平ねぎ数理工学研究所ブログ

意志は固く頭は柔らかく

財用濫リ民ヲ殺シ法ヲ乱シテ而シテ滅ビザルノ国ナシ(再掲)

2018-03-09 13:26:53 | 田中正造

亡国ニ至ルヲシラザレバ之レ即チ亡国ノ儀ニ付質問書 
右成規ニヨリ提出候也
明治三十三年二月十七日 提出者 田中正造
            賛成者 石原半右衛門 外三十四名

一 民ヲ殺スハ国家ヲ殺スナリ
   法ヲ蔑ニスルハ国家ヲ蔑スルナリ
   皆自ラ国ヲ毀ツナリ
   財用濫リ民ヲ殺シ法ヲ乱シテ而シテ滅ビザルノ国ナシ之ヲ如何
右質問ニ及候也

〔明治三十三年二月十七日衆議院議事速記録第二十九号、議長ノ報告〕

田中正造

安倍一族のために日本は滅んだ。
118年前田中正造が警鐘を鳴らしたが、そのとおりになった。
私たちは歴史の目撃者だ。


亡国に至るを知らざれば之れ即ち亡国

2017-04-25 05:29:30 | 田中正造
民ヲ殺スハ国家ヲ殺スナリ
法ヲ蔑ニスルハ国家ヲ蔑スルナリ
皆自ラ国ヲ毀ツナリ
財用ヲ濫リ民ヲ殺シ法ヲ乱シテ而シテ亡ビザルノ国ナシ、
之ヲ奈何




亡国に至るを知らざれば之れ即ち亡国の儀につき質問
「田中正造全集第八巻、岩波書店」より抜粋

昨日も申上げまする通り、一昨日も申しまする通り、五人や十人の仕事ではございませぬ。二里ばかりの間に跨って三千人五千人の間に人があって、その中に三百人の警察官が「サーベル」を皆揃えて鎧を以って槍の如く用いて吶喊した。憲兵は発砲したと云うことを聞いたと云うことを沢山申しまするから、私は保証人でございませぬから、是は言うが儘にしておきますが、また撲るときには声を掛けた。土百姓土百姓と各々口を揃えて云うたのである。巡査が人民を捕まえて土百姓と云う掛け声で撲った。此の土百姓と云う掛声は何から出るのである。是れ即ち古河市兵衛に頼れて居るからして、鉱業主にあらざれば人間にあらず土百姓は人間ではないように常に話で聞いて居るからして、此の安っぽい巡査警察官に至っては、ついそれが出るから、土百姓土百姓と云う掛声でうちのめしたのでございます。口々に三百人の巡査が悉く土百姓と云う掛声を以ってひどい目にあわせた。そうして鬨の声を揚げた。勝鬨を揚げた。大勝利万歳の勝鬨を揚げたのでございます。何たることである。一昨日も申し上げまする通り、被害民の方はこれまでも棒、短い「ステッキ」も持って居なかった。今度は、よく世話人が指揮して、品行を正にし、静粛を旨とせよと申渡しをした位でございますから、煙管一本持った者がない位に静粛である。これに対して何である。勝鬨を揚げるとは何だ。先ず今日までのところの報告に依りますれば、此の事件に附きましては、こんなものでございます。また明後日までに聞えましたことがございますれば、それだけに附いて申し上げまする。ただ今日は此の政府が安閑として太平楽を唱えてからに、また日本は何時までも太平無事で居るような心持をして居るのである。是が心得が違うと云うことだ。どう云う量簡で居るかと云うことの質問が要点でございます。大抵な国家が滅びるまでは、自分は知らないもの、自分に知れないものは何だと云うと、右左に附く所の君主を補佐する所の人間が、ずっと下まで腐敗して居って、是で貫徹しなくなるのである。即ち、人民を殺すは己の身体に刃を当てると同じことであると云うことを知らない。自分の大切なところの人民を自分の手に掛けて殺すと云うに至ってはもう極度で、是で国が亡びたと言わないでどうするものでございます。

