モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

No2 最古の栽培植物、ヒョウタンの不思議

2011-09-28 08:14:29 | 栽培植物の起源と伝播
栽培植物の起源と伝播 No2

“ヒョウタン”は、人類最古の栽培植物のひとつであるという。
何故かといえば、果肉は果実として食用になり、乾燥させると容器・楽器として使われ、水を蓄える容器として欠かせない。日常的にも、長旅をする旅人にとってもこの上ない重宝な植物だ。また、乾燥した種子は生命力が強く海水に長時間さらされても容易に発芽するのでヒョウタン自体が長旅可能な植物なのだ。

 
(出典)アメリカ農務省USDA

原産地は南アフリカといわれ、いくつかの品種の中で世界に広がっていった種は、学名でLagenaria siceraria(ラゲナリア・シセラニア)という品種であり、1万年前にはアジアおよびアメリカ大陸にたどり着いていて、アジアとアメリカ大陸で人間の手で栽培植物化された。というのが定説として認められているようだ。

さて、どうしてアメリカ大陸まで伝播したのだろうかという疑問に対しては、二つの解がある。一つ目は、南アフリカで誕生した人類の祖先の大移動とともに世界に広がったという説と、二番目には、海を渡ったという説である。

ヒョウタンとともにモンゴロイドが現在のベーリング海峡を渡ったと考えられるのは、氷河期で陸続きになった時であり、今から2万5千年~1万5千年前、1万2千年~1万年前の2回がチャンスとなる。
マンモスを追いかけてベーリング海峡を渡ったモンゴロイドが、アメリカ大陸を南下しつつ“ヒョウタン”の種子をメキシコに持ち込んだのだろうか?

ヒョウタンを栽培した記録をさかのぼると、メキシコとペルーで栽培されたのが紀元前6000年、フロリダで紀元前5300年、エジプトで紀元前3400年、ザンビアで紀元前2000年から栽培されていることが確認されているので、ヒョウタンの原産地であるアフリカよりもアメリカ大陸で人間の手により栽培されたのが早いということになる。

モンゴロイドがベーリング海峡を渡りヒョウタンの種をアメリカ大陸に持ち込んだという説は、以上のような時間軸から見てもありえそうだ。
難点は、熱帯から亜熱帯の植物であるヒョウタンが、寒冷地で栽培されないまま数千年もの間種子のままでベーリング海峡を超えメキシコまで持っていくことが可能だろうかということだ。
モンゴロイドがヒョウタンの種をアメリカ大陸に持ち込んだという説は納得性にかけるようだ。

ということは、1万年前にアメリカ大陸に着いたヒョウタンは、アフリカ原産のヒョウタンが大洪水か何かで海に流れ込み、大西洋に無数にプカプカ浮かびアメリカ大陸に流れ着いたという説のほうが説明力がありそうだ。
そしてそのヒョウタンの有用性に気づいたメキシコ、ペルーに住んでいたネイティブが自生していたヒョウタンを採取して使うだけでなく栽培するようになった。
という説が説得力がありそうだ。

最近の科学では遺伝子(DNA)分析から関係性を見ることが出来る。
ヒョウタンの原産地はアフリカ南部であることは変わらないが、1万年前にアジアとアメリカ大陸に伝播したヒョウタンの遺伝子を見ると、アメリカ大陸のヒョウタンはアジアのヒョウタンに近いという。
ということは、アフリカ原産のヒョウタンが大西洋を漂流してアメリカ大陸に流れ着いたという説得力ある説は根底から崩れることになり、アジアで栽培されたヒョウタンが何らかの手段でアメリカにわたったか、或いは、その逆にアメリカで栽培されたヒョウタンがアジアにもたらされたかのどちらかとなる。

余談となるが、南太平洋の島々ポリネシアにもヒョウタンが1千年前に伝播しているが、これはカヌーに乗った海のモンゴロイドの子孫がペルーにたどり着き、サツマイモとヒョウタンを持ち帰ったという説がある。
※(サツマイモに関しては、「ときめきの植物雑学、その7.サツマイモの伝播③、④」を参照)
この説は、アメリカ大陸に近い東側のポリネシアの島々にはヒョウタンが導入されたが、アジアに近い西ポリネシアにはないというのが根拠となり、アジアからの伝播ではなくアメリカ大陸からの伝播だといわれている。

コロンブス以前にアメリカ大陸はポリネシアとつながっていたという説は、歴史に新しい光を当てるので喜ばしいことだ。
しかし、絵物語は科学で覆され夢となるが、この例も夢となるのだろうか?

