モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

『J・ジュシューが採取した植物』(2)コカノキ

2018-11-26 19:55:45 | Ruiz&Pavón探検隊、ペルーの植物探検
18世紀末、スペインの科学的な植物探検物語 ⑥

(2)コカノキ(Erythroxylum coca エリスロキシム コカ)

コカといえば、コカイン、マフィア、コロンビアの麻薬組織メデジン・カルテルという悪い連想につながる。
悪の権化的なイメージだが、これは、コカの葉からアルカロイドの一種が抽出されコカインと命名された1862年以降につくられていくイメージで、
生活の必需品としてコカの葉を必要とするアンデスから遠く離れた国で創られていくことになる。

コカノキは、1786年にフランスの生物学者及び進化論の初期提唱者ラマルク(Lamarck, Jean-Baptiste Pierre Antoine de Monet de 1744-1829)によってエリスロキシム コカ(Erythroxylum coca Lam. )と命名された。
コカノキの最初の採取者として記録に残るジュシュー(Joseph de Jussieu 1704‐1779)が死亡した7年後のことであった。

ちなみに、属名のErythroxylumは1756年にアイルランドの医師・植物学者Patrick Browne (1720-1790)によって命名され、
「erythros(紅色)」+「xylon(木)」を意味し、コカの木の枝につく実が紅色しているところから名づけられた。

(写真)コカノキ 属名の由来となる赤い実

(出典)wikimedia

ジュシュー、コカとの出会い

(写真)コカの木

(出典)wikimedia

ヨーロッパ人で初めてコカノキを採取したのはジュシュー(Joseph de Jussieu 1704‐1779)で、1749年6月29日 ボリビアの首都ラパスの南にあるシカシカ地方(Sica Sica)で採取したと記録されている。

南米エクアドル、キトー周辺で子午線の長さを測るコンダミン探検隊の目的が完了したのが1743年5月で、
同年9月にはコンダミン達がアマゾン川下流の大西洋岸に到着しヨーロッパに帰国するが、
ジュシューは帰れずにアンデス山脈沿いにエクアドルからペルー、ボリビアへと南下していた。この時に採取したことになる。

しかし実際は、エクアドルの太平洋の港町マンタ(San Pablo de Manta)から目的地のキトーに向かう途上、道なきジャングルを切り開き、手足は傷だらけ、虫に刺されて熱を出し(マラリアにかかる)、豪雨で進めず、氷点下の気温で凍りつき、あらゆる苦難が待ち受けていた。
ガイド・荷役として雇った現地人が、自生しているキナノキで熱を下げ、コカの葉で痛みを和らげることをジュシューに教えてくれていたので「コカの葉」には1736年頃に遭遇していたことになる。

しかし、ヨーロッパ人とコカの出会いはもっと早く、1533年にインカ帝国を滅ぼしたフランシスコ・ピサロ(Francisco Pizarro、1470年頃-1541)達、スペイン人の征服者コンキスタドール(Conquistador)がアンデス地域に登場した頃にさかのぼる。

フランス人のジュシューが採取するまで200年以上も植物学的なアプローチがなされずにいたのは何故なのだろうか? 
征服者のスペイン人に植物学者としての栄誉を求める者はいなかったのだろうか?
或いは、重要な機密事項として公表することが禁じられていたのだろうか?
という疑問が浮かぶ。

コカの歴史

(写真)コカの葉

(出典)wikimedia

コカノキの原産地は、南アメリカ、ペルー、ボリビアの標高800~1800mのアンデス山脈東側というからアマゾン側の熱帯雨林に生息し、場所的にはキナノキと同じ地域になる。

歴史的には、紀元前3000年頃のペルー低地にあるお墓から、コカの葉、石灰、これらを混ぜるようなキセル型の道具などが出土し、
ミイラの毛髪にはコカインの成分が含まれていたというので、石灰を混ぜてコカの葉をかむというスタイルは古くから完成していたことになる。

これら古代アンデスに居住した住民は、
アンデス山脈の薄い空気に対応するために、心拍数を上げ、呼吸を速める目的で乾燥させたコカの葉を噛んだ。

コカの葉をかむと疲労が回復し、忍耐力が促進され、気分が爽快になるという。

この驚くべき効能を知っていたからこそ紀元前3000年頃から今日までアンデスの住民の生活に定着してきた。

といっても、今日のようにタバコを吸いたいと思えば誰でもが吸えるような状態ではなく、インカ帝国時代では厳重に管理されていて宗教的な儀式のときにだけコカの葉をかむことができたという。

ヨーロッパ人で初めてコカを記述したモナルデス

(画像)モナルデスの肖像画

(出典)wikimedia

ヨーロッパ人で初めてコカに言及したのは、スペインの医師・植物学者ニコラス・モナルデス(Nicolás Monardes 1512‐1588)だった。

モナルデスは、一度も新大陸アメリカに行ったことがないが、新大陸から帰ってきた役人・船乗り・兵士・商人などから新大陸アメリカの薬草・ハーブなどについて情報を集め、1569年に『西インド諸島からもたらされた薬として役立つすべてのもの』(Historia medicinal de las cosas que se traen de nuestras Indias Occidentales)を出版し、コカを紹介した。

