平ねぎ数理工学研究所ブログ

意志は固く頭は柔らかく

田中正造(了)

2009-08-29 15:01:13 | 田中正造
生前の田中正造は、のたれ死に死ぬことを覚悟していた。むしろ理想にしていた。これが議会をすて、谷中村にはいったことからの――さらに遡って政治に発心したときからの、当然の帰結であった。津久居彦七に田中正造はこう語ったことがある。

おれは、はじめて政治上の事で立ったときには、おれがしんしょ(身上)は、大事に使えば、六十や七十までは人の厄介にならなくても、天下の仕事は出来るつもりで、はじまったのであった。ところが、年々物価が騰貴する。汽車が出来る。電車が出来る。思ったより金がかかる。忽ちつかいはたしてしまった。かかあにも言い含めてある。おれものたれ死にをする。かかあも矢張りのたれ死にをするということに、もうちゃんと承知している。もう何もこの世に遠慮はない。おれはもう後のことは何も心配しない。

この覚悟は、政治に発心したときの初心通りに三十五年間を生き通すためには、やはり必要であったのだろう。
明治十一年に彼は、政治に発心した。それは残る三十五年の人生を、公共のためにすべてを――財産も、家も、自分も、自分の時間もささげて生きることへの決心を、神の前に明らかにしたことだったが、それからの曲折に富んだ三十五年を、この初心を守って、田中正造は、ひとっぱしりに走った。だが、見方によっては、その一日一瞬が、不断の、きびしい自己との戦いであったのかもしれない。

(林竹二:「田中正造の生涯」、講談社現代新書)

田中正造(10)

2009-08-29 14:53:48 | 田中正造

【田中正造語録】

○いかなる人にても、野に裸体のまま風雨にさらさば真面目となる。此の時の一瞬間、神に救わるるなり。又悪魔にさらわるるなり。石をパンにせよとはこの時にあり。人はパンのみにて生きるものにあらずと答えしはこの時なり。

○予は下野の百姓なり。

○人は天によらずして片時も生息するを得ず、衣食住みなこれを天にうく。いわんや生命をや。

○キリストも死にのぞみて曰く神よ神よ何とて我をすて給うやと。これ死を悲しむにあらず。社会を悲しみたるに過ぎず候。


【田中正造余録】

田中翁は常に被害民のために運動しているので、決った収入はなく、時に有志から寄せられる浄財をその経費にあてていたが、その金が不足すると有志の家で必要な分だけ借り入れることとし、幸いにまとまった浄財が入れば努めて負債を返すことに心がけていた。
明治三十九年の春と記憶するが、筆者の母に、
「お銭(あし)を二円ばかり貸してくれませんか」
という。母が、そのくらいならありますから、と差しあげたところ、
「ああこれで車賃ができた」
と喜ばれたが、筆者と共に西隣に行こうとする途上で、道に子供が二、三人遊んでいるのを見て、
「ああよく遊びますな。よい子だ、よい子だ。坊やに一つ。嬢やもいたな、はい一つ」
と、はじめは五銭の白銅貨を出し、次にまた子供の群れに出逢うと、
「ここにもいた、はい一つ。お前にも一つ」
と、白銅貨がなくなると二銭銅貨をやり、いつのまにか先ほどの二円をみんな出しきって、
「ははあ、もう一銭もなくなってしまった」
と、至極淡々たる有様。帰宅後、このことを母に告げると、母は、
「田中さんは、いつもそうなんだから」
と、張り合いがぬけた様子であった。これはほんの一例であるが、翁はいつもこんな調子であった。
(島田宗三:田中正造翁余禄上、三一書房)


【漢学塾の田中正造】

父富造は、家は富裕ではなかったが、教育には熱心であった。正造が七歳になると赤尾小四郎の塾に通い四書五経を学びはじめた。
-中略-
ところで、正造の学習はどうであったろうか。正造は後年姪に与えた手紙の中で、四歳下で、当時五歳で赤尾の門に入った妹リンと比較しながらつぎのように述べている。
「りん勉強毎朝必ず六時に起きて書を読めリ。兄兼三郎は時に至らざれば起きず。夜はりん十二時に至らざれば臥せず。正造は夕飯の膳を去らば直ちに寝る。書を読む、正造魯鈍言語に絶ゆ。門弟即ち七十人中正造第一の無記憶といい、りんはほとんど第一の記憶生たり。始め兼三郎、四書五経を素読す。りんは今川庭訓位なりしに、忽ちりんの方兼三郎の上を出ず」
この手紙は、愛する妹リンの死後ほどなくしてリンの娘キチに与えたものであるから、妹への愛惜の念とともにいささかみずからを卑下している向きもあるかと思われるが、ほかの機会にもこのような述懐をもらしている。
(由井正臣:田中正造、岩波新書)


田中正造(9)