贋物の政治家と本物の政治家

2016-11-12 14:20:27 | 田中正造
■ 大阪府警機動隊員―チンピラ―




■ 贋物の政治家―民を蔑ろにする政治家―



大阪府警機動隊員を擁護する発言
(沖縄県東村高江の米軍ヘリパッド建設現場で、抗議活動中の市民に機動隊員が「ぼけ、土人が」と叫んだことについて)これを人権問題だと捉えるのは、言われた側の感情にやはり主軸を置くべきなんだと思います。
従いまして、県民の感情を傷つけたという事実があるならば、これはしっかり襟を正していかないといけないと考えています。
ことさらに、我々が「これが人権問題だ」というふうに考えるのではなくて、これが果たして県民感情を損ねているかどうかについて、しっかり虚心坦懐(きょしんたんかい)に、つぶさに見ていかないといけないのではないか。
我々が考えねばならないのは、発言をされた対象者の気分を害していますよ、と肩をたたいて言ってあげることが一番必要なのではないか。
(「県民感情が損ねられているかどうかについて、まだ判断できないのか」との質問に)私は今のこのタイミングで、「これは間違っていますよ」とか言う立場にもありませんし。
また、正しいですよということでもありません。自由にどうぞというわけにもいきません。従って今のご質問で、私が答えられるとするならば、これはつぶさに見ていかざるを得ない。
(閣議後の記者会見で)


■ 本物の政治家―民のために命をかける政治家―



川俣事件
に対する政府の責任を追及した「亡国に至るを知らざれば之れ即ち亡国の儀につき質問書」の主意説明演説
「田中正造全集第八巻、岩波書店」より抜粋

昨日も申上げまする通り、一昨日も申しまする通り、五人や十人の仕事ではございませぬ。二里ばかりの間に跨って三千人五千人の間に人があって、その中に三百人の警察官が「サーベル」を皆揃えて鎧を以って槍の如く用いて吶喊した。憲兵は発砲したと云うことを聞いたと云うことを沢山申しまするから、私は保証人でございませぬから、是は言うが儘にしておきますが、また撲るときには声を掛けた。土百姓土百姓と各々口を揃えて云うたのである。巡査が人民を捕まえて土百姓と云う掛け声で撲った。此の土百姓と云う掛声は何から出るのである。是れ即ち古河市兵衛に頼れて居るからして、鉱業主にあらざれば人間にあらず土百姓は人間ではないように常に話で聞いて居るからして、此の安っぽい巡査警察官に至っては、ついそれが出るから、土百姓土百姓と云う掛声でうちのめしたのでございます。口々に三百人の巡査が悉く土百姓と云う掛声を以ってひどい目にあわせた。そうして鬨の声を揚げた。勝鬨を揚げた。大勝利万歳の勝鬨を揚げたのでございます。何たることである。一昨日も申し上げまする通り、被害民の方はこれまでも棒、短い「ステッキ」も持って居なかった。今度は、よく世話人が指揮して、品行を正にし、静粛を旨とせよと申渡しをした位でございますから、煙管一本持った者がない位に静粛である。これに対して何である。勝鬨を揚げるとは何だ。先ず今日までのところの報告に依りますれば、此の事件に附きましては、こんなものでございます。また明後日までに聞えましたことがございますれば、それだけに附いて申し上げまする。ただ今日は此の政府が安閑として太平楽を唱えてからに、また日本は何時までも太平無事で居るような心持をして居るのである。是が心得が違うと云うことだ。どう云う量簡で居るかと云うことの質問が要点でございます。大抵な国家が滅びるまでは、自分は知らないもの、自分に知れないものは何だと云うと、右左に附く所の君主を補佐する所の人間が、ずっと下まで腐敗して居って、是で貫徹しなくなるのである。即ち、人民を殺すは己の身体に刃を当てると同じことであると云うことを知らない。自分の大切なところの人民を自分の手に掛けて殺すと云うに至ってはもう極度で、是で国が亡びたと言わないでどうするものでございます。


本物の政治家田中正造(ニセモノに注意)

2013-11-02 12:49:14 | 田中正造


木下尚江集、筑摩書房より抜粋する。

君よ。
僕が聴いて欲しいのは、直訴後の田中正造翁だ。直訴後の翁を語らうとすれば、直訴当日の記憶が、さながら目に浮かぶ。
明治三十四年十二月十日。この日、僕が毎日新聞の編輯室に居ると、一人の若い記者が顔色を変えて飛び込んで来た。
『今、田中正造が日比谷で直訴をした』
居合わせた人々から、異口同音に質問が突発した。
『田中はドゥした』
『田中は無事だ。多勢の警官に囲まれて、直ぐ警察署につれて行かれた』
翁の直訴と聞いて、僕は覚えず言語に尽くせぬ不快を感じた。寧ろ侮辱を感じた。
やがて石川半山君が議会から帰って来た。開院式に参列したので、燕尾服に絹帽だ。僕は石川と応接室のヴェランダへ出て、直訴に対する感想を語り合った。通信社からは、間もなく直訴状を報道して来た。引きつヾき、直訴状の筆者が万朝報の記者幸徳秋水であることを報道して来た。直訴状というものを読んで見ると、成程幸徳の文章だ。
『幸徳が書くとは何事か』
僕は堪え得ずして遂にかう罵った。
『まァ、然う怒るな』
と言って、石川は僕の心を撫でるやうに努めて呉れたが、僕は重ねがさねの不愉快に、身を転じて空しく街道を見下して居た。銀座の大道を、その頃は未だ鉄道馬車が走って居た。
『やァ』と、石川が出しぬけに大きな声を立てたので、僕は思わず振り向いて見ると応接室の入口の小暗い処に幸徳が立って居る。
『君らに叱られに来た』
かう言うて、幸徳は躊躇して居る。
『叱るどころじゃ無い、よく書いてやった』
石川は燕尾服の腹を突き出して、かう言った。
『然うかねェ』
と言ひながら、幸徳は始めて応接室を抜けて僕らの間に立った。でッぷり肥えた石川、細長い僕、細くて短い幸徳、恰も不揃いの鼎の足のやうに、三人狭いヴェランダに立った。僕は口を結んだまゝ、ただ目で挨拶した。
幸徳は徐ろに直訴状執筆の始末を語った。
昨夜々更けて、翁は麻布宮村町の幸徳の門を叩き起こした。それから、鉱毒問題に対する最後の道として、一身を棄てゝも直訴に及ぶの苦衷を物語り、これが奏状は余の儀と違ひ、文章の間に粗漏欠礼の事などありてはならぬ故、事情斟酌の上、筆労を煩わす次第を懇談に及んだ。― 幸徳の話を聴いて居ると、黒木綿の羽織毛襦子の袴、六十一歳の翁が、深夜灯火に肝胆を語る慇懃の姿が自然に判然と浮んで見える。
『直訴状など誰だって厭だ。けれど君、多年の苦闘に疲れ果てた、あの老体を見ては、厭だと言うて振り切ることが出来るか』
かう言ひながら幸徳は斜めに見上げて僕を睨んだ。翁を返して、幸徳は徹夜して筆を執った。今朝芝口の旅館を尋ねると、翁は既に身支度を調へて居り、幸徳の手から奏状を受取ると、黙ってそれを深く懐中し、用意の車に乗って日比谷に急がせたと云ふ。
『腕を組んで車に揺られて行く老人の後ろ影を見送って、僕は無量の感慨に打たれた』
語り終った幸徳の両眼は涙に光って居た。僕も石川も黙って目を閉じた。
直訴に就いては、僕は恰も知らないやうな顔をして過ぎて居たが、十年を経て幸徳も既に世に居なくなった後、或時、僕は始めて翁に「直訴状」の事を問うて見た。
それは、幸徳の筆として世上に流布された直訴状の文章が、大分壊れて居て、幸徳が頗る気にして居たことを思ひ出したからだ。例へば、鉱毒被害の惨状を説明した幸徳の原文には
「魚族斃死し、田園荒廃し、数十万の人民、産を失ひ業に離れ、飢えて食なく病で薬なく、老幼は溝壑に転じ、壮者は去て他国に流離せり。如此にして二十年前の肥田沃土は、今や化して黄茅白葦満目惨憺の荒野となれり」
如何にも幸徳の筆で、立派な文章だ。ところが、世上に流布されて居るものは、
「魚族斃死し、田園荒廃し、数十万の人民の中、産を失へるあり、或は業に離れ、飢えて食なく病で薬なきあり - 今や化して黄茅白葦満目惨憺の荒野となれるあり」
かうなって居る。
あの当日、毎日新聞社のヴェランダで、三人で語った時にも、幸徳は通信社の印刷物を手にしながら、『黄茅白葦満目惨憺の荒野となれるあり、では、君、文章にならぬぢゃないか』と、如何にもナサケなげな顔をして言うた。これは翁が自ら手を入れたものに相違ない。僕はそれを知りたかったのだ。
翁の物語で、いろいろの事情が明白になった。翁は、先ず直訴状依頼の当夜のことから語った。翁が鉱毒地の惨状、その由来、解決の要求希望、すべて熱心に物語るのを、幸徳は片手を懐中にし、片手に火箸で火鉢の灰を弄ぶりながら、折々フウンフウンと鼻で返事をするばかり、如何にも気の無ささうな態度で聞いて居る。翁は甚だ不安に感じたさうだ。自分の言うことが、この人の頭に入ったかどうか、頗る不安に感じたさうだ。
