モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

トウティラン(洞庭藍)の花

2015-11-20 15:06:42 | その他のハーブ
(写真)トウティラン(洞庭藍)の花


灰緑色の葉の先に総状花序が伸び8月~10月頃に紫の花を下から上へと次々と咲かせていく。
日本原産のトウティラン(洞庭藍)で、生育地域が京都・兵庫・鳥取・島根の日本海沿岸の砂地に育ち、江戸時代には園芸商品として品種改良が進んだそうだが、今では絶滅危惧Ⅱ類に入り生存が危うい植物となっている。
とはいえ、2004年に6町が合併して誕生した京丹後市では。トウテイランを「京丹後市の花」として定め、市を挙げて保護に努めているそうだ。

園芸店では栽培の簡単なものはリピート購入が少ないため取り扱われない傾向があるが、トウテイランも栽培は簡単のようだ。耐寒性・耐暑性があり、乾燥にも強く水遣りは土が乾いたらとなると手間がかからない。
これで絶滅危惧植物になっているのが不思議だが、日本海側の京都から島根までの海岸線という限られた地域での生育に適した環境が極度に減っているというのが原因のようだ。
京丹後市の保護活動に期待するだけでなく、群生させると素晴らしい景観となることが想像できるので、園芸店で見かけたら手に入れていただきたい一品だ。

長崎出島のシーボルトが整備した植物園にもあったトウテイラン
シーボルトと弟子の伊藤圭介が書き残した長崎出島の植物園に集められた植物リストがあり、この中にトウテイランの名前も記載されていた。

(写真)長崎 出島 (左下が植物園)

出典:長崎大学 薬学部

シーボルトは日本の植物1000種類をこの植物園で栽培し、標本をつくったり、種を取り或いは生きたままの植物をオランダに送るために出島の敷地の1/4を植物園として使ったというが、如何に未知の植物の探索が重要であったかがこの敷地の使い方でわかる。

シーボルトが初めて日本に来たのは1823年であり、翌年鳴滝に塾を開く。1829年に帰国するまでのわずか6年間で鳴滝塾の門人は50人となり、この門人たちがシーボルトの欲しいものを集め提供するネットワークとなったようだ。

幕末とはいえ、幕府のルールは鎖国政策を継続し、ヨーロッパの情報を仕入れるためにオランダだけに通商を許可していたが、国内の情報・物産などを収集させないために出島を作りそこに閉じ込めていた。
植物の採取・国外への持ち出しは禁止であり、出島周辺の植物、或いは、江戸参勤時の道中の植物採取は隠れて可能だが、1000種も集めたのは50人の弟子たちが協力したようだ。
だから、京都から島根の日本海沿岸にしか育たないトウテイランがシーボルトの植物園にあったのだろう。

(写真)出島の植物園で栽培していた植物リスト

出典:長崎大学 薬学部

シーボルトは本来は1年前の1828年に帰国するはずだったが、帰国の際に乗る船が台風で難破し、海岸に流れ着いたシーボルトの荷物から持ち出し禁止の伊能忠敬作の日本地図などが出てきた。というのがこれまでの説であったが、スパイの疑いが既にあり出航を止められていて、家宅捜査で日本地図が出てきた。というのが実情のようだ。
シーボルトの偉いところは、弟子及び友人に罪を着せて自分だけ生き延びることをしなかったところにある。こんな人間だから国禁を犯してでも欲しいものを提供したのだろう。

この時にトウテイランなど多数の植物が海を渡っていたならば? と思わないでもない。
トウテイランは、オランダ、イギリスなどで人気の栽培植物になっていただろうな!と思う。


(写真)トウテイランの花


トウテイラン(洞庭藍)
・ゴマノハグサ科ベロニカ属(オオバコ科クワガタソウ属に分類されることもある)の耐寒性・耐暑性がある多年草。
・学名は、ベロニカ・オルナータ(Veronica ornata Monjuschko (1924).)で、1924年にMonjuschko, Vladimire A. (1903-1935)によって命名された。
・和名はトウテイラン(洞庭藍)で、花の色が中国の有名な湖、洞庭湖の水の色のように美しい藍色をしているというところからつけられた。というが、洞庭湖の水は濁っているというのが現実のようだ。
・原産地は日本で、近畿・中国地方の日本海側の日当たりと水はけの良い海岸に自生する。
・草丈40~50cm、茎・葉は白い毛に覆われ白緑色。
・8~10月頃茎の先に総状花序を出し青紫の花を咲かせる。
・栽培は簡単なほうで、日当たりの良いところで、砂ではなく花用の培養土を使用し、乾燥したら水をあげる。
・20㎝程度伸びたら摘心をすると良い。風に強くなり、花序を増やせる。
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