平ねぎ数理工学研究所ブログ

意志は固く頭は柔らかく

ゴジラ-1.0

2023-11-10 20:03:52 | 映画

GODZILLA MINUS ONE Official Trailer 2

予告編をみましたが、よくできていますね。
迫力満点の映像は素晴らしいと思います。
ただ、一つ気に入らないのはゴジラの動きです。
添付画像(1:20)はゴジラが前かがみになって吼えるシーンですが、着ぐるみを纏った人間の動作にしか見えません。
子どもの頃ウルトラマンやウルトラセブンをみて感じた違和感が解消されていないように思えます。
どこがいけないかというと、ゴジラの動きの時間スケールと人間の動きの時間スケールが同じなのです。
ここで、着ぐるみの俳優の身長を1.8mとし、本物のゴジラの身長はその50倍の90mであるとします。
そして、着ぐるみの俳優が前かがみになったとき頭が40㎝移動したとします。
そうすると、本物のゴジラの頭はその50倍の20m移動することになります。
着ぐるみの俳優の頭の移動に1秒かかったと仮定すると、着ぐるみの俳優の頭の移動速度は0.4m/sです。
本物のゴジラの頭の移動にかかる時間が同じ1秒だとすると、本物のゴジラの頭の移動速度は20m/sになります。
1秒の間に頭が20mも動けば本物のゴジラの首がどんなに頑丈にできていたとしても壊れますよね。
着ぐるみの俳優の頭の移動速度と本物のゴジラの頭の移動速度が同じであるとすると、本物のゴジラの頭は移動に50秒かかります。
加速度が同じであるとすると√50≒7.1秒かかります。
映画では50秒は間延びしすぎるので7秒くらいが妥当じゃないですかね。
いずれにしても、着ぐるみの俳優の動きが人間そのものなのです。
だから、むかしの怪獣映画をみた時抱いた違和感が拭いきれないのです。
着ぐるみの俳優の動きの時間スケールを工夫すれば違和感のない映画になったのではないかと思います。


宮崎駿の「風立ちぬ」

2019-04-14 20:43:48 | 映画

昨日今日と、6年前に書いた「風立ちぬの感想」へのアクセスが増えました。
6年前の記事なのになぜ?と不審に思っていたのですが、やっと理由がわかりました。
12日の「金曜ロードSHOW!」で放送されていたのですね。
あの映画はジブリの中では最低の作品なので観る価値はないし、
私の感想文もつまらなかったので、記事とコメントを丸ごと削除しました。
あの映画の感想を知りたければ、こちらの修正版を読んでください。


万引き家族

2018-06-09 13:33:46 | 映画

さっき観てきた。

【講評】
完成されたかに見えたジグソーパズルがバラバラになり、
再び組み合わせようとしても最後のパーツが見つからない。
時々おどろくほど鮮明な影像があらわれながら、却って現実の謎は深まってゆく。
見せかけの家族と犯罪と。その結果、虚構がついに現実に打ち克ち、
そこから見た現実自体の構造が、突然すみずみまで明晰になる。
ラストシーンがこの映画の恐ろしい解決編であり、作品全体を再構成している。

【評価】

 

追記 2018.09.11



公権力(安倍)からじゃなく国民から貰ってるんだから、是枝監督のいうことに何の矛盾もないよな。


有給休暇の一日

2013-09-26 19:50:14 | 映画

どうしても会社に行く気がせず休みにした。
サラリーマン生活が長いのでこういう日もある。
今日は空気が澄んで遠くまでよく見える。



西高東低の気圧配置になっているので北よりの風が吹いている。



だから中国からの大気汚染物質は飛んでこない。
SPRINTARSをみても日本の上空はきれいだ。



こんな日に家の中にいるのはもったいない。
というわけで、福山雅治主演の「そして父になる」を妻と観に行くことにした。
「そして父になる」はアルパークの109シネマズ広島で上映されている。
アルパークまでは自転車で30分くらいの距離だ。
運動にもなるし、面白い映画を観ることができたら、最高の休日だ。
急いで昼飯を食べ、午後1時55分の上映に間に合うように家を出た。
川土手を走っていると、太田川放水路橋の醜悪なアーチが見えてきた。



最優秀に選ばれたエイト日本技術開発の案であるが、私は良いと思わない。
宮島まで見通すことができた景観がぶち壊しである。
そのようなことを思いながら、太田川放水路の土手を南へ走る。
頬にあたる風がさわやかで心地よい。
30分走って109シネマズ広島に着いた。



そして、観た。
福山雅治が感想を聞きたがっているので言おう。
感動した。素晴らしい映画でした。私の評価は
皆さんもぜひどうぞ。


「風立ちぬ」の感想(2)

2013-09-02 21:24:25 | 映画

批評家のコメントに、武器を作ることへの葛藤が描かれていないから失敗作だというのがありました。これはもっともな意見です。では、なぜ葛藤が描かれていないのでしょう。宮崎駿監督がわざと描かなかったのでしょうか。違います。描きたくても堀越二郎氏に葛藤が無かったからです。1970年に出版された堀越二郎氏の著書「零戦」光文社、から引用します。

初めての戦果
正式採用されてからも、なおしばらくのあいだ、この新鋭戦闘機が中国で戦果をあげたというような話を聞くことはなかった。それをはじめて耳にしたのは、中国へ進出の知らせを受けてから二ヵ月後の、昭和十五年九月十三日の夕方のことであった。
つね日ごろ物に動じない服部部長が、いつになくうれしそうな顔をして、開口一番、「堀越君、大ニュースだよ。」というような意味のことを言ったのを憶えている。
そして、きょう、中国大陸で零戦が敵機二十七機を撃墜するという大戦果をあげ、そのため、海軍航空本部では、その零戦を設計・製作した三菱重工、エンジンを設計・製作した中島飛行機、そして二十ミリ機銃を製造した大日本兵器の三社に対して、異例の表彰を決定したと教えてくれた。
あまりにも突然のニュースではあったが、それだけに、私の「ついにやったか」という感じも強烈であった。部長はさらに、この表彰式があす行われるから、私も列席するようにということを付け加えた。私は、きょうの戦果に表彰決定、そして、あすの表彰式という、ことのはこびのすばやさに驚いた。しかし、このことで、海軍がいかに喜んでいるかがわかるような気もした。私たちは、その日の夜汽車であわただしく東京に向かった。そして、翌日、三菱の本店と三菱名古屋製作所の幹部のあとについて海軍省で行われた表彰式に列席した。<略>
会社に帰ると、案の定、設計室中がこの報道でもちきりだった、私も、表彰式のもようなどを話し、私たちが苦心して作りあげた零戦の戦果を、みなで喜びあった。
二、三日後、感謝状の写真が届けられた。会社が私のためにわざわざ作ってくれたのである。その写真は、戦後もしばらくのあいだ、黄色くなって私の手もとに残っていた。取り出して見るたびに、これを設計室に回覧した時の、一人一人のうれしそうな表情が、目に浮かんできたものである。


葛藤などどこにも感じられません。それどころか、敵機二十七機を撃墜したというニュースを聞き、職場仲間と一緒に歓喜に酔いしれています。また、戦後になってこのときの情景を懐かしく思い出した、とも書かれています。
戦争中、詩人や画家が国民の戦意を高揚させるための作品を作りました。高村光太郎もその一人です。多くの戦争賛美の詩を発表しています。しかし、戦後は戦争に協力したことを心から反省しています。「戦友別盃の歌」で知られる大木惇夫もそうです。画家では、藤田嗣治もそうです。文学者や画家は、戦争に協力したことを恥じて後悔しているのに、堀越二郎氏は、自責の念にかられることもなく、零戦が敵機二十七機を撃墜した日のことを懐かしく回想しているのです。この違いは何でしょうか。私は技術者のはしくれですが、自分が設計した「物」で敵搭乗員が死んだことを後になって懐かしく思い返す心理がどうしても理解できません。もちろん、戦時中と平和な時代の今とでは時代背景が異なります。当時の常識と今の常識が違うことは理解できます。しかし、戦後の平和な時代になっても、戦時中と同じ意識のままでいるのは理解に苦しみます。
私は三菱重工業の社内研究会に参加したことがあります。「強度と振動」と題する研究会で、長崎研究所に所属し魚雷の研究をしていたK氏が、「魚雷の先端角度をどのようにすれば破壊力が増し、敵艦を一撃で沈めることができるか」について嬉々としてプレゼンしていたのを憶えています。彼とは少し面識があったのですが、性格は温厚で礼儀正しく、見た目には人殺しの道具を開発している人には決して見えません。人は見かけによらないものだな、と思ったものでした。K氏はなぜ魚雷開発の研究を続けることが出来るのでしょうか。自分の研究によって多くの人が死ぬかもしれないと思ったとき、なぜ葛藤が生じないのでしょうか。私にはまったく理解できませんが、技術者の中には、よい仕事をすればするほど人が不幸になるという矛盾に対し何ら苦痛を覚えることなく仕事は仕事と割り切ることができる人がいるのです。堀越二郎という人はそのようなタイプの人でした。戦後25年経って書かれた堀越二郎氏の著書には、人殺しの道具を設計することへの疑問や葛藤は1行も書かれていません。
宮崎監督はなぜこのような人物を主人公にしたのでしょうか。それはおそらく、宮崎監督自身が筋金入りの軍事オタクで無類の戦闘機好きだからでしょう。そして、堀越二郎氏と同じように、日本軍の戦闘機によって敵機が撃墜され、敵搭乗員が死んでも苦痛を感じない性格の持ち主だからでしょう。宮崎監督は古希を過ぎてもプラモデルを手放せないような人です。この映画は自分自身を描いているのですが、それを隠すために、感情を決して表に出さない寡黙な青年として主人公を描き、実在しない女性菜穂子を登場させ、恋愛映画にすりかえているのだと思います。
この映画は駄作です。たとえ夫婦の日に1800円が1000円に割引されたとしても、観る価値はありません。