日本にも1万年前の縄文時代には伝播していたという。
福井県若狭町三方湖に入り込んだ丘陵の南側斜面で三軒分の竪穴住居跡(鳥浜貝塚:とりはまかいづか)が発見され、1962年から発掘調査がされてきた。ここには、縄文時代草創期から前期というから今から約12,000~5,000年前の集落遺跡があり、湖に投げ込まれたゴミ捨て場から栽培植物が発掘された。
縄文時代に農耕がされていたか否かはまだ論争中だが、5000年前の層からは栽培植物であるアズキ、エゴマ、ウリ、ヒョウタン、ゴボウが、8000年前の層からはヒョウタンが出土している。
このヒョウタンは、1万年前に対馬海流に乗って若狭湾に流れ着いたのか、縄文人が南方或いは朝鮮半島からもたらしたのか決着がついていない。
しかし、鳥浜貝塚のヒョウタンの事例は、海外の文献にも出るほど時代推定の確度が高く、伝播のシナリオ作りに寄与しているようだ。

ということは、アメリカ大陸よりもちょっと早いか、或いは、世界的に同時期に人間の手でヒョウタンの栽培が始った可能性がある。ヒョウタンは、多少の時間差はあるがその当時の世界の人類に共通して受け入れられグローバル化した最初の栽培植物なのかもわからない。

「無病息災」という語もひょうたん“六つで無病=六瓢(ムビョウ)”というように縁起の良い植物であり、お隣韓国では、今人気の“マッコリ”を瓢箪を縦に割ったものを柄杓として使い酒を汲むのが慣わしという。
きっと、ヒョウタンは世界でこのような生活文化が無数にあるのだろう。

最後に、ヒョウタンの仲間ウリ科の代表を紹介すると、スイカ、メロン、カボチャ、キュウリなどであり、夏場に欠かせない果菜だ。果物だが野菜という扱いがされるので果菜というそうだ。

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No1 栽培植物の起源と伝播 プロローグ

2011-09-25 15:54:22 | 栽培植物の起源と伝播
栽培植物の起源と伝播 No1
(写真)メキシコの遺跡

メキシコシティの南東部に位置するテワカン市にあるテワカンバレー(Tehuacán valley)の洞窟から最も古いトウモロコシ、インゲン豆、ひょうたん,カボチャ、チリペッパー、トマト、アボガド、綿などの栽培された植物が見つかった。
このテワカン市は、1549年に建設されたメキシコでも古いスペインの植民都市だが、テワカン・バレーは、紀元前9000年頃からの狩猟採集生活、紀元前1500年頃からの農耕生活の遺跡がある古い地域であり、半乾燥地のために遺跡の保存状態が良く、豊かな植物相のところでもある。ここにある洞窟からは、メキシコ原産の植物が多数発見されている。

おや~? メキシコに“ひょうたん”があった。確か“ひょうたん”はアフリカ原産のはず? と、かすかな疑問程度で済ませていた。
その当時は、
① アメリカ大陸にも独自の“ひょうたん”の原種があったのか、
② 或いはまた、アジア大陸からベーリング海峡を経由してアメリカ大陸に移動したモンゴロイドがもたらしたのか、
③ さらには南太平洋を島伝いに南アメリカに渡った可能性がある“海のモンゴロイド”がもたらしたのか
④ 椰子の実が遠き島より流れ着くように、“ひょうたん”の実が海流に乗りアメリカ大陸にたどり着いたのか
などが脳裏をよぎった。

この謎解きは次回以降に譲ることにして、植物は移動しないが移動を仲立ちするものがあり、固有の種(原種・原産地)とその伝播という広がりには、その背後に人間の営みである物語が隠されているはずだ。
この物語を掘り出してみたくなった。

近年になって、植物資源を保護する動きが出てきた。
昆虫・動物が関わった場合はその行動範囲が限られるのでオリジナリティが守られやすい。しかし、人間が関わると短時間で広範囲に広がり、また、“より大量に”“より美味しく”“より美しく”など様々な目的を持って品種改良を施すのでオリジナリティが消滅する。

1845年から1849年の4年間にわたってヨーロッパ全域でジャガイモの疫病が大発生し、ジャガイモを主食料としていたアイルランドでは、人口の20%が餓死および病死、10%から20%が国外へ脱出したという“ジャガイモ飢饉”が起きた。
原因は、収穫が多い品種に絞って栽培していたため遺伝的な多様性がなくなり、メキシコの特定地域にしかいなかった病原菌が入ってきて致命的な作物被害をもたらしたためだが、現在の主要作物も同じような問題を抱えている。
主要作物の原種および原種に近い植物の遺伝子は、ここに戻ればやり直しが利くという意味でも重要になってきている。
植物は、食料だけでなく人間の営みのあらゆるところで役に立っているので、原産国はこの権利を守りたいというのは当然だろう。

だが、こういった難しいこととは一線を画し、食卓に上った食材を美味しくいただくための昔物語を始めようと思う。

特に、1492年にコロンブスがアメリカ大陸を発見してから、アメリカ大陸原産の植物がヨーロッパに伝わり、日本にも伝わってきた。
代表的なのは、ジャガイモ、サツマイモ、スイートコーン、カボチャ、トマト、トウガラシ、キャッサバ、カカオ、落花生、ズッキーニ、ピーマン、イチゴ、パイナップル、アセロラ、アボガド、グアバ、バニラ、タバコなどであり、今では、私たちの日々の食卓を美しく・美味しく・楽しく、そして健康的にも不健康的にもしてくれている植物・食材が豊富にあり、これがアメリカ大陸原産だったのかと思うものすらある。

ヨーロッパ人にとっての新大陸原産の植物の起源と伝播という歴史を、食欲を刺激するように仕立てていこうかなと思っている。

ジャガイモ、サツマイモ、タバコに関しては過去に掲載したのがあるので興味があれば参照していただきたい。

【ときめきの植物雑学】

その4 :世界を変えたジャガイモ

その5 :サツマイモの伝播①

その6 :サツマイモの伝播②サツマイモ>ジャガイモ Way? ⇒ サツマイモは媚薬と信じられていた

その7 :サツマイモの伝播③ペルー沖から102日の漂流で南の島に!

その8 :サツマイモの伝播④サツマイモの伝播には、人類大移動のロマンがある

その28:コロンブスが見落としたタバコ(Tobacco)

その29:タバコの煙で精霊との交信


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No52:女性プラントハンター、メキシアとサルビア その4。

2011-09-21 09:09:01 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No52

メキシアは、南米アンデス山脈、アマゾン流域を探検している。
エクアドル、ペルー、チリを貫くアンデス山脈で素晴らしいサルビアを採取しているので、例外としてこのシリーズに取り上げることにした。

6.Salvia gilliesii Benth.(1833) サルビア・ジリアシー
 
(出典)chile flora.com

アンデス山脈のボリビア・チリー・ペルー一帯に生息する多年生のサルビア・ジリアシー(Salvia gilliesii Benth.1833)は、樹高300cmにも育つ小潅木で、葉は淡い緑色の槍状で、8月頃に花序にスカイブルーの花を咲かせる。
最初の発見者は、種小名にもあるスコットランドの海軍外科医で植物学者のギリーズ(Gillies, John 1792-1834)で、結核を治すために南アメリカ勤務を希望し、28歳のときにアルゼンチンに移住した。8年間滞在し1828年に英国に帰国するまでに南アメリカで植物を採取しキューガーデンのフッカー園長(Hooker, William Jackson 1785-1865)に送る。

メキシアは、100年以上後の1936年1月5日にアルゼンチンのメンドーサでこのサルビアを採取した。メンドーサはスペインの征服者カスティーリョ(Pedro del Castillo 1521-1569) が1561年に建設した街で、今ではワインの生産で世界でも上位に入るところのようだが、ブドウ栽培に適したアンデス山脈の東側山麓の高原平野にある。

このサルビアの正式学名はSalvia cuspidata subsp. gilliesii (Benth.) J.R.I.Wood, (2007)で、大株に育つので結構な見栄えがする。
園芸市場へは、フランスのリヴィエラに1994年に導入され、日本にも種で入ってきている。耐寒性が強くないようなので、最低気温5℃以上のところで栽培できるようだ。

(写真) Salvia cuspidata subsp. gilliesii
 
(出典)Robins Salvias

7.Salvia macrophylla Benth. (1835) サルビア・マクロフィーラ
 
(出典)flickr.com

サルビア・マクロフィーラ(Salvia macrophylla)は、南アメリカ西部、ペルー・コロンビア・エクアドル一帯が原産の小潅木で、その美しいブルーの花色を原産地の地名で"Peru Blue"或いは"Tingo Blue"と呼んでいた。
雄しべと雌しべが突出しているので、花の形はまるでハチドリか新型ジェット戦闘機を想起させる。
種小名の“macrophylla”は、“アジサイ”を意味するがハート型の大きな葉から名づけられた。樹高100-150㎝で大きな葉の間から花序を伸ばし秋に鮮やかなブルーの花を咲かせる。 なかなかの逸品だ。

このサルビアを最初に発見・採取したのは英国の庭師・プラントハンターのマシューズ(Mathews, Andrew 1801-1841)で、1830-1833年の間にペルーで採取したようだ。
英国では、キューガーデン、王立園芸協会、ナーサリーと呼ばれる育種園が海外の珍しい植物を求めてプラントハンターを派遣する時代が18-19世紀にあったが、マシューズは英国のナーサリー、ロッディジーズのGeorge Loddiges (1786–1846)によってハミングバードを採取する目的で南アメリカに派遣された。
このジョージ・ロッディジーズは、「ボタニカルキャビネット(1817-1834)」という美しい絵入りの園芸雑誌を出版し、英国の園芸の大衆化に貢献した人物でもある。

メキシアは、1935年10月にペルーのリマでこのサルビアを採取している。

 
(出典)Annie's

8.Salvia pichinchensis Benth. (1846) サルビア・ピッチンチエンシス

  


(出典)Flora of Ecuador

サルビア・ピッチンチエンシス(Salvia pichinchensis)を最初に採取したのは、ドイツ人で英国の園芸協会からメキシコにプラントハンティングに派遣されたハートウェグ(Hartweg, Karl Theodor 1812-1871)だった。
エクアドルには、1841-1842年に探検に来ているのでこの時期にPichincha山の森でこのサルビアを採取しているのだろう。
種小名は採取した場所の名前を採ってつけられているが、写真があるだけでそれ以外がまったくわからない。

メキシアは、1935年9月にハートウェグ同様エクアドルのPichincha山3125mのところでこのサルビアを採取している。
葉は大き目のハート型、花は淡いブルー、しべが突出しハミングバードなどに花粉がつくようになっている。

9.Salvia punctata Ruiz & Pav. (1798) サルビア・プンクタータ

(写真)「Florae peruvianae et chilensis prodromus 」(1794)
 
(出典)MBG's digital library

 右側:Salvia punctata Ruiz & Pav.
 左側:Salvia procumbens Ruiz & Pav.

メキシアは、サルビア・プンクタータ(Salvia punctata)をペルー中央部にある州都ワヌコ(Huanuco)2300mのところで1935年11月に採取した。ワヌコは、年間を通じて温暖な気候のところで、この街もスペインの征服者Gómez de Alvarado(?-1542)によって1539年に造られた。

このサルビアを最初に採取したのは命名者でもあるスペインの探検家・ルイス・ロペス、ヒッポリュトス(Ruiz López, Hipólito 1754-1816)と パボン(Pavón, José Antonio 1754-1840)で、彼らが1794年に出版した『ペルーとチリの植物(Florae peruvianae et chilensis prodromus 1794)』に植物画が掲載されていた。植物の説明も記述されているはずだが残念ながら白紙だった。(理由はわかりますよね。)
種小名の“punctata”は、ラテン語で“小さな斑点がある”という意味なので、花弁に小さな斑点があるサルビアなのだろう。

スペインの国力が回復したカルロス三世(Carlos III, 1716-1788、在位:1759-1788)の時代に、新大陸を三つの王国に分けて管理していたので、その王国の植物資源を調査するための探検隊を王室がスポンサーとなり三つ送り出した。
ルイス・ロペスとパボンは、その最初の王立植物調査探検隊のメンバーであり、ペルーとチリに1777年から1788年まで派遣された。

この探検隊に関してはいずれ取り上げるつもりだが、二番目の探検隊である『セッセ探検隊(1787-1803)』は、メキシコを舞台としこの「メキシコのサルビアとプラントハンターの物語」No33-No40で既に取り上げた。
新大陸の科学的な調査をしようという着想は素晴らしいのだが、その思いが継続しないで、演じた役者たちが悲惨な末路を一筋の光明を求めて彷徨う歴史は繰り返されていて、あ~あ、スペインなのだ!
と思ったが、 わが日本の今もあまり変わらない。坂道を転げ落ちていく時に起きる現象なのだろうか?

10.Salvia sagittata Ruiz & Pav. (1798) サルビア・サジタータ


(出典)Robins Salvias

エクアドルからペルー、チリのアンデス山脈に生育するサルビア・サジタータ(Salvia sagittata)は、草丈100-150cmで特色あるライムグリーンの剣形の大きな葉によって英名では“Arrow Leaf Sage”と呼ばれる。
夏から秋にかけて花序につける濃い目のブルーの花は美しい。

メキシアがこのサルビアを採取したのは、エクアドルの北部にあるカルチ州でアンデス山脈2950mのところで1935年2月に採取した。
園芸市場への導入は1999年頃にカリフォルニアに登場したようだが、最初にこのサルビアを採取し命名したのは前述したスペインの探検隊ルイス・ロペスとパボンだった。
このサルビアは日本でも人気が出るだろう。

 
(出典)Botanic Garden

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No51:女性プラントハンター、メキシアとサルビア その3。

2011-09-16 20:32:59 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No51

51歳になってから植物学の公開講座に参加して、メキシコ・南アメリカの植物採取で新種を数多く採取したメキシア(Mexia, Ynes Enriquetta Julietta 1870 -1938)が、プラントハンターとして名前を残したのは20歳年下の友人でメキシアの苦手な部分をサポートしたブラッセリン女史(Nina Floy Perry Bracelin 1890-1973)及びバンクロフト図書館(Bancroft Library)によるところが大きい。

ブラッセリン女史は、インタビューでメキシアの実像について語っている。
それによると、メキシアは好き嫌いがはっきりした人間で、プラントハンティングの旅は大好きだが、その後の植物学として重要な採取した植物が何なのかを同定し、ラベルを貼り、特徴などを記述する地道な作業は大嫌いだとか、嫌いな人間には攻撃的でエキセントリックな面を見せていたようだ。
アラスカ探検の実態が良くわからなかったが、アシスタントとしてカリフォルニア大学バークレー校で植物学を学んだアラメダ高校の教師Frances Payneをアシスタントとして雇い、彼女が採取した植物をメキシアが雇い主としての権利で全て横取りしたなどいやな面もあったようだ。

ブラッセリン女史は、メキシアの採取した植物標本を海外の植物園・博物館などに配布し、メキシアの存在を宣伝する役割だけでなく、メキシアの死後に全ての記録をバンクロフト図書館に寄贈した。
だからメキシアが歴史に残れたのかもわからない。ブラッセリン女史あってのメキシアというのが実像のようだ。

わがままで嫌な老女メキシアという印象が強まったが、探検の合間にサンフランシスコでの学会などでの講演はずば抜けた話術とプロ級の写真の出来映えで聴衆を魅了したという。また、探検隊に出資するスポンサーが求める“New”の発見には答え、彼女が死ぬまでスポンサーがつくことになるのでビジネスでの“花”は持っていた。

メキシアの祖父から引き継いだテキサスの土地からは石油が湧き出て、この土地を売却した資金がメキシアにはあったようで、食べることに困っていなかった。この経済的な自立がヒトに頭を下げる必要がないという唯我独尊的なメキシアをつくったのだろう。

その1に掲載したメキシアの写真を改めてみると、講演という非日常で聴衆を魅了したメキシアという感じがしてくる。

メキシアが採取したメキシコのサルビア

ミズリー植物園に記録されているメキシアが採取したサルビアは、35種になる。そのうち25種がメキシコで採取されている。しかも、メキシアが最初の採取者だったものが多いが、その多くは標本でしか存在していない。

まずは、メキシアが採取したメキシコのサルビアを!

1.Salvia atropaenulata Epling (1939) サルビア・アトロパエヌラタ

 
(出典)ニューヨーク植物園

メキシアは、1938年1月1日にメキシコ、ゲレーロ州Minasでこのサルビア・アトロパエヌラタを最初に採取した。メキシアはこの年の7月に亡くなるので最後のプラントハンティングで採取したものだ。
ところで、ヒントンも同年1月24日にメキシアと近いところでこのサルビアを採取しているので、最初に採取したという栄誉はメキシアに譲っているが、晩年からプラントハンターとなったこの二人はきっとどこかのキャンプ地・採取場所ですれ違っているのだろう。

現在は植物標本からしかこのサルビアの特徴がわからないが、種小名の“atropaenulata”はラテン語で“黒いマント”を意味するので、ハート型の大きな葉がマントのようになりその先の花序にダークブルーの花が咲くのだろうか?

メキシアが採取した場所はメキシコ固有の種が豊富な植物の宝庫とも言われる南西部の太平洋側に接した“シエラマドレ・デルシュー山脈”であり、気候的には亜熱帯に位置するが、高度差100-3500m、年間平均温度が5―40℃、年間降雨量800-1600㎜という多様な環境が、オークの森を育てメキシコ固有の多様な生物をはぐくんでいるという。
オークなどの落葉樹の森は生物にとって恵みの森であり、落葉すると下草・潅木を育てる肥料となり、多様な植物が育つ環境となる。この環境が多様な昆虫・動物を育てることになるのでもっと大事にしたいものだ。

(写真)Sierra Madre del Sur(地図上ではメキシコ最下部に当たる山脈)

(出典)NASA

2.Salvia durantiflora Epling (1939) サルビア・ドランティフローラ

 
(出典)ニューヨーク植物園

メキシアは、シエラマドレ・デルシュー山脈でサルビア・ドランティフローラ(Salvia durantiflora)を1937年12月に最初に採取した。
種小名の“durantiflora”は、“丈夫な花”を意味するので、ひっそり咲いていたのではなくワイワイ~ガヤガヤとにぎわっていたのだろう。確かに植物標本を見てもその行儀の悪い元気な生育が感じられる。

3.Salvia fallax Fernald (1910) サルビア・ファラックス


(出典)igarden.com

種小名“fallax”は“人を惑わす”という意味を持つ。
メキシアは、1927年2月にハリスコ州でサルビア・ファラックス(Salvia fallax)を採取した。
草丈150-200cmで、花序を伸ばし淡いブルーの花を咲かせる。開花期は晩秋から早春でダークグリーンの葉とあいまって上品さをかもし出している。
どこが“人を惑わす”のかわからないが、冬場に-2℃以上であれば育てられるというのでチャレンジしてもよさそうだ。
このサルビアは、Salvia roscida Fernald (1900)と同じであり、先に命名されたサルビア・ロシーダが優先される。
 
(出典)salviaspecialist.com

このサルビア・ロシーダ(Salvia roscida)を最初に採取したのは、1892年から1906年までメキシコで生物学的な調査研究を行ったアメリカの動物学者、ゴールドマン(Goldman, Edward Alphonso 1873-1946)で、1899年3月にドゥランゴ州で採取した。

4.Salvia mexiae Epling (1938) サルビア・メキシアエ

 
(出典)ミシガン大学植物園

この姿かたち美しいサルビア・メキシアエ(Salvia mexiae)は、メキシアが最初に発見したサルビアで、1927年5月にハリスコ州サンセバスチャン付近のシェラマドレ・オキシデンタル山脈1500mの山中で採取した。
生息環境は小川の近くの開けた斜面に樹高3mにもなる大株に育ち、葉は細長い槍状で花序を伸ばし、その先に灰色がかったローズ色の苞葉がつく。花は上唇が明るいブルーで下唇が白っぽい色と記述されている。

形態的にはメキシカンブッシュセージ(サルビア・レウカンサSalvia leucantha)と似ているようだが、2mぐらいまでの成長に刈り込んで育てるといい感じのサルビアのようだ。
しかし、植物標本しか探しえなかったということは現存していないようだ。

5.Salvia quercetorum Epling (1938) サルビア・クエッチェトローム

 
(出典)University of Michigan Herbarium

サルビア・クエッチェトローム(Salvia quercetorum)は、1927年1月29日にメキシアによって発見された。
採取した場所は、ハリスコ州のリアライトで、シエラマドレ・オキシデンタルの山中で、オークの森の急な斜面に直立していた。草丈60-100㎝で葉からは強いミントの香りがし、花の色は濃いブルーと書かれている。
種小名の“quercetorum”は、ラテン語で“querce+torum”“オークのベット”を意味するので、オークの森に育てられたサルビアを表しているのだろう。

(続く)
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No50:女性プラントハンター,メキシアとサルビア その2

2011-09-11 09:56:59 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No50

メキシア(Mexia, Ynes Enriquetta Julietta 1870 -1938)は、1870年にワシントンD.Cのジョウジタウンで生まれた。
彼女の父 Enrique Guillermo Antonio Mexia(1829ー1896)は、祖父Jose Antonio Mexia (1800ー1839)が抵抗し銃殺されたサンタ・アナメキシコ大統領(Antonio Lopez de Santa Anna)に仕える外交官としてワシントンD.Cに赴任していたからだが、翌年の1871年に現在のテキサス州のメキシアに移った。

この地には祖父Jose Antonio Mexiaが所有していた広大な敷地があり、メキシコ革命の英雄である祖父を記念して町の名前がメキシアと名づけられたという。
祖父のJose Antonio Mexia (1800ー1839)は、ベラクルーズ生まれのメキシコ人と本人は主張していたが、キューバからの流民なのでテキサスのメキシアから名前を採って名乗っていたのかなと思っていたがそうではなかった。

メキシアの若い頃の足跡は良くわかっていない。
幼少期はテキサスで過ごし、初等教育は、フィラデルフィアおよびカナダのオンタリオの私立学校で受け、メリーランドのSt. Josep's Collegeを卒業した。

ここまでは良家の子女というキャリアのようだが、メキシアは当時としては晩婚であり、
メキシア28歳の1898年にドイツ系スペインの商人Herman E. Laueと結婚し、若いころ住んでいたメキシコのTacubayaに住んだ。
1904年にHerman E. Laueが死亡し、その後Agustin Reygadasと再婚したが離婚しサンフランシスコに移住した。二番目の夫の写真がメキシアの保存資料の中に残っているが、時期が1919-1922年であり、メキシアの二度の結婚生活は両方とも短く恵まれていなかったようだ。

お嬢様として育てられ、女性としてのキャリアはソーシャルワーカーとしかわかっていないが、メキシアが歴史に登場してくるのは、1921年メキシア51歳のときにカリフォルニア大学バークレー校の植物学の講座に参加するようになってからだ。

プラントハンターとしてのメキシア
メキシアは1921年から68歳で死亡する1938年までの17年間でメキシコ、南米、アラスカ探検に出かけ、8,800品種・延べ145,000もの植物を採取し標本を作った。その中には500品種もの新種が含まれていたので欧米の植物学会に多大な貢献をした。というのは、メキシアが採取した植物標本は米国の博物館・植物園及びロンドン、コペンハーゲン、ストックホルム、ジェノバ、パリ、チューリッヒ等ヨーロッパの主要な植物園にも配布したからだ。
メキシアの植物探索旅行の費用を支えたスポンサーは、カリフォルニア大学と米国農務省などだが、51歳からの実績のないビギナープラントハンターに最初からスポンサーとして支援するほどいつの世も甘くない。

どのようにしてプロになっていったのかを示すエピソードが2つほど残っていた。
本格的な植物採取の探検は、1925年9月16日―1925年11月19日までのメキシコ西部シナロアへの旅だった。
この探検隊は、スタンフォード大学ダドリーハーバリウムの著名な研究員フェリス女史(Ferris ,Roxana Judkins Stinchfield 1895-1978)が中心のメンバーで、メキシアはメキシコに住んでいたので探検隊の役に立つのではないかという自薦参加のようであり、費用も自己負担したようだ。
但し、カリフォルニア・アカデミーに採取した植物標本の複製を提供するので、これを評価し成果報酬的に資金を提供して欲しいという申し入れを行ったという。

実際に事後に探検費用が戻ったかどうかは分からないが、スタンフォード大学、カリフォルニアアカデミーとの付き合いができたことは間違いない。
しかもこの探検は顕著な成果があったので、プラントハンターとしてのメキシアの登竜門となり、全5回のメキシコ探検へと発展することになった。

また、もうひとつのエピソードは、最初の頃のメキシアは、“旅行”自体が目的で旅を楽しんでいたようだ。50歳も過ぎると当然の目的でわかりやすい。
しかし、同好会的な園芸クラブはこれでも良いのだろうが、大学の植物学という研究機関では通用しない。ましてや、第三者から探検にかかる多額の費用をスポンサードしてもらうとなると成果が求められるのでなおさら大変だ。
寝る時間を惜しみ、昼間に採取した植物の汚れを落とし、乾燥させ、植物標本をつくる作業と、採取した植物の特徴及び採取した場所などについて整理・記述する地道な作業を夜間に行わなければならないし、これが目的にならないといけない。

観光旅行気分で、こんなことに全く無頓着で人の気持ちなど気にしないメキシアだったので、見かねたフェリス女史は、ブライアント博士(Harold C. Bryant 1886-1968)に話をして、植物探索の旅の目的について彼が忠告をしたという。

ブライアント博士の忠告が効いたのか、後世に残るボタニスト、プラントハンターとしてのメキシアが誕生した。

探検旅行での写真があるが、机の上には採取した植物を分類記述した書類と思われるものがたくさんあり、仕事に打ち込んでいる様子が写っている。
メキシア晩年の頃の写真と思われるが、厳しい顔立ちとなりつまらなそうにしている印象もある。自由奔放な天性が通じない世界に入ってしまったからなのだろうかと思ってしまう。51歳からの植物への興味関心は、得るものもあったが失うものもあったのだろう。


(出典)Philosophy of Science Portal

ここで登場したブライアント博士について補足説明をすると、彼は、1916-1930までカリフォルニア大学公開講座の講師を務めた鳥類学者で、1930-1939は国立公園局のチーフディレクターとなる。
ブライアント博士は、カリフォルニア大学での思い出として三人の優れた学生の名前を挙げている。メキシア、ブラッセリン女史(Nina Floy Perry Bracelin 1890-1973)、モーセ女史(Elizabeth E. Morse )の三人で、特にブラッセリン女史は1927年からメキシアの友人となり採取した植物の整理分類に興味がなかったメキシアの仕事を引き継ぎ、後に『The Ynés Mexía botanical collections』としてまとめて出版した。ブラッセリン女史がいなかったらメキシアの評価も埋もれてしまったのかもわからない。

『The Ynés Mexía botanical collections』
 


【メキシアのプラントハンティング記録】
1.1922年 : プラントハンティングの始まりはカリフォルニア大学バークレー校古生物学研究員のE. L. Furlongをリーダーとするグループでのメキシコ研修旅行