偖て翌朝幸徳から書面を受け取る。直ぐに車で日比谷に入った。時が早いので、衆議院議員の官舎に入った。この日は開院式の為に、議長官舎は無人で閑寂だ。翁は応接室の扉を閉ぢて、始めて懐中から書面を取り出して読んで見た。前後自分の言うた意思が、良い文章になって悉く書いてある。
『良い頭だ』
と言うて、翁は往時を回顧して、深く感嘆した。
「伏して惟るに、政府当局をして能く其責を竭さしめ、以って陛下の赤子をして日月の恩に光被せしむるの途他なし。渡良瀬河の水源を清むる其一なり。河身を修築して其の天然の旧に復する其二なり。激甚の毒土を除去する其三なり。沿岸無量の天産を復活する其四なり。多数町村の頽廃せるものを恢復する其五なり。加毒の鉱業を止め毒水毒屑の流出を根絶する其六なり。
如此にして数十万生霊の死命を救ひ、居住相続の基を回復し、其人口の減耗を防遏し、且つ我日本帝国憲法及び法律を正当に実行して各其権利を保持せしめ、更に将来国家の基礎たる無量の勢力及び富財の損失を断絶するを得べけん也。若し然らずして長く毒水の横流に任せば、臣は恐る、其禍の及ぶ所将に測るべからざるものあらんことを」
これが直訴の要領だ。けれど、文章の上に翁の意を満たさない箇所がある。そこで筆を執って添削を始めた。鉱毒地は広い。被害民は多い。鉱毒の激烈な処もあれば、希薄な処もある。黄茅白葦満目惨憺の荒野となれる処もあれば、それ程にまでならぬ処もある。直訴という以上、その区別を明らかにせねばならぬ。
『嘘をついちゃ、いけねェ』
かう言って、翁は頭を振った。
文章の添削が未だ済まぬ所へ、予ねて頼んで置いた官舎の給仕が、ドアを明けて、御還幸を告げて呉れたので、未完成のまゝに携えて直ぐに駆け出したのださうである。
『いやはや』
と言うて、翁は両手で頭を叩いた。
翁の没後、僕は直訴状の本物を見たいと思った。幸徳の書いた上へ翁が筆を入れた本物を見たいと思った。
何処にか存在するに相違ないと、窃に心当たりを尋ねて居ると、それが一度田中家の幼女になったことのある、翁の実の姪に当る原田武子さんが持って居ることがわかった。
美濃半紙に表装して巻物になって居る。筆者を偲んでその肉筆に対すると、見ただけで、胸に熱気が動く。
「草莽の微臣田中正造、誠恐誠惶、頓首頓首、謹みて奏す。伏て惟るに、臣田間の匹夫、敢て規を踰へ法を犯して鳳駕に近前する其罪実に万死に当れり、― 伏て望むらくは、陛下深仁深慈、臣が狂愚を憐れみて、少しく乙夜の覧を垂れ給はん事を」
これが冒頭の原文だ。すると、翁の神経にこの「狂愚」の一語が触れたものと見え、狂の一字を墨で消して「至愚」と修正してある。
これを見て僕は様々な事を思ひ出した。
翁が始めて直訴を行った時、世間はこの事件の成行を懸念して重大視した。然るにたヾ一夜警察署に泊まったのみで、翌日翁は仔細なく開放された。世間は再びその案外の軽易に驚いた。
これは政府側の熟慮の結果で、「狂人」として取扱ったものだ。以後、田中正造の言行一切が「狂人」として無視されることになってしまった。
『政府の野郎、この田中を狂人にしてしまやがった』
と言って、翁は、笑ふにも笑はれず怒るにも怒られず、その奸智に嘆息されたことを、僕は覚えて居る。
僕は翁の直訴には終始賛成することが出来なかったが、その行き届いた用意を聴くに及んで、深き敬意を抱くやうになった。
『若し天皇のお手元へ直接差出すだけならば、好い機会が幾らもある。議会の開院式の時に行えば、何の造作も無い事だ。然しながら、議員の身でそれを行ったでは、議員の職責を侮辱すると云ふものだ』
翁は粛然として曾てかう語った。
武子さんの話を聞くと、用談云々の端書が来たので、直訴の前夜、芝口の宿屋へ尋ねて行ったさうだ。行ってみると、別に用談の景色も無い。翁は目を閉じて独り何か瞑想して居るのみで、さしたる用事のあるでも無いらしい。帰らうとすると、『も少し居よ』と言うて留める。けれど何の話があるでも無い。夜が更けるので、遂に立って帰った。
『私が帰ってから、伯父は幸徳さんへ出掛けたのでせう。私を呼んだのも、用事があったのではなく、暇乞の為であったかと思はれます』
と、武子さんは言うた。翁が死の用意をして居たことは、種々行動の上から推測される。<後略>