1571年には、『西インド諸島からもたらされた有用医薬に関する書 第二部』を出版し、このなかで彼は「たばこ」を万能薬と位置づけ、新大陸の先住民の使用法や、その薬効などを事細かに解説し推奨したことで知られている。

使い方を間違うと怖い三商品ともいえる「コカ(覚せい剤等を含む麻薬)」「たばこ」「酒」を推奨した。

ジュシュー(Joseph de Jussieu 1704‐1779)は、とんでもないものを採取してしまった。


(写真)コカの花
 
(出典)wikimedia

コカノキ
・コカノキ科コカ属の常緑低木樹で樹高は2~3m。
・学名はエリスロキシム コカ(Erythroxylum coca Lam. (1786))1786年にフランスの進化論提唱者、ラマルク(Lamarck, Jean-Baptiste Pierre Antoine de Monet de 1744‐1829)によって命名される。
・原産地は南アメリカ、ペルー、ボリビアの標高800~1800mのアンデス山脈東側熱帯雨林に生息する。
・ヨーロッパ人で初めてのコカノキの採取者はジュシュー(Joseph de Jussieu 1704‐1779)で、1749年6月29日ボリビアの首都ラパスの南にあるシカシカ地方(Sica Sica)で採取したと記録されている。
・cocaとは、先住インディアン(アイマラ族)の言葉で、「旅行者の食料」という意味。

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『J・ジュシューが採取した植物』 (1)キナノキ

2017-10-29 06:03:31 | Ruiz&Pavón探検隊、ペルーの植物探検
18世紀末、スペインの科学的な植物探検物語 ⑤

ジュシューが採取した植物

(1)キナノキ
(地図)キナノキを採取したエリア


キナノキの皮は、1632年にイエズス会の修道士コボ(Bernabé Cobo 1582–1657)によってヨーロッパに伝わり、 「ジェスイットの粉末」として知られていたが、実際の生きたキナノキを見たものは無かった。

ヨーロッパの科学者でキナノキを実際に確認したのはジュシューとコンダミンが最初のようだが、記録上は、フランスに先に帰ったコンダミンがキナノキに関して発表したのでコンダミンということになっている。

1737年にコンダミンがキトからペルー・リマの銀行に行く時にロハ(Loxa、Loja)で“Quin quina”と書かれたプレートをつけたキナノキ3種を見つけた。この旅はキナノキを調べる為に意図的につくられた旅であり、キナノキは3種あることがこの時点で初めて明らかになった。
しかも、コンダミンは帰国後に完璧なキナノキを説明する論文(「Sur l'arbre du quinquina(キナノキの木について)」)を発表している。

しかし、この旅にジュシューが同行していないはずがない。何故かというとコンダミンは植物学が専門ではなく、標本が作れず、又特徴を記述することも出来ないので、ジュシューに頼らざるを得ない。
「彼は(ジュシューは)私の植物の目である。」とコンダミンが言っているようにキナノキを探すことが南アメリカで子午線の長さを測るプロジェクトの隠れた狙いであるならばジュシューがその中心にいるはずだ。

ジュシューについて分かっていることは
ジュシューは、1739年というから子午線の長さを測る最終局面の頃、クエンカ(Cuenca)から125kmほど南下したロハ(Loxa、Loja)、及びロハから60km北西にあるサルマ(Zaruma)でキナノキを採取していたことが分かっている。

これは、ジュシューが採取したキナノキの標本が英国のキニーネ製造会社の経営者で化学者のハワード(John Eliot Howard 1807-1883)のコレクションとなり、ハワードの筆跡で“The knotty sort of Jussieuジュシューのもつれたタイプ”というラベルが貼り付けられているという。

(写真)Cinchona tree by Theodor Zwinger, 1696


キナノキの歴史
1.キナノキの概要
キナノキは、アカネ科シンコーナ(Cinchona「/ s ɪ ŋ ˈ k oʊ n ə / or /-kəʊnə/ 」)属の5~10mの高さの常緑樹で、少なくとも23種があり、そのうちマラリアに効くキニーネを含有する薬用品種は3種だけである。原産地は、南アメリカ、エクアドル・ペルー・ボリビアなどのアンデス山脈東側の熱帯雨林に生息する。

2.薬用植物3種と属名の由来
(写真)Cinchona calisayaの葉と花

(出典)Wikipedia

< 薬用3種の学名 >
1. Cinchona officinalis L. (1753) - quinine bark
2. Cinchona pubescens Vahl (1790) - quinine tree
3. Cinchona calisaya Wedd. (1848)

キナノキの学名の命名は、キナノキの植物標本を1743年にコンダミンから前述の論文と一緒に受け取ったリンネ(Carl von Linné 1707-1778)が、1753年にCinchona officinalisと命名した。

属名の“Cinchona”は、リンネの大きな誤解、根拠のない伝説を信じることから生まれた。

1638年、当時のペルー総督Chinchón伯爵の夫人アナ・デ・オソリオ(Ana de Osorio 1599–1625)がマラリアにかかりキナノキの樹皮に救われた。そして、この薬をヨーロッパに持って帰り貧しい人たちに分け与えた。という伝説を信じたリンネが、Chinchón伯爵夫人に敬意を表して名づけたという。

偉大なリンネも伝説に惑わされることがあったが、このような事実はないというのが現在の定説となっている。
伯爵夫人アナ・デ・オソリオはペルーに行く前の1625年に死亡しており、実際にペルーに行ったのは二番目の夫人Francisca Henríquez de Riberaで、彼女は健康に恵まれていてマラリアにはかかっていなかったという。

(植物画)Cinchona calisaya 1872

(出典)Dessins-Images-Cliparts-Gravures-Illustrations

3.現地でのキナノキとマラリアとの関係
キナノキは、エクアドル、ペルー、ボリビアに住むケチュア族の人々によって体温が低いときの震えに対する筋肉疾患剤として長く栽培されてきた歴史があり、1600年代にスペイン人が、現地人が熱と寒けの薬として木の皮を使っていることを発見した。

一方、マラリアは、ヨーロッパ人或いはヨーロッパ人によって連れてこられたアフリカ人が新大陸アメリカに持ち込んだ可能性が高く、ペルー副王国でマラリアとキナノキの必然的な遭遇となった。

この二つを結びつけたのは、エクアドルのロハ(Loxa、Loja)に住んでいた薬剤師の資格を持つイエズス会の修道士アゴスティーノ・サルムブリノ(Agostino Salumbrino 1561‐1642)で、現地のケチュア人がキナノキの皮で熱を下げるなどの治療に使用していることを観察し、マラリア患者にも応用してみたがこれが意外にも効果があり、マラリアの決定的な治療薬の発見となった。

イエズズ会の宣教師は、マラリアの治療薬としてヨーロッパの医学界にキナノキの皮を導入したが、“Jesuit's bark(ジェスイットの粉末)”として知られたが忌避された。

マラリアという病気が存在しない南アメリカに、その特効薬キニーネの成分を含むキナノキが用意されていたことは、まるで予定調和的だが天の差配なのだろうか?
と思ってしまう。

4.キナノキの皮、採取現場
キナノキの生育する場所はアンデス山脈の東崖、アマゾン側で高度が1200~3600mで多雨多湿の雲霧地帯にのみ生育するという特徴を理解して1枚の絵を見ると良くわかる。
晴れるということが少ないようだが、晴れて霧がない日のワンショットのようだ。

(絵)カラバヤ(ペルー)の森におけるキナノキの採集.サン・フアン・デル・オロ(Peru San Juan Del Oro)の谷

出典:国際日本文化研究センター
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『J・ジュシューの失われたコレクション』

2017-04-02 09:39:29 | Ruiz&Pavón探検隊、ペルーの植物探検
18世紀末、スペインの科学的な植物探検物語 ④

18世紀末、スペインの植民地での科学的な植物調査の始まりは、フランスの大臣チュルゴー(Turgot ,Anne Robert Jacques 1727-1781) の一言からはじまった。

「J・ジュシューの失われたコレクションを取り戻すためにペルーへの科学的な遠征を開始する。」 これを1775年に宣言した。

ジュシューの苦悩
ジュシュー(Joseph de Jussieu 1704-1779)は、コンダミン(Charles Marie de La Condamine 1701 – 1774)達と一緒に南米ペルー副王国に向かって1735年5月にフランスの港を出港し、フランスに戻ってきたのは36年後の1771年だった。

何故こんなにジュシューの帰国が遅くなったかといえば理由は二つある。
最大の理由は探検隊全員が帰れるほどの帰国するための金がなかったこと、
さらには、1745年に天然痘が発生し植物学者・医者であるジュシューは貴重な人材であり植民地政府から帰国を禁じられ治療に当たらざるを得なかった。
また、翌年1746年にはペルー・リマ沖でM8.6の大地震が起き、町・港が崩壊して帰るタイミングをなくしてしまった。

コンダミンより26年遅れの帰国となるが、ジュシューは65歳になっていた。
ジュシューはいわば、矢は使い果たし、刀は折れ、身体・精神ともボロボロ状態で戻ってきた。

それは、1761年に帰国しようと決意し、それまでにジュシューが現在のエクアドル、ペルー、ボリビアなどで採取した貴重な植物標本及び記述したノートブックそして重要な植物の種などで一杯の木のトランク(箱)を彼の使用人に預けたが、宝物が入っていると勘違いされ、ブエノスアイレスで持ち逃げされてしまった。