2.1925年9月15日―1925年11月19日
・ 探検地: メキシコ西部、シナロア
・ スポンサー・リーダー: フェリス女史(Ferris ,Roxana Judkins Stinchfield 1895-1978):スタンフォード大学ダドリーハーバリウムの著名な研究員
・ 成果: 500品種3600の植物を採取

3.1926年9月―1927年4月
・ 探検地: メキシコ西部:シナロア、ナヤリト、ハリスコのシエラマドレ山脈
・ スポンサー・リーダー: カリフォルニア大学バークレー校の教授セッチェル(Setchell, William Albert 1864-1943)が部分的に出資。
・ 成果: 1600品種33,000の植物を採取。

4.1928年6月9日―9月12日
・ アラスカ探検: アンカレッジ、アラスカ

5.1929年5月6日―9月1日
・ 探検地: メキシコ北部および中央部:チワワ、メヒコ、プエブラ、ヒダルゴ
・ スポンサー・リーダー: カリフォルニア工科大学教授ファーロング(E. L. Furlong)
・ 成果: 315品種5000の植物を採取

6.1929年11月―1932年3月
・ 探検地: 南米ブラジル、ペルー探検:リオデジャネイロ、ビソザ、ディアマンティナ、アマゾン、ペルー、サンチャゴ峡谷
・ シポンサー: 米国農務省がスポンサーで同省のチェス(Chase,Agnes M.)が同行
・ 成果: 3200品種65,000の植物を採取

7.1934年9月―1935年9月
・ 探検地: 南米エクアドル:海岸よりの平野、アンデス山脈の東部アマゾン川、北部の高地、コロンビア国境地帯
・ スポンサー: 米国農務省がスポンサーでヤシ、キナノキなどの資源植物の探索
・ 成果: 900品種5,000の植物を採取

8.1935年10月―1836年1月
・ 探検地: 南米ペルー、ボリビア、アルゼンチン、チリー、アンデス山脈
・ スポンサー・リーダー: カリフォルニア大学植物園 グッドスピード(Goodspeed, Thomas Harper 1887-1966)をリーダーとした探検
・ 成果: 300品種1,900の植物を採取

9.1936年1月―1937年1月
・ 探検地: 南米ペルー・マチュピチュ、チリー南部、エクアドル
・ 成果: 1,000品種13,000の植物を採取

10.1937年7月―8月
・探検地: 米国ミシガン

11.1937年10月31日―1938年5月20日
・ 探検地: メキシコ南西部:オアハカ、ゲレーロ
・ 成果: 700品種13,000の植物を採取
※ メキシアはオアハカで病気になり1938年5月にサンフランシスコに戻り、7月12日に亡くなった。

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No49:女性プラントハンター、メキシアとサルビア その1。

2011-09-01 21:18:55 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No49

ヒントン(Hinton,George Boole 1882-1943)は、49歳からそれまでの裕福なキャリアを捨て経済的に不安定な趣味の植物採取の道に入り、プロのプラントハンターとして生計を立てることになった。
この上を行ったのがメキシア(Mexia, Ynes Enriquetta Julietta 1870 -1938)で、51歳になってからカリフォルニア大学バークレー校で植物学を学びプラントハンターの道に入った。

 
(出典)amazon.com

メキシアのことを書いた本の表紙に彼女の写真が掲載されているが、超越を経験した人だけが持つ視線を感じその奥深さに引き込まれてしまいそうだ。口元には慈愛深いかすかな微笑があり、強くそしてしなやかな女性だったのかな~と思いをめぐらす。

この本『Ynes Mexia(Botanist Adventurer)』の著者Durlynn Anemaは、
両親の離婚により精神的な障害を受けた経験を持ち、このような若い女性を勇気付けることをテーマとして、女性の探検家・冒険家の著作を12冊出している。男だけでなく女性も過酷な自然と闘ってこれを克服することが出来るという壮大なストーリーが元気の元となるのだろう。

私自身プラントハンターとして女性を取り上げるのは初めてであり、しかも功なり名を成した年齢でもある51歳から何故このプラントハンターの道に入ったのかが最も知りたいことだ。

そして、ヒントンのほぼ10年前からメキシコで最初のプラントハンティングを始めるが、どんなサルビアを発見したのだろうという楽しみがある。発見はその人のセンスであり、女性プラントハンター・メキシアのセンスが見れるかもわからない。

メキシアの祖父José Antonio Mexía (1800– 1839)は、1839年5月3日に39歳の若さで銃殺されたメキシコの政治家であり、1810年から始ったメキシコ独立革命に深く関わる家族の由来を持つ。こんな家族の歴史もメキシアの気質に影響を及ぼしているのだろう。

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