平ねぎ数理工学研究所ブログ

意志は固く頭は柔らかく

田中正造(6)

2009-07-17 21:32:05 | 田中正造
最後の議会
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質問の理由に関し演説要求 明治34年3月25日

○田中正造君(二百三十九番) 私ハ緊急ニ、一ツ御願申シタイコトガゴザイマス、此今日ノ答弁書ヲ表向ニ御披露ガゴザイマセヌカラ、アチラノ書記ノ室ヘ往ッテ見マシテ、農商務省ノ答弁書ヲ二三箇条見マシタケレドモ、存外不埒千万ナル、此有名ナル誰モ知ラナイ者ハナイ渡良瀬川ノ魚ガ、一尾モ減ラナイト云ウコトガ明記シテアル、農商務省ノ大泥棒奴ガ、盗人野郎共ガ、昨日私ガ申上ゲマシタ通、古河市兵衛ノ番頭ニ書イテ貰ッテ出シタル答弁ダニ依ッテ、之ヲ表向ニ披露スルコトガ出来ナイト云フコトヲ、私ハ発見致シマシタノデゴザイマス、デゴザイマスカラシテ、モウ斯ノ如キ、此国賊――国賊ガ今日政府ヲ取ッテ居ルト云フコトガ、愈々分リマシタ以上ト云フモノハ、其事ニ決心シナケレバナラヌノデゴザイマスル、殊ニ此国賊ヲ懐手ヲシテ、国家ノ田畑ヲ悪クシタ野郎ヲ、従五位ニ進メルヤウナ、此大泥棒野郎ガ――大泥棒野郎ガ……

  《「議長何ゼ議場ヲ整理シマセヌ」又「退場ヲ命ズベシ」ト呼ブ者アリ議場騒然》

○田中正造君(二百三十九番) 大泥棒野郎ガ、国家ニ……

○議長(片岡健吉君) 田中君――田中君――御黙リナサイ、アナタノ発言ハ要領ヲ得ナイ、簡短ニ要領ヲ仰ッシャイ

○田中正造君(二百三十九番) サウ云フ訳デアリマスカラ、政府ヘ質問書ヲ差出シタルモノニ就イテ、演説ヲ致シタウゴザイマス

○議長(片岡健吉君) ソレデハ議場ニ諮ラナイト、許スコトガ出来マセヌ

○田中正造君(二百三十九番) 議場ノ妨ニナラナイヤウニ、議長ニ於テ御取計ヲ願ヒマス

○議長(片岡健吉君) 今休会ノ前ニ引続イテ、此会ヲ開キマシタノハ、本院ヨリ貴族院ニ送ルベキ案ハ今アリマセヌ、又貴族院トモ交渉ヲシマシタガ、唯今貴族院カラコチラニ送付ニナルベキ案モナイト申スコトデアリマスカラ、是デ議事ハモウ終了ト看做スト云ウコトニ就イテ、御異議ガナイカト云ウコトヲ諮ラウト思ッテ居リマシタ、然ルニ田中君カラ今質問ノ演説ヲシタイト云ウコトデゴザイマスガ、之ヲ許スコトニ御異議アリマセヌカ

  《「許ス必要ナシ」ト呼ブ者アリ》

○星亮君(二百四十一番) 是デ閉会ヲ願ヒマス

○議長(片岡健吉君) 起立ニ諮ヒマス、田中君ノ演説ヲ許サウト云ウ御方ノ起立ヲ請ヒマス

起立者 少数

○議長(片岡健吉君) 少数ト認メマス――ソレデハ諸君ニ一言致シマス……

  《田中正造君星亮君ニ向ヒ「何ゼ君ハ人ノ邪魔ヲスルノダ、何ンデサウ云ウ不穏当ナコトヲスルノダ、怪シカラヌヤツダ」ト呼ブ、又「退場ヲ命ズベシ」ト呼ブ者アリ》

○議長(片岡健吉君) 田中正造君、発言ヲ許シマセヌ――静カニナサイ――第十五回帝国議会モ本日ヲ以テ終了ヲ告ゲタノデゴザイマスル、衆議院ニ於テハ停会ノ日数、議案ノ都合ニ依リマシテ、休会ヲ致シタル日数ヲ除キマシテ、会議ヲ開キマシタノガ二十日間デアリマス、此間ニ於テ(田中正造君「後トハ何ヲシテ居ッタ」ト呼ブ)政府ハ北清戦役ノタメ、並ビニ財政ヲ鞏固ニスルタメニ、増税案ヲ提出セラレタデアリマシタガ、本会ノ多数ハ国家必要ト之ヲ認メテ、可決シタノデアリマスル

 ―後略―

〔明治三十四年三月二十五日衆議院議事速記録第二十号、議長ノ報告〕
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「田中正造全集」第八巻、岩波書店

田中正造(5)

2009-07-16 21:05:36 | 田中正造

謹奏
                              
草莽ノ微臣田中正造誠恐誠惶頓首頓首謹ミテ奏ス 伏シテ惟ルニ臣田間ノ匹夫敢テ規ヲ踰エ法ヲ犯シテ
鳳駕ニ近前スル其罪実ニ万死ニ当レリ 而モ甘ンジテ之ヲ為ス所以ノモノハ洵ニ家国民生ノ為ニ図リテ 一片ノ耿々竟ニ忍ブ能ハザルモノアレバナリ 伏シテ望ムラクハ
陛下深仁深慈臣ガ狂愚ヲ憐ミテ 少ラク乙夜ノ覧ヲ垂レ給ハンコトヲ

伏シテ惟ルニ東京ノ北四十里ニシテ足尾銅山アリ 其採鉱製銅ノ際ニ生ズル所ノ毒屑毒水 久シク澗谷ヲ埋メ渓流ニ注ギ渡良瀬川ニ奔下シ沿岸皆其毒ヲ被ラザルナシ 而シテ鉱業ノ発達スルニ従ッテ流毒益々多ク 加フルニ此年山林ヲ濫伐シ水源ヲ赤土トナセルガ故ニ河身変ジテ洪水頻リニ臻リ 毒流四方ニ犯濫シテ毒屑ノ浸潤セル茨城栃木群馬埼玉四県及ビ其下流ノ地数十万町歩ニ達シ 魚族斃死シ田園荒廃シ数十万ノ人民産ヲ失ヒ業ニ離レ飢テ食無ク病デ薬無ク老幼ハ溝壑ニ転ジ壮者ハ去ッテ他国ニ流離セリ 如此ニシテ廿年前ノ肥田沃土ハ今ヤ化シテ黄茅白葦満目惨憺ノ荒野トナレリ

臣夙ニ鉱毒ノ禍害ノ滔々底止スル所ナキト民人ノ疾苦其極ニ達セルヲ見テ憂悶手足ヲ措クニ処ナシ 嚮ニ選レテ衆議院議員トナルヤ第二議会ノ時其状ヲ具シテ政府ニ質ス所アリ 爾後毎議会ニ於テ大声疾呼其極救ノ策ヲ求ムル茲ニ十年 而モ政府ノ当局ハ常ニ言ヲ左右ニ托シテ絶テ之ガ適当ノ措置ヲ施スナシ 而シテ地方牧民ノ職ニアルモノ亦恬トシテ省ミズ 甚シキハ即チ人民ノ窮苦ニ堪ヘズ 群起シテ其保護ヲ請願スルヤ有司ハ警官ヲ派シテ之ヲ圧抑シ誣テ兇徒ト称シテ獄ニ投ズルニ至ル 而シテ其極ヤ現時ニ在テハ国庫収ムル所ノ租税数十万円ヲ減ジ 人民ノ公民ノ権利ヲ奪ハルゝモノ算ナクシテ町村ノ自治全ク頽廃セラレ飢餓疾病及ビ毒ニ中リテ死スルモノ年々多キヲ加フ

陛下不世出ノ質ヲ以テ列聖ノ余烈ヲ紹ギ 徳四海ニ溢レ威八紘ニ展ベ億兆昇平ヲ謳歌セザルナシ 而モ
輦轂ノ下ヲ去ル甚ダ遠カラズシテ 数十万無告ノ窮民空シク雨露ノ沢ヲ希フテ昊天ニ号泣スルヲ見ル 嗚呼是レ聖代ノ一汚点ニアラズト謂ワンヤ 而シテ其責ヤ実ニ政府当局ノ怠慢曠職ニシテ上ハ陛下ノ聡明ヲ壅蔽シ下ハ家国民生ヲ以テ念トナサヾルニ因ラズンバアラズ 嗚呼四県ノ地亦
陛下ノ一家ニアラズヤ 四県ノ民亦
陛下ノ赤子ニアラズヤ 政府当局ガ
陛下ノ地ト人トヲ把テ此悲境ニ陥ラシメテ豪モ省ミルナキモノ 是レ臣ノ黙視スル能ハザル所ナリ

伏シテ惟ルニ政府当局者ヲシテ能ク其責ヲ竭サシメテ 以テ陛下ノ赤子ヲシテ日月ノ光被セシムル所以ノ途他ナシ 渡良瀬ノ水源ヲ清ムル其一ナリ 破壊セル河身ヲ修築シテ其天然ノ旧ニ復スル其二ナリ 激甚ナル毒土ヲ除去スル其三ナリ 沿岸無量ノ天産ヲ復活スル其四ナリ 頽廃セル多数町村ヲ恢復スル其五ナリ 加毒ノ鉱業ヲ止メ而シテ毒水毒屑ノ流出ヲ根絶スル其六ナリ

此処ニシテ数十万生霊ノ死命ヲ救ヒ居住相続ノ基ヲ回復シ其人口ノ減耗ヲ防遏シ且ツ我日本帝国憲法及ビ法律ヲ正当ニ実行シテ各其権利ヲ保持セシメ更ニ将来国家ノ基礎タル無量ノ勢力及ビ富財ノ損失ヲ断絶スルヲ得ベケン也 若シ然ラズシテ長ク毒水ノ横流ニ任セバ臣ハ恐ル其禍ノ及ブ所将ニ測ル可カラザルモノアランコトヲ

臣歳六十一 而シテ労病日ニ迫ル念フニ余命幾許モナシ 唯万一ノ報効ヲ期シテ一身ヲ以ッテ利害ヲ計ラズ故ニ鉄鉞ノ誅ヲ冒シテ以テ聞ス 情切ニ事急ニシテ涕泣言フ所ヲ知ラズ
伏シテ望ムラクハ
聖明矜察ヲ垂レ給ハンコトヲ 臣痛絶呼号ノ至リニ任フルナシ

明治三十四年十二月十日

                                      草莽微臣田中正造誠恐誠惶頓首頓首


田中正造(4)

2009-07-15 22:33:37 | 田中正造
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翁の没後、僕は直訴状の本物を見たいと思った。幸徳の書いた上へ翁が筆を入れた本物を見たいと思った。
何処にか存在するに相違ないと、窃に心当たりを尋ねて居ると、それが一度田中家の幼女になったことのある、翁の実の姪に当る原田武子さんが持って居ることがわかった。
美濃半紙に表装して巻物になって居る。筆者を偲んでその肉筆に対すると、見ただけで、胸に熱気が動く。

「草莽の微臣田中正造、誠恐誠惶、頓首頓首、謹みて奏す。伏て惟るに、臣田間の匹夫、敢て規を踰へ法を犯して鳳駕に近前する其罪実に万死に当れり、― 伏て望むらくは、陛下深仁深慈、臣が狂愚を憐れみて、少しく乙夜の覧を垂れ給はん事を」

これが冒頭の原文だ。すると、翁の神経にこの「狂愚」の一語が触れたものと見え、狂の一字を墨で消して「至愚」と修正してある。
これを見て僕は様々な事を思ひ出した。
翁が始めて直訴を行った時、世間はこの事件の成行を懸念して重大視した。然るにたヾ一夜警察署に泊まったのみで、翌日翁は仔細なく開放された。世間は再びその案外の軽易に驚いた。
これは政府側の熟慮の結果で、「狂人」として取扱ったものだ。以後、田中正造の言行一切が「狂人」として無視されることになってしまった。
『政府の野郎、この田中を狂人にしてしまやがった』
と言って、翁は、笑ふにも笑はれず怒るにも怒られず、その奸智に嘆息されたことを、僕は覚えて居る。
僕は翁の直訴には終始賛成することが出来なかったが、その行き届いた用意を聴くに及んで、深き敬意を抱くやうになった。

『若し天皇のお手元へ直接差出すだけならば、好い機会が幾らもある。議会の開院式の時に行えば、何の造作も無い事だ。然しながら、議員の身でそれを行ったでは、議員の職責を侮辱すると云ふものだ』

翁は粛然として曾てかう語った。
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(木下尚江:神・人間・自由/木下尚江集、筑摩書房)

田中正造(3)

2009-07-14 20:13:22 | 田中正造
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直訴に就いては、僕は恰も知らないやうな顔をして過ぎて居たが、十年を経て幸徳も既に世に居なくなった後、或時、僕は始めて翁に「直訴状」の事を問うて見た。
それは、幸徳の筆として世上に流布された直訴状の文章が、大分壊れて居て、幸徳が頗る気にして居たことを思ひ出したからだ。例へば、鉱毒被害の惨状を説明した幸徳の原文には

「魚族斃死し、田園荒廃し、数十万の人民、産を失ひ業に離れ、飢えて食なく病で薬なく、老幼は溝壑に転じ、壮者は去て他国に流離せり。如此にして二十年前の肥田沃土は、今や化して黄茅白葦満目惨憺の荒野となれり」

如何にも幸徳の筆で、立派な文章だ。ところが、世上に流布されて居るものは、

「魚族斃死し、田園荒廃し、数十万の人民の中、産を失へるあり、或は業に離れ、飢えて食なく病で薬なきあり - 今や化して黄茅白葦満目惨憺の荒野となれるあり」

かうなって居る。
あの当日、毎日新聞社のヴェランダで、三人で語った時にも、幸徳は通信社の印刷物を手にしながら、『黄茅白葦満目惨憺の荒野となれるあり、では、君、文章にならぬぢゃないか』と、如何にもナサケなげな顔をして言うた。これは翁が自ら手を入れたものに相違ない。僕はそれを知りたかったのだ。

翁の物語で、いろいろの事情が明白になった。翁は、先ず直訴状依頼の当夜のことから語った。翁が鉱毒地の惨状、その由来、解決の要求希望、すべて熱心に物語るのを、幸徳は片手を懐中にし、片手に火箸で火鉢の灰を弄ぶりながら、折々フウンフウンと鼻で返事をするばかり、如何にも気の無ささうな態度で聞いて居る。翁は甚だ不安に感じたさうだ。自分の言うことが、この人の頭に入ったかどうか、頗る不安に感じたさうだ。
偖て翌朝幸徳から書面を受け取る。直ぐに車で日比谷に入った。時が早いので、衆議院議員の官舎に入った。この日は開院式の為に、議長官舎は無人で閑寂だ。翁は応接室の扉を閉ぢて、始めて懐中から書面を取り出して読んで見た。前後自分の言うた意思が、良い文章になって悉く書いてある。
『良い頭だ』
と言うて、翁は往時を回顧して、深く感嘆した。

「伏して惟るに、政府当局をして能く其責を竭さしめ、以って陛下の赤子をして日月の恩に光被せしむるの途他なし。渡良瀬河の水源を清むる其一なり。河身を修築して其の天然の旧に復する其二なり。激甚の毒土を除去する其三なり。沿岸無量の天産を復活する其四なり。多数町村の頽廃せるものを恢復する其五なり。加毒の鉱業を止め毒水毒屑の流出を根絶する其六なり。
如此にして数十万生霊の死命を救ひ、居住相続の基を回復し、其人口の減耗を防遏し、且つ我日本帝国憲法及び法律を正当に実行して各其権利を保持せしめ、更に将来国家の基礎たる無量の勢力及び富財の損失を断絶するを得べけん也。若し然らずして長く毒水の横流に任せば、臣は恐る、其禍の及ぶ所将に測るべからざるものあらんことを」

これが直訴の要領だ。けれど、文章の上に翁の意を満たさない箇所がある。そこで筆を執って添削を始めた。鉱毒地は広い。被害民は多い。鉱毒の激烈な処もあれば、希薄な処もある。黄茅白葦満目惨憺の荒野となれる処もあれば、それ程にまでならぬ処もある。直訴という以上、その区別を明らかにせねばならぬ。

『嘘をついちゃ、いけねェ』

かう言って、翁は頭を振った。
文章の添削が未だ済まぬ所へ、予ねて頼んで置いた官舎の給仕が、ドアを明けて、御還幸を告げて呉れたので、未完成のまゝに携えて直ぐに駆け出したのださうである。
『いやはや』
と言うて、翁は両手で頭を叩いた。
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(木下尚江:神・人間・自由/木下尚江集、筑摩書房)

