モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

No17:プラントハンターのプリンス、プリングルの貧困

2010-09-22 09:19:24 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No17 (プリングル、その2)

プリングルの貧困とスポンサー
プリングルは膨大な植物標本を採取しているが、これは、経済的な危機と無縁ではないようだ。ハーバード大学植物学教授のグレーが亡くなってからのプリングルは、常に経済的な危機に陥っていた。
これをカバーするために新たなスポンサーとしてアメリカの製薬会社2社(イーライリリー及びパーク・デイヴィス)、メキシコの国立医学研究財団などと契約をした。
パーク・デイヴィス社は、現在はファイザーに買収されているが新薬開発で臨床実験を組織的にした世界初の企業として歴史に名を残している。19世紀末から製薬会社がプラントハンターのスポンサーとして登場したことは注目に値する。

プリングルにとってはこれだけで十分でなく、米国・英国などの植物園・博物館など40社に植物標本1シートを10セントという安い料金で提供するビジネスも行った。
どんなところに供給したかを見ると、スミソニアン協会、ニューヨーク植物園、ミズリー植物園、カリフォルニア科学アカデミー、英国博物館、キュー植物園、エジンバラ植物園などであり、これまでプラントハンターを派遣した主要なスポンサーでもある。

貧困から編み出された手法かもわからないが、これまでのプラントハンターを支えていたのは困難な時間に見合った報酬とその活動費という拘束時間とプロセスに基づいていたが、1シート10セントという成果報酬型にいきなり切り替えてしまい、プラントハンターのビジネス破壊を行った感がある。

プリングルが活動した時代は、鉄道のネットワークが拡大していく時代であり、米国では、1830年代に蒸気機関車の運行が始められ、路線が充実し馬車や川蒸気に取って代わったのが1900年前後の数十年間がその全盛期というから、まさにプリングルの時代に重なる。
一方メキシコの場合は、1873年にメキシコシティ - ベラクルス間 419 km が列強資本によって建設されたのを始まりとし、1908年にはいくつかの私鉄を買収する形でメキシコ国鉄が発足したという。

プリングルのメキシコ探検旅行は、シャーロットから汽車に乗ることから始まる。この新たな移動手段・メディアが出現したので、かつてのプラントハンターの報酬・価格が低下せざるをえなかったのだろう。
単独でのスポンサーで全ての経費をまかなうのが難しい場合は複数のスポンサーに広げるのは当然の理であるが、植物標本1枚が10シリングという手法は原価計算をきちっとしているとは思えず無理があったようだ。

この手法が50万枚の膨大な植物標本を残すことになったが、プリングルの経済的困窮・貧困からは抜け出せなかった。しかし、プリングルにとって40社の顧客を満足させる植物標本を提供することはそれほど難しくなかったようだ。

(写真)メキシコの鉄道網

(出典)ウイキペディア

幻の花だったティグリディア
プリングルは、美しい花を集めたことでも群を抜いていて、バーモント大学にはプリングルのコレクションがあり、バーモント及びメキシコの植物標本が展示されている。
その中には、当時の園芸市場で人気があった植物も採取されていて、プリングルは蘭・タイガーフラワー(tiger flower)と呼ばれるアヤメ科の花、ティグリディア(Tigridia)を園芸市場にも供給して収入を得ていたようだ。

アヤメ科ティグリディア属(Tigridia)の花は、花弁の中心に茶色の斑点、虎斑(とらふ)が入ることから虎を意味するラテン語のtigrisから名づけられ、和名では“トラユリ”と呼ばれる。
メキシコ原産のこの花は、征服者のスペイン人にも注目されていて、彼らが実物を見る前から“Tigridis flos”として知られていたほど憧れの花だった。この花を最初に見て記述したのはスペインのフィリップ二世から1570年にメキシコに薬用植物の調査で派遣されたエルナンデス(Hernández, Francisco (1517-1587)だった。
エルナンデスは、ティグリディアの美しい姿をアステカ人の庭で見た。この花は、一日花だが球根は食糧・薬ともなるので栽培品種として育てられていたのだ。

園芸市場への導入はスペインではなくイギリスから始まったようで、18世紀の後半にメキシコからもたらされ、リバプールの近くのエバートンの地主Ellis Hodgsonが育て球根を分けることで広めたようだ。
珍しい植物を紹介することで園芸市場の大衆化を促進した園芸雑誌、カーティス(Curtis, William 1746-1799)のボタニカルマガジンにもティグリディアが1801年に取り上げられているので、この直前頃にイギリスに入ったことが裏付けられる。

(イラスト) Tigridia pavonia

(出典)Curtis Botanical magazine Vol. 15 (1801) [532]

(写真)実際のTigridia pavonia

(出典) Mnogoletnik foto

プリングルは、ヨーロッパで、そしてアメリカで人気がある蘭とかティグリディアなどの生きている花卉植物をも園芸市場に供給した。もちろん好きな植物の採取活動をするための生きんがための行為だった。

彼は、メキシコは採取尽くしたのか次は南米に行く予定でいたが、1911年5月25日に肺炎を患い73歳で他界した。プリングルは、メキシコの美しい花を発見・採取したことで我々にときめきを与えてくれた。

次回は、
プリングルのサルビアのコレクションも素晴らしいといわれている。
No18:プリングルが採取したメキシコのサルビア
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No16:メキシコ植物相の最高なコレクションを残した、プリングル

2010-09-16 11:07:31 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No16

“プラントハンターのプリンス”登場
これまでは、ヨーロッパからの探検家、移民だったが、アメリカ生れのプラントハンターがこのシリーズで初めて登場する。
しかも、北アメリカ特にメキシコの植物のカタログを作ることに35年の時間を費やし、20,000種にも及ぶ品種が含まれた500,000枚もの植物標本を作り、その中には29の新しい属と1,200もの新種を発見・採取したという圧倒的な量を誇るプラントハンターで、紆余曲折したキャリアでこれを成し遂げた。

(写真)Cyrus Pringle at age 38, in 1876

(出典)The University of Vermont

この人物の名はプリングル(Pringle, Cyrus Guernsey 1838-1911)で、彼は、1838年5月6日にジョージⅢ世(在位:1760-1820年)の王妃シャーロットにちなんで名付けられたカナダと国境を接するアメリカ北東部のバーモント州の小さな町シャーロットでスコットランドから入植した移民の子供として生れた。
ちなみにジョージⅢ世は、アメリカの植民地に重税を課しアメリカ独立戦争を引き起こした植民地入植者にとっては憎き当事者だ。晩年は認知症で周りが苦しんだという。

1859年にバーモント大学に入学するが一学期で退学する。彼の兄が亡くなったので母の農場を手伝う必要に迫られたからだ。
もともとプリングルは、農業に関心があり早い時期から才能を開花させていた。
彼が19歳の1857年の時に、母の農場で園芸での最初の成果があった。それは、大きなストライプがある夏リンゴがなる苗木を作出したことである。
翌年の1858年には最初のナーサリー(育種園)を開き、果物とジャガイモを育てた。その中でジャガイモを交配させることにより、“スノーフレーク(Snowflake)”と呼ぶ新しい品種を作出した。
後に彼が作出したジャガイモの新品種は英国でも評判になりロンドン園芸協会の賞を獲得するなど、農場経営に科学的なアプローチを早くから取り入れていたのには驚きに値する。
こんな才能を既に開花させていたので大学を卒業するまでもないが、大学を卒業していたのならばどうなったのだろう?

信仰と拷問
大きな試練は南北戦争(American Civil War 1861-1865)で起きた。
プリングルは、早い時期からクエーカーの教えに共鳴し、1863年2月に学校教師で優秀なクエーカー(またはキリスト友会徒)の話者でもあるグリーン(Almira Greene)と結婚した。
その5ヵ月後の7月に北軍から召集があったが、他の二人のクエーカー教徒と共に戦争に反対の立場を貫き、兵役不服従の罪で犯罪者と一緒の牢に拘束され、10月には牢から外に引きずり出され歩けなくなるまでの拷問を受けた。
この話を聞きつけたクエーカー教徒でもある農務長官に当るアイザック・ニュートンがリンカーン大統領に伝え恩赦を取り計らったという。

リンカーン大統領は、南北戦争を遂行し奴隷制度を廃止するためにクエーカー教徒の支持を獲得する必要があり、アイザック・ニュートンの起用もこの流れから起きている。
クエーカー教徒というのは俗称で“Religious Society of Friends(キリスト友会)”が一般的で、17世紀の英国でジョージ・フォックス(George Fox、1624-1691)が創設した。
宗教には“教祖”“経典”“教会”という三教がピラミッド構造で組織を構成しているが、クエーカーにはこれがない。現在の信者は世界で60万人、北米に12万人程度というから驚くほど少ない。しかし、平和・平等・誠実・質素が教えの骨格を作っているので、リンカーン大統領にとってもまた核と温暖化の脅威にさらされる現在の我々にとっても有難い価値観でもある。

園芸家からプラントハンターに
1863年11月6日に仮釈放されたプリングルは、シャーロットの農場で趣味と家業の園芸・農業に戻った。
彼の健康が回復した1868年からは、プリングルは再び彼のエネルギーを果物・コーン・トマト・小麦・オート麦などの交配を行い新種を作ることに情熱を傾けた。

(写真) Cyrus Pringle collecting in Arizona, 1884

(出典)panoramio

プリングルがプラントハンターとして活動するのは1870年代からで、ボストンの顧客からバーモントの森から野生植物を採取する依頼が来た。
シダの専門家ダベンポート(Davenport ,George Edward 1833-1907)からはシダを集める依頼があり、そして、アメリカを代表する植物学者でハーバード大学教授グレー(Gray,Asa 1810‐1888)と知り合ったことがこれ以降のプリングルのプラントハンターとしての活動を支えることになる。

1880年には、グレー教授から米国西部での植物学的に面白い植物採取の依頼があり、米国国勢調査局からはアーノルド樹木園の園長サージェント(Sargent ,Charles Sprague 1841-1927)の指導の下で森林地帯の探検をして組織的・地理的・経済的なデータを提出する依頼、そして三番目にアメリカ自然史博物館のジェサップ(Jesup ,Morris Ketchum 1830 -1908)から北アメリカの樹木の採取の依頼があった。
スポンサーの筋から見てプラントハンターとして一流と認められ始めたようだ。

1884年の探検旅行の写真があるが、幌のある荷馬車と馬が草を食みプリングルが休息をしている。写真を撮ったのはバーモント、メキシコで一緒に行動したアシスタントのFilemon Lozanoなのだろう。
この写真には、獄中よりは自由があるが、自然の厳しさとプラントハンターの厳しい生活が映し出されていて、この厳しさを乗り越えられる情熱がない限り長くやれない職業を感じてしまう。

アメリカ自然史博物館のジェサップは、銀行業で資産を作り慈善事業や自然史博物館事業にも巨額の資金を提供したのでここの理事長に就任したが、プリングルに依頼した植物の収集は、サージェントがアドバイザーになっていた。
この二人は意見が合わず現場のプリングルにしわ寄せが来た。特にサージェントはプリングルにとって不可能なことを要求し、自分のためだけに仕事をすればよいという厳しいスポンサーだったようだ。この時彼は三十代前半なので功名が先にたちアドバイサーとしてもプロデューサーとしても経験に裏打ちされた人の動かし方を会得していない人物のようだ。

1882年10月にサージェントのわがままな注文に切れてしまったプリングルは電報で辞任を申し出た。
受注者が発注者を切るということは、何時の世も厳しい未来が待っている。スポンサーを無くすだけでなく悪口が広められ生活圏を狭められるということが実際にも起きた。

しかし、このプリングルの苦境を救ったのが、ハーバード大学教授グレーであり、彼をハーバード大学のグレー植物標本館の専任コレクターとして雇い、メキシコでの植物採取を任せた。この時の年俸800ドルをグレー植物標本館で持ち、200ドルをハーバード大学植物園で支払ったというきめ細やかな配慮がされている。

プリングルがメキシコの植物採取に深くかかわったのはグレーのおかげであり、1885年から1909年までに39回の探検旅行を行うことになる。
グレーは1888年に亡くなるが、後任者のワトソン(Sereno Watson 1826-1892)にもプリングルの面倒を見るように申し伝えていたがグレーの4年後に死亡し1892年にはハーバード大学からの支援がなくなった。
このプリングルの苦境を救ったのはグレーの未亡人であり、彼女の個人ローンで切り抜けることができた。

ここまで他人の面倒を見たグレー及び未亡人に感動するが、プリングルは彼らに何を与えたのだろうか?
グレーは、プリングルを"the prince of botanical collectors."と評している。植物学者は新しい植物を採取するコレクターを必要とし、コレクターは、その活動資金を支えるスポンサーを必要とする。この関係において、お互いがお互いを尊敬する関係があったようだ。
プリングルにとってグレーは、一番の支援者であるだけでなく師でもあり、グレーにとっては28歳も離れているので我が子であったのかもわからない。
一人でもこんな尊敬しあえる友をもてたら幸せだろう

メキシコの植物の魅力
メキシコのサルビアについては次回紹介する。

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タラとポテトとキノコのグラタン

2010-09-12 14:31:57 | 男の料理
簡単なフランス料理を作ってみた。
グラタンというとコクとドロドロしていて、食べる前から中高年には向かないと思ってしまうが、意外とアッサリしていてイメージにあるグラタンらしくない。

しかも作り方が簡単なのでお奨めかな?



<材 料>(4人分)
生タラ切り身        4切れ
塩・コショウ         適量
ジャガイモ         4個
シメジ            1パック
エノキ            1パック
アスパラガス        6本
生クリーム         200cc
パルメザンチーズ     50g

<作り方>
1. タラに塩・コショウをしておく。
2. ジャガイモは適当な大きさに切り、硬めに茹でる。アスパラガスも適当な大きさに切りサッと茹でる。
3. キノコ類は、石づきを切り落としほぐしてフライパンでサッと炒める。
4. タラは、サラダ油を熱したフライパンで焦げ目がつくぐらい両面を焼く。
5. 耐熱皿にバターを塗り、ジャガイモ・キノコ・アスパラガス・タラを並べ、その上から生クリーム・パルメザンチーズをかける。
6. 180℃で予熱したオーブンで12分焼き色がつくまで焼く。
7. 皿にとりわけ、パセリなどを添えると見た目もきれいになる。

<評 価>
生クリームとパルメザンチーズでグラタンらしからぬ大人のグラタンが出来上がります。タラにふる塩分も控え目のほうがいいでしょう。タラがない場合は、鯛などの白身魚でもいけそうです。
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小沢一郎のラストチャンス

2010-09-07 12:19:48 | ニッポンの政治
さて、政治は書かないつもりでいたが書くことにした。

理由は簡単で、小沢さんが民主党代表選に勝ち内閣総理大臣になって欲しいからだ。

そして、その結果、負けた菅さん陣営が新党を立ち上げる行動に出て欲しいからだ。
だが、岡田さんは、民主党に残って欲しい。

世論調査と異なることを望んでいる理由は、
菅さん及びそのブレーン達の論点の作り方にガキっぽさを感じるからだ。

参議院選挙での“消費税論”、今回の代表選での“クリーンな政治”がその象徴だ。
財務省官僚の口車に乗ってしまった見識のなさ、勝てば官軍という考えでの挑戦者のアキレス腱を攻め続けるスポーツマンシップのなさ、ここに狭量を感じる。

私たちが納めている税金の使い方が無策であり効率が悪い。しかも無駄遣いをしているのでここにメスを入れ、大手術をやって欲しいという願望が民主党政権を作ったと思うが、官僚の口車に乗る狭量の菅さんで大丈夫なのだろうか?

政治家の身ぎれいさは政治家個人のモラルの問題だが、日本が中長期的に沈没しかかっているのは、私たちの大問題であり、これまでの自民党政治家と官僚の政策が間違っていたところが多かったというツケが来ている大問題だ。

政策そのものと、政策立案と予算付与その執行のシステムをどう変えていくかというのが論点のはずだが、アキレス腱を蹴ることに力点をおく菅さんには聞いていてがっかりしてしまう。まるで、先の国会での野党自民党のようだ。

政治家が身ぎれいということ自体、天に向かってツバをしているようで、ダメ人間の象徴のようだ。
政策とその実現で清濁あわせのみ、決断したら逃げないで利害関係者に説明する努力にかけてもらいたいものだ。

さて、小沢さんだが、やっと表舞台に登場した。
一対一で勝負したら恐いだろうなと思う。しかし、代表選での説明スタイルは、短い言葉に情熱というか気持ちがこもっているように感じる。しかも、官僚にとっては劇薬のようだ。
中央省庁の解体を進められるのは小沢さんのほうだろう。
情報収集、政策立案、予算化、(予算の付与は国会)、執行、この評価など全てのプロセスを握って離さないでいるので、自分たちの縄張りの拡大での天下り先の団体を作る、業界との癒着など弊害が目立つようになった。
執行部分から切り離し予算と人員を地方公共団体に渡していく小沢論は妥当な手法だと思う。これを加速して中央省庁をスリム化できるのは官僚の口車に乗らない小沢さんだと感じる。

現段階では、菅さんが代表選で勝つだろうという予測のようだが、挙党一致という名目で民主党が生き残ろうとする菅さんたち陣営の浅はかさがいずれ出るだろう。
それは、政治資金に身ぎれいと自称する“いい子達グループ”は、この代表選を通じて“悪い子”達を排除する感情がより強まり純化の道を進みそうだからだ。

小沢さんは、最後の最後であるラストチャンスを時間をかけて練るだろうから分裂の火種は残りそうだ。
岡田さんがこの分裂に橋をかける政治家として大きく成長して欲しいものだ。
そして、自民党を初めとする野党にもチャンスが廻ってくるので、政策立案能力のある政党に育つことを望みたい。

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No15:パーマーが採取したサルビア

2010-09-04 20:06:03 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No15

パーマーが採取したサルビア(No14に続く)
ミズリー植物園のデータでは、パーマーは49種のサルビアを採取している。これはかなり多く、植物の採取場所としてサルビアの宝庫、メキシコ及びテキサスなどのアメリカ南部に絞り込んだその成果が現れている。
その中には意外なものが混じっていて中米の古代文明を支えた重要な栄養源となるサルビアもあった。

(1)Salvia ballotiflora Benth (1833) サルビア・バロティフローラ


(出典) World Botanical Associates

1898年北部メキシコにあるコアウイラ州でパーマーが採取。
1833年に英国の植物学者ベンサム(Bentham, George 1800-1884)によって命名されているので、最初の採取者は不明。グレッグ(Josiah Gregg 1806-1850)も1848年に採取している。
Blue Sageとも呼ばれ、四角い枝で芳しい香りのする60-180cmの潅木。葉はコモンセージのようにギザギザで青紫の花が咲く。乾燥させた葉は、肉類に風味をつけるために使われる。

(2)Salvia betulaefolia Epling (1941).又は, Salvia betulifolia Epling,(1941)


(出典) Image Gallery

メキシコ、ドゥランゴ州Tejamenでパーマー晩年の1906年8月21-27日 に採取。
アメリカの植物学者でサルビア属の権威エプリング(Epling, Carl Clawson 1894-1968)が新種として命名するが極端に情報がない。

(3)Salvia chionophylla Fernald (1907) サルビア・キオノフィラ


(出典)Robin’s Salvias

テキサス州に隣接するメキシコ北部にあるコアウイラ州の岩と砂利が多い乾燥した傾斜地で1904年8月29日にパーマーが採取した。
銀灰緑色の楕円系の小さな葉と白いマークが入った明るいブルーの花が特徴で、草丈30-60㎝で横に広がるのでロックガーデンのグランドカバーに活用するとよさそうだ。

(4)Salvia coahuilensis Fernald, (1900). サルビア・コアウイレンシス


(出典)CASA CONIGLIO

1898年5月にパーマーがメキシコ、コアウィラ州の州都サルティロで採取。
草丈60㎝程度の小潅木で、晩春から秋まで青紫色の美しい花が咲く。葉は薬臭い香りがし、まるでサルビア・ムエレリのようだが、サルビア・グレッギーのブルー系の花として間違って販売されていることがある。

(5)Salvia coccinea Buc'hoz ex Etl. (1777). サルビア・コクシネア


(出典)モノトーンでのときめき

1777年にフランスの医師・ナチュラリスト、ビュショ(Buc'hoz, Pierre Joseph 1731-1807)等によって緋色(scarlet)を意味する“coccinea”と命名される。
パーマーは、1904年6月13-16日にメキシコ、サンルイスポトシで採取していて、このシリーズNo10 でとりあげたギエスブレット(Ghiesbreght, Auguste Boniface 1810-1893)も1864 – 1870年に採取している。

米国からブラジルまで広範囲で生息し、ブラジル原産地説があったがメキシコ原産地のようであり、園芸品種を含めて赤、白、ピンクなど様々な品種が作られている。温暖なところでは多年草だが日本では一年草として扱う。

(6) Salvia forreri Greene (1888). サルビア・フォレリ 


(出典)Robin’s Salvias

1888年米国の植物学者グリーン(Greene, Edward Lee 1843-1915)によってサルビア・フォレリと命名されたが、この時の採取者はわからない。記録に残る最初の採取者は、命名後から大分経過した1905年にプリングル(Pringle, Cyrus Guernsey 1838-1911)が採取していて、パーマーは、1906年7月25日-8月5日の間にメキシコ中部のドゥランゴ州で採取した。
耐寒性が強く、春先から白いマークが入った淡いブルーの小花を多数開花させる。草丈10cm程度で匍匐性があり横に広がる性質を持つのでグランドカバーとして適している。
Salvia arizonicaに近い種でもあるという。

(7) Salvia hispanica L.(1753) サルビア・ヒスパニカ


(出典)Robin’s Salvias

大きな葉、その先から伸びる花穂に小さな青紫の花は、決して見事とはいえない。しかし、このサルビア・ヒスパニカは、紀元前3500年頃から食糧として使われ、マヤ文明、アステカ文明など中米の高度な文明を支えた貴重な食物植物だった。どこがという不思議さを感じるが、花の後のタネにその秘密がある。
マヤ文明が栄えたマヤ地方は、現在のメキシコ南東部、ユカタン半島、グアテマラ、ホンジュラス西端部、エルサルバドル西端部をさし、トウモロコシ・豆を主食とし、この地域ではチア(Chia)と呼ばれているサルビア・ヒスパニカのタネが重要な栄養源を供給していたという。

チア(Chia)の語源は、アステカ文明(1428年頃-1521年まで北米のメキシコ中央部に栄えた)を支えたナワトル族の言葉“chian”に由来し、“油”を意味する。メキシコ南部のチアパス州(Chiapas)は、この派生から来ている
このチア(Chia)は、アフリカのサバンナに生まれ長い時間をかけて日本に伝播した栄養素が豊富な“ゴマ”のようなものだと理解してもよいだろう。

こんな由緒ある重要な植物なので誰が発見したという代物ではないが、パーマーは、1896 年4-11月の間にメキシコ、ドゥランゴ州でこれを採取している。

(8)Salvia longistyla Benth. (1833).サルビア・ロンギスティラとボタニカルアート  


(出典)Robin’s Salvias

Curtis's Botanical Magazine

(出典)ウイキメディア・コモン

このサルビアは、メキシコ南西部で1830年に英国人のGraham, G. J. によって採取されている。英国の植物学者ベンサム(Bentham, George 1800-1884)による命名が1833年なので、グラハムが採取したもので命名されたと思われるが、このグラハムという人物が良くわからない。
パーマーは、1906年4月21日-5月18日の間にメキシコ、ドゥランゴ州でこのサルビアを採取しているが大分遅れて採取している。

サルビア・ロンギスティラは、美しい緑色の大きな葉とワインレッドの花のコンビネーションが良く、秋に開花する。
カーティスのボタニカルマガジンにも1914年にとりあげられ、このサルビアの特色が描かれている。ボタニカルアートの描き方としてとても参考になる。

(9)Salvia misella Kunth(1818)サルビア・ミセラ  


(出典)Annie’s Annuals

フンボルトとボンプランがメキシコ(1803-1804年)で最初に採取したサルビアであり、美しいブルーの花が見事だ。パーマーは、1894年10月-1895 年5月の間にメキシコ、ゲレーロ州アカプルコでこのサルビアを採取した。

命名者のドイツの植物学者クンツ(Kunth, Karl(Carl) Sigismund 1788-1850)は、1813-1819年の間、中南米の探検からパリに戻ってきたドイツの探検家フンボルトのアシスタントとして働き、フンボルトと彼の盟友ボンプランが採取した植物を分類しこれらを元に新世界アメリカの植物相を書いた画期的な本「Nova genera et species plantarum 」(1815-1825)がボンプランの名前で出版した。クンツも著者として末席に記載されている。

(10)Salvia mucidiflora Fernald(1907)= Salvia roscida Fernald,(1900)
(写真)Salvia roscida