日本アカデミー賞で「東京タワー」が5冠

2008-02-17 21:04:33 | 映画

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080215-00000019-maiall-ent
(<日本アカデミー賞>「ありえない」?「東京タワー」が5冠 オダギリジョーも驚き)

出演者が「ありえない」というのだから、よほどひどい映画なのでしょう。他の映画祭ではかすりもしない映画がなぜ受賞できたかについてはさておき、一観客としての正直な感想を言わせてもらうと、この映画はホントにひどい映画でした。以下は、mixi(2007/5/25)に書いたものです。

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『東京タワー、オカンとボクと、時々、オトン』を観た。今まで色んな映画を観てきたが、これほど出来の悪い映画は記憶にない。

映画全体のイメージは、どす黒く濁った水彩画かな。どの人物も魅力が無くて、しかも汚い。

冒頭に、「5秒後、とてもアバンギャルドなことになります」という思わせぶりなナレーションが流れ、何があるのかと期待していると、泥酔したオトンが戸を蹴破って家に入るという、最低最悪の演出。ここで観る気が失せ、席を立って帰ろうかと思った。
私は、酒の勢いで物を壊す人間が大嫌いだ。こういう馬鹿野郎は酒を飲む資格がない。飲まれる酒が可哀想だ。

この馬鹿野郎を演じていたのは、小林薫だが、あんなに大根だとは思わなかった。自由気ままな人間を演じようとすればするほど、魅力のない下品な人間が強調されるだけ。「私はこれほど自由な人間を知らない」などという、屋上屋を架すナレーションがとどめをさした。オトンの役割はこれで終わり。もう出てくるなと願った。が、最後までダラダラと出た。うんざりだった。

つぎはオカンであるが、これも人物像がぼんやりとして、つかみ所が無くて、なんだかよくわからない。子供を可愛がるわけでもなく、邪魔にするわけでもない。親子関係が全然描かれていない。
オカンも、オトンほどではないが相当いい加減な女で、花札で博打をするわ、口紅を真っ赤に塗って浮気に行くわ、やりたい放題。
主人公も、高校から勉強をしなくなり、大学では麻雀と女に明け暮れ、留年を重ねる。

つまり、どいつもこいつもふざけた人間ばかりなのだ。最後に、おカンが胃ガンで死ぬのだが、それがどうしたと言いたい。普通のできごとだ。私の姉は44歳のとき乳ガンで死んだ。死ぬときはガン死が一番多いのだ。
オカンの死に臨んで初めて家族が一つになったことを言いたいのだろうか。しかし、それはどの家庭にもある。映画化するほどのことではない。映画の後半は、観客を泣かそうとする安っぽい演出の大集合だ。どれもこれも使い古されて手垢がついているので涙なんか出やしない。

結局この監督は何を言いたかったのだろう?

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