注)①直訴状の写真は、荒畑寒村:谷中村滅亡史、新泉社、から複写した。
  ②直訴状は幸徳秋水の書いた原文である。田中正造による添削のあとが見える。至る所に訂正印が押されている。

【引用文献】
(1)木下尚江:神・人間・自由/木下尚江集、筑摩書房
(2)荒畑寒村:谷中村滅亡史、新泉社

田中正造(再掲)

2011-12-31 22:09:10 | 田中正造
福島第一の爆発により福島県の東半分は生物の生息に適さない荒野になった。この状況は、明治に起きた足尾鉱毒事件に酷似している。
明治政府は殖産興業を重視し被害民の訴えを黙殺した。政治活動に絶望した田中正造は衆議院議員を辞しその3ヶ月後に天皇に直訴した。
直訴状は社会主義者幸徳秋水が書いた。田中正造は、天皇の読むものだからと文章をもって名のある幸徳秋水に執筆を依頼した。
田中正造は幸徳秋水の書いた格調高い文章に手を加えた。「黄茅白葦満目惨憺ノ荒野トナレルアリでは文章にならぬじゃないか
」と、幸徳秋水は嘆いた。鉱毒地は広い。害毒の激烈なところもあれば、希薄なところもある。直訴と言う以上、その区別を明らかにしなければならない。
「嘘をついちゃいけねえ」、田中正造はこういった。

謹奏
                              
草莽ノ微臣田中正造誠恐誠惶頓首頓首謹ミテ奏ス 伏シテ惟ルニ臣田間ノ匹夫敢テ規ヲ踰エ法ヲ犯シテ
鳳駕ニ近前スル其罪実ニ万死ニ当レリ 而モ甘ンジテ之ヲ為ス所以ノモノハ洵ニ家国民生ノ為ニ図リテ 一片ノ耿々竟ニ忍ブ能ハザルモノアレバナリ 伏シテ望ムラクハ
陛下深仁深慈臣ガ狂愚ヲ憐ミテ 少ラク乙夜ノ覧ヲ垂レ給ハンコトヲ

伏シテ惟ルニ東京ノ北四十里ニシテ足尾銅山アリ 其採鉱製銅ノ際ニ生ズル所ノ毒屑毒水 久シク澗谷ヲ埋メ渓流ニ注ギ渡良瀬川ニ奔下シ沿岸皆其毒ヲ被ラザルナシ 而シテ鉱業ノ発達スルニ従ッテ流毒益々多ク 加フルニ此年山林ヲ濫伐シ水源ヲ赤土トナセルガ故ニ河身変ジテ洪水頻リニ臻リ 毒流四方ニ犯濫シテ毒屑ノ浸潤セル茨城栃木群馬埼玉四県及ビ其下流ノ地数十万町歩ニ達シ 魚族斃死シ田園荒廃シ数十万ノ人民産ヲ失ヒ業ニ離レ飢テ食無ク病デ薬無ク老幼ハ溝壑ニ転ジ壮者ハ去ッテ他国ニ流離セリ 如此ニシテ廿年前ノ肥田沃土ハ今ヤ化シテ黄茅白葦満目惨憺ノ荒野トナレリ

臣夙ニ鉱毒ノ禍害ノ滔々底止スル所ナキト民人ノ疾苦其極ニ達セルヲ見テ憂悶手足ヲ措クニ処ナシ 嚮ニ選レテ衆議院議員トナルヤ第二議会ノ時其状ヲ具シテ政府ニ質ス所アリ 爾後毎議会ニ於テ大声疾呼其極救ノ策ヲ求ムル茲ニ十年 而モ政府ノ当局ハ常ニ言ヲ左右ニ托シテ絶テ之ガ適当ノ措置ヲ施スナシ 而シテ地方牧民ノ職ニアルモノ亦恬トシテ省ミズ 甚シキハ即チ人民ノ窮苦ニ堪ヘズ 群起シテ其保護ヲ請願スルヤ有司ハ警官ヲ派シテ之ヲ圧抑シ誣テ兇徒ト称シテ獄ニ投ズルニ至ル 而シテ其極ヤ現時ニ在テハ国庫収ムル所ノ租税数十万円ヲ減ジ 人民ノ公民ノ権利ヲ奪ハルゝモノ算ナクシテ町村ノ自治全ク頽廃セラレ飢餓疾病及ビ毒ニ中リテ死スルモノ年々多キヲ加フ

