モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

アネモネ・シルベストリスの花

2009-04-10 07:49:14 | その他のハーブ
(写真)アネモネ・シルベストリスの花


アネモネといえば真っ赤な花を思い出すが、
アネモネ・シルベストリスは純白で、昨年は一輪しか咲かなかったが、今年はつぼみを含めて3個も咲きそうだ。

5枚の純白の花びらに見えるが、これは花びらを保護する萼(がく)が大きくなったものでフクジュソウにも似ている。
このアネモネは、風に揺れる姿が美しく、風の花wind flowerとは良く名付けたものだ。この手弱女ぶりが興をそそり様々な物語を創ったのだろう。
本当に楚々とした美人系だな~と感心する。

適した環境は、冷涼な森林の樹の下なので、夏場には風通しのよい半日陰に移動させたほうがよい。そして、開花後に切り戻しをすると秋にもまた開花する。手を入れるとそれに答えてくれる花でもある。


アネモネの伝説
アネモネは、ヨーロッパ南部から地中海沿岸東部・シベリアまでのユーラシア大陸温帯に150種ほど自生する原種があり、日本にも12種ほど原種があるという。イチリンソウ、アズマイチゲ、エゾイチゲ、ニリンソウ、サンリンソウ、シュウメイギクなどである。シュウメイギクは、キク科の仲間ではなく、英名がジャパニーズ・アネモネ(Japanese anemone)というようにアネモネの仲間なのだ。

中近東・ヨーロッパに原生するアネモネにはいくつかの神話・伝説があり、いづれも悲しい恋の物語となっている。
その中でもっとも知られているのが、ギリシャ神話の愛の女神アフロディテ(ローマ神話ではヴィーナス)が美少年アドニスを一目見て恋するようになり、猟好きのアドニスがイノシシにさされて殺された。この血がアネモネになったとも、アフロディテの流した涙がアネモネになったとも言われる。

アネモネの花言葉は、“はかない恋”“背信の恋”といわれ、フクジュソウのアイヌ神話にも似た物語がある。
洋の東西を問わず、神話は人間の想いが創ったところがあり、非恋であるほど心を震わせ教訓としても語り継がれるのだろう。
フクジュソウの学名はAdonis amurensis であり、属名アドニス(Adonis)は美少年アドニスから来ている。

アドニスが流した血が、真っ赤なアネモネを作ったといわれているが、もう一つの史実は、十字軍により真っ赤なアネモネがヨーロッパにもたらされたという。
第二回の十字軍(1147年~1148年)は失敗に終わり、兵士・戦死者を連れ帰る船にエルサレムの土をピサに持ち返ったが、この土から真っ赤な花が咲き“キリストの血”と呼ばれるようになり、ヨーロッパの修道院に広まったという。

ディオスコリデスのアネモネ
アネモネは、紀元前からある植物で、ディオスコリデスの薬物誌にも記載されている薬草で、アネモネの根の絞り汁を鼻孔に注入すると頭を浄化するというが実践しない方がよい。
ディオスコリデスの薬物誌に描かれたアネモネは、実によく描かれている。
植物画の父といわれるクラテウアス(Krateuas 紀元前132-63年)の絵はすごい。紀元前1世紀頃に描かれた絵とは思えないほどの今でも通じる写実性がある。

(写真)アネモネの葉と花
       

アネモネ・シルベストリス(Anemone sylvestris)
・キンポウゲ科アネモネ属の耐寒性がある多年性の球根。
・学名は、Anemone sylvestris L.。流通名アネモネ・シルベストリス。属名のアネモネはギリシャ語で風を意味するanemosから来ている。
・英名はwind flower。風に揺れる花をあらわしているとか、タンポポ同様に風により種が運ばれるところからついたといわれる。
・原産地は、北ヨーロッパからシベリアの森林の乾いた樹の下。
・耐寒性は強いが耐暑性が弱いので夏場は風通しの良い半日陰で管理。
・草丈30cm程度ですらっとした茎の先に美しい白い花が咲く。この白いのは花びらではなく花弁を保護する萼(がく)です。
・開花期は春(4~6月)から秋で、開花後に切り戻せば何回か咲きます。
・高温多湿に弱いので夏場は通風のよい涼しい場所で管理する。
・球根を株わけで殖やす。