2009-08-29 14:50:21 | 田中正造
大正2年8月2日[ノート用紙] 
○八月二日より大字並木小学校内ニて安蘓足利治水細流枝川の保護会の必用を説く。校長大いによみす。
○悪魔を退くる力なきものゝ行為の半ばハ其身モ亦悪魔なれバなり。已ニ業ニ其身悪魔の行為ありて悪魔を退けんハ難シ。茲ニ於てざんげ洗礼を要す。
ざんげ洗礼は已往の悪事ヲ洗浄するものなれバなり。
○何とて我を

(「田中正造全集」第十三巻、岩波書店)

田中正造(8)

2009-08-29 14:47:37 | 田中正造
翁は山川視察の途次、大正二年八月三日、下野国足利郡吾妻村字下羽田なる庭田清四郎と云へる農家で、遂に病床の人となった。
君よ、言ひたい事は河の如く際限無いが、一切を棄てゝ直にその日を語る。

九月四日、清朗な初秋の朝空、僕は翁の顔をのぞき込んで朝の挨拶をした。
『如何です』
翁は枕に就いたまゝ軽く首肯いたが、やがて、
『これからの日本の乱れ――』
かう言ひながら眉の間に深い谷の如き皺を刻んで、全身やゝ久しく痙攣するばかりの悩み。
時は正午、日はうらゝかに輝いて、庭上の草叢には虫が鳴いて居る。
翁は起きると言ふ。僕は静かに抱き起こしたまゝ殆ど身も触るばかり背後に坐って守って居た。夫人の勝子六十何歳、団扇を取って前へ廻って、ヂッと良人の顔を見つめて軽く扇いで居る。
翁は端然と大胡坐をかいて、頭を上げて、全身の力を注いで、強い呼吸を始めた。五回六回七回――十回ばかりと思ふ時、「ウーン」と一声長く響いたまゝ――
瞬きもせずに見つめて居た勝子夫人が、
『お仕舞になりました』
としとやかに告げた。

翁が所持の遺品と言うては、菅の小笠に頭陀袋のみ。翌晩遺骸の前に親戚の人達が円く坐って、頭陀袋の紐を解いた。
小形の新約全書。日記帳。鼻紙少々。
僕は取り敢えず日記帳を押し戴いて、先づ絶筆の頁を開けて見た。
「八月二日。悪魔を退くる力なきは、其身も亦悪魔なればなり。已に業に其身悪魔にして悪魔を退けんは難し。茲に於てか懺悔洗礼を要す」
享年七十又三。

(木下尚江:神・人間・自由、木下尚江集、筑摩書房)

田中正造(7)

2009-08-29 14:38:12 | 田中正造
■ 亡国ニ至ルヲシラザレバ之レ即チ亡国ノ儀ニ付質問書 明治33年2月17日
右成規ニヨリ提出候也
明治三十三年二月十七日 提出者 田中正造
            賛成者 石原半右衛門 外三十四名

一 民ヲ殺スハ国家ヲ殺スナリ
   法ヲ蔑ロニスルハ国家ヲ蔑ロスルナリ
   皆自ラ国ヲ毀ツナリ
   財用濫リ民ヲ殺シ法ヲ乱シテ而シテ滅ビザルノ国ナシ、之ヲ如何
右質問ニ及候也

〔明治三十三年二月十八日衆議院議事速記録第二十九号、議長ノ報告〕

■ 同上質問の理由に関する演説 明治33年2月17日
○田中正造君(四十三番)去ヌル十二日ニ山林払下ノ件ト云フ質問ヲ出シテ居リマスルガ、是ハ説明ヲ省イテ置キマシタガ、今日ハ「亡国ニ至ルヲ知ラザレバ是レ即チ亡国ノ儀ニ附キ質問」亡国ニ至ルコトヲ知ラナケレバ、即チソレガ亡国デアル、斯ウ云フノデゴザイマシテ、殆ド政治談義ノヤウデゴザイマスルガ、皆此事実ノ半面ハ鉱毒事件デアッテ、事実ノ半面ハ即チ取モ直サズ政治ニアラザルモノハナイノデゴザイマス、ソレデ此十二日ニ出シマシタ質問ノ山林払下ノ件ト言フモノハ、モウ唯足尾銅山ノ近傍ノ関係ノ分ダケノ段別ヲ先ヅ皆様ニ御披露ヲ申シテ置カウト考ヘマスルガ、明治二十二年ニ払下ニシタノガ……(平ねぎ注:非常に長いため以下割愛)

〔明治三十三年二月十八日衆議院議事速記録第二十九号、質問ノ理由ニ付田中正造君ノ演説〕

■ 衆議院議員田中正造君提出亡国ニ至ルヲシラザレバ之レ即チ亡国ノ儀ニ関スル質問ニ対スル答弁

質問ノ旨趣其要領ヲ得ズ、依テ答弁セズ
右及答弁候也
 明治三十三年二月二十一日
                       内閣総理大臣山縣有朋

〔明治三十三年二月二十二日第十四回衆議院議事速記録第三十二号、議長ノ報告〕

「田中正造全集」第八巻、岩波書店