗と変遷するにつけ、チャンネルを合わす気もなくなってしまったのも、これまた確かなのであった。
佐野浅夫は主人公をはれる役者さんではなかったし、石坂浩二は大衆時代劇がマッチせず、里見浩太朗は水戸黄門を演じても「松平長七郎」のイメージを払拭することはできなかった。
石坂浩二は大河ドラマで柳沢吉保のような役を演じるとぴったりとくるのだが、石坂黄門様はホームドラマの黄門様。
里見浩太朗の黄門様は年取った長七郎意外の何者でもなかったのだ。

だからといって、時代劇が衰退してしまうとは思えない証拠もある。

というのも、映画は一時期時代劇がほとんど姿を消してしまうという時期があったものの、今では時代劇は一つのジャンルとしてきっちりと確立し、海外でも認められている。
また、テレビ時代劇も「鬼平犯科帳」のように主人公を演じる役者が人間国宝になるようなドラマは、原作が尽きてしまっても未だにリメイクを繰り返し季節放送のドラマとして脈々と続いているものもあるくらいなのだ。

この二者に共通するのは「リアルさがある本格的なドラマ」であるということだ。
決まったパターンで、「なんで印籠なんかで土下座するの?」と現在の価値観ではなかなか理解の難しい、というか冷静に考えてみれば江戸時代であっても、どこの馬の骨かわからない旅人一行が印籠見せただけで「徳川光圀」と認識するのには無理がある。
そんな時代劇が続くほうがどうかしているのかもわからない。

「水戸黄門」「暴れん坊将軍」「遠山の金さん」などは、いまCSで再放送されているのを度々目にするが、面白いのは面白いが、「それがどうしたの?」と云われれば、どうしようもないドラマでもある。
これに対して「鬼平犯科帳」「剣客商売」「大江戸捜査網」「新選組血風録」なんてドラマは形にはまらない人情があり、活劇があり、いつも新鮮な風を心に吹き込んでくれる。
こう考えると、これからの時代劇は、「時代劇の終了」ではなく、もっと内容にこだわった、質の高い時代劇として生まれ変わり、生き残っていくのだろう。

ただ、水戸黄門のよう形の決まった「クサイ」ドラマは数年後に韓流ドラマとなって蘇ってくる確率が高く、今後の注目されるところではある。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )