平ねぎ数理工学研究所ブログ

意志は固く頭は柔らかく

戊辰戦争における長州テロリストたちの残虐非道の行為

2022-04-08 10:20:33 | 安倍晋三

追記 2022.04.08

ロシア兵の残虐行為が問題になっていますね。
なぜこのようなことが起きるかというと、理由は二つあると思います。
一つは、戦争の目的がはっきりしないことです。
二つ目は、兵士の訓練不足です。
戦闘目的不明の戦場に訓練不足の兵士を放つと、彼らは野獣の群れと変りないので何でもやりますよ。
戊辰戦争も南京攻略もそうですよ。どちらも目的がはっきりしないんです。そして兵士の訓練不足です。

笠原十九司:南京事件、岩波新書、pp.64-65
いずれも、陸軍中央が予期も準備もしなかった日中全面戦争の開始によって、急遽、予備役兵を招集して
臨時の特設師団を編成し、軍隊の装備も将兵の訓練・教育も不十分なままに、上海攻略戦に派兵、投入した
にわか作りの部隊であったことが根本的な要因になっていたのである。 

記 2018.03.04

長州テロリストたちが二本松藩や会津藩に対して行った鬼畜にも劣る残虐非道の行為について書きます。 

(つづく)

明治政府を作った長州下級武士たちはISによく似ている。どちらもテロリストなのだ。
長州テロリストは国家を私物化するために天皇を利用した。天皇に対する尊崇の念など欠片もない。
これは禁門の変をみれば明らかだ。孝明天皇の居住する御所を砲撃し「朝敵」の烙印を押されているのだ。
孝明天皇崩御直後に14歳の明治天皇を担いだのは国の支配に利用しやすかったからだ。
ISはその支配地域で略奪や強姦を繰り返し、住民に塗炭の苦しみを与えた。
この点においても長州テロリストとよく似ている。長州テロリストは会津において悪事の限りを尽くした。

 原田伊織:明治維新という過ち、毎日ワンズ、より引用する。

「先の戦争」といえば戦後日本では「大東亜戦争」のことを指すが、
近年まで会津では「戦争」といえばそれは「会津戦争」のことを意味した。
それは、会津自身が総力戦を展開したことによる幾多の悲劇を味わったことによるだけでなく、
長州・薩摩、そして土佐の、特に長州人による信じられないような非道な、残虐極まりない蛮行に大きな原因がある。
籠城戦が終った会津城下、領内で長州藩兵などが行った、とても人間が行ったとは考えられない残虐非道な行為の記憶は、
簡単には消えないものである。

昭和六十一年、長州・萩市が「もう百二十年も経ったので」
として議会決議をして会津若松市と友好都市関係の締結を申し入れたが、
会津は「まだ百二十年しか経っていない」としてこれを拒絶した。当然であろう。
「始末」は、まだ済んでいないのだ。「始末」とはどういうことかについては、紙幅があれば後で触れたい。
筆にすることも気が重いが、長州が「奥羽鎮撫」の名において、
「官軍」の名において行った数々の醜悪な犯罪のごく一部に触れておく。

 <中略>

また、終戦直後、西軍の兵は戦死した藩士の衣服を剥ぎ取り、男根を切り取ってそれを死体の口に咥えさせて興じたという。
更には、少年たちの睾丸を抜くということもやった。
何という暴虐か。これを行った西軍兵は、確実に武士階級ではなかったはずだ。
心までもが下賤な人非人、外道というべきであろう。
しかし、彼らは日本の近代を切り開いたとされている「官軍」の兵なのだ。
死体の処理がまたむごい。
大きな穴を掘って、筵や風呂桶に死体をぎゅうぎゅう詰めにし、まるでごみのように穴に投げ入れたという。
これを徴用した「賤民」(約七百名強)にやらせた。そして、この穴を「罪人塚」と呼び、あくまで埋葬とは区別したのである。
更にむごいことに、この処理に敗れた会津藩士約二十名を立ち会わせたのである。

 「会津に処女なし」という言葉がある。
会津の女性は、ことごとく長州奇兵隊を中心とした西軍のならず者に強姦されたということをいっている。
前出の、会津戦争史を多面的に検証されている会津歴史研究会の井上昌威氏が、
「会津人群像二十六号」に「会津にある小梅塚」と題する一文を寄せておられる。
氏は、膨大な文献を調査するだけでなく、会津各地に伝わる伝承、遺跡なども地道に調査し、
会津戦争の実態を立体的に整理されている点で、その成果は高く評価されるべきである。
会津領内の女性が如何に残酷な被害を受けたかについては、この井上氏の検証結果を参考にさせていただく。
山縣有朋が連れ込んだ奇兵隊や人足たちのならず者集団は、山縣が新発田へ去っていたこともあって全く統制がとれておらず、
余計にやりたい放題を繰り返す無秩序集団となっていた。
女と金品を求めて村々を荒らし回ったのである。
彼らは、徒党を組んで「山狩り」と称して村人や藩士の家族が避難している山々を巡り、強盗、婦女暴行を繰り返した。
集団で女性を強姦、つまり輪姦して、時にはなぶり殺す。
家族のみている前で娘を輪姦するということも平然と行い、家族が抵抗すると撃ち殺す。
中には、八歳、十歳の女の子が陵辱されたという例が存在するという。
高齢の女性も犠牲となり、事が済むと裸にして池に投げ捨てられたこともあった。
要するに、奇兵隊の連中にとっては女性なら誰でも、何歳でもよかったのである。
坂下、新鶴、高田、塩川周辺では、戦後、犯された約百人に及ぶ娘・子供のほとんどが妊娠していた。
医者は可能な限り堕胎をしたが、それによって死亡した娘もいたという。
月が満ちて生まれてきた赤子は、奇兵隊の誰の子かも分からない。
村人たちは赤子を寺の脇に穴を掘って埋め、小さな塚を作って小石を載せて目印にしたのである。
村人は、これを「小梅塚」とか「小塚」と呼んだ。
乳が張ってきた娘や子供は、自分の「小塚梅」に乳を搾り与えて涙を流していたという。
井上氏は、実際にこの被害に遭った八歳の女児の末裔の方にお会いして直接話を聞くなど、
各地を回って伝承や記録を精査されて、奇兵隊の蛮行の一部を明らかにされたのである。
これらを、「人道に対する犯罪」といわずして何というのか。
もはやこれ以上は、書く気にもなれない。

(つづく)

吉田松陰というウソ

私どもの世代が受け、現在も脈々として続いている「官軍教育」の中で、「吉田松陰」という存在は
その代表的な偽りである。今も信じられている吉田松陰像とは、大ウソであると断じていい。
維新の志士を多数輩出した松下村塾の主宰者にして、維新の精神的支柱となった偉大な思想家、教育者
であり、正義を貫き「安政の大獄」の犠牲となった悲劇の主人公。
これが、私どもが学校教育、即ち公教育によって教え込まれた吉田松陰である。
実像は全く違う。
ひと言でいえば、松陰とは単なる、乱暴者の多い長州人の中でも特に過激な若者の一人に過ぎない。
若造といえばいいだろうか。今風にいえば、東京から遠く離れた地方都市の悪ガキといったところで、
何度注意しても暴走族を止めないのでしょっ引かれただけの男である。ただ、仲間うちでは知恵のまわる
ところがあって、リーダーを気取っていた。といっても、思想家、教育者などとはほど遠く、それは
明治が成立してから山縣有朋などがでっち上げた虚像である。長州藩自身がこの男にはほとほと手を焼き、
遂には士籍を剥奪、家禄を没収している。つまり、武士の資格がないとみられたはみ出し者であった。

(つづく)

2018.01.04 追記
坂本龍馬について

例えば、私の大学の大先輩・故司馬遼太郎氏の著作に「竜馬がゆく」という作品がある。改めていうまでも
ないが、これは司馬さんの小説である。つまり、フィクションである。だからこそ、司馬さんは「龍馬」
とせず、敢えて「竜馬」とした。つまり、論理的にいえば「坂本龍馬」という土佐の郷士崩れのような男と
「坂本竜馬」は別であって、司馬さん自身がそのことを十分意識しているということなのだ。勿論、歴史上
の人物なり事象を小説という形にする時は、それはそれで別の有効な作用が働くことがある。司馬さんは、
ご自身が認める通り”龍馬ファン”である。私は龍馬が好きで、好きで、とあちこちの書き物で”弁明”に努め
ている。頭を掻き掻き、照れ笑いをしている司馬さんが目に浮かぶような調子なのだ。

中略

坂本龍馬という男は長崎・グラバー商会の”営業マン”的な存在であったようだ。薩摩藩に武器弾薬を買わせ、
それを長州に転売することができれば、彼にとってもメリットがある。グラバー商会とは、清国でアヘン
戦争を推進して中国侵略を展開した中心勢力ジャーディン・マセソン社の長崎(日本)代理店である。
この存在が「薩長同盟」の背景に厳然とある。朝敵となった長州は武器が欲しい。薩摩は米が欲しい……
この相互メリットをグラバー商会が繋いだ。薩摩は永年密貿易の経験があり、長州は口では「攘夷断行!」
と喚いてはいたが、既に秘密留学生(井上聞多、伊藤俊輔がこれに含まれている)を送り出していたほど
共に幕府の禁令を無視する存在であった。つまり、薩摩小松帯刀、長州桂小五郎が重視したのはグラバー
商会であって、グラバー商会の利益を図る龍馬が「薩長同盟」に立ち会うようになったのは極めて自然な
経緯ではなかったか。私は、そう考えている。盟約書の裏書は、第三者なら誰でもいいわけで、それが
グラバー商会の意向を反映する人物、この同盟の目的からみても、あれほど憎しみ合った長州と薩摩双方
とも納得できるはずだ。単なる一人の脱藩浪士なら、その人物を個人としてどれだけ評価したとしても、
潜在的に討幕の意思をもち続けてきた外様二大雄藩が、藩の命運を託することなどありようがないのだ。
尤も、龍馬とグラバー商会との関係から最近では龍馬=フリーメイソン説が出ているが、それは”図に乗
り過ぎ”というものであろう。いずれにしても、坂本龍馬とは、日本侵略を企図していた国の手先・グラ
バー商会の、そのまた手先であったということだ。

(つづく)

追記 2018.01.24 

会津の人たちは決して忘れていない。

 

 

 

 

追記 2018.02.05

真実は会津にある。

追記 2018.02.07

明治維新150年より「戊辰」

 

追記 2018.03.19

籠池氏は赤報隊に似てますね。
安倍に尽くした挙句、拘置所にぶち込まれ、7ヶ月経っても出して貰えない。
でも、安倍と西郷は同じ悪党でも頭の組み立てが大違い。
西郷はとても頭がよい。安倍は救い難いアンポンタン 


コメント転載

赤報隊と西郷  2018-01-25 13:05:54
赤報隊は幕末に王政復古を得て長州藩、薩摩藩によって結成された東山道鎮撫総督指揮下の一部隊である。
島津藩の西郷隆盛や公家の岩倉具視が中心になって金剛輪寺で結成された。
隊長は相楽総三で公家の綾小俊実、滋野井公寿らを盟主とし擁立し、近在の勤王の志士を募り、旗揚げした。

赤報隊には別働隊(第2隊、第3隊)も存在した。
相楽総三は薩摩藩邸の浪士隊の総裁として、西郷隆盛や大久保利通と連絡を取りつつ、下野、相模、江戸市内にて押し込み強盗などをし、
旧幕府軍を挑発し江戸薩摩藩焼き討ち事件を起こさせて、上方に先立って江戸で戦闘を起こした。
これが鳥羽伏見の戦いのきっかけにもなったと言われる。
実際、相楽は旧幕府が新政府に反乱を起こすよう仕向ける挑発的行動を西郷隆盛より任され、関東、江戸で撹乱作戦を行った。
強盗や傷害事件を関東、江戸で起こさせ、江戸を騒擾させ、まんまと西郷の策にのり、

怒った幕府側は鳥羽伏見の戦いを起こして、歴史が大きく薩摩、長州の方に傾くきっかけとなった。
戊辰戦争で江戸へ攻め上っていく東進に際し、相楽は先鋒となって攻めた。
この時、相模は旧幕府の所領は天皇の領地になるので年貢は半額になると先々で布告し、民衆の支持を集めたが、
赤報隊の他の隊が規律を守らず押し込み強盗を行ったため、評判が悪く、京に呼び戻された。