このショックから立ち直れなかった。
フランスの名門植物一家の一員が証明できる成果無しで帰国出来る筈が無いのに帰国してしまった。

このトランクの中に入っていたモノが『ジュシューの失われたコレクション』だった。

一説によると、トランクの中にはキナノキの種が一杯入っていたという。

歴史に“もし”ということはないが、この種がフランスに持って帰れたら100年後にオランダがジャワ島でキナノキの移植栽培に成功し、世界のマラリアの特効薬キニーネ市場を独占したが、このポジションにフランスが100年早くついていたかも分からない。

オランダがキニーネの市場を独占できたのは、キニーネの含有率が高い品種のキナノキの種から芽を出させ、成木にする技術と長い時間を待てる根気があったからだが、種から育てるところにたどり着くのに時間がかかった。
コンダミンも英国・オランダのプラントハンターも若木を集めて移植栽培しようとしたが全て失敗し、打つ手無しの状態だった。

ジュシューの着眼点は素晴らしい。着地に失敗しただけだと割り切れないところがあるが。

ジュシューは、多くの成果物を失っての帰国であり、失意の中での帰国だったが、ジュシューのコレクションのマイナーな部分はフランスに持ってくることができ、ラマルク(Jean-Baptiste Lamarck, 1744‐1829)は彼の有名な“Encyclopedie Methodique Botanique”の仕上げにおいてそれらを利用したというので、失ったコレクションの価値は非常に高かったのだろうと思う。

(写真)ラマルク著「Encyclopedie Methodique Botanique」


ジュシューの活動記録

まずはジュシューの活動を追跡してみることにする。

(地図)ジュシュー(ブルー)の植物を採取した場所

※ コンダミンがアマゾン川上流で探検した場所(オレンジ)

ジュシュー達がエクアドルの太平洋の港町マンタ(San Pablo de Manta)に到着したのが1736年3月10日だった。
ここからキト(Quito)に向かい、キトとその南にあるクエンカ(Cuenca)との間の距離を測ることになるが、これが完了するのが1743年5月なので、この間のジュシューの活動エリアはエクアドルのアンデス山脈及びアンデス山脈の東側アマゾン川上流地域となる。

アンデス山脈東側に足を踏み入れたのはジュシューとコンダミンが科学者として初めてで、この二人の記録はフンボルト(Friedrich Heinrich Alexander, Freiherr von Humboldt, 1769‐1859)の南米アマゾン探検に刺激を与えたという。

一口に探検といっても現代とは様相が大違いで、パナマ海峡の横断、キトへの道中は、道なきジャングルを切り開き、手足は傷だらけ、虫に刺されて熱を出し(マラリアにかかる)、豪雨で進めず、氷点下の気温で凍りつき、あらゆる苦難が待ち受けていた。

ガイド・荷役として雇った現地人が、自生しているキナノキで熱を下げ、コカの葉で痛みを和らげることをジュシューに教えてくれたが、この現地人達もあまりの厳しい道のりなので逃げ出し、荷物を背負うロバも通れない崖の所ではロバを棄て、自分たちで荷物を担ぐことになったという。
探検の成功は装備と兵糧に負うところが多いが、持てるモノが限られるので棄てざるを得なくなり難渋を極めたようだ。

かくして、ジュシューは、自生している生きているキナノキ及びコカ等を科学的に調査した初めてのヨーロッパ人となった。(栄誉は帰国が早く報告書を書いたコンダミンが獲得した。)

(写真)ペルー、ボリビアで活動したところ


ジュシューは1736年から1748年までエクアドルにいて、
これ以降は南のリマ(ペルー)に下がり、ワンカベリカ水銀鉱山(Huancavelica)、ポトシ銀山(Potoci)などで医者として働きながら植物採取をし、チチカカ湖(Titicaca)では鳥を集めたという記録が残っている。


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『ジェスイットの粉末( Jesuit's bark-イエズス会士の樹皮 )』

2017-03-21 13:53:01 | Ruiz&Pavón探検隊、ペルーの植物探検
18世紀末、スペインの科学的な植物探検物語 ③

「The French Geodesic Mission」での3つの疑問

(写真)Jesuit's bark-イエズス会士の樹皮(これを砕いて粉末にする)

(出典)Wikipedia

1.「The French Geodesic Mission(フランスの測地学ミッション)」は、北極での子午線の長さを測る場所としてスカンディナヴィア半島にあるラップランドで実施している。
一方、赤道での測地は、フランスに近いアフリカで実施せずに、お金と時間が余分にかかるだけでなく電話のない時代のホウレンソウ(報告・連絡・相談)がより困難な南アメリカ、現在のエクアドルの首都キト(Quito)とクエンカ(Cuenca)との間で実施した。
この合理的とは思えない測量地の選択は理解しがたい。何故だろうか?

