tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

スリーピング・ディクショナリー

2007-10-24 20:15:11 | cinema

植民地統治にはいろいろな形態があるが、この映画での設定は本国から総督や民政長官、軍政長官などを派遣して支配する直接統治である。事実、20世紀前半にイギリスは他の欧米列強と同じく世界中にその支配力を誇示し、いたるところに植民地を作っていた。こうした植民地支配は、法的にも道義的にも問題ないとするのが当時の常識であったが、現代に至っては、このような植民地支配は領主国による搾取として捉えられるようになってきた。支配国に対し近代化という恩恵を後進地域に齎した善行となる面がある一方で、植民地支配が領地国に与える文化的、心理的ダメージといったマイナス面があることは無視できるものではない。
自国文化を浸透させるため、土地の娘を“現地妻”にする習慣は、人身売買にも似た性を搾取する植民地支配のマイナス部分のひとつだ。だから、この映画の脚本では、”現地妻”をイギリスから派遣された行政官たちのための代々受け継がれている秘密のルールと設定し、これに対して現地妻と寝ることを強制された青年ジョン・トラスコットがこの奇習を拒否することから物語りが展開していく。さらに、あのどこでも英語の会話を押し通す頑固なイギリス人が、現地の言葉を覚えるため生身の女性を“寝る辞書:sleeping dictionary”として雇う一方で、女性側では子供を得るための種馬としてお互いに雇い合うという無理な設定により悲惨な性の搾取をオブラートで包んで見せてはいるものの、その底流にある非人道性を完全に払拭できているわけではない。だから、物語が進むにつれてどうしても主従関係が顕在化してくる。植民地支配下においては、所詮、平等な男女関係の構築なぞ無理な話なのだろう。ここに、この映画の作成者たちの長年にわたり支配してきた側の傲慢さとデリカシーのなさが見え隠れして観ているものの気持ちを沈ませる。
さて、物語が進行するに連れて、2人はしだいに本気で愛し合うようになっていく。しかし、その愛が、強く、激しく、禁断であればあるほど、苛酷な運命が2人を待ち受けるのだが、愛のために文明国の恩恵をすべて投げ打つといった独りよがりな支配者の自己犠牲の感覚は強烈に後味が悪いものでしかない。
この映画を見て思い出したのは「ゴーギャンの現地妻をモデルにした絵」。現地妻は14歳の少女だったかなあ。芸術を追い求める狂気がそうさせるのか。

わが国でも現地妻の悲しい存在がある。現代における芸能人の追っかけは別にして、明治時代の長崎。アメリカ海軍士官ピンカートンは、結婚斡旋人ゴローの仲介で、15歳の蝶々を現地妻とし盛大な結婚式を挙げる。蝶々は、芸者だがもとは没落士族の娘で、この結婚に真剣である。このことを知る長崎駐在のアメリカ領事シャープレスは、ピンカートンの軽薄さに不安を抱く。やがてピンカートンはごたぶんにもれず帰国。蝶々は、音信不通になっても「ある晴れた日にきっと帰ってくる」と信じ、女中のスズキとピンカートンの帰国後に生まれた子どもと共に、ピンカートンの帰りを待ち続けている。3年以上の時が経ち、ピンカートンはアメリカで『本当の』結婚をし、妻ケートを連れて再び日本にやってくる。彼は、スズキとシャープレスから蝶々の一途な愛を知らされ、後悔の念に苛まれ、その場を逃げ去ってしまう。そこに蝶々が現れ、すべてを悟る。蝶々は、子どもをピンカートン夫妻に託す決心をし、自ら短刀で命を絶つ。短刀は父の形見。そこには「名誉をもって生きられぬ者は名誉のうちに死ね」と刻まれていたらしい。なんて、ものがなし