しかし他の隊は帰ったが、相楽は帰らず独断で、軍令に背いて進軍した。
相楽隊の軍令違反を新政府は苦々しく思っていたが、新政府が最も恐れていたのは年貢を半減するという布告であった。
新政府は年貢を半減するという布告を初期に出したが、情勢が官軍に圧倒的に有利とわかると、
庶民の人気を集める必要もないということで、さっさと引っ込めてしまった。

本当に信じられると厄介なことになる。
最初は良かれと扇動してやっていたことが、逆に新政府の汚点になりつつあった。

そこで新政府は偽官軍の汚名を着せ、赤報隊を徹底的に取り締まることとした。
その結果、相楽は同志とともに天朝に背く逆賊として囚われ、なんの取り調べもなしに処刑され、首を街道にさらされた。
罪状は官軍を装って強盗無頼を働いたというものであった。

こうして赤報隊は都合のいいように使われ、用なしになると抹殺されてしまった。
赤報隊は結成からわずか2ヶ月という短い歴史で幕を閉じた。

しかし太政官から官軍先鋒のお墨付きをもらっていたこともあり、昭和に入って赤報隊の名誉が回復された。
組織の下っ端はいつも都合のいいように煽てられて、使われ、都合が悪くなると失敗の責任を押し付けられ断罪される。
いつの世もこの法則は変わらない。赤報隊もその典型的な例であった。

西郷にいいように使われて捨てられた哀れな赤報隊。
赤報隊を名乗る右翼がいるけれど歴史を知らないのだろうね。 

追記 2018.03.04

西郷隆盛について、「明治維新という過ち」より引用。

西郷は、岩倉具視の了承を得て、「赤報隊」という部隊を組織した。隊長は、相楽総三。
この部隊は、一番隊、二番隊、三番隊から成り、一番隊が相楽を隊長とする相楽の以前からの同志たちが中核を成す部隊で、
これが赤報隊の中心である。二番隊は、新撰組を離脱した御陵衛士が中核を成していた。
御陵衛士は、こんなところに生きていたのである。八十年代以降の新撰組ブームの中で新撰組を知った人なら、
この悲劇集団のことを知っている人も多いことだろう。三番隊は、近江出身者が中心となった。主に近江・水口藩士である。
赤報隊が、正式に組織されたのは年が明けた慶応四年だが、その前に西郷は相楽たちに命じた。
打ち手を失いつつあった長州・薩摩の”重石”のような存在であった西郷は、相楽たちに何を命じたのか。
江戸において、旗本・御家人を中心とする幕臣や佐幕派諸藩を挑発することである。
挑発といえばまだ聞こえがいいが、あからさまにいえば、放火・略奪・強姦・強殺である。
倫理観の強かった江戸社会においてはもっとも罪の重かった蛮行を、繰り返すことであった。
何せ毎夜のように、鉄砲までもった無頼の徒が徒党を組んで江戸の商家へ押し入るのである。
日本橋の公儀御用達播磨屋、蔵前の札差伊勢屋、本郷の老舗高崎屋といった大店が次々とやられ、家人や近隣の住民が惨殺されたりした。
そして必ず三田の薩摩藩邸に逃げ込む。江戸の市民は、このテロ集団を「薩摩御用盗」と呼んで恐れた。
夜の江戸市中からは人が消えたという。
遂に幕府は、庄内藩江戸市中取締を命じたのである。
藩の成り立ちというものもあるが、会津藩松平容保が京都守護職を受けたことが戊辰会津戦争の悲劇に通じたように、
庄内藩が会津と共に最後まで長州・薩摩を中心とした反乱軍に抗議したのも、その端緒はこの「江戸市中取締」を拝領したことにある。
幕府高官も庄内藩も、愚かではない。時の政治状況はわきまえている。
つまり、取り締まるといっても、できるだけテロ集団を刺激しないことに留意した。
刺激しないということは、いきなり強圧的には出ないということだ。そうなると、赤報隊のテロは益々激化する。
江戸だけでなく野州、相模、甲州といった周辺地域にまでテロの標的を拡大していったのである。
そして、京で岩倉や大久保が勅許を偽造して政局が緊迫していた頃、再び江戸市中でのテロを劇化させ、遂に慶応三年十二月二十二日夜、
庄内藩屯所を銃撃するに至った。翌二十三日には、再び庄内藩士が銃撃を受ける。
この二十三日には、江戸城二の丸で放火が発生しており、これも赤報隊の仕業とされる。
これで、耐えに耐えてきた庄内藩は、堪忍袋の緒を切った。幕府も同時に切れてしまった。
老中稲葉正邦は、庄内藩、岩槻藩、鯖江藩などから成る幕府軍を編成、薩摩藩邸に攻撃を命じた。
十二月二十五日、幕府は三田の薩摩藩邸を包囲、薩摩藩が下手人の身柄引き渡しを拒否したのを受けて、遂に薩摩藩邸を砲撃した。
これが世にいう「薩摩藩邸焼き討ち」である。後に、京にいてこの報に接した西郷隆盛は、手を打って喜んだと伝わる。
自分が送り込んだ赤報隊の江戸市中での無差別テロという挑発に、幕府が乗ったのである。
これが、京都における「鳥羽伏見の戦い」のきっかけである。つまり、「戊辰戦争」のきっかけとなった。

