平ねぎ数理工学研究所ブログ

意志は固く頭は柔らかく

危機管理の基本

2020-02-21 20:45:00 | 雑学

追記 2020.02.21



 

① 最悪の事態に備える

危機管理の基礎となるのは、
組織のトップが常に最悪の事態に
備えるということである。

 
金美齢>総理、ごちそうさまでした 。でも高かったんでしょ?
安倍>なーに、どーせ家畜から搾り上げた金なんだから気にするこたぁないですよ。

追記 2020.02.20

>コンビニの缶と瓶が一緒になるゴミ箱だよ 

 

追記 2020.02.20

初期対応を間違えたために取り返しのつかない事態に陥っていますね。
失った信用を取り戻すのに何年かかるか…

⑤ ダメージの防止

組織が被る可能性のあるダメージを防止することである。
物質的な損害をコントロール
することは難しいが、広報
活動などにより心理的な側面からダメージを軽減するこ
とは
できる。

⑥ 効果的解決

ダメージを防止することにより、緊急事態を効果的に解
決することが可能となる。

記 2020.02.17

「技術士制度における総合技術監理部門の技術体系」(社団法人日本技術士会)より、

① 最悪の事態に備える

危機管理の基礎となるのは、組織のトップが常に最悪の事態に
備えるということである。
これは、常に悲観的に最悪を予測し、
その事態が悪化しないようにすることを意味して
いる。楽観的
な予測に基いて対応策を準備した場合、悲観的な事態を招いて
しまうこと
があり危険である。そのため、計画立案の初期段階
で、組織トップ層が
緊急事態に対し
て自らの対応を調整し、管
理できる予測手段を集合させることが重要である。


日本は正反対のことをしている。


命じられてございます

2012-02-13 05:30:31 | 雑学


郁太郎は土間に入ると、客人を連れて来たと声を高くして告げた。やがて家の奥からからほっそりとして目が涼しげな十六、七の娘が出てきた。薫だろう。掃除をしていたのか襷を取りつつ頭を下げた。庄三郎は近づいて、
「それがし、先ほどまで奥祐筆を務めておりました壇野庄三郎と申す。ご家老様より、戸田様のお仕事を手伝うよう
命じられてございます
と挨拶した。


蜩ノ記という小説の一節である。昨日買って7ページまで読んだ。「命じられてございます」に絶望して読むのを止めた。
「命を区切られた男の気高く凄絶な覚悟を穏やかな山間の風景の中に謳い上げる、感涙の時代小説!」なのだそうである。もう少し我慢すれば、作者の壮大な構想に触れることができるのだろうが、「命じられてございます」が気になって読み続けることができない。1600円をドブに捨ててしまった。

To be or not to be, that is the question.(その2)

2008-06-08 09:49:56 | 雑学
翻訳サービスを試してみました。

「すなわち、あるように、いてください。問題。」
http://www.excite.co.jp/world/english/(Excite翻訳)

「であるか、またはではないように、それは問題です。」
http://www.ocn.ne.jp/translation/(OCN|翻訳サービス)

「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ。」
http://tool.nifty.com/globalgate/(翻訳@nifty)

「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ。」
http://translate.livedoor.com/(livedoor翻訳)

ExciteとOCNは味のある翻訳を考えているけれど、niftyとlivedoorは最低。
下手でも自分の頭で考えにゃ。

To be or not to be, that is the question.

2008-06-07 20:54:48 | 雑学

To be or not to be, that is the question.
ハムレットの台詞ですが、いろんな訳があるようです。

「存(ながら)ふか、存へぬか?それが疑問ぢゃ」(坪内逍遥)
「世に在る、世に在らぬ、それが疑問じゃ」(坪内逍遥)
「生きているのか、生きていないのか、それが問題だ」(竹友藻風)
「どっちだろうか。さあ、そこが疑問」(浦口文治)
「生か死か……、それが問題だ」(久米正雄)
「生か死か、其の一を撰ばんには」(山岸荷葉)
「ながらふる、ながらへざる、ここが考へどころぢや」(土肥春曙)
「死ぬるがましか、生くるがましか、思案をするはここぞかし」(外山正一)
「ながらふべきか、しかしまた、ながらふべきにあらざるか、ここが思案のしどころぞ」(矢田部良吉)
「生か、死か、それが疑問だ」(福田恆存)
「やる、やらぬ、それが問題だ」(小津次郎)
「このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ」(小田島雄志)
「生きてとどまるか、消えてなくなるか、それが問題だ」(松岡和子)
「アリマス、アリマセン、アレワナンデスカ」(訳者不詳)
「あることになっているために、それは問題です」(yahoo翻訳)
「2B or not 2B」(鉛筆メーカー)


国家の品格

2008-04-01 23:38:49 | 雑学
「国家の品格」(藤原正彦著、新潮新書)からの引用です。

引用ここから---

わかりやすい例を一つあげてみましょう。ここに一週間何も食べてない男がいるとします。この男が街に出て角のパン屋さんの前に来た時、思わずパンを奪って逃げてしまった。
ある人はこの光景を目撃してこう思う。「日本は法治国家である。法治国家においては、法律を遵守しなければいけない。他人の物を黙って盗るということは、窃盗罪に値する。したがって法律に則り処罰されなければいけない。そのために警察に突き出そう。」
勇敢な彼、ないし彼女は、走って逃げていく男を追いかけて捕まえたり、あるいは110番を回して警察に連絡したりする。
ところが、別の人は同じ光景を見ていてこう思う。「ああ、可哀想。確かにこの男は人の物を盗んだ。しかしこの男は、今このパンを食べないと死んでしまったかも知れない。人間も命は一片の法律よりも重い場合もある。だから今は見て見ぬフリをして通り過ぎよう。」
どちらも論理は通っています。最初の人は、「日本は法治国家である」が出発点で、結論は「警察に突き出す」。両方ともに論理はきちんと通っているのですが、出発点Aが異なった故に、結論が異なってしまったということです。
すなわち、論理は重要であるけれども、出発点を選ぶということはそれ以上に決定的なのです。

ここまで---

多くの本が出版されていますが、これほどの悪書もあまりないと思います。「国家の品格」をきっかけに、品格という言葉が安易に用いられ、個人の人格攻撃の材料になっていまいました。一番迷惑を被っているのは朝青龍でしょう。横綱の品格がとやかく言われるようになったのは、この本がきっかけではないでしょうか。それまでは相撲取りの品格が云々されることはなかったような気がします。
この本のいけないところは、論理の組み立てが強引すぎる点です。始めに結論ありきなのです。「情緒は論理に優先する」を言いたいがために、引用文のような杜撰な文章があちこちに現れます。引用文のエピソードが想定している人物は、パン泥棒以外は、二種類しかいません。「日本は法治国家である……、警察に突き出そう」と考える人(論理の人)と、「ああ、可哀想……、今は見て見ぬフリをして通り過ぎよう」と考える人(情緒の人)です。実際にこのような場面に遭遇すれば、ほとんどの人は藤原氏が提示したパターン以外の行動をとるでしょう。私なら、とにかく捕まえて、なぜパンを盗んだのかまず理由を問い質します。それをしなければ次のステップは始まりません。藤原氏は、多くの人がそうするだろうと思われる行動パターンには目もくれず、自説の補強になるような特殊な人物だけを恣意的に選出します。
「論理」と「情緒」のどちらが重要かと訊かれれば、その答えはわかりきったことです。どちらも重要です。大切なのはバランスです。論理が勝ちすぎるとギスギスするし、情緒過多は流されてしまいます。こんなことは、夏目漱石がとっくに取り上げています。「いまさら何を…」と言いたくなるようなテーマです。それにしてもこの程度の本が熱烈に支持される日本は、藤原氏の考えとは逆の意味で憂慮すべき状態にあると思います。

惜福

2008-03-11 00:11:22 | 雑学
この言葉は幸田露伴の発明によるものです。
著書「努力論」から引用してみましょう。
達意の名文をご堪能ください。

引用ここから---

惜福とは何様(どう)いうのかというと、福を使い尽くし取り尽してしまわぬをいうのである。たとえば掌中に百金を有するとして、これを浪費に使い尽くして半文銭もなきに至るがごときは、惜福の工夫のないのである。正当に使用するほかには敢て使用せずして、これを妄擲浪費せざるは惜福である。わが慈母よりして新たに贈られたる衣服ありと仮定すれば、その美麗にして軽暖なるを悦びて、旧依なお未だ敝れざるにこれを着用して、旧依をば行李中に押まろめたるまま黴と垢とに汚さしめ、新依をば早くも着崩して折目も見えざるにいたらしむるが如きは、惜福の工夫のないのである。慈母の厚恩を感謝して、新依なお未だ敝れざる間は、旧依を平常の服とし、新依を冠婚葬祭の如き式張りたる日に際して用うるが如くする時は、旧依も旧依としてその功を終え、新依も新依としてその功を為し、他人に対しても清潔謹厳にして敬意を失わず、自己も諺にいわゆる「褻にも晴にも」ただ一依なる寒酸の態を免るるを得るのである。是の如くするを福を惜むというのである。
樹の実でも花でも、十二分に実らせ十二分に花咲かす時は、収穫も多く美観でもあるに相違ない。しかし、それは福を惜しまぬので、二十輪の花の蕾を七、八輪も十余輪も摘み去ってしまい、百顆の果実を未だ実らざるに先立って数十顆も摘み去るが如きは惜福である。花実を十二分ならしむれば樹は疲れてしまう。七、八分ならしむれば花も大に実も豊に出来て、そして樹も疲れぬ故、来年も花が咲き実が成るのである。
「幸運は七度人を訪う」という意の諺があるが、如何なる人物でも周囲の事情がその人を幸いにすることに際会することはあるものである。その時に当って出来る限り幸運の調子に乗ってしまうのは、福を惜しまぬのである。控え目にして自ら抑制するのは惜福である。畢竟福を取り尽してしまわぬが惜福であり、また使い尽くしてしまわぬが惜福である。

引用ここまで---

幸田露伴は、
「惜福」の次は「分福」で、その次が「植福」になって、
このように発展しなければならないと説いています。
でも、「分福」「植福」は、私には余計なことのように思えます。
説教臭くていやな感じです。「惜福」で十分です。

わかりやすい文章

2008-02-19 21:28:14 | 雑学
丸谷才一氏絶賛の文章を紹介しましょう。それは、佐藤春夫の『好き友』です。
この文章は、複雑な人間関係の襞のところを丁寧におさえながら書いているのに、そうしたことを感じさせないほど、抵抗無く頭の中にスーッと入ってきます。名文とはこういうものを言うのでしょう。

丸谷才一:「文章読本」中央公論社、から引用
------------------------------------------------------------------------
私の交友は誰々かとお尋ねになるのですか。貴問は私を怏々とさせます。私には友だちといふものがないからです。それは私の孤獨な、人と和しがたい性格から來てゐるのでせう。どうもさうらしい。
考えて見ると、私には少年時代の昔から友達といふべき者はなかったやうな氣がします。私が十二歳の時、私はちょうど、今日貴社から與へられたと全く同じ質問を、小學校の先生から與へられたことがありました。その時も私は今日と同じやうな不愉快を感じました。
その時先生の質問といふのは、生徒たちの學校外でもの生活を知るために、各の生徒たちが持ってゐる友達を五六人上げよ、といふのであった。雨の日の體操の時間で、雨天體操場などのあるべき筈もない田舎の小學校では時をり、そんな機會にそんな事をする時間があったのです。先生が紙をくばってくれると、生徒はそれへ返答するのです。人に見られないやうにと肘でしっかりと圍をして、それぞれに小さな頭と胸とを働かせながら書くのです。割合に自由な時間なので、いつものこんな時には、私も楽しかったものです。一番好きな歴史上の人物は誰だとか、或は誰でも教壇へ出て面白い話をしてみよとか、つまり雨の體操の時間といふのは遊びの時間だった。それだのに、その日は何だか試験の日のやうに緊張した感じがあった。私はといふと、試験ならば即座に答えてしまへるものを、この日のこの質問には本當に悩まされた。答えようにも私にはひとりも友達らしきものはなかったからである。
しかし、ひとりも友達がなかったからと言って、私は人に馬鹿にされて相手になって貰へなかったのではない。却って私は人に畏れられてゐたのである。私は大人びた子供で學科も不出來ではなかったし、私の家は醫者だといふので田舎町の純朴な人たちは尊敬してゐてくれた。さういうわけで、小さな我々の仲間までが、私をへんに畏敬する風があった。それに私は、いつも一人で遊んでゐる無口な子供ではあったし、誰も用事の外には、氣軽に口を利いてもくれなかったのである。それを、私はふだんは大して不幸にも思ったのではない。しかし今日かうして、お前の友達は誰々だと問はれると、直ぐに答え得る名のないのを淋しく思ったのです。その上、私は先生に向ってきっぱりと友達はひとりもいないと書くことは出來なかったのです。どうしてだか知りません。いろいろ考えた末で私は、教室に於ける自分の座席のぐるり四五人の子供の名を順々に書き並べたのです。何故かといふのに、その子供たちが、さういふ位置に置かれた自然の關係として、自然と、最も多く私と口を利く機會が多かったからでした。
その時間が過ぎてしまって、自由な時間が來た時、子供たちは、今さっきの先生の質問をさも重大な事件のやうに話し合ってゐた。彼等は皆、人々に、俺はお前のことを書いたといふやうなことを言ひ合ってゐた。しかし、私に向ってそんなことを言ひかけた者はひとりもなかった。すると、いつものやうに黙ってゐる私のところへ來て、ひとりの子供が話しかけた――
「あんた。誰書いたんな?」
その子は快活な口調で言った。それは教室で私のすぐうしろに居た子供であった。きさくな性格で、氣むずかしげな私に對しても常から最も多く口を利いてゐた。彼に對して私は答へた――
「おれはあんたの名を書いたんぢや」
その答えとともに、彼のはしゃいでゐた顔は一刹那にがらりと變化した。しばらく無言だった彼は、やっと私に言った。――
「こらへとおくれよ。なう、わあきやあんたをわすれたあった。わあきやあ、ぎやうさんつれがあるさか」
二十年經た今日、彼のその言葉を、私はそっくりとその田舎訛のままで思ひだす。さうして私はこの正直な一言に、今も無限の友情を見出すのです。ひょっとすると、これが私のうけた第一の友情ではないかとさへ思はれるくらゐです。
質問に對して私は、假に三四の名を擧げることも出來るでせう。しかし、その人たちが數え上げた名の中には私が無かった時に、彼等は私に對して、果して、
「恕せ、友よ、予は君を失念しゐたり。予は多くの友を持つが故に」
と、さうはっきりと私に言ってくれるだらうか。どうも覚束ないやうな氣がするのです。
       ――――――――――――
或る時、私は、或る雑誌社から『吾が交友録』といふ題で一文を求められた時、それに答へようと思つて以上のやうな文を書いた。しかし、あまりにひねくれた言ひ分だと人が思ひはしないかと思つて、書いたままでそれをまるめて、屑籠のなかへ入れてしまつた。
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よくわからない文章

2008-02-18 20:36:29 | 雑学
画像は、「ゴーマニズム宣言」SAPIO(2008/2/27)をスキャンしたものです。

皆さんは赤枠内の文章の意味が解りますか?私には理解できませんでした。

抜粋ここから…

世界の人々の大多数を代表し不信悪意
又は憎悪の精神を以て我々は此処に
会するに非ず。
寧ろ我々が将に奉仕せんとして居る
神聖なる目的に貢献する唯一のものである
かの高次の安全性に
止揚し、我々国民の
総てを彼等が茲に
正式に採らんとして居る
諒解への忠実なる遵法に全く
従わせしめることが我々勝者
並に敗者の双方のなすべきことなのである。

抜粋ここまで…

明日に架ける橋

2008-02-14 21:16:17 | 雑学
面白いなぁ。こんな解釈もできるんだ。
ポール・サイモンは天才ですね。

以下は、真名さんのブログからの引用です。
http://blog.livedoor.jp/manasan1/ (Speak Easy社会)

引用 from here
------------------------------
When you're weary, feeling small
When tears are in your eyes, I will dry them all
I'm on your side, when times get rough
And friends just can't be found.
Like a bridge over troubled water
I will lay me down
When you're down and out
When you're on the street
When evening falls so hard
I will comfort you
I'll take your part
when darkness comes
And pain is all around
Like a bridge over troubled water
I will lay me down

-中略-

ポール・サイモンは歌詞の職人で、研ぎ澄まされた言語感覚を持ってる。
甘ったるい歌詞は書かない人。
よく読むとかなりひっかかる。

▲I will lay me down▲
▲ Like a bridge over troubled water▲

これ、「荒れ狂う海の上にかかる橋のように、僕が自分の体を横たえてあげる」って歌詞なんだね。
「僕」が「君」の体を横たえるわけじゃない。横になるのは「僕」なんだ。
この「僕」はいったい誰なんだろう?

▲ I will comfort you ▲

そうしたら「僕」が「君」を慰めてあげる
不自然でしょ? 
日本語訳は、英文の不自然さを消している感じがする。

それじゃ次のコーラスをみてみよう。
ここから楽曲は明るくなり、「彼岸からのコーラス」が高音でオーケストラ付きで入ってくる。
ここから、他人の声と祝福が舞い降りてくる-恩寵の音楽になっているんです。
これは売人の視点になっているようです。

▲Sail on silver girl
 Sail on high
 Your time has come to shine
 Put your faith on me
 And let it shine
 I sweet(?) a sun
 Upon your bedroom lamps(?)
 Like a bridge over troubled water
 Let it be your guide▲

これはクスリ用語に満ちあふれていますよ。
Silvergirlはヘロインの注射針を示す隠語のようです。
「silvergirl」「heroin」「needle」といったキーワードで探せば、いくらでも見つかります。

なぜsilvergirlなのかは知らないんですが、針は銀色だからじゃないか?

Sail 「on」silvergirlの「on」に注意。 まるで英文解釈だな(笑)。
Silvergirlの上に乗って航海する-あれた海の上を航海する-自分の体を静かに横たえて航海する
そういう構造になってる。
和歌の世界でいう「掛け詞」になっているわけです。

Silvergirlは何か物質的な「道具」「媒体」「乗り物」「橋」だということが表現されているわけ。
その結果どうなるか?

▲Sail on high▲
ハイになるわけだ。

▲Your time has come to shine▲

time shine
これ、シャインというのは、クスリが聞いてくる様子を現す隠語だね。
silver(針)だからshineするわけ。

▲Put your faith on me▲

売人である「僕」を信じなさいと・・・こわがるな。
リラックスしろと。

▲And let it shine▲

「it」に注意。「物質代名詞」になってる。
let it shine-クスリがきいてくる様子を現している。
it=silvergirlだという文脈になってるから。

▲Like a bridge over troubled water
 Let it be your guide▲

ガイド-導き-これも臭い用語だね。
しかも、ここも「it」になってる。
人称代名詞じゃない。 silver girlだから。

そして、「すべての痛みがたちどころに消える」ことを臭わせている。

▲pain is all around▲
という文章が1番にあるからね。

臭いでしょう? 怪しいでしょう?
アメリカ文化は、こんなもんだよ。
------------------------------
引用 coco made

真名さんは、アメリカ文化はこんなもんだと、否定的に言っているけれど、
いろんな解釈ができることは、良い作品の条件だと思います。

それに、
Like a bridge over troubled water
I will lay me down
なんて、あのような解釈を含みに残しておかないと、
こっぱずかしくって歌えないよ。