チューリップ「ヨコハマ」の花

2009-04-09 06:36:51 | その他のハーブ
サクラの後はチューリップが春の時を刻んでいく。
しかし、春というよりも初夏に近い陽射しで、チューリップも困惑しているだろう。
何故? チューリップは温度に敏感で、花びらを開閉している。

(写真)「ヨコハマ」の花(朝)


今年買ったチューリップ『ヨコハマ』が咲いた。
一重早咲き系の園芸品種で、調べてみたが氏素性が良くわからない。多分、オランダで栽培された品種なのだろう。

草丈15cmぐらいと低く、その1/3が花のサイズとなり、バレリーナのような美しいスタイルではなく、ダックスフンド的ではあるが、美しいイエローの花が咲く。
やや肉厚の花弁であり光を透過させないので艶があるイエローだ。

“チューリップ物語”を整理してみようと思ったがまだ出来ていないので、近々に植物雑学ノートでまとめてみることにする。

チューリップ、ヨコハマ
・ユリ科チューリップ属の多年生の球根で耐寒性がある。
・学名は、Tulipa cv. Yokohama。
・原産地は中央アジアから地中海沿岸
・開花期は4月から5月。


(写真)「ヨコハマ」の花(昼)


源来酒家(ゲンライシュカ)神田神保町の土鍋マーボ豆腐麺

2009-04-08 06:27:45 | グルメ
日曜日は、ディープスカイが出走するので、参加しなければということで急遽後楽園に馬券を買いに行った。ついでに九段まで行き、途中でちょっと変わったラーメンを食べた。
まずは実物です。

(写真)鍋焼きマーボ豆腐麺


いわゆるマーボ麺ですが、鍋焼きです。ここに惹かれて頼んでみました。
マーボーは辛く、その底に鍋焼きうどんのように麺が鍋にこびりつくように沈んでいました。これをほぐし、浮き上がらせ、かき混ぜて一口食べたら、あまりの辛さと熱々にむせてしまいました。

麺は固く、ふやけて伸びることがなさそうです。
時間をかけて食べても大丈夫ですが、額から汗を流し、食べるのにたっぷりと時間がかかりました。
ツルツルと吸い込めない汁麺は初めてです。

鍋焼きに適したこの固い麺は、ラーメンとして初めての食感でした。
「鍋焼きマーボ豆腐麺」と呼んでいるかどうかはわかりませんが、
実際のメニューは「ハーフ&ハーフ」で、チャーハンとこの麺がセットです。

チャーハンは大量に作るためかおいしくありませんが、マーボ豆腐の辛さを和らげる役割は果しています。

熱々、固め、辛いにチャレンジしたい人向きで、
手に汗をするのではなく、額に汗したいヒトむきでもあります。


寧波(ニンポー)料理『源来酒家(ゲンライシュカ)』
神田神保町交差点から靖国通りを九段に向かう左手にある小さな中華料理店ですが、
年中無休というところがなかなかいい感じです。
名物は、「坦々麺」のようで、試す価値ありかなと思いましたが、結構辛いのではないかと思います。

ついでに競馬ですが、人気馬が来たため投下額を大幅に下回る配当でしたがとることはとりました。これで勝ち癖がつくといいのですが、そうはさせてくれないのがお馬さんです。

ヘーゼルナッツゼラニウム(hazelnut geranium)の花

2009-04-07 08:06:23 | ペラルゴニウム&ゼラニウム
センテッドゼラニウム或いはニオイゼラニウムと呼ばれる香り豊かなゼラニウムの開花の季節になった。四季咲き性がないので春だけの花だ。

(写真)ヘーゼルナッツゼラニウムの花


いつも一番に咲くのが、ヘーゼルナッツゼラニウム。

柔らかいうす黄緑の葉、ピンクの入った赤の花びら、そして、ヘーゼルナッツのような香りがするので、ヘーゼルナッツゼラニウムと呼ばれている。

花びらは、上に2枚、下に3枚の不整斉花で1cm程度の大きさ。
ゼラニュームは南アフリカが宝庫であり、陽射が強く乾燥した冷涼なところが適地となる。
夏場は、風通しの良い半日陰の方が株をいためない。

この南アフリカのゼラニウムを多数発見してヨーロッパにもたらしたのは、あのキュー植物園のプラントハンター、マッソンであることは言うまでもない。

ゼラニウムに関するショートストーリーは以下を参照してください。
その65:喜望峰⑪ 南アフリカからの贈り物 ゼラニウム物語 No1
その66:喜望峰⑫ 南アフリカからの贈り物 ゼラニウム物語 No2 -Final

(写真)ヘーゼルナッツゼラニウムの立ち姿
        

ヘーゼルナッツゼラニウム(hazelnut geranium)
・ フウロソウ科ペラルゴニウム属(和名テンジクアオイ)の耐寒性がない低木。
・学名はPelargonium × concolor Sweet。 英名はscented geranium hazelnut、和名がニオイゼラニウム、ニオイテンジクアオイ。
・センテッドゼラニウムは、250種ほどあるテンジクアオイ属のうち葉に芳香或いは刺激臭がある低木類の総称を言う。
・原産地は南アフリカ。
・日当たりの良いところ。夏場は涼しいところ。冬場は、耐寒性がないので、軒下か室内で管理。移動しやすい鉢植えが望ましい。
・乾燥気味で育て、乾いたらたっぷり水をあげる。梅雨の時期は雨のあたらない風通しの良いところで育てる。
・成長期の肥料切れに注意。
・開花期は、4月~初夏。鮮やかな赤系の小花が咲く。
・葉は、黄色が入った黄緑の葉で芳香を放つ。
・花が終わった梅雨前または秋に10cm程度を残した強剪定をする。
・4~5年で株が老化するので春か秋に挿し木で増やす。

命名者、ロバート・スイート(Sweet, Robert 1783-1835)は、英国の植物学者・園芸家・鳥類学者で、16歳からストックウエル、フルハム、チェルシーなどの庭師として働き、「英国の花園」など英国の庭で栽培する植物の本を執筆出版した。それらの本には、エドウィン・ドルトン・スミス(Edwin Dalton Smith 1800-1866頃)による美しいイラストが描かれているので知られている。


宿根ビオラ、ラブラドリカ・パープレアの花

2009-04-06 09:11:54 | その他のハーブ

(写真)ビオラ・ラブラドリカの花


ビオラ・ラブラドリカは、北米東部、カナダのラブラドール州からニューヨク州あたりの森林の木陰に生息する多年草で、ビオラとしては珍しい原種の一つである。

ラブラドールは、犬好きにはピンと来る地名で、“ラブラドール・リトリバー”の原産地のようでもある。鴨猟に連れて行く犬で泳ぎが上手で水に落ちた鳥をくわえて持ってくるあの忠犬だ。

こんな寒冷地に自生していたので、耐寒性が強く、樹の下などの半日陰で湿った土壌が適地となる。
ビオラ・ラブラドリカの開花期は、3月頃から5月までだがまれに夏場も咲くという。やや暗い色が入ったスミレ色で、葉の暗紫色がこの植物の特徴だ。

             

ビオラ・ラブラドリカ発見者は
このビオラ・ラブラドリカを発見したのは、ドイツ生まれでドレスデンの植物園で実践的に教育というよりもたたき上げられ、1799年にアメリカに移住したパーシュ(Pursh, Frederick Traugott 1774-1820)だった。アメリカへの移住は彼が25歳の時だった。

パーシュは、46歳という若さで亡くなっているが、フィラデルフィアの庭園の植物管理者として働いたのを最初に、米国の著名な植物学者の下でアメリカの植物に関する著作の手伝いなどで植物学を学び、1805年からは、メリーランドからカロライナまで徒歩で探検をした。その時の持ち物は銃と食料そして犬を連れ簡素を通り越したハングリーな旅装だった。年齢的に31歳であり、これまでに実践的に経験を磨き上げており、希望と野望に燃えていたのだろう。

フランシス・マッソンのようにキュー植物園からの手当てがあるプラントハンターは恵まれていたが、フランスのプラントハンター、ミッショーは、フランス革命により手当が支給されたくなり極貧の探検旅行をしていた。スポンサー・パトロンのいないプラントハンターは大変だ。

さらにパーシュの場合は、北米の探索で彼が集めた植物の標本、それらを基にした植物誌の原稿全てを火事で焼失してしまい全てを失ってしまった。そして、貧困と失意によるアルコール中毒で悲劇的な結末を迎え、46歳で亡くなった。葬式代もなく友人がだしたという。

フランスのプラントハンターミッショーがアメリカからフランスに旅立ったのが1796年、その1年後の1797年にマッソンがニューヨークに到着した。パーシュがアメリカ、フィラデルフィアに移住したのが1799年であり、1800年の前後は北米の植物探索がプラントハンターのフロンティアであった。だが、この三人とも非業な死を遂げている。

新しい世界を切り開くパイオニアは、現世の利益と結びつかないことが多い。
しかし、歴史が光を当て評価してくれることがある。パーシュの文字で書かれた成果は焼失したが足跡は残されており、この足跡をたどり彼の成果が再評価されている。

(写真)ビオラ・ラブラドリカの葉と花


宿根ビオラ、ラブラドリカ・パープレア
・スミレ科ビオラ属の耐寒性がある多年草。
・学名は、Viola labradorica Schrank 。英名は、アルペン・ヴァイオレット(Alpine violets)またはラブラドール・ヴァイオレット(Labrador Violet)と呼ばれ、流通名としては黒葉スミレとも言われる。
・この品種は、原種ビオラ・ラブラドリカの園芸品種ラプラドリカ・パープレア(Viola labradorica purpurea)。
・原産地は、北アメリカ北東部でラブラドール、ニューハンプシャー、ニューヨクの湿っぽい森林地帯の樹の下に生息。
・草丈10cm程度で、黒ずんだ葉と紫色の花のコントラストが美しい。
・開花期は比較的長く、3~5月で夏場も咲くことがある。
・ツツジとかツバキの木下の植え込みで半日陰が適している。
・腐葉土の多い湿った土壌を好む。

命名者とコレクター
・命名者シュランク(Franz Paula von Schrank 1747-1835)は、ドイツの植物学者と昆虫学者で、1809から1832までのミュンヘン植物園の初の責任者だった。
・コレクターは、パーシュ(Pursh, Frederick Traugott 1774-1820)。


その15 フェルメール 『レースを編む女』、 ルーヴル美術館展

2009-04-05 09:07:41 | フェルメール
(写真)ルーブル美術館展看板にフェルメールが


上野国立西洋美術館で、『ルーヴル美術館展』が開催されている。
サクラ見学で上野に行ったときに、そのポスター・看板に見たことのある絵が載っていた。なんとフェルメールだった。

フェルメール部分をアップすると『レースを編む女』だった。
知らなかったな~、気づかなかったな~
と反省をし、後日の花見で見に行くことにした。

(写真)『レースを編む女』(フェルメール、1669-70年頃の作品)


待ち時間30分ということだったが、たっぷり40分は待った。

中に入ると、思い通りに進むことが出来ず、後戻りもしにくいような状況だった。
大部分の絵が、天使が空を飛んでいるような宗教画だったので、これらはほとんど遠くから肩越しで眺めてふ~んという感じでいた。

同じ17世紀頃の作品とはいえ旧教徒の国フランスと新教徒の国オランダとの絵の違いに驚き、嫌いというほど感情が刺激されるわけでもなく、見れども見えず、記憶に残らない絵だった。

『レースを編む女』は意外とはやいところにあった。しかし小さい。人を掻き分けて前に出るのが大変だ~。ここは人が動かない。

フェルメール 『レースを編む女』
(アンダーラインをクリック)
フェルメール(1632-1675)晩年の作であり、1669-1670年頃に制作された。サイズは、縦23.9×横20.5cmで現存する中で最も小さい絵だった。
フェルメール作と認められている33作品の中で、縦が100cmを越えるのはわずか4作品だけであり全体的に小さい作品が多い。しかしそれにしてもこの人ごみでは見えにくい。

ルーヴル美術館では、フェルメールの部屋があり『レースを編む女』と「天文学者」が展示されているが、部屋の大きさの割りに絵が小さいのでどこにあるのか気づくのに一瞬の間があるそうだ。

その小ささの割には、この絵は、妙に緊張感がある。
息を止めて見ないでも感じられるぐらいの緊張がある。
遠くからは見えないのに、視線が編み物をしている右手と左手の糸のありそうな場所に誘導される。
それから目を上げ、少女の顔を見るが、また少女の視線に誘導され手の間に何か見落としたものがあるかもわからないという気になり手元を見てしまう。

フェルメールの大好きなブルーと、イエローが消えていくから不思議だ。
ただあるのは、緊張感と編み物で過ぎ行く時間だけのようだ。
一心不乱は無の境地に導くというが、そんなことを会得した少女がキャンバスの中にいた。

左脇のクッションからは、白と赤の糸が飛び出ている。この赤糸を除くととたんに緊張感が弱まり良家の子女の自画像となってしまう。赤糸は編み物で失った時間やこの時間でできたコトの犠牲の様でもあり、流した血の様でもある。
この犠牲で得たものは集中力であり何ものかを成し遂げる推進力なのだろう。

編み物は、上流階級での子女のたしなみだった時代があったという。
1600年代のオランダでは、裕福な市民が増加したので、余暇の過ごし方の新しいスタイルが出来上がったのだろう。
編み物は、意識を集中させ、この時間を継続させないと出来上がらないし出来映えもよくならない。しかも家の中でやるので悪い虫がつく時間がなくなる。 この精神の集中と悪い虫予防が裕福な家庭にとって必要だったようだ。

日本でも、昭和の中ごろまではこの価値観があったようだ。バレンタインデーでレース編みのしおりをもらった時にこのことを知っていれば人生も大分変わったのだろう。今では、“安くていいものが買えるわよ!”という娘たちの一言で何も言えない親になってしまった。親だけはこの価値観をわかっていたいものだ。どこかで応用できるかもわからない。

ルーヴル美術館展には、40分待で入ったが、ほぼ30分で見終わった。
展示作品は70を超えていたが、見たいものが少なかった。だが収穫もあった。

ボタニカルアートの草分け的な絵で、「風景の見える石のアーチの中に置かれた花束」(アンブロシウス・ボスハールト、1619-1621年作)だ。
花が主役として絵画で登場したのは、ヤン・ブリューゲルの『木桶の花束』が1606年に描かれていて、これが最初ではないかと思うが、改めて取り上げることとする。



シダレザクラ(枝垂桜)の花

2009-04-04 08:56:27 | その他のハーブ
来ました。桜前線がわが町にも。

ただ、東京よりは30㎞ほど北にあるので満開には至ってません。

(写真)シダレザクラ by清水公園




滝のように流れる「シダレサクラ」の花。まだ冷たい春風に揺れる様は日本の情緒を創っている。

守ろう。美しいサクラ。美しい日本。

サクラを見るとこんな気分になってしまう。 しかし、花見酒が終わる頃には忘れてしまう。忘れるから生きていけるのかもわからないが、忘れないことがあっても良さそうだ。“いい思い出”ではなく“来年の楽しみ”を!


シダレザクラは種類が多く、親元は「エドヒガンザクラ」でその変種という。
太陽に向かって伸びる力が弱いため枝がたわむようだが、巨木となると自重を支えきれないため支えが必要となる。京都丸山公園の枝垂桜が有名だが、確かに支えられている。



その82:『 ソメイヨシノ 』の謎とシンボル操作

2009-04-03 08:50:42 | ときめきの植物雑学ノート
上野公園の花見
遠くまで頭の黒が敷き詰められたような上野公園。サクラは人の心をときめかさせ財布の紐を緩めさせる。このときばかりはうかれなければ損。
(写真)上野公園、花見の人ごみ



『ヨメイヨシノ』発見まで
花といえば平安時代から梅に代わりサクラになった。
この理由は、中国から伝わった梅ではなく、日本にも自生種(原種)があるサクラが望まれたという政治・文化の動きに連動している。一般的には国風運動といわれているが、直接的には結びつかないが、遣唐使の中止、梅をこよなく愛した菅原道真の大宰府への左遷なども同じ時期に起きている。

サクラのなかでは、近畿地方に多い「ヤマザクラ」が平安時代の代表のようであったが、鎌倉時代になると伊豆半島の自生種である「オオシマザクラ」が注目され交雑が進む。
江戸時代になると五代将軍綱吉の元禄時代にはこの二種の交雑と品種改良が急速に進みサクラの品種も増え、繁殖の技術である“つぎ木”がかなり高度化したようだ。

「ソメイヨシノ」は、このような歴史を土壌として誕生した銘花銘木のようだが生まれに謎がまだあるという。

この「ソメイヨシノ」が発見されたのは、上野公園でだった。
発見者は、藤野寄命(ふじのきめい)で、精養軒の付近で見慣れないサクラに気づいたという。この桜木の出所は“染井”(現在の駒込あたり)であり、染井から来た吉野桜という意味で『ソメイヨシノ』と命名した。

藤野は、現在の国立博物館に勤めており、日本のサクラも近代的な分類が必要と思った田中芳男男爵が上野公園でのサクラの調査を計画し、藤野はこの調査中に発見した。調査時期は1885~1886年(明治18~19年)だった。

(写真)ソメイヨシノの花


『ソメイヨシノ』の謎
「ソメイヨシノ」は、伊豆半島が生息地の「オオシマザクラ」と「エドヒガン」の交雑種といわれており、江戸時代末の染井村で誕生したという以外良くわかっていない。先日染井界隈を探索したが、染井吉野誕生イベントを行っていた。

この「ソメイヨシノ」は、花弁が5枚で、白に近い淡い紅色で、葉がでる前に開花し、上野公園では、3月末に開花し4月上旬に満開となる。そして満開になると花色は白色に近くなる。
エドヒガンの花が葉より先に咲く性質と、オオシマザクラの大きくて整った花形を併せ持った品種である。

「ソメイヨシノ」の謎の一つは
いつどこで生まれたかわからないということだ。 「ミツバアケビ」の命名者で京都帝大教授の小泉源一が1939年に韓国・済州島の王桜との類似を指摘して済州島が自生地であるという起源説を唱えた。
この説は否定されているようだが、そのほかにも、伊豆半島起源説、染井村起源説などがあり、それだけロマンがある花なのかもわからない。サクラ同様日本人のルーツも諸説あるが、芯が不明なところが良く似ている。

「ソメイヨシノ」の謎の二つ目は
“パッと咲いてパッと散る”ことに疑問を持ったことがあるだろうか?
この謎がわかった。つまり、F1=一代雑種で、一本のソメイヨシノの木からつぎ木で殖やしているので、同じ遺伝子を持つというのが要因のようだ。同じ性質を持っているため、いっせいに開花し、いっせいに散っていくという。

しかし我々は、“花はサクラ木、男は武士”ということで散りぎわを美化することなく、いっせいに散る必要はないということだろう。元が違うのだから多様性があるので一律になることはないと思う。

「ソメイヨシノ」の謎三つ目は
由来が良くわからいサクラが、どうして日本中にあっという間に広まったのか?という謎だ。
これは、原型が吉宗公のサクラ植樹にあるが、日本の公園の始まりと、太平洋戦争の戦後の復興があるという。
人心を鼓舞するものは“サクラ”が共通している。

日本の公園の始まりは、伊達藩仙台の躑躅ヶ岡(つつじがおか、現在の榴ヶ岡公園)が最初のようで1695年に出来たという。ここもサクラの名所で懐かしいところだ。
明治になって神戸・横浜(山手公園)などの外国人居留地に遊歩道・公園の要望があり作られたが、日本初の公園といえるものは、1873年(明治6年)の「明治6年太政官布告第16号」での公園設置からはじまる。

このときに指定されたのが、東京では上野寛永寺、浅草浅草寺、芝増上寺、富岡八幡社そして飛鳥山だった。いずれもサクラの名所でもある。

戦後の復興は、“ぼろは着てても心は錦”ではないが、日本人の心を束ね高揚する役割としてサクラが植樹され、また、昭和天皇の即位などでも植樹された。
この植樹されたサクラの多くが「ソメイヨシノ」だった。だから急速に全国区のサクラとなり、今では桜前線での開花予想のサクラとなっている。
為政者の困った時のサクラ頼み。というのが歴史的に広まった理由だった。

最後の謎は、これから起きることでもある。
「ソメイヨシノ60歳寿命説」というのがある。戦後植樹された「ソメイヨシノ」は樹齢60歳を越えるようになる。
サクラの名所は、いつまで名所でいれるかという瀬戸際に来ている。
そして、吉宗公は増税後の江戸の庶民の気分を変えるために“サクラ花見”を活用したが、消費税を増税したい政府与党には、樹齢60歳を越える「ソメイヨシノ」が花見をさせてくれない可能性もあり、気分転換というわけにはいかないこともあり、怒りが直接ぶつかるかもわからない。
ということがおきそうだ。シンボル操作に使えないから要注意だね!

という先まで考えることなく、いまは大いに花見を愉しんでおいたほうが良さそうだ。

(考え込んではいけません、花見だ、花見だ~)
           


夜に咲く。ザルジアンスキア・ムーンライトフレグランスの花

2009-04-02 08:34:46 | その他のハーブ
ナイト・フロックスと呼ばれる南アフリカ原産の花。いまや園芸品種でのスターとなるような勢いで人気を集め始めているという。といっても英国での話だが、日本でも普及し始めているようだ。

(写真)フラッシュで撮ったザルジアンスキア・ムーンライトフレグランスの花


この花は、夕方から花びらを開き、かすかな灯りに浮かび上がる真っ白な花は、夜の花の観賞という新しい価値を提供してくれそうだ。
しかもフロックスに似たムスク系のような濃い香りが漂う。

北米原産のメマツヨイグサ、月見草(オオマツヨイグサ)等も夜に咲く花だが、これらの花は日本原産のような雰囲気があるが、ザルジアンスキアにはいわゆるバタ臭さがある。

南アフリカの植物は、日本の梅雨と夏が苦手なものが多く庭植えよりは鉢ものがあっている。梅雨のときは日当たりが良い軒下で、夏場は風通しが良い半日陰でなど移動可能性が必要だ。さらに冬場は室内に取り込む必要がありそうだ。


ザルジアンスキアの原産地とプラントハンターの発見
南アフリカ原産のザルジアンスキア属には54種ほどがあるようだが、その大部分は、南アフリカ共和国のど真ん中にある海抜1000m以上の高地で“天空の王国”といわれるレソト(Lesotho)に生育している。
このレソトの輸出商品は、南アフリカ共和国などへのきれいな水というのには驚いたが、経済的には豊かではないが動植物にとっては豊かな環境のようだ。

Zaluzianskya ovataは、南アフリカの植物地理学の父と呼ばれるヨハン・フランツ・ドレージュ(Johann Franz Drège 1794-1881)によって発見された。
彼は、ドイツに移民したユグノー教徒であり、ケープで薬剤師として働いていた兄の下に1826年に弟とともに来て、兄は動物を中心にフランツは植物を中心に南アフリカを探検したプラントハンターでもある。

南アフリカのプラントハンターとしては、フランシス・マッソンの2回目の探検が1786‐1795年までであり、その後を引き継いだプラントハンターの一人として、1826年から1834年まで南アフリカのケープを拠点に奥地の探検をし、20万以上の植物を採取し8000の種を採取した。後世の人間は、この徹底した採取のすごさと克明な記録に驚き、「南アフリカの植物地理学の父」といわれるゆえんがここにある。

ドレージュは、もうちょっとフォローしてみたい人物だ。

(写真) 夕方、開き始めたザルジアンスキア・ムーンライトフレグランスの花


ザルジアンスキア・ムーンライトフレグランス
・ゴマノハグサ科ザルジアンスキア属の耐寒性が-3℃まである多年草。
・学名は、Zaluzianskya ovata Walp.。英名はナイトフロックス(night phlox)、ムーンライト・フレグランス(Moonlight Fragrance)はこの園芸品種。
・属名のザルジアンスキア(Zaluzianskya)は、ポーランドの植物学者Adam Zaluziansky von Zaluzian(1558–1613)から来ている。
・原産国は南アフリカ。
・開花期は3~5月で、夕方に内側が白色の花を開きフロックスのような香りを放つ。朝、陽が昇ると花を閉じ外側の暗紫色となる。
・草丈は15~20㎝程度。
・高温多湿を嫌うので、梅雨の時期以降は、風通しの良い乾燥した半日陰で育てる。
・開花後は切り戻し手半日陰で育てる。

命名者
Walpers, Wilhelm Gerhard (1816-1853)はドイツの植物学者