中略

結局、京における討幕クーデターに失敗し、圧倒的に不利な立場にあった長州・薩摩勢力は、
この江戸市中での騒乱によって一気に戊辰戦争へと突っ走り、後に「明治維新」と呼ばれる政権奪取を断行してしまったのである。
西郷が送り込んだ赤報隊が、その一番の功労者ということになる。
敢えて、簡略に述べきってしまえば、これが後世「明治維新」と呼ばれた動乱の核となる部分の史実である。

 なにが「西郷どん」だ。
ただのテロリストじゃないか。

追記 2018.05.04

戊辰戦争70年後、会津を中心に編成された歩兵第65連隊は、
南京市およびその近郊で、戊辰戦争において長州テロリストが行った残虐非道の行為を超える、
人道上許されざる犯罪を中国民衆に対して行った。
これは、戊辰の悲劇とともにいつまでも記憶されなければならない。

 追記 2018.12.17

NHKの大河ドラマは止めた方がいい。
視聴者に間違った歴史観を植付けるので。
「西郷どん」は歴代の大河クソドラマの中でも最悪だ。
江戸庶民はこいつのために酷いめに遭ったのだ。
テロリストを主人公にするな。


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45 コメント

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大歓迎 (平ねぎ)
2017-11-15 16:48:47
>幕末で有名な薩長同盟を成功させた坂本龍馬の名前も。さらに、幕末の教育者、「松下村塾」で知られる吉田松陰なども挙がっているというのです。
>研究会は、実際の歴史上の役割や意味が大きくないなどとして削るとしています。
https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/ann?a=20171114-00000056-ann-soci#contents-body