陛下不世出ノ質ヲ以テ列聖ノ余烈ヲ紹ギ 徳四海ニ溢レ威八紘ニ展ベ億兆昇平ヲ謳歌セザルナシ 而モ
輦轂ノ下ヲ去ル甚ダ遠カラズシテ 数十万無告ノ窮民空シク雨露ノ沢ヲ希フテ昊天ニ号泣スルヲ見ル 嗚呼是レ聖代ノ一汚点ニアラズト謂ワンヤ 而シテ其責ヤ実ニ政府当局ノ怠慢曠職ニシテ上ハ陛下ノ聡明ヲ壅蔽シ下ハ家国民生ヲ以テ念トナサヾルニ因ラズンバアラズ 嗚呼四県ノ地亦
陛下ノ一家ニアラズヤ 四県ノ民亦
陛下ノ赤子ニアラズヤ 政府当局ガ
陛下ノ地ト人トヲ把テ此悲境ニ陥ラシメテ豪モ省ミルナキモノ 是レ臣ノ黙視スル能ハザル所ナリ

伏シテ惟ルニ政府当局者ヲシテ能ク其責ヲ竭サシメテ 以テ陛下ノ赤子ヲシテ日月ノ光被セシムル所以ノ途他ナシ 渡良瀬ノ水源ヲ清ムル其一ナリ 破壊セル河身ヲ修築シテ其天然ノ旧ニ復スル其二ナリ 激甚ナル毒土ヲ除去スル其三ナリ 沿岸無量ノ天産ヲ復活スル其四ナリ 頽廃セル多数町村ヲ恢復スル其五ナリ 加毒ノ鉱業ヲ止メ而シテ毒水毒屑ノ流出ヲ根絶スル其六ナリ

此処ニシテ数十万生霊ノ死命ヲ救ヒ居住相続ノ基ヲ回復シ其人口ノ減耗ヲ防遏シ且ツ我日本帝国憲法及ビ法律ヲ正当ニ実行シテ各其権利ヲ保持セシメ更ニ将来国家ノ基礎タル無量ノ勢力及ビ富財ノ損失ヲ断絶スルヲ得ベケン也 若シ然ラズシテ長ク毒水ノ横流ニ任セバ臣ハ恐ル其禍ノ及ブ所将ニ測ル可カラザルモノアランコトヲ

臣歳六十一 而シテ労病日ニ迫ル念フニ余命幾許モナシ 唯万一ノ報効ヲ期シテ一身ヲ以ッテ利害ヲ計ラズ故ニ鉄鉞ノ誅ヲ冒シテ以テ聞ス 情切ニ事急ニシテ涕泣言フ所ヲ知ラズ
伏シテ望ムラクハ
聖明矜察ヲ垂レ給ハンコトヲ 臣痛絶呼号ノ至リニ任フルナシ

明治三十四年十二月十日
                                      草莽微臣田中正造誠恐誠惶頓首頓首


注) ① 直訴状の文章および直訴状の写真は、荒畑寒村:谷中村滅亡史、新泉社、から引用した。
   ② 直訴状は幸徳秋水の書いた原文である。

民衆のために生命財産を擲った田中正造のような政治家が現代に現れんことを切望しつつ、今年の更新を終了する。
来る年が皆様にとって良き年でありますように。

田中正造(了)

2009-08-29 15:01:13 | 田中正造
生前の田中正造は、のたれ死に死ぬことを覚悟していた。むしろ理想にしていた。これが議会をすて、谷中村にはいったことからの――さらに遡って政治に発心したときからの、当然の帰結であった。津久居彦七に田中正造はこう語ったことがある。

おれは、はじめて政治上の事で立ったときには、おれがしんしょ(身上)は、大事に使えば、六十や七十までは人の厄介にならなくても、天下の仕事は出来るつもりで、はじまったのであった。ところが、年々物価が騰貴する。汽車が出来る。電車が出来る。思ったより金がかかる。忽ちつかいはたしてしまった。かかあにも言い含めてある。おれものたれ死にをする。かかあも矢張りのたれ死にをするということに、もうちゃんと承知している。もう何もこの世に遠慮はない。おれはもう後のことは何も心配しない。

この覚悟は、政治に発心したときの初心通りに三十五年間を生き通すためには、やはり必要であったのだろう。
明治十一年に彼は、政治に発心した。それは残る三十五年の人生を、公共のためにすべてを――財産も、家も、自分も、自分の時間もささげて生きることへの決心を、神の前に明らかにしたことだったが、それからの曲折に富んだ三十五年を、この初心を守って、田中正造は、ひとっぱしりに走った。だが、見方によっては、その一日一瞬が、不断の、きびしい自己との戦いであったのかもしれない。

(林竹二:「田中正造の生涯」、講談社現代新書)

田中正造(10)

2009-08-29 14:53:48 | 田中正造

【田中正造語録】

○いかなる人にても、野に裸体のまま風雨にさらさば真面目となる。此の時の一瞬間、神に救わるるなり。又悪魔にさらわるるなり。石をパンにせよとはこの時にあり。人はパンのみにて生きるものにあらずと答えしはこの時なり。

○予は下野の百姓なり。

○人は天によらずして片時も生息するを得ず、衣食住みなこれを天にうく。いわんや生命をや。

○キリストも死にのぞみて曰く神よ神よ何とて我をすて給うやと。これ死を悲しむにあらず。社会を悲しみたるに過ぎず候。


【田中正造余録】

田中翁は常に被害民のために運動しているので、決った収入はなく、時に有志から寄せられる浄財をその経費にあてていたが、その金が不足すると有志の家で必要な分だけ借り入れることとし、幸いにまとまった浄財が入れば努めて負債を返すことに心がけていた。
明治三十九年の春と記憶するが、筆者の母に、
「お銭(あし)を二円ばかり貸してくれませんか」
という。母が、そのくらいならありますから、と差しあげたところ、
「ああこれで車賃ができた」
と喜ばれたが、筆者と共に西隣に行こうとする途上で、道に子供が二、三人遊んでいるのを見て、
「ああよく遊びますな。よい子だ、よい子だ。坊やに一つ。嬢やもいたな、はい一つ」
と、はじめは五銭の白銅貨を出し、次にまた子供の群れに出逢うと、
「ここにもいた、はい一つ。お前にも一つ」
と、白銅貨がなくなると二銭銅貨をやり、いつのまにか先ほどの二円をみんな出しきって、
「ははあ、もう一銭もなくなってしまった」
と、至極淡々たる有様。帰宅後、このことを母に告げると、母は、
「田中さんは、いつもそうなんだから」
と、張り合いがぬけた様子であった。これはほんの一例であるが、翁はいつもこんな調子であった。
(島田宗三:田中正造翁余禄上、三一書房)


【漢学塾の田中正造】

父富造は、家は富裕ではなかったが、教育には熱心であった。正造が七歳になると赤尾小四郎の塾に通い四書五経を学びはじめた。
-中略-
ところで、正造の学習はどうであったろうか。正造は後年姪に与えた手紙の中で、四歳下で、当時五歳で赤尾の門に入った妹リンと比較しながらつぎのように述べている。
「りん勉強毎朝必ず六時に起きて書を読めリ。兄兼三郎は時に至らざれば起きず。夜はりん十二時に至らざれば臥せず。正造は夕飯の膳を去らば直ちに寝る。書を読む、正造魯鈍言語に絶ゆ。門弟即ち七十人中正造第一の無記憶といい、りんはほとんど第一の記憶生たり。始め兼三郎、四書五経を素読す。りんは今川庭訓位なりしに、忽ちりんの方兼三郎の上を出ず」
この手紙は、愛する妹リンの死後ほどなくしてリンの娘キチに与えたものであるから、妹への愛惜の念とともにいささかみずからを卑下している向きもあるかと思われるが、ほかの機会にもこのような述懐をもらしている。
(由井正臣:田中正造、岩波新書)


田中正造(9)

2009-08-29 14:50:21 | 田中正造
大正2年8月2日[ノート用紙] 
○八月二日より大字並木小学校内ニて安蘓足利治水細流枝川の保護会の必用を説く。校長大いによみす。
○悪魔を退くる力なきものゝ行為の半ばハ其身モ亦悪魔なれバなり。已ニ業ニ其身悪魔の行為ありて悪魔を退けんハ難シ。茲ニ於てざんげ洗礼を要す。
ざんげ洗礼は已往の悪事ヲ洗浄するものなれバなり。
○何とて我を

(「田中正造全集」第十三巻、岩波書店)

田中正造(8)

2009-08-29 14:47:37 | 田中正造
翁は山川視察の途次、大正二年八月三日、下野国足利郡吾妻村字下羽田なる庭田清四郎と云へる農家で、遂に病床の人となった。
君よ、言ひたい事は河の如く際限無いが、一切を棄てゝ直にその日を語る。

九月四日、清朗な初秋の朝空、僕は翁の顔をのぞき込んで朝の挨拶をした。
『如何です』
翁は枕に就いたまゝ軽く首肯いたが、やがて、
『これからの日本の乱れ――』
かう言ひながら眉の間に深い谷の如き皺を刻んで、全身やゝ久しく痙攣するばかりの悩み。
時は正午、日はうらゝかに輝いて、庭上の草叢には虫が鳴いて居る。
翁は起きると言ふ。僕は静かに抱き起こしたまゝ殆ど身も触るばかり背後に坐って守って居た。夫人の勝子六十何歳、団扇を取って前へ廻って、ヂッと良人の顔を見つめて軽く扇いで居る。
翁は端然と大胡坐をかいて、頭を上げて、全身の力を注いで、強い呼吸を始めた。五回六回七回――十回ばかりと思ふ時、「ウーン」と一声長く響いたまゝ――
瞬きもせずに見つめて居た勝子夫人が、
『お仕舞になりました』
としとやかに告げた。

翁が所持の遺品と言うては、菅の小笠に頭陀袋のみ。翌晩遺骸の前に親戚の人達が円く坐って、頭陀袋の紐を解いた。
小形の新約全書。日記帳。鼻紙少々。
僕は取り敢えず日記帳を押し戴いて、先づ絶筆の頁を開けて見た。
「八月二日。悪魔を退くる力なきは、其身も亦悪魔なればなり。已に業に其身悪魔にして悪魔を退けんは難し。茲に於てか懺悔洗礼を要す」
享年七十又三。

(木下尚江:神・人間・自由、木下尚江集、筑摩書房)

田中正造(7)

2009-08-29 14:38:12 | 田中正造
■ 亡国ニ至ルヲシラザレバ之レ即チ亡国ノ儀ニ付質問書 明治33年2月17日
右成規ニヨリ提出候也
明治三十三年二月十七日 提出者 田中正造
            賛成者 石原半右衛門 外三十四名

一 民ヲ殺スハ国家ヲ殺スナリ
   法ヲ蔑ロニスルハ国家ヲ蔑ロスルナリ
   皆自ラ国ヲ毀ツナリ
   財用濫リ民ヲ殺シ法ヲ乱シテ而シテ滅ビザルノ国ナシ、之ヲ如何
右質問ニ及候也

〔明治三十三年二月十八日衆議院議事速記録第二十九号、議長ノ報告〕

■ 同上質問の理由に関する演説 明治33年2月17日
○田中正造君(四十三番)去ヌル十二日ニ山林払下ノ件ト云フ質問ヲ出シテ居リマスルガ、是ハ説明ヲ省イテ置キマシタガ、今日ハ「亡国ニ至ルヲ知ラザレバ是レ即チ亡国ノ儀ニ附キ質問」亡国ニ至ルコトヲ知ラナケレバ、即チソレガ亡国デアル、斯ウ云フノデゴザイマシテ、殆ド政治談義ノヤウデゴザイマスルガ、皆此事実ノ半面ハ鉱毒事件デアッテ、事実ノ半面ハ即チ取モ直サズ政治ニアラザルモノハナイノデゴザイマス、ソレデ此十二日ニ出シマシタ質問ノ山林払下ノ件ト言フモノハ、モウ唯足尾銅山ノ近傍ノ関係ノ分ダケノ段別ヲ先ヅ皆様ニ御披露ヲ申シテ置カウト考ヘマスルガ、明治二十二年ニ払下ニシタノガ……(平ねぎ注:非常に長いため以下割愛)

〔明治三十三年二月十八日衆議院議事速記録第二十九号、質問ノ理由ニ付田中正造君ノ演説〕

■ 衆議院議員田中正造君提出亡国ニ至ルヲシラザレバ之レ即チ亡国ノ儀ニ関スル質問ニ対スル答弁

質問ノ旨趣其要領ヲ得ズ、依テ答弁セズ
右及答弁候也
 明治三十三年二月二十一日
                       内閣総理大臣山縣有朋

〔明治三十三年二月二十二日第十四回衆議院議事速記録第三十二号、議長ノ報告〕

「田中正造全集」第八巻、岩波書店