NHK戦争証言アーカイブスより、今津茂さん(衛生兵)の証言
約6か月間の教育期間があったです。
4月に、派遣されてですね、それで約6か月間、衛生兵教育をされたわけですけどね。
その集大成っていうか、病院で、石家荘の陸軍病院で教育を受けて、いよいよもって教育も終わる、それで原隊へ帰るというそのときですね、
まあ、教育の集大成として、そして解剖の実習っていうですか、そういうものを見せられたわけです。
Q:それはあれですか? どういうふうに最初言われたんですか? いちばん最初は。
いや、あの、もう生体解剖なんていうことは全然教育兵には、知らされなかったですね。
で、まあ大体2、3日で教育が終わってですね、それぞれ原隊へ帰るという、もう半ば浮き浮きしたようなね、気持ちで、まあ同じ教育兵はいたわけです。
ところが、もう2、3日で帰れるというときになってですね、そして、「仕上げの教育があるから、それだから、第2教場へ集まるように」って、まあ通達っていうか、あれが出たわけなんです。
それで、教場が2つあるっていうのはですね、一般的なこう学問を、学問と言うと変だけども、それをね、教わるのは普通の講堂でやるんですね。
机がこうあって、200人近いですから、もう名前なんかはね、イマヅとかタカハシとかなんてのは、もう教官も覚えられないので、大体自分の机の前に番号札あるわけです。
ま、例えば200人いると、1から200番まであるわけですけどね。
それでその教場で、普通の教場で、机に向かってやる、教場と、それで第2教場って言ってですね、あの、手術だとか、包帯だとか、実技ですね、
そういう、按摩だとか、いろんなこう、実際の実技をやる教場は、またその講堂の机なんかの並ばってる教場とは違ってですね、こういう真ん中に、手術台があるわけなんです。
それでその周りをぐるっと丸く取り囲んでですね、何段かのひな壇みたいな椅子があってですね、それでここで、こう自分たちで患者になったり、術者になったりして行なう教育もありましてね、
で、包帯とか按摩術とか、副木、骨折のね、副木のつけ方とかってのは、患者に見立てた兵隊をそこへ置いてですね、
そいで教官の、あのこう、講義や助手の、動作と一緒に、私たちもまあ、それを学んでいく。
ま、それが第2教場だったですけどね。
だからそこで生体解剖が行なわれたわけですけどね。
それで、もう教育はぼつぼつ終わって、先ほど言ったように、2、3日で原隊へ帰れるっていうような浮き浮きしたときに、第2教場へ全員集合するようにっていう、まあいわゆる命令が出たのでですね。
「なんだ?今んなって」っていうようなね、危惧な念と、ほいで、もう1つは、後で考えれば、それが以心伝心ていうかね、みんなあのこう、教場へ集まったときね、こう普通のざわめきと違うんですね。
なんかこう、変な予感ていうかね、空気がね、漂っていました。
で、まあ大げさに言うと、みんなで顔を見合わせて、「何だ、今日は。今日は何の講義だ」っていうようなね、
まあ、変な気持ちになってたところへ、ドアが、向こうのドアが開いてですね、そして軍医が入ってきたです。
それで、手術着を着てるんです。軍医が。
それで、今度は助手と、それが入ってきたわけですけど、ところが、まだ二十歳代くらいなね、若い男が目隠しされて、それあの、いわゆる支那服ね、普通の服を着た、捕虜ですよ。言うなれば。
それがね、目隠しされて、ほいで後ろ手に縛られてね、ほいで、この助手がドア開けて入ってきたです。
そんとき初めて、もう変だな、おかしいなと思ってたけど、「あ、これは」っていうね、予感ていうか、そういうものは、何かこれであるなという気持ちにはなりましたよね。
それで、そこへこう連れてこられて、ま、そしたら、軍医が「解剖のね、総仕上げのこれから勉強するんで、それで今までの習ったことをね、しっかり思い出して、
そして、指名されたらね、元気を出して答えろ」っていうことは、まあ軍医が言ったんですね。
で、一緒に連れてきた助手が2名、捕虜と一緒に入ってきたんですけどね。
ところがもう、まったく、全員そこへ立ち会った私たち兵隊はですね、もう異様な雰囲気で、
まあ、とんでもないことが起きるだっていうことをね、感じましたからね、顔色ももう冴えないし、半ば震えたような気持ちでいたですけど、そしたらそれをもう下士官は見越してね、
「おまえたちは震えてるだろうけれども、指名されたら元気を出して答えろ」と。
「これがこれまでの教育の、成果だから」ということでですね、まあハッパをかけられたですけど。
正直、自分の気持ちの上では、「ぜひ、その指名がね、自分には向かないように」ってね、祈ってたのはそこに立ち会った、立ち会わせた兵隊のあらかたの気持ちだったと思いますね。
それでそれはもう、助手も見越してね、
「おまえたちは震えてるだろうけれども、このためにね、俺たちの仲間が幾人殺されたか分からないということを思えば、しっかり勉強の成果をあれするようにね、勇気を出して答えろ」、
まあそれを言われたのが、ずっと心に残ってました。
ほいで、いよいよもって、まあその捕虜が手術台へくくりつけられるわけですけどね、
まあ私たちのこう気持ちでは、こう暴れるだろうとか、抵抗するだろうとか、泣きわめくだろうとかね、そんなようには思っていたですけどね、
でも最初入ってきたとき、そのあれが始まる前にですね、
ま、最後のたばこだという、意味合いだと思うですけども、連れてきた下士官が、たばこへ火をつけてですね、自分がちょっと吸ったやつを捕虜にくわえさして、
「これが最後のたばこだから、たばこ吸うように」って、出したんですけどね、
捕虜の口へくわえさせようとしたらば、その兵隊に向か、下士官に向かってですね、唾と一緒にね、そのたばこをパッって、吹きつけたんです。
それで皆、そんときは、ハッというような雰囲気だったですね、みんな。青くなったです。
それでもう、その捕虜は観念して、そして、脇に2人いたのが上へ上げらしてですね、手術台へ上げらしてあれしようとしたらば、こう、払いのけるようにして、もう目隠しされているですからね、
その脇のこう、手術台を手探りで、自分でね、観念して、それで上って、あれしたです。
それで、まあ上って観念していたのを、助手がこうバンドで両足と両手を締めて、それでもう執刀が始まったです。
Q:それは、どっから執刀が、は、最初。
それで、いちばん最初はですね、支那服、まあいわゆるズボンをはいてるですからね、ズボンをずっと切り裂いて、そして、執刀を始めるんですけど、その前にね、麻酔するんです。
で、今はもう高度な麻酔ですけどね、今の医学では。
そのころだと、もうほんとに、初期的な麻酔っていいますか、網目にこう、金をこう組み合わせたのを顔へ乗っけ、ここへ乗っけてですね、
それへガーゼをかけて、そして、ガス剤のクロロホルムって、麻酔だと思ったです。
それをこうバーッとかけるとですね、凍ったようになって。
で、そのガスを、呼吸と一緒に吸い込むとですね、相当の、当初、覚醒って、まあこう、それを、吸い込んで脳へ作用するまでに、こう、暴れるんですね。
こう弓なりになったり、こう、これをあれしたりしてね。
それで、その覚醒期を過ぎると、まあ麻酔が効いてきて、もうぐたっとなっちゃうんですね。
すると初めてまあ麻酔が効いてきたからということで執刀が始まったですけどね。
さっき言ったように、このズボンをずっと切り裂いて、そして、上着もほとんど取っちゃってですね、それで足の先から、執刀が始まったんです。
それで、まあ説明が、「ここが、尺骨だ」とか、
「ここがこういう関節だ」とかってね、まあ初歩的なそういう説明から、大腿部へ入って、それであの、内臓へ入ると、そうするともう、腸だとか、まあいわゆるこれが肛門へ続いてるね、直腸だとか、
それでこれが結腸とか、十二指腸、これが小腸、大腸とかっていうような、まあ、内臓を外へ出してね、説明するですけど。
ま、大体そのころになるともう、上の空でね、見てることは見てなきゃ怒られるし、ぶっ飛ばされるのでしょうがない、慎重にこう見てるんですけどね。
もうほんとに心の中はもう、表現できないです。
あの、こう、残酷っていうか、初めてのね、そういう場面へぶつかってね、まああんな思いは初めてしたです。
もうまともに兵隊がね、学術のためにもね、勉強のためになんても、なんて言ってね、見てる兵隊いなかったです。
はっきり言って、もう下を向いたりね、ほいで青ざめてね、もう自分自身もそうだし、周りの兵隊、仲間見てもね、もうほんとに、何て言うかな、形容できないような状態で見ていました。
それでその心臓を取り出して、「これがそうだ、心臓だよ」って言って、こう軍医の手の上でこう動いてるんですけど。
それで、大動脈をね、こう、「これが大動脈」、これが、「大静脈っていうのはこれが」って説明しながら、静脈を切ると。
それでまあ心臓が動かなくなるし、まあ人生終わりで死んだわけなんですね。
それで今度はその心臓を裂いて、「これが右心室、これが左心室」とかって、説明をされたですけどね。
さっき言うように、もうまともにそれを意識へとめて勉強しようなんて、とても状態ではなかったです。
もうそれで大体、その、いわゆる捕虜の命は終わって、それであと脳の、脳骸を外してね、
もうあの、頭骨を、そして脳の説明したり何かさせたですけども、あとはもうほんとに覚えていないくらい大きな、まあ、ショックだったですね。
ここがねえ、真ん中のあの手術台がこう、あるんですね。
これが手術台で、ほして、こっちにあのう、入り口がこうあって、そうするともうこう、こっちにドアがこうあるんだけど、あとはここへね、ひな壇で3段ぐらい、こう通路になるですけどね。
それでこれが手術台で、それでこれがあの、こう木の椅子でですね、
こうひな壇式になってるですよ。ここが、低くてね、ほいで、1段上がって、1段上がってっちゅうようなこうなっているんです。
ほいで、4段ぐらいじゃなかったかな。こういうようになって、それでこう見下ろすようになってる、あのう、実技の講堂です。
それで普通の講堂っていうのは、こう、学校の講堂みたいでね、机があって、それで椅子があるのは同じですけど、
それは平らなとこで、演台がいちばん前にあるっていうの、そういうようなあれになってたです。
ほいで、この手術台へ、結局上って、ほいで、このバンドで締められて、ほいで、あれが始まったです。
Q:これ今津さんはどこで目撃した・・・。
私はね、はっきりした記憶ないですけれどね、前からね、2つぐらい目だったっていうことは大体覚えてるんですよ。
だから、まあ大きい講堂ですから、これはこんなちょっとあれだけど、こういう椅子もこうずっと並ばってるですけどね。
例えば僕がここにいて、そして、まあ恐ろしいということを感じていて、隣のやつの顔を見たり、
ほいで、こう、・・・雰囲気なんてのはよく分かるわけですからね。
ほんとにこの悲壮なこう、何と言うかな、雰囲気と、それで青ざめてもう、ほんとならこういう場にいたくないっていうようなね、気持ちっていうか、そういう雰囲気だったですよ。
それで結局、その解剖が終わって、それで、普通ならば、まあきちっとね、縫合したりきれいにしてあれするでしょうけども、
一応はそれは、また元へ内臓を収めて、そしてあっちこっちを縫い合わして、そしてあれしたですよ。
それで、「もうこれで終わりだから、だから、おまえたち誰か指名されたら出てきて、で、包帯の勉強をしろ」と。
「包帯してやれよ」ということが教官に言われたですけどね、指名されても誰も出て行ける勇気のある人間はいなかったし、そして、そういうことはもう教官も、こう百も承知でね、
「おまえたちはもうそんなことはできっこないだから、いい。じゃ、助手でやるから」と言って助手が簡単な、
まあ包帯っていってもですね、それを隠す程度にあれして、それで荼毘(だび)に、まあしたです。
それでまあ、その解剖の実習を終わったですけども、
まあ、そんときの率直な気持ちっていうのは、いくら戦争で敵って言っても、直接自分に危害を加えようとするならですね、戦争でなくても何でも、
その人間に対して敵愾心とか、そういうものも起きるでしょうけど、そうでない。
捕虜といっても自分たちが直接かかわった者でない人間を、そうやって人体を切り刻んでですね、それで終わったっていうことは、もうほんとに大きな心の痛手ですねー。
そのとき立ち会った百何十人、200名近い兵隊のですね、後ずうっと心の傷になって残ってたと思いますよ。
それで、「最後の会食」って、まあみんなで一緒にご飯を食べて、そしていよいよ原隊へ帰るっつう形の中で、この、講堂へ全部集められてですね、
それで最後の会食、お昼だったですけども、うどんだとかですね、そして、まあいろんなものが出てる。
私たちは普段なんかあんまり口にしたことはないですけど、お汁粉とね、そして羊羹が1本ずつ、たばこ1個かな、それで自分のこう指定された席にこう、置いてあってですね、
それでそこでご飯食べて、それでいよいよもって原隊へ帰るわけですけどね、その直後だったですから、誰もご飯を食べるのがなかったです。
それで見ればもうみんな手をつけずにね、でもう、もう、喉から出る、手が出るほど欲しいたばこと羊羹だけはね、みんな持ち帰ったですけどね。
うどんだとか、お汁粉だとか、ご飯なんてものは、ほとんどの人が手をつけなかったです。
そういうようなことを覚えてます。
音羽博次さん(軍医)の証言
手術演習としてね、捕虜を使ってね、そして手術をしたというのもありましたよ。
それは軍のあれが、命令がきて、やりなさいって言うんだからね。
それでその捕虜はほとんど死にましたけどね。
そういうことはありました。
ただ、それも麻酔は使ってのことだから。
Q:そういう軍の指令があったんですか?
あ?
Q:軍の指令があったんですか?
もちろんありましたよ。
私がね、中尉で、担当医であって、ほしてみな、見習い士官になってたその召集軍医の慣れた人がね、もう1人いまして、その人は熟練者だからやっぱり手術はうまかった。
そういう人はいました。
Q:誰から具体的にどういうふうに、まず言われたんですか?
それはね、今の所属部隊があるから、所属部隊の部隊長から我々は聞くわけです。
それで、その部隊長ちゅうのは病院長ですね、軍医中佐ぐらいの。
そして、その上の、軍司令官を初めとしてね、そういうことを、今のを、やったほうがいいんじゃないかということはその人たちが決めるわけで。
私たちは、だから、言われたとおり、こういうことをしなきゃなんないなと、そういうことでやったわけですからね。
どこどこの場所でこういうことをやるから、おまえはその教官だと言われて。
それでその教官を務めたわけだから。
そんな一々どういうことだと言って、軍司令部なんていうやつは太原にいるけど、我々の部隊ちゅうのは路安のような田舎にいたんですから。
それで、軍司令部の連中が病院長に向かってね、「おまえとこの誰々を出せ」と、そういうことを言ってくるわけだから。
そしたらこっちはそれに従わざるを得ないと。
そういうことになるかな。
Q:そのときは、音羽さんのときには、どのぐらいの軍医の方が、実際、捕虜への手術の演習をしたんですか?
そのときはね、そこのね、どのくらいだったろうかな。
やっぱり50人近くいたんじゃないだろうか。
それだけの人間がね、一堂に会してそういうことをやったわけですわ。
それの教官をたまたま私が1人なったと。
それから、階級は違うけども、熟練者もいたと、そういうことで成り立つわけだ。
Q:軍医が50人もかかわったんですか?
ええ。それは1軍だから。
3個師団ぐらいのね、あれが軍ですから。
今の36師団ちゅうのとね、37師団ちゅうのと、62師団か、69師団か、何か3つぐらいの師団があって、その上に軍司令官がいたわけですから。
どんなことをしゃべったか、そんなことは忘れましたよ。
ただ、こういう場合にはこうするもんだと。
手術のあれがあるでしょう? そんなのは多少言ったけど。
で、実際は、その、今の、熟練者のね、あれがやってくれたことが多いですよ。
私はただ、極端に言やあ看板みたいなもんだな。
Q:捕虜への執刀というのはしたんですか? 捕虜への執刀、メスでというのは実際に・・。
そうそう、みんながやったわけだ。
50人近い人間が。だから、今からそういうことは考えられない。
それが戦争ちゅうものなの。
戦争の一部にそういう面もあるんだと、ね。
そうかと思やあ、空から爆弾が降ってみんな死んじゃうだってあるんだから。
そういうものを一々どれがどうなったかって聞かれたって、そんな、分かんない。
Q:その50人の皆さん、どんな表情だったんですか?
やっぱりね、あれですよ。
そのう、全部がね、外科医じゃないんだから。
耳鼻科の先生もいるし、眼科の先生もいるわけでしょう?
だから、外科の手術をやってみてよかったという人もあるでしょうし、やりたくないと思った人もあるでしょう。
それは自由にいろいろな考えがありますよ。
Q:その場の雰囲気は、皆さん、どんな感じだったんですか?
いや、やっぱり新しいことを覚えるんだから、外科に類することを覚えるんだから、それはやっぱり、どっちかちゅうと興味を持ってたのが多いと思いますよ。
ただ、相手が悪かったんじゃ。
そのころ、そういう、日本の軍隊にはね、捕虜を虐待しちゃいけませんなんていうね、思想があんまりなかった。
で、国際上の決めにはね、捕虜を虐待しちゃいけませんちゅうのはあったんだけど、そんな話は通用しなかったんだ、軍隊では。
だから、それが初めから間違ってるんだ、そういえば。
戦争するのが間違ってんだ。
両方話し合えばできることを、バカンと始まっちゃったんだから、それ自身が、あんた、間違いだの。
Q:音羽さんはどうだったんですか?
いや、そんなもん、やりたくなかったですよ。
できれば断りたかった。
そのときには断れるような立場になかったから、しかたない、引き受けたようなもんだ。
それは、戦争なんて個人の意思を無視してやることだからね。
それが戦争だもん。
それの一部だ。
我々はいやでもやんなきゃならなかったという。
ね、そういう面があるわけですよ。
それは平時に考えられない、あれと違いますからね。
誰もやりたいのはいない、誰も。
それは、中には日ごろやれないことをやるんだから、やりたいという人もあったかもしらんけど、それはごく一部ですよ。大部分はやりたくないんだ、本来は。
だけど、今のようにね、我々が日ごろやってた技術と違うとこがあるから、そこんとこは、みんな、新たな技術を見たいというか、熟練したいと、そういう気持ちはね、医者としては当然あったと思います。
私は何もいいことしたと思わないですよ。
軍の部隊長にね、「教官をやりなさい」と言われたからやったんだ、と、そういうことですわ。
日本のあの軍隊ちゅうものはね、上の者の言うことは、絶対聞かなきゃならないということに、教育されてるもんだから。
Q:でも、もし心の葛藤とか、なぜこんなことしなきゃいけないのかな、とかですね…。
それはもちろんありますよ。それは人間だからね。
人、人の命を扱うんだから、もちろんそれはありますわ。
ろくなことしないということは、それは。
だから今日になってね、そういうことをさらに暴く必要があるのかないか、それはあなたがたが考えればいいことであってね、われわれにその責めを全部負わそうちゅうのは、ちょっと酷でないかと。
軍の命令でそういうことをやったんだから、な。
そういう面もある。だから、興味本位にやったちゅうのとは、また違いますからね。
Q:今まで、こういう捕虜に対して手術の演習をしたというようなことは、どなたかにお話ししたことはあるんですか?
いや、あんまりしないね。
それは自分でろくなことしたんでないなとは思うから、ほかの人間にそんなね、公表すべきことではないんだから。
人間としてね、人間の道にいわば外れてる、いうとこだから、そんなものしゃべりたくないです。
Q:ちょっと心にずっと引っかかってるものが・・・。
あるある。
うん、それはありますよ。
それだからこそ、やっぱりあの死ぬまでにはね、そういうことやっぱり言わなきゃなんないとは思ってます。
Q:軍医になって、いろいろその、自分ではどうすることもできない、そういう状況に追い込まれたりしましたけども、今振り返って、その医師になってよかったですか?
うーん、そうね、やっぱりね、強いて言えば、あんまりやりたくないね。
それはまあ、ほっとけばね、死ぬに間違いないのを、どうかして助かったんだということもありますけどね。
そういうもんもいくらかあるけども、やっぱりその今のようなね、戦争でひど、ひどい目に遭ったと。
ひどい目に遭わせたというか。
そういうあの気持ち、気持ちが悪いちゅうことはね、やっぱりつきまとうですよ。
だから戦争がなければそういうことはないんだから、だから戦争やっちゃいけないと。
それを一生懸命言うよりしょうがないと私は思う。
Q:今もつきまとってるんですか。
え?
Q:今もつきまとってる?
つきまといますよ。
それは時々ね、思い出すよ。
戦争、戦争に行ってな。
それはやっぱり死ぬ、死ぬまで大なり小なりね、あの思い出すな。
そういうもんだ。
Q:もう66年もたってますけど、やっぱり今でも?
いや、それはやっぱりその人によるかもしらんけどもね。
やっぱりその、ああ、あのときはひどい目に遭ったなというようなことは余計思うしね。
それから、もうちょっと何か方法がなかっただろうかちゅうようなね、反省もたまにはあるし。
だから、医者がやってよかったか悪かったか、それも半々だな。
生体解剖を行った音羽博次氏は北海道大学の出身なのですね。
2018.02.26 追記 (今日は2.26事件の日)
南京事件はありました。あったことは外務省も認めており、それを証明する多くの資料があります。
戦争の恐ろしさは、平時には虫も殺さないような人間が、戦争になるといともたやすく悪魔に変ってしまうことです。
父は、昭和12年二十歳のときに志願して軍人になり、終戦直前の南方への転戦以外は中国大陸で戦ってきました。
私に南方(ラバウル)の話は時々してくれました。でも、中国大陸でのことは一切話してくれませんでした。
父は睡眠時によくうなされました。
大声をあげるので母がびっくりして「どうしたの?」と訊くと、きまって「支那人に追いかけられる夢を見た」と答えていました。
亡くなる半年前のこと、突然、ベッドから半身を起こし、
「戦争はいけん。平和が一番」
と言いました。
若いころは帝国軍人そのままで、「平和」という単語を口にするような人間ではなかったので意外な気がしました。
父も中国人民に対して酷いことをやっていて、死ぬまでに一度懺悔の気持ちを誰かに伝えたかったのではないかと思っています。
(つづく)
南京事件はありました。
被害者数に認識の相違はあるもののあったことに関しては外務省も認めています。
こんなサイトもあります。
そのやり口は長州テロリストたちが戊辰戦争時に会津や二本松で繰り広げた蛮行によく似ています。
中国において日本軍が行った鬼畜にも劣る残虐非道の行為は南京だけではない。
中国全土のいたるところで南京事件のようなことをやったのです。
(つづく)
父は中国大陸での戦争体験を語りませんでした。
戦争体験を語るタイプと語らないタイプに分けるとすると父は後者でした。
部隊は違うけれど父と同年兵の覚一おじさんは前者でした。
我が家に遊びにきて酒が入って機嫌がよくなると中国での武勇伝を語りました。
私が5~6歳のころだったので正確には記憶していませんが概ね次のような話をしました。
村を焼いたとき支那人はどこかにおらんかとみんなで捜したら隠れていたのを見つけた。
「おった、おった」と言って捕まえ穴に首だけ出して埋めて枯れ草を集め火をつけて焼いた…云々
2018.02.27 追記
日本軍による中国での残虐非道の行為は数え切れないくらいありました。
例えば731部隊です。
百田尚樹や「永遠の知能0」に毒された読者は無かったと信じているようです。
親友の父親が731部隊に配属されていたので、間違いなくありました。
無かった説を破るのは非常に簡単です。あった事実を示せばよいのですから。
2018.02.28 追記
731否定論か
なぜ否定するのかねぇ、ようわからん。
あったのだから仕方ないじゃないの。
2018.03.01
あったことはあったのです。
あったことを認め、二度とこのようなことが起きないようにする。
歴史を学ぶ意味はそこにあります。
最後の海軍大将井上成美はつぎのように語っています。
「海軍の名参謀井上成美、新人物往来社」から引用します。
新名>
最後に、太平洋戦争というものに対するお考えをおきかせください。
井上>
われわれが歴史を勉強する目的は、過去のことを正確に分析して、そこから現代の役に立つ教訓をくみとることにあるはずです。
ところが、かつて明治時代に、日清・日露という二つの大きな戦争をやり抜きましたが、
そのあとで歴史家や軍人たちが、二つの戦争とも、戦闘では勝っても戦争では負けていたと見るべきだったのに、
勝った勝ったと有頂天になり、「シナ何するものぞ」「ロシアくみしやすし」という空気をうみだしてしまい、それが昭和までもちこされてしまいました。
そして、満州事変、シナ事変となり、ついに米英を敵にまわす戦争に突入してしまったわけです。
歴史を学ぶということ、真実がどこにあるかということを見極めることが、これほど大事な意味を持っているんだとい うことを、
二十年前の八月十五日がまざまざと教えてくれたと思っています。(「人物往来」昭和四十年八月号所載)