モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

No44:ヒントンが採取したサルビア②

2011-04-29 08:13:05 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No44

ヒントン父子が採取したサルビアでこれまで記載してこなかったものをアルファベット順に紹介する。1930年以降といえども消息不明のサルビアが結構ある。


5.Salvia capillosa Epling (1940)サルビア・カピローサ
ヒントンがメキシコ・ミチョアカン州Zitacuaro(シタクアロ)で1938年7月8日に初めて採取したサルビアだが、ヒントン以外に採取した例がなく、いまでは幻のサルビアとなっている。
残っているのは、彼が作った標本だけであり、ここからはどのようなサルビアであったかをうかがうことができない。

 
(出典)国立メキシコ自治大学生物学研究所

6.Salvia compacta Kuntze (1891).サルビア・コンパクタ
 
(出典)Robins Salvias

サルビア・コンパクタは、命名者のクンツ(Kuntze, Carl Ernst Otto 1843-1907)がコスタリカで採取したのが最初であり、1874年から1876年の間に採取したようだ。
このクンツは型破りの人物で、ドイツのライプツィヒで1843年に生まれ、実業学校しか卒業せず1868年にライプツヒで化学工場を始め大成功を収める。財産を形成したので5年後にこの事業から引退した。クンツ30歳のときであり、翌年の1874年から趣味の植物採取で世界一周旅行を2年間行った。この時のコースが西インド諸島、アメリカ、南アメリカ、日本、中国、インドを訪問して1869年11月に開通したスエズ運河経由でドイツに戻った。その後大学に入学し博士号を取得するが、このときに採取した植物の解説を1891年に出版し、リンネの命名法に反論する主張を行うなど異端児ぶりを遺憾なく発揮する。
という経歴から見ると、サルビア・コンパクタの採取時期は1874年頃なのだろう。
ヒントンは、1932年11月にメヒコ州テマスカテベックで採取している。

サルビア・コンパクタは、草丈60㎝程度と小柄で、花序にはブルーの小花を密集して咲かせる。これが、コンパクトの由来でもある。
しかしこのサルビアは、100年前にスペインのカバニレス(Cavanilles, Antonio José(Joseph) 1745-1804)によって命名された「Salvia polystachya Cav.(1791)」と同じなので正式な学名はこちらになる。

ヒントンは、「Salvia polystachya Cav.(1791)」も多数採取しているので、違った品種と見たところが何かあったのだろう。しいて言えば、花序が直立している「サルビア・コンパクタ」に対して、横に寝てしまう「サルビア・ポリスタキア」という違いだろうか。

7.Salvia cyanantha Epling (1940) サルビア・シアナンサ
サルビア・シアナンサは、ニューヨーク植物園に標本があった。採取者はヒントンで、花序はかなり長くブルーで香りがある花と記述されている。
しかし今日栽培されている痕跡がなく、失われたサルビアのようだ。
 
(出典)ニューヨーク植物園

8.Salvia cyanