モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

No14: アマランス(Amaranth)の起源と伝播

2013-02-17 13:43:51 | 栽培植物の起源と伝播
栽培植物の起源と伝播 No14

アマランサスの起源

1960年代にアメリカの考古学者マクネイシ(MacNeish, Richard Stockton 1918 – 2001)は、メキシコ、プエブラ州テワカン・バレー(Tehuacan Valley)でトウモロコシの起源を調べる考古学的な調査をしていた。

(地図)テワカン・バレーとオアハカ・バレー
 
(出典) PNAS(Proceedings of the National Academy of Sciences)

このテワカンバレーは、半乾燥地帯で紀元前9000年頃からいくつかの小集団が洞窟に住んで狩猟採取生活を営み、紀元前1500年ころからは農耕生活が始まった遺跡があるところで、紀元前8000-5800年頃には、野生の植物食料のより集中的な収集と処理の痕跡が発掘された挽き石に残っていて、カボチャ、唐辛子、アマランス、野生のトウモロコシまたはブタモロコシの意識的な栽培の初期の証拠が発見された。

そして、テワカンバレーにあるコスカトラン洞穴(Coxcatlan Cave)では、紀元前6500-5,000年までにトウモロコシ、カボチャ、チリペッパー、アマランスを栽培していたようだ。

ウィスコンシン大学(1950-1967)及びカリフォルニア大学ロサンゼルス校(1967-1995)の植物学・地理学教授でアマランサスの分類と分布の研究に貢献したサウアー(Sauer,Jonathan Deininger 1918-2008)は、これらの証拠からアマランサスは少なくとも6000年前に穀物として中央アメリカで栽培されるようになったと結論づけた。そして、見つかる最も古い種はAmaranthus cruentusで、アステカ人が栽培していたAmaranthus hypochondriacusは、少なくとも1500年前には使用されるようになったという。

テワカンバレーの洞窟からは、この二つの品種のタネが見つかっていて、アマランスのこの2種の原産地はメキシコとグアテマラで、野生の草から食料としての栽培は6000年前以前に始まっていただろうとサウアーは結論付けている。
トウモロコシと違い、アマランスは栽培が容易なのでさもありなんと思う。

テワカンバレーの洞窟を利用した部族は、様々な食料を狩猟採取し、洞窟周辺でトウモロコシ、カボチャ、チリペッパー、アマランスなどを栽培していたが、これらの栽培植物の食料に占める割合は6%程度と見られているので、まだまだ小動物・昆虫などの狩と採取が中心であり農耕社会への転換はまだ大分先のことになる。

アンデスのアマランサス
アマランサスにはもう一つの重要な品種がある。Amaranthus caudatusであり、ペルーの1500-3500mのアンデス山中が原産で、いつごろから人間の手によって栽培されたかその起源は定かではないが数千年の歴史があるという。アンデスのインカ族にはキウィチャー(Kiwicha)と呼ばれ、高タンパク質で栄養バランスが良いアンデスのスーパー穀類として主要な食料となっていた。

コロンブス以前のアステカ、インカ帝国のユニークな農法
アステカの5大食物は、アマランス、トウモロコシ、豆、チア(Salvia hispanica L)と呼ばれるセージ、およびトウガラシであり、この5つの食物は、栄養的にも非常にバランスが取れているという。

スペインのコンキスタドール、コルテス(Hernan Cortes, 1485-1547)は、1521年にアステカ帝国の首都テノチティトランを3ヶ月も包囲してアステカ帝国を滅ぼしたが、征服後にアステカ人の残虐な宗教に結びついたアマランスとチアの栽培を禁止しキリスト教への改宗を教会と一緒になってすすめた。
そのためにかアマランスは忘れ去れ、1970年代に入ってやっと復権・注目されるようになった。

(地図)首都Tenochtitlanとチナンパ(Chinmpas)
 
(出典)wordpress.com

人工浮島チナンパでの栽培
アステカ時代のアマランス、トウモロコシ、豆、カボチャ、トマト、トウガラシ、花などの栽培は、首都テノチティトラン(Tenochtitlan)があるテスココ湖周辺の浅瀬に、チナンパ(Chinampas)と呼ばれる縦30m、横2.5mの長方形の囲いを作り、泥・湖底の沈殿物・腐敗した植物などを積み上げて人工の浮島を作りここで栽培した。
チナンパの食料生産量は、1年に3回の収穫をしたようなので当時の首都テノチティトランの20万人とも言われる人口の胃袋の1/2から2/3を賄ったというからかなりの生産性が高い農法だった。

また、チナンパとチナンパの間は、カヌーが通れる程度の間隔がある水路なので、湖底の堆積物をも肥料として使い、他の肥料(人糞など)や収穫した食料の運搬にも便利で、車輪・車という概念を持たなかったアステカ文明にとっては水路を活用したチナンパ農法は好都合だったのだろう。

このチナンパという栽培方法は、ソチミルコ(Xochimilco)で紀元1150-1350年頃に湿地帯という不毛の地を食料生産地へと逆転の発想で切り替え生み出されたものであり、1325年に建国されたアステカ帝国がチナンパを引き継いだ。そしてチナンパのあった湖は埋め立てられ、今ではメキシコシティの観光名所、Floating Gardens of Xochimilcoとして残っている。

そういえばイタリアの水の都ヴェネチアも敵が侵入しにくい湿地帯に逃げ、ここに迷路のような水路を作り居住地を造ったようだが、”悪環境は(逆にもっと悪い環境から)生きやすい”ということなのだろう。ただし、知恵が働けばという条件を見落とさないようにしないといけないようだ。

コンパニオン・プランティング(Companion planting)
チナンパという人工の浮島だけで感心してはいられない。もっとすごいことがなされていた。農薬というものがない時代、悪天候だけでなく病害虫も食料となる植物をだめにして飢饉となった。
アメリカ大陸原産のトマト、ジャガイモ、トウガラシ、インゲン豆などは、連作障害が起きやすい植物として今では知られているが、アメリカ大陸のネイティブは、長い耕作の経験でこれを克服し、連作しない農法(輪作)および病害虫を防ぐ方法を生み出していた。コロンブス以前のヨーロッパでは知られていなかった「コンパニオン・プランティング」というものだ。

チナンパでは畝を高くしてトウモロコシが植えられ、その周りにインゲン豆とカボチャが植えられた。トウモロコシはインゲン豆がつるを伸ばし絡まる支柱役となり、インゲン豆はトウモロコシが不足する肥料分の窒素を供給し、カボチャは地面を這い大きな葉で地表を覆い水分の蒸発を抑えるだけでなく、チクチクする髭が病害虫の進入を防ぐ役を務めているという。そしてアマランスはチナンパの縁に植えられた。
植物同士が助け合う混載の方法をコンパニオン・プランティングというが、今では、農薬を使わない農法として或いはガーデニングで注目される存在となっている。

効率を追求するがために、大量の生産が期待できる品種に絞って、単一栽培の長期化が飢饉をもたらした例として、1845年から1849年の4年間にわたってヨーロッパ全域でジャガイモの疫病が大発生し壊滅的な被害をもたらし、アイルランドでは人口が半減したという。
ジャガイモの原産地南アメリカのアンデス地方では、単一品種の栽培ではなく多品種を同じ畑に植え、その多様性で全滅という最大のリスクを乗り越えてきたが、このノウハウをジャガイモとともに輸入しなかったために起きてしまった。

アマランスから脱線してしまったが、アマランスの伝播と復権を次回のテーマとするが、アステカ、インカの知恵の見落としとなりそうだ。

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