「矜持性って知ってるか?」と女性から聞かれて、
叩けば少々埃の出る身だが、多少なりとも誇りはある。矜持はあるつもりだから、むっとして「お前に言われたくねーよ」と返事をしようとしたが、状況を考えると聞かれているのは「強磁性」のことだろうと、返事を思い直した。
少なくとも、年下のオンナからプライドって言葉を知ってるかなんて聞かれるはずはない。・・・・・・よなあ。
強磁性 (Ferromagnetism) とは、隣り合うスピンが同一の方向を向いて整列し、全体として大きな磁気モーメントを持つ物質の磁性を指す。そのため、物質は外部磁場が無くても自発磁化を持つことが出来る。すなわち、簡単に言うと磁石の原理。質問したオンナは、中国からの留学生だ。まだ、日本語に不自由していて、教えて欲しいことがあると「~~を知ってるか?」と聞いてくる。しかし、事あるごとにしょっちゅう、質問をよこすのも彼女のぼくに対する愛情の現われだろうと勝手に解釈して無礼な質問を許している。
が、どうやら、質問は「強磁性について」でもなかった。どうりで説明が空回りするわけだ。
シンクロニシティ(英語:Synchronicity)とは、出来事の生い立ちを決定する原理らしい。カール・ユングによって提唱された従来の「因果性」とは異なる概念である。日本語で共時性(きょうじせい)と訳す。中国の留学生から漢字で共時性(きょうじせい)なる言葉を始めて聞き、そのオカルトじみた考え方に驚いた。
従来の因果性ではまったく関係ないとされるような出来事でも、二つの出来事が類似していて、それぞれが随伴して生起する場合、これを、シンクロニシティの作用と言うらしい。「奇妙な偶然の一致」ということなのだが、特定の立場にいる観測者にしか観測できず、無関係な他者による検証ができない点が量子力学におけるシュレーディンガーのネコのパラドックスを踏襲している。ただ、生じた「現象」が、ある特定の立場にいる観測者にとっては特別な「意味」を持ち、それに共時性という名を与えること自体は科学として問題はない。そこは区別するべきであろう。ここでは、共時性のすべてを否定するつもりはない。
とかく、勘違いされがちなのが、100匹目のサルの話だ。これは、いつも共時性を簡単に説明する現象とされるが、共時性とはまた別の話である。
百匹目のサル現象(Hundredth Monkey)は、ライアル・ワトソンが創作した生物学の現象である。宮崎県の幸島に棲息する猿の一頭がイモを洗って食べるようになり、同行動を取る猿の数が閾値(仮に100匹としている)を越えたときその行動が群れ全体に広がり、さらに場所を隔てた大分県高崎山の猿の群れでも突然この行動が見られるようになったという。このように「ある行動、考えなどが、ある一定数を超えると、これが接触のない同類の仲間にも伝播する」とするものである。
ライアル・ワトソンがその著書『生命潮流』で述べ、ケン・キース・ジュニアの著書『百番目のサル』によって世界中に広まった。これが日本では『百匹目の猿―思いが世界を変える』(船井幸雄著)で紹介され、人間にも同様の現象が存在するのではないかということで話題になった。
だが実際には、『生命潮流』に記述されていたニホンザルの逸話はまったくのでたらめで、高崎山はもちろん群全体に伝播したという事実はない。ライアル・ワトソンは河合雅雄の論文(KAWAI, M 'Newly acquired precultual behaviour of the natural troop of Japanese monkeys on Koshima Islet,'Primates 6: 1-30, 1965.)をreferしているが、その論文にはそのような記述はなく、『生命潮流』の逸話は作り話であることをライアル・ワトソン自身も認めている。
第一、野生のニホンザルはサツマイモを食べない。ニホンザルたちは餌づけによってはじめてサツマイモを食べるようになった。そして、まったく新しい食べ物を与えられて、それを食べるための工夫が幸島のサルたちの間で始まった。幸島でサツマイモを餌として与え好物になることがわかると、他の地域でも餌づけのためにサツマイモを与えるようになる。その結果、餌づけする人がイモを与えることによってサルがイモを洗うという行動の準備を整えたことになる。餌づけをする人が砂浜にサツマイモを落とせば、砂を払うために海水を使ったとしてもそれほど不思議ではない。同じ食べ物や環境、機会、動機がそろえば、必然的に同じ解決法が同時に生まれるのであろう。つまり、何の関連もない離れた場所でサルに餌づけをする人たちが、同時期にサツマイモを砂浜に落とすことこそ「奇妙な偶然の一致:共時生」なのだが。という冗談は置いておいて・・・・・・。
現象を後付の理論でそれっぽく(科学的に)説明しようとして、科学とは別体系のヨタ話を使ってしまった典型的な例である。データの捏造も含めて悪気はないのだろうが、新興宗教の手法を思いおこさせる不愉快な論法だ。