2.フランスの南米への測地遠征隊の隊員にこのプロジェクトと直接関係のなさそうな植物学者で、しかもフランスではこの園芸・植物学領域では名門家系の出身であるジョセフ・ジュシュー(Joseph de Jussieu 1704 – 1779)が選ばれ隊員として参加している。
超一流の植物学者がアシスタントとして参加しているのは何故だろうか?

3.フランスの南米での測地遠征隊の実質的な隊長コンダミン(Charles Marie de La Condamine 1701 – 1774)及びジュシューは、ペルーのキナノキを事前に承知し、調査を目的化していたようだが、
これは個人的な計画だろうか?、それとも国家的なミッションなのだろうか?

この3つの疑問に対してフランスの「The French Geodesic Mission(フランスの測地学ミッション)」は、 「南米、キト(Quito)周辺でJesuit's barkを調べる」。そのためのプロジェクトであり人選だった。
と理解すると疑問点が全て解決する。

但し、これでは血縁があってもスペイン王室が受け入れるはずが無い。
子午線の長さを測るのはスペインを説得する方便で、
スペインが独占しているマラリアを治す治療薬としての「イエズス会士の樹皮」を
継続的・安価に手に入れるための方策を検討するためのフランス王室の投資ではなかろうか?
というのが私の推測となる。

以上の仮説を検証するには、
「The French Geodesic Mission(フランスの測地学ミッション)」が決定した1735年以前に、
フランス王室及び国家は“マラリアが治る治療薬があり、
この原料は現在のエクアドルの首都キト周辺にある木の皮”だ 
ということを知っていなければならない。

ルイ14世の王太子の病気を治したタルボア

(写真)英国、エセックス州(Essex)の湿地帯

(出典)The Royal Society for the Protection of Birds

英国・ケンブリッジで薬種商の見習いとして働いていたタルボア(Robert Talbor 1642‐1681)は、
その当時ロンドン、特に沼地が多い東部のエセックス州で大流行していたマラリアの治療に行く決心をし、
彼が作った秘密の薬で患者を治していった。
これがうわさになり、学歴・経歴などが立派な医者達は、
最初は懐疑的だったが自分が出来ないことができるので“いかがわしい”というレッテルを貼り敵対するようになった。
この点では、今も昔も人間の下賎さでは変わらないということでしょうか。

タルボアはマラリアを治した秘密の薬の成分を明らかにすることは無く、
逆に「全ての姑息な治療薬、特にジェスイットの粉末で知られているものに心せよ、その薬を服用すれば危険な影響があるだろう。」(出典:世界を変えた薬用植物、創元社)
と、イエズス会士が南米から持ち帰り、マラリアの治療薬として推奨している木の皮(ジェスイットの粉末)を使っていないことを宣言した。

そしてさらに、「この始末に終えない病気を治すための方法を見出すには観察と実験しかない。」と言う。
宗教・道徳などのイデオロギー的なものに決別し「観察」と「実験」という近代科学の基本を述べている。 
立派な医者達がジェスイット会派を忌み嫌ってジェスイットの粉末をテストもしないことを学歴も無い怪しげな医者タルボアが指摘しあざ笑っていたのだろう。

1672年頃、英国王チャールズ二世(Charles II 1630 – 1685)がマラリアになり、
マラリアを治癒してくれる名医としてロンドン中で評判になっていたタルボアの診察を王自ら求め治してもらった。
当然、王室の侍医達は大反対だったが誰一人として患者を治すことなく唯死ぬのを見守るだけだったので国王も必死だったのだろう。
この功績により1678年には爵位を授与され、タルボア卿となった。
せめてもの抵抗として侍医達は治療薬の成分を明らかにするよう求めたがタルボアに拒否されてしまっただけでなく、国王からタルボアの邪魔をしないようにと釘をさされてしまった。

さて、脱線してしまったがここからが、フランス(皇室又は閣僚等の政治家)はマラリアの治療薬となるモノが南米キト周辺のところにあるということを知っていたかどうかという本題となる。

(写真)ルイ14世の王太子Louis de France

(出典)Wikipedia

チャールズ二世のいとこ、太陽王と言われたフランス国王ルイ14世(Louis XIV、1638‐1715)の王太子(Louis de France 1661-1711)がマラリアで苦しんでおり、
タルボアは1679年にチャールズ二世からフランスに派遣され、王太子のマラリアを治した。

ルイ14世は非常に感謝し、手厚くもてなしたのは当然として、
貴重なマラリアの治療薬をフランスから持ち去られるべきではないと考え、秘薬の成分を明かすならこれを買いたいと申し出た。
もちろんタルボア卿は丁重にお断りしたが、ルイ14世も二枚腰を持っており、「秘薬の処方を書きこれを封筒に入れて封印し金庫にしまっておき、タルボア卿が死ぬまでは開かない。」という提案をした。
タルボアもこの提案なら受け入れられるということで合意し、3000クラウン(1クラウンはイギリスの5シリング金貨)と終身恩給をつけてもらいイギリスに帰国した。

タルボア卿はフランス行った2年後の1681年に亡くなり、開封した秘薬の処方には次のようなことが書かれていたという。

『キナノキ外皮を細かくすりつぶして白ワインで溶かし、7グラムのバラの葉、2オンスのレモンジュースそしてリンドウ、テキサスウマノスズクサ(Aristolochia serpentaria)、チャービル、パセリ、アニス、アブサンなどで香りをつけて飲み薬にする。』

この処方では、キナノキの外皮以外にマラリアに効く成分が無いので、
タルボア卿は立派な医者達が忌み嫌っていた“ジェスイットの粉末( Jesuit's bark)”を使っていたことが明らかになった。

つまり、ルイ14世及びフランス王室は、マラリアの治療薬は南アメリカ・チリー産の木の皮『ジェスイットの粉末( Jesuit's bark)』であることを1681年にタルボア卿が死んだ直後に知ったことになる。

ジェスイット会士の活動と『ジェスイットの粉末( Jesuit's bark)』

(写真) Church of the Society of Jesus, Cuzco, Peru

(出典)Wikipedia

ジェスイット会(Society of Jesus)は、
1534年にスペイン、バスク生まれのイグナチウス・ロヨラ(Ignatius of Loyola 1491 – 1556)によって立ち上げられた戒律の厳しいカソリックの会派で、
日本に来たフランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier 1506‐1552)もこの立ち上げ時の6人のうちの1人だった。
イエズス会士は、1571年にはスペインの植民地として重要な位置にあるペルー副王国に進出し、
キト初のイエズス会士、フェレール神父(Rafael Ferrer 1570-1611)は、1602~1610年までアマゾン地域の探検をした。

現在のエクアドルのロハ(Loja)に住んでいたイエズス会士のサランブリノ(Agostino Salumbrino 1561–1642)は、
原住民のケチュア族がマラリアの症状で熱を下げるのにキナノキの樹皮を使っているのを見聞きし、
これをマラリアの治療薬としてヨーロッパに持って行ったのは、イエズス会の修道士コボ(Bernabé Cobo 1582–1657)であり、時期的には1632年にペルーからスペインに戻った時にヨーロッパにキナノキの皮を持って行った。

キナノキの皮は、Jesuit's bark として知られ、
イエズス会士がヨーロッパで嫌われているように“イエズス会士の粉末(Jesuit's bark)”もかなり嫌われ、
前述のタルボア(Robert Talbor 1642‐1681)が成分を隠さなければならなかった原因となった。

Jesuit's bark(イエズス会士の粉末)と分かったことにより、スペインの植民地ペルー副王国のロハ(Loja)当たりに生育しているキナノキというのに結びつく。

これで、『The French Geodesic Mission(フランスの測地学ミッション)』は、赤道周辺の子午線の長さを測るだけでなく、ペルー副王国にあるキナノキを調べることが隠された目的であることが鮮明になった。

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『The French Geodesic Mission(フランスの測地学ミッション)』

2017-03-14 08:09:00 | Ruiz&Pavón探検隊、ペルーの植物探検
18世紀末、スペインの科学的な植物探検物語 ②

ジョセフ・ジュシュー(Joseph de Jussieu 1704-1779)『失われたコレクション』は、南アメリカ、エクアドル・ペルー等で集めた植物の標本だった。
南アメリカに何故行ったかという経緯は地球の形状に関する大議論にあった。

1735年パリにある王立科学アカデミーは、地球の子午線の長さを測るプロジェクトを決定した。

  

というのは、ニュートン(1642-1727)が “地球は完全な球ではなく赤道の周りで膨らんでいて極地では平らになっている。”という問題提起をしフランスの科学者の間で大論争を引き起こしていた。
この論争に決着をつけるために、北極と赤道付近でそれぞれ子午線1度の長さを測ることになり、赤道方向に伸びた楕円なのか?局地に伸びた楕円なのか? 世紀の科学論争に決着をつける探検隊の派遣となった。

北極ラップランドでの測地探検隊は割愛することにし、赤道での測地探検隊は、フランスの探検家・地理学者のコンダミン(Charles Marie de La Condamine 1701 – 1774)をリーダーに、数学・天文学のブゲール(Pierre Bouguer 1698 – 1758)、天文学のゴーディン(Louis Godin 1704 Paris – 1760)、アシスタントとして当時31歳のフランスの植物学者ジュシュー(Joseph de Jussieu 1704 – 1779)及びルイス・ゴーディンのいとこで地図製作者のジーン・ゴーディン(Jean Godin des Odonais 1713-1792)が同行した。

このフランスチームが行く場所はエクアドル・ペルーなのでスペインの領土となる。
何世紀も他国の人間が入ることを禁じていたが初めて外国の科学者が踏査することになる。しかも数学・天文・測地学の専門家だけならプロジェクトに対応しているので分かりやすいが、植物学者ジュシューがアシスタントとして紛れ込んでいるところに別の意図が隠されているようだ。

スペイン側は、フランスの科学者を監視することを含めて何をやっているかがわかる人間を送り込んだ。数学者で海軍士官のスワン(Jorge Juan y Santacilia 1713 – 1773)、同じく海軍・天文学者のウリョーア(Antonio de Ulloa y de la Torre-Giral 1716 – 1795)の二人であり軍人であることでもメンバー選択の意図が明らかに分かる。

コンダミン探検隊の活動
コンダミン達は1735年5月にフランスの港を出港し、途中、のちのナポレオン皇帝の后ジョゼフィーヌが育ち、コロンブスをして世界で最も美しい島と言わしめたマルティニーク島などに寄航し、パナマ海峡を徒歩で横断してエクアドルの太平洋の港町マンタ(San Pablo de Manta)に到着したのが1736年3月10日だった。
コンダミンはここで隊から分かれ、現在のエクアドルの首都キト(Quito)に向かった。この途中で、ヨーロッパ人として初めて「ゴムノキ」に遭遇した。


(地図)コンダミンの探検コース


1736年6月4日にキトに到着し、他のメンバーと一緒になり、1736年10月3日からキトとその南にあるクエンカ(Cuenca)との間の距離、これは赤道で3度の子午線の長さに当たり、この距離を1ヶ月かけて測り11月3日にキトに戻った。
しかし、パリから送られてくるはずの探検隊の費用が届いていないことが分かり、万一のためにペルー・リマの銀行に送金しておいたお金を取りに行くために、コンダミンは1737年前半はリマに旅をした。

このリマへの旅のコンダミンのもう一つの目的がペルーのキナノキの調査だった。
マラリアの治療薬としてのキナノキからのキニーネはイエズス会の修道士コボ(Bernabé Cobo 1582–1657)が1632年にペルーからスペインに戻った時にヨーロッパにキナノキの皮を持って行ったが、1世紀も経ったコンダミンの時代でもヨーロッパではあまり知られた存在ではなかった。

コンダミンがキトに戻ったのは1737年6月20日で、ここから子午線の長さを計算しミッションの目的を完了する1743年5月までの6年間はコンダミン、ゴーディン、ブゲールが仲違いをし口を利かない状態が続いた。
意志の強さもこのぐらい続けば立派なものだが、原因はゴーディンが測量した結果を他の二人に教えないということから始まり、今度は、ブゲールがコンダミンの計算のミスを指摘することにより三者三つ巴の険悪な関係となる。

「知」での争いは人間関係まで阻害されることになってしまった。
最初は帰路はブゲールが最初に一人で帰り、陸路をカリブ海に出てフランスに戻り、コンダミンは地元エクアドルの天文学者でこの探検隊に協力していたマルドナド(Pedro Vicente Maldonado 1704 – 1748)と共にアマゾン川を探検してフランスに帰り、ゴーディン及びジュシューは現地に残るという3者三様の現地解散となった。来るときは一緒に来たが、帰りは別々のルートで帰ることになったというから中途半端な仲違いではなかった。

このミッションのリーダー、コンダミンは子午線1度の長さを測るだけが目的でないことが帰路でも明らかになる。
彼は、フランスに帰るには長くて危険なルートであるアマゾン川を下っていくコースを選択した。目的はキナノキ、ゴムノキ、アマゾン族が矢毒として使っている植物性の毒、クラーレなどを調査し、種或いは苗を採取しフランスに送ることにあった。
キトで採取したキナノキの苗はアマゾン川をカヌーに乗せて下り、フランス領ギアナのカイエンヌ(Cayenne)に送りパリの王立植物園に送ったが、高度が低いところでは育たないという栽培条件を知らなかったため失敗に終わった。
コンダミンはヨーロッパでは知られていない次のような植物の種をも採取した。
ipecacuanha(トコン・吐根、嘔吐剤)、simarouba(シマルバ、赤痢治療薬、家具材)、sarsaparilla(サルサパリラ、性病の治療薬)、guaiacum(ユソウボク、梅毒の治療薬・木材)、cacaos(カカオ)、vanilla(バニラ)。
とはいえ、コンダミンは植物学の専門家ではないので、これらの採取もジュシューが手助けしたのだろう。

かくして、スペインには隠れてアマゾン川初の科学的な調査がコンダミンによって実施された。
1743年9月19日にアマゾン川の下流、大西洋に到着し、ここからフランス領ギアナのカイエンヌ(Cayenne)まで行き、オランダ船に乗りアムステルダム経由で1745年2月にパリに戻った。ほぼ10年間の旅だった。

子午線1度の長さを測り、地球の形状を導き出すと、北極・南極の方向に長い縦形の楕円形ではなく赤道方向が長い横長の楕円形状であることが分かり、ニュートンの推論が正しいことが証明され科学論争に決着をつけた。
今では常識に近い知識となっているが、そのためには証明されなければならない。このようなドラマが積み重なって今日があるのだろう。

