tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

マリー・アントワネット(MarieAntoinette)

2007-10-04 20:07:34 | cinema

『マリー・アントワネット(MarieAntoinette)』。37歳でその生涯を閉じた。最後はギロチンでの断首刑だったのはあまりにも有名な話だ。彼女の死に、フランス中の国民が狂喜したという。まだ、ルイ16世と結婚する前のオーストリアのウィーンにて、7歳だった彼女は6歳のモーツァルトからプロポーズされたという逸話を持つ。今の世に残された彼女の肖像画を見るにつけ、そして、彼女の決して美人とは思えないあごの張った顔つきに、彼女は歴史の犠牲者に過ぎなかったという思いに捕らわれてしまう。パンを食べる経済力もない国民に対し「“Qu'ils mangent de la brioche”彼らにはブリオッシュを食べさせなさい」と言ったとする悪名高き王妃というイメージがあるが、あまりにも真の姿とはかけ離れた風評を持つ彼女のことだ。その言葉の真偽のほどは定かではない。

マリー・アントワネット。彼女が処刑されるまでの最後の76日間を過ごしたコンシェルジュリーは、シティ島の今は裁判所として使われているゴシック様式の巨大な建物の中にある。14世紀に、フィリップ4世に建てられたパリで初めての大時計と3つの塔を持つ王宮だ。後に、シャルル5世が別の王宮に移る時、ここに王室司令部(議会、大法官廷、監査院)を置き、コンシェルジェ(門番、門衛)を任命したのだ。今やどこのホテルにもあるコンシェルジェの名前は、このコンシェルジュリーから来ている。
この建物は、14世紀からは監獄として使われたが、恐怖政治時代と呼ばれた18世紀のフランス革命後に大部分が改築され、多くの王侯貴族や政治家、文化人が収容された。1793年の国民公会により設置された革命法廷で、検事のフーキエはここから民衆の逮捕、刑の宣告を行い、たった2年間の間に2700名が死刑の判決を受けて、この牢獄で受刑を待つ事になった。

受刑者は、階級や貧富の差で入居できる牢が異なった。「パイユー(貧乏囚人)」と呼ばれる受刑者には、ベッドすらなく数人で藁の中に寝る粗末な牢だが、お金を出せる「ピストリエ」はベッドつきの独房に、著名人は机などがあるより高級な牢に入れられた。
マリー・アントワネットは1793年、8月から断頭台へ上がる10月16日までの76日間、家族から引き離されてコンシェルジュリーの小部屋で過ごした。当時、王妃を見張っていた憲兵と、彼女との間は衝立で仕切られていただけだった。かつては宮廷でたくさんの侍女に傅かれ、誰よりも権力を誇っていたフランス王妃の彼女は、まったくプライバシーもない小部屋に押し込めらたのだ。彼女が断頭台へ上がる時、外れたボンネットからこぼれ出た髪は無残に切られていて、しかも、心労のあまりに真っ白になっていたらしい。
ルイ16世が処刑されたときは、幌付きの馬車に乗せられたが、彼女は通常の罪人と同じ扱いの荷車に乗せられ、その姿を大衆にさらされながら処刑場に向かった。背筋をピンと伸ばして人々の罵詈雑言に耐えているマリー・アントワネットの姿をダヴィッドがスケッチしている。処刑の12時を少し回った頃、荷車は革命広場に到着する。彼女は誰の手も借りずに荷台を降り、断頭台の木の階段を黙々と登った。壇上で処刑人サンソンの足を過って踏んでしまうと、「御免なさい。わざとでは、・・ありませんことよ」と彼女は謝る。刑に臨む彼女の最後の言葉は強い口調で、「いつか、あなたたちに、後悔する日が来ることでしょう・・・さあ、急いで・・・私を殺しなさい・・・」だったと言う。

1914年にこのコンシェルジュリー刑務所は廃止され、歴史資産ととして一般に公開されている(入場料約7.5ユーロ)。そして、この博物館の2階には、そこで宣告を受けたギロチン受刑者のリストが展示されている。起こるべくして起こってしまった歴史の一幕だが、壁の3面を埋め尽くすほどの長いリストを前にすれば言葉を失ってしまう。

神と崇められたルイ14世時代に行われた数々の戦争や、新国家であるアメリカへの投資、また、ヴェルサイユ宮殿に代表される派手な生活によって、当時のフランス国家は破産寸前だった。そこに産業革命に成功したイギリスからの安い品物が大量に流れ込み、どうにもならない状況を受け継いだルイ16世とマリー・アントワネットだ。ただ、時代が悪かったとしか言いようがない。マリー・アントワネットが処刑されたのは、国家の財産を浪費したことを問われてのものだが、ルイ14世が作った借金と比べると取るに足らないものだ。
彼女は、どうやら民衆の憎悪の対象となってしまったようだが、実際の人物はこの映画で描かれたように天真爛漫、ハッキリ言ってワガママお嬢気分の抜けない人だったのだろう。そんな彼女は、政治には不向きな性格であったが、あまりにも優柔不断な夫に代わって、吹き荒れる革命の嵐に立ち向かったのだ。浪費家で、気丈が故にことのほか評判の悪い彼女であったが、縲絏の辱めを受けても、その姿は健気にも威厳に溢れていた。「不幸のうちに、はじめて人は自分が何者であるかを本当に知るものです」は彼女が側近に打ち明けた言葉だ。再三の母の忠告を守らなかった彼女だが、すべてを失ったからこそ得るものがあっただろう。

この映画では、マリー・アントワネットはごく普通の世間知らずの女性として描かれている。だれでも、当時のヨーロッパを代表するフランスのファーストレディの座に座れば、ワガママで世間知らずにならざるを得ないのだと。そして、この映画では、誰もが興味を持つであろうフランス革命の様子やマリー・アントワネットの最後の時などは描かれていない。だからこそ、余計にこの先彼女を襲った悲劇を想像し、そして彼女がどのように変わっていくかを想像してしまうのだろう。歴史の残る悪名高き王妃を普通の女性として描く事で、これまでのマリー・アントワネットの印象を覆し、まさに悲劇の王妃しての印象を与えることにこの映画は成功している。仮に彼女が誰もが認めるような美人であったら、彼女の評価はもとより刑の執行も多少なりとも違った結果になっていたのかもしれない。だが、当時の上流階級の人々は、昔の日本のサムライにように気高く死ぬ事を良しとしていた。だからこそ、実際のマリー・アントワネットは仮想のヒール役としてうってつけだったのだ。