(出典)Robin’s Salvias

パーマーは、1906年4月21日-5月18日の間にメキシコ、ドゥランゴ州サンラモンでこのサルビアを採取しているが、正式な学名はサルビア・ロシーダ(Salvia roscida Fernald,(1900))として1900年に命名されているのでこの名前が優先される。
サルビア・ロシーダは、“Salvia fallax”とも呼ばれているが、パールブルーの美しい花を冬場に咲かせるので、花が少ない時期の貴重なサルビアでもある。

(11)Salvia purpurea var. pubens A. Gray(1887) =Salvia purpurea Cav.(1793)


(出典)Robin’s Salvias

パーマーが1886年メキシコ南西部で採取したSalvia purpurea var. pubensは、1793年に既にスペインの植物学者、カバニレス(Cavanilles, Antonio José 1745-1804)によってサルビア・パープリア(Salvia purpurea Cav.(1793))として記述されていたので、この名前が正式な学名となっている。
それにしてもライムライトの葉と赤味が入ったスミレ色の組み合わせは見事だ。開花期が秋半ばから初冬なのでこの時期の花としても貴重だ。
英名で“パープルセージ”と呼ばれるSalvia officinalis ''Purpurea''は別種である。

(12)Salvia reflexa Hornem.(1807)  サルビア・リフレクサ   


(出典) Types of Flowers

1896年4-11月の間にドゥランゴ州でパーマーが採取。英名では、槍状の葉を表すlanceleaf sage、生息地を表すRocky Mountain sageとも呼ばれ、米国ミズリー州、カンザス州、メキシコ北部が原産地。
夏から秋にかけて淡いブルーの小さな花が咲くが、草丈10-70㎝で牧草地・草原で生息し、毒性があるので家畜が食べると有毒という。日本にも帰化していて和名では「イヌヒメコヅチ(犬姫小槌)」と呼ばれる。毒性には気をつけましょう!
命名者ホーネマン(Hornemann, Jens Wilken 1770-1841)は、 デンマークの植物学者。

(13)Salvia reptans var. reptans Jacq.(1798)サルビア・レプタンス


(出典)モノトーンでのときめき

コバルトセージとも呼ばれるサルビア・レプタンスは、コバルトが入ったようなダークブルーの花と針のように細長い緑色の葉が特色で、初秋から晩秋まで茎の先に花穂を伸ばし数多くの花をつける。
パーマーは、1886年6-10月の間にハリスコ州でこのサルビアを採取するが、No10に登場したギエスブレットも1864-1870年の間にメキシコ南部のチアパス州でこのサルビアを採取している。

(14)Salvia roemeriana Scheele (1849) サルビア・ロエメリアナ 


(出典)Robin’s Salvias

草丈50cm前後の小さなサルビア、鮮やかな赤色の花、ハート型のゴツゴツした葉
テキサスからメキシコにかけてが原産地で、パーマは1906年4月にメキシコ、コアウイラ州で採取した。

このサルビアの最初の採取者は、テキサスに住んだドイツのコレクター、Lindheimer, Ferdinand (1801-1879)が1846年4月にテキサスで採取し、学名はドイツのボタニストで探検家のScheele, George Heinrich Adolf (1808-1864)が同郷の地質学者で1845-1846年にテキサスでの地質学調査を行ったレーマー(Roemer ,Carl Ferdinand von 1818 –1891)を讃えて名付けた。
日本で販売されている、サルビア・ホットトランペットはこの種の園芸品種である。

(15)Salvia tiliifolia Vahl (1794) サルビア・ティリフォリア  


(出典) Iris' Tuin

このサルビアは、華麗なところがなくまるで雑草のようであり玄人受けのするサルビアのようだ。ライムグリーン色の葉は丸めで大きく、ブルー色の花はその割りに小さくアンバランスだ。

最初の採取者は、イタリアトリノの植物学の教授、ベラルディ(Bellardi, Carlo Antonio Lodovico 1741-1826)で、1794年にリンネの使徒の一人でもあるバール(Vahl, Martin (Henrichsen) 1749-1804))が命名した。
命名者バールは、デンマーク・ノルウェーの植物・動物学者であり、ウプサラ大学でリンネに学び、ヨーロッパアフリカなどの探索旅行をし、アメリカの自然誌をも著述し、彼が最初に記述したサルビアがこのSalvia tiliifoliaだった。
パーマーは、何度かこのサルビアを採取しているが、最初の採取はパリーと一緒の1878年サンルイスポトシでの探検だった。

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