田中正造(2)

2009-07-13 20:46:08 | 田中正造
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明治三十四年十二月十日。
この日、僕が毎日新聞の編輯室に居ると、一人の若い記者が顔色を変えて飛び込んで来た。
『今、田中正造が日比谷で直訴をした』
居合わせた人々から、異口同音に質問が突発した。
『田中はドゥした』
『田中は無事だ。多勢の警官に囲まれて、直ぐ警察署につれて行かれた』
翁の直訴と聞いて、僕は覚えず言語に尽くせぬ不快を感じた。寧ろ侮辱を感じた。やがて石川半山君が議会から帰って来た。開院式に参列したので、燕尾服に絹帽だ。僕は石川と応接室のヴェランダへ出て、直訴に対する感想を語り合った。
通信社からは、間もなく直訴状を報道して来た。引きつヾき、直訴状の筆者が万朝報の記者幸徳秋水であることを報道して来た。直訴状というものを読んで見ると、成程幸徳の文章だ。
『幸徳が書くとは何事か』
僕は堪え得ずして遂にかう罵った。
『まァ、然う怒るな』
と言って、石川は僕の心を撫でるやうに努めて呉れたが、僕は重ねがさねの不愉快に、身を転じて空しく街道を見下して居た。銀座の大道を、その頃は未だ鉄道馬車が走って居た。
『やァ』と、石川が出しぬけに大きな声を立てたので、僕は思わず振り向いて見ると応接室の入口の小暗い処に幸徳が立って居る。
『君らに叱られに来た』
かう言うて、幸徳は躊躇して居る。
『叱るどころじゃ無い、よく書いてやった』
石川は燕尾服の腹を突き出して、かう言った。
『然うかねェ』
と言ひながら、幸徳は始めて応接室を抜けて僕らの間に立った。でッぷり肥えた石川、細長い僕、細くて短い幸徳、恰も不揃いの鼎の足のやうに、三人狭いヴェランダに立った。僕は口を結んだまゝ、ただ目で挨拶した。
幸徳は徐ろに直訴状執筆の始末を語った。
昨夜々更けて、翁は麻布宮村町の幸徳の門を叩き起こした。それから、鉱毒問題に対する最後の道として、一身を棄てゝも直訴に及ぶの苦衷を物語り、これが奏状は余の儀と違ひ、文章の間に粗漏欠礼の事などありてはならぬ故、事情斟酌の上、筆労を煩わす次第を懇談に及んだ。― 幸徳の話を聴いて居ると、黒木綿の羽織毛襦子の袴、六十一歳の翁が、深夜灯火に肝胆を語る慇懃の姿が自然に判然と浮んで見える。
『直訴状など誰だって厭だ。けれど君、多年の苦闘に疲れ果てた、あの老体を見ては、厭だと言うて振り切ることが出来るか』
かう言ひながら幸徳は斜めに見上げて僕を睨んだ。翁を返して、幸徳は徹夜して筆を執った。今朝芝口の旅館を尋ねると、翁は既に身支度を調へて居り、幸徳の手から奏状を受取ると、黙ってそれを深く懐中し、用意の車に乗って日比谷に急がせたと云ふ。
『腕を組んで車に揺られて行く老人の後ろ影を見送って、僕は無量の感慨に打たれた』
語り終った幸徳の両眼は涙に光って居た。僕も石川も黙って目を閉じた。
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(木下尚江:神・人間・自由/木下尚江集、筑摩書房)

田中正造(1)

2009-07-04 01:12:03 | 田中正造


田中正造は、三十八歳のとき政治に発心した。
それは身も心も財産も、すべてをなげうって
人民に奉仕することの決意であった。
そして足尾鉱毒事件と出会う。
衆議院議員としての十年間にわたる戦いののち、
その不毛を見定めると、彼は弊履を
棄てるように議会を棄て、谷中村に入って
人民とともに戦う道を選んだ。
谷中の亡村で彼は何をしようとし、また何をしたのか。
谷中村における九年の「辛酸」と「苦学」は
彼に何を教えたのか。
(林竹二:「田中正造の生涯」、講談社現代新書、昭和五十一年)


田中正造について書いていきます。