フランス王室の金庫からこの科学論争のためだけに多額のお金を出したとはとても思えない。子午線の長さを測るという大義名分があれば、他国の領土の自然資源を調べることが出来るので、植物学者ジュシューを同行させていることに真の目的があったのだろうとしか考えられない。
キナノキなどスペインが秘匿してきた南米植民地の資源にフランスが気づきターゲットとして的を絞った感がある。

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18世紀末、スペインの科学的な植物探検物語

2017-03-07 21:07:46 | Ruiz&Pavón探検隊、ペルーの植物探検
18世紀末、スペインの科学的な植物探検物語

16世紀以降の南アメリカでの植物探検が前から気になっていた。
新大陸南アメリカに進出した旧世界の人間は、南アメリカからジャガイモ、トマト、落花生、カカオ、パイナップルなどを旧世界にもたらした。逆に新世界には大麦、ニンジン、キャベツなどをもたらした。
このように、コロンブスが新大陸を発見することにより、原産地が異なるものを移植・栽培して活用したことを“コロンブスの交換「Columbian Exchange」”と言っているが、新大陸南アメリカでの有用植物の発見には様々なドラマがあるはずなのでその人間模様を覗いてみたい。という単純な思いがあった。

これから何回かのシリーズで展開していこうと思うが、その始まりはスペインのペルー副王国王立植物探検とすることにした。

【イントロダクション】
スペインの国王、カルロス三世(Carlos III, 1716-1788、在位:1759-1788)の時代に、新大陸アメリカ・植民地での動物・植物・鉱物等の天然資源を科学的に評価・調査する大規模な探検隊を3つも組織して派遣している。
(写真)Carlos III

(出典)Wikipedia

【3つの王立植物探検隊とは】
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1.ペルー副王国での王立植物探検(The Royal Botanical Expedition to the Viceroyalty of Peru 1777‐1788)
2.ニューグラナダ副王国での王立植物探検(The Royal Botanical Expedition to the Viceroyalty New Granada 1783‐1816)
3.ニュースペイン副王国での王立植物探検(The Royal Botanical Expedition to the Viceroyalty New Spain 1787‐1803)
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最初の植物探検は1777年~1788年までの11年間実施したペルー副王国(建国1542‐1824、現在のペルー・チリー)の植物探検、二番目が1783年~1816年までのニューグラナダ副王国(建国1717‐1821、現在のコロンビア・エクアドル・ベネズエラ・パナマ・北西部ブラジル・ギアナ等を含む)の植物探検、そして三番目に1787年~1803年までニュースペイン副王国(建国1521‐1821、メキシコ・南西部及び中央部米国)での三つのスペイン王室がスポンサーとなった植物探検が実施された。

三番目のニュースペイン探検隊は、 「セッセ(Sessé)探検隊①~⑧」として既に取り上げたが、この三つの探検隊がスペインに帰国した年には命令者のカルロス三世は亡くなっており、後を継いだ息子のカルロス4世(Carlos IV, 1748-1819、在位1788-1808)は、難しいことには興味が無く、1808年にはナポレオンにより退位させられスペインはナポレオン・フランスの支配下にはいるという悪い環境の時に帰国している。

こんな時代背景だが、これほどの大規模な新世界の植物調査探検隊を組織して実施したのは何故だろう? というのが最大の疑問としてある。

言い換えれば、コロンブスが新大陸を発見した1492年以降、何世紀にも亘って新大陸植民地の天然資源をライバルに知られないように秘匿してきたスペインが18世紀後半にこれまでの方針を覆し大変身した。この大変身には何らかの理由があるはずだ! 
この国策としての方針変更の理由を探るとともに、18世紀末の南米ペルー及びチリーなどの植物探検の旅を垣間見ることにしたい。

【ペルー副王国での植物探検の始まり】
The Royal Botanical Expedition to the Viceroyalty of Peru (1777‐1788)

「フランスのルイ16世の海軍大臣及び財務長官 チュルゴー(Turgot ,Anne Robert Jacques 1727 – 1781) は、J・ジュシューの失われたコレクションを取り戻すためにペルーへの科学的な遠征を開始することを1775年に決めた。」

(写真)Turgot ,Anne Robert Jacques

(出典)Wikipedia

フランス革命の直前まで国家財政の建て直しに奔走したチェルゴーは、同じブルボン王朝の親戚とはいえスペインの領土であるペルーで科学的な植物調査を実施することを決められるはずも無いが、スペインを動かし2年後に「ペルー副王国への科学的な植物探検」として実現することになった。
この動機である『J・ジュシューの失われたコレクション』とは何か?

『J・ジュシューの失われたコレクション』
ジュシューファミリーは、フランスで名高い16世紀末から続く植物一家。ジョセフ・ジュシュー(Joseph de Jussieu 1704-1779)は、Antoine, Bernard、3兄弟の末弟とだけ紹介しておく。

(写真)Antoine, Bernard et Joseph de Jussieu

(出典)france-pittoresque   institut-klorane

次に続く


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