坂本龍馬も吉田松陰もゴロツキやテロリストの範疇に分類されるので学ぶ価値なし
高知市民には気の毒だけど仕方ないねぇ。
返信する
龍馬の実像 (高知のマホ)
2018-01-04 00:46:34
龍馬の実像は武器商人であるグラバー商会の一介のエージェントだったという話は読んでいるけれど、もう一つ疑問なのは龍馬の女性遍歴です。恐ろしく嘘くさいのですよ。
千葉佐那とお龍の関係等特に嘘くさいのです。女をだますというか、千葉佐那という女性の弱みに付け込んでやりたい放題だったのではないかという疑問です。
司馬遼太郎は国民的作家と言われているけれど脇が甘いというか、嘘つきというか、狂信的な龍馬ファンだったということでしょうね。
 坂本龍馬の悪業が分かれば記述してください。
返信する
あれは作り話 (平ねぎ)
2018-01-04 14:22:59
司馬遼太郎の「竜馬がゆく」はフィクションですよ。
だから「龍馬」ではなく「竜馬」にしてるんです。
返信する
追記あり (平ねぎ)
2018-01-04 18:06:00
坂本龍馬について追記しました。
返信する
ああ、ここだったのね (高知のマホ)
2018-01-05 03:34:40
司馬遼太郎についてですが、彼は棚田を見て「耕して天に至る」といっています。国民の勤勉性を言いたかったのだろうけれど、わたしゃ勤勉が大嫌いで勤勉=禁便というぐらいで、勤勉=社畜の出発点なんですね。棚田は山のてっぺん近くに隠れ住んでいた平家の落人の子孫が、様子を見ながら下へ下へと降りてきた結果です。
司馬遼は小説家として本当に一流なのか疑問なのです。なぜなら、竜馬の実態を通じていろんな事を考えさせるのが一流小説家ですが、彼のそれは考えさせない、脳みそに龍馬は素晴らしいという刷り込みをしてしまうのです。
司馬は幕末から明治にかけての話が大好きです。本当は江戸が大事なのですが、彼は幕末明治病に憑りつかれているように思えてならないのです。
 小説は恐ろしいですよ。脳に刷り込みを行い、脳の中にありもしない幽霊を作ってしまうのです。
タイトルは「竜馬がいく」だったかな、あれを読んで肩で風切って龍馬になった気分でまわりを呆れさせる輩は結構いるでしょ。嗤
 龍馬はグラバーという視点から見ればもっと複眼的になって面白くなるんです。それを青春ドラマにしてしまったと思うな。笑
私は龍馬に興味があるけれど、神のようにあがめるのはどうかと思う。そういう人が結構高知にはいますよ。さしずめ高知龍馬記念館なんかが悪例です。あそこまで行くと完全な病気ですわ((´∀`))ケラケラ
返信する
複眼ドラマ (高知のマホ)
2018-01-05 03:46:41
だからわたしは、ねぎさんが書いているようなことを踏まえて、小説や演劇にするのがドラマツルギー(作劇哲学)だと思うな。
外国に行ったらアメリカでもヨーロッパでも誰も龍馬を知らない。歴史の上では龍馬ではない。西郷でも勝でもない。
ただ龍馬は近代とはどういうことかは見通していたようで、そうでなければ船中八策は作れない。といっても船中八策も別の人が作ったという話もあるからまあ、ようわからんけれどね。ただ、船中八策の元になる考えは既にあった。だからまあこれもフィクションなんでしょうね。((´∀`))ケラケラ
返信する
祟り神信仰が日本人の根っこにある (高知のマホ)
2018-01-05 04:06:47
日本には非業の最期を遂げた歴史上の人物を神のようにあがめて祟りを避けるという歴史的習性があります。聖徳太子菅原道真も織田信長も坂本龍馬も西郷隆盛も同列です。誰が祭り上げるかというとその後を引き継いだ権力者群です。
多分寝心地が悪かったというか、夢にうなされるんでしょうね。
 龍馬のことをみんなで寄ってたかって暗殺したので、英雄にしてしまって成仏しろということで、枕を高くして寝たかった。ただそれだけのことです。この習慣には日本人の生死観が色濃く出ているんですね。縄文由来の祟り神信仰です。
返信する
暗黒街のボスになりかけていた龍馬 (高知のマホ)
2018-01-05 04:18:59
龍馬は多分あのまま放置しておくと暗黒街のボスになりそうなので、寄ってたかって愚連隊の親分龍馬を殺した。薩長土肥も勝海舟もみんなグルだったのでしょう。不平士族を引き連れて北海道になんか行かれた分には明治政府はたまらんですよね。だから殺した。岩崎弥太郎もグラバーのエージェントなので当然一口咬んでいたんでしょうね。彼の日記は龍馬暗殺の前後2週間、いまだに公開されていません。
返信する
結局千葉佐那は (高知のマホ)
2018-01-05 04:40:56
龍馬は北辰一刀流の免許皆伝ですが、免許はなぎなたなんです。なぎなたの先生は誰かというと千葉佐那。二人でエイヤッとやっているうちにうまく千葉佐那を篭絡してしまったというのが実態でしょう。
女としてはお龍のほうがずっと良かった。で、愚連隊龍馬はさっさとヤンキーお龍に乗り換えて、さっそうと鹿児島くんだりまで遊びに行ってしまった。
 ただ、愚連隊の親分ってやんちゃなところがあるでしょ。それが魅力的だったんじゃないかな。その魅力に千葉佐那も司馬遼太郎もコロッとやられちまうんでしょうね。嗤
返信する
フリーメイソンとは面白い (高知のマホ)
2018-01-06 05:24:31
フリーメイソンは「自由」、「平等」、「友愛」、「寛容」、「人道」の5つの基本理念があるとのことだけれど、もしそうなら、活動資金の出どころも納得できるし、多くの女性が龍馬を愛し、かわいがったのも理解できるね。男尊女卑がひどかった当時の日本で、自由平等と言われてしびれない女性はおらんでしょ。
最初はグラバーの手先だったけれどある時点からフリーメイソンになったというのが実態かもしれませんね。
返信する

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