tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

300

2007-10-25 20:11:19 | cinema

今の世にも残る「スパルタ教育」。紀元前のペロポネソス半島南部に栄えた古代ギリシャのポリス(都市国家)スパルタで採用されていた教育方式だ。すなわち、市民を質実剛健でポリスに献身する武人(戦士)を養成するため、少年は満7才から集団で教育され、20才で戦士の仲間入り、30才まで兵営生活を送り、結婚は30歳になってからという教育がなされた。当時のギリシャでは、アテナイの民主化の進む一方で、まったく対照的なスパルタの国制といえる。
当時のスパルタでは、戦士として役立たない者は赤ん坊の時に始末するという法(生まれると長老たちの検査を受け、不適格だと判断された子供は破棄される)があった。また、成人男子は10日に1度、衆人が見守る監督官の前で裸にならなければならず、その身体が彫られた像のように筋肉が立派であれば表彰されるし、少しでもぜい肉がついていたり弛んでいたりすれば鞭打ちの罰を受けた。肥満は怠惰であり、男として恥ずかしいものだったのだ。
この映画は、20万人とも言われるペルシア軍に、たった300人のスパルタ兵が果敢にも立ち向かったという伝説の「テルモピュライの戦い」をベースに描かれたコミックをもとにしたものだ。たった300人の兵士だったその理由は、神のご神託が「いま戦をしてはならない」というものだったからだ。すぐにも攻めて来るペルシャ兵の大群を迎え撃つにあたって、スパルタの王レオニダスが出した結論は、跡継ぎがいて兵士が戦死してもダメージが小さいであろう男たちを選出。その数が約300。彼らを出兵という形ではなく、あくまでレオニダス王の親衛隊という形で引き連れ、「旅に出る」という名目でペルシャ兵を向かえ討つというものだったのだ。
テルモピュライ(現在名テルモピレス)とは熱き門のことで、湧き出る温泉と、かつてテッサリア人の襲撃に備えてフォキス人が築いた堡塁に由来しており、古来より隣保同盟の集会地だった。オイテ山に連なる天然の関門が三カ所にあり、フォキス人の築いた堡塁は中央の関門の僅か東寄りにあった。テルモピュライは比較的開けた場所であったが、西のポイニクス河畔と東のアルペノイ付近は道幅は車一台がやっと通れるくらいの隘路で、騎馬隊の大軍を防ぐにはもってこいの場所だった。

BC5世紀前半にペルシャ(アケメネス朝)とギリシャの間で勃発したこの戦争。戦いの発端は、BC5世紀初めのイオニア反乱で、その後、BC490年に第1回ペルシャ戦争が、BC480~前479年に第2回ペルシャ戦争がおきた。
第1回ペルシャ戦争以降、ペルシャのクセルクセス王は、父王ダレイオスの遺志をついでギリシャ遠征の計画を進めていた。一方、アテネではテミストクレスに代表される抗戦派の勢力がしだいに強くなり、ラウレイオン銀山からの収益で200隻の軍船を建造し、ペルシャとの戦いに備えていた。BC481年には、アテネ、スパルタ主導で対ペルシャ戦線としてヘラス同盟が結成された。
翌BC480年、ヘラス同盟に参加したギリシャ連合軍は、南下してきたペルシャ軍を陸路においてはテルモピュライの戦で、海路においてはアルテミシオンの戦で食い止めようとした。しかし、ペルシャ軍はいずれも突破して南下、アテネに侵入して町を破壊した。
この映画の中軸をなすテルモピュライの戦いは3日間続き、レオニダス王が率いた300名のスパルタ軍(重装歩兵)が、他のギリシア側の諸軍が撤退する中、最後までクセルクセス王率いるペルシア軍20万に対して交戦しついに全滅する。しかし、この時間稼ぎが、アテネ海軍にペルシア軍を海上で迎撃する態勢を整えさせ、サラミスの海戦での勝利を可能にしたのだ。
サラミスの海戦での勝利により、ペルシア遠征軍の進撃は止まり、戦争は膠着状態に陥いる。ペルシャのクセルクセス王は、この海戦のあと帰国してしまい、その後も長く小競り合いは続いたのたが、両者ともに決定的な戦果を上げることなく、テルモピレーの戦いから約30年が経過したBC448年に、ギリシア側とペルシア側の和睦が成立、ペルシア戦争はようやく終結を迎える。
テルモピュライの戦いとサラミスの海戦は、ギリシア側の防戦一方だったペルシア戦争の大きな転機を与えた。ところが、スパルタとアテネ(アテナイ)は、ペルシア戦争終結後に深刻な対立状態に陥いる。その対立は、BC431年に他のギリシア諸国家を巻き込んだペロポネソス戦争へと発展し、ついにはギリシア全体の衰退をまねいてしまう。ギリシアをペルシアから守った2つのポリスが、ギリシア衰退の引き金にもなってしまうのはなんとも皮肉な結末と言えよう。

さて、「テルモピュライの戦い」で、上陸したペルシャ軍の進軍を止めるため山と海に挟まれた細い山道に陣を構えたギリシャ軍はペルシャ軍と相対する。もともと丘陵地帯の多いギリシアでは重装歩兵による密集戦術が発達していた。テルモピュライのギリシャ軍は堡塁の前面(西側)の著しく狭く断崖絶壁な場所で後退反転戦法を取りつつ長槍で敵を突き、このため多数のペルシアの敵兵が断崖から落ちて転落死した。戦闘2日目の夜。ヒュダルネス率いるのペルシャ軍の一部が裏切り者の地元民のエフィアルテスの案内によってアノパイアの間道を抜け、翌3日目の明け方にそこを守備していたギリシャのフォキス軍を攻撃。フォキス軍は突然の襲撃に山に逃げ込んで討死の覚悟を決めるが、ペルシャ軍はフォキス軍には目もくれずに通過する。
一方、テルモピュライを守備するギリシャ軍は、従軍占者メギスティアスが犠牲の獣の臓腑によって暁と共に死に至ると占いを告げられていた。見張りがペルシア軍の接近を知らせると、ギリシャ軍は二つに分解。占いを聞いてこの地で死ぬ決意をしたレオニダスと彼と共に死ぬ覚悟の部隊のみが残った。スパルタ軍300人の他、テスピアイ軍とテーバイ軍だった。テスピアイ軍は自らレオニダスと運命を共にした。指揮はデモピロス。親ペルシアの立場を取っていたテーバイ軍はレオニダスが人質のように残留させたものである。
クセルクセスはペルシャ軍の一部がギリシャ軍の背後を突いた頃を待って正面から攻撃を開始。ペルシア軍の前後からの猛攻に、テルモピュライのギリシャ軍は堡塁の西側へ更に出て応戦。この時の戦闘でレオニダス他が戦死。ペルシア側はクセルクセルの異母兄弟2人が死んだ。ギリシャ軍は長槍が折れても4度もペルシア軍を潰走させたという。しかし、迂回してきたペルシャ軍が背後に現れるとギリシャ軍は堡塁の内側に退き、後日レオニダスの丘といわれる場所に拠ってギリシャ軍は素手になっても激闘し、スパルタ軍の当番兵のヘロットもろとも玉砕した。

スパルタの戦士は、戦闘中に真っ赤なマントを着用していたようだ。威厳のある色であって、血がつくと一層恐ろしく見えて敵を威嚇する効果があることと、また傷を負っていることを敵に悟られないためであったらしい。そして、敵の死体から武具を取ることは許されていなかった。勇戦して討死した者はオリーヴの若枝の冠をかぶせてもらい、優れた武功を立てた者は遺体に赤いマントをかけられ栄誉に包まれたという。このマント、あのローマ人達の白い絹の服装と同様に、シルクロードを通って中国からはるばる運んできた絹であつらえたように思われるが、確かではない。そして、それを染めた赤い染料は何だったのだろう。当時のローマの生活に想いを馳せると興味はつきない。

テルモピュライの戦場跡に建てられた墓碑
”ここを過ぎ行くものよ、ラケダイモンに行きて伝えよ われらはラケダイモンの掟に従いここに死すと”
-詩人シモニデスによる?ー
ラケダイモンはスパルタの古代名だ。
現在ギリシャがこうしてあるのも、ヨーロッパがこうしてあるのも、スパルタ王レオニダスとその300人の親衛隊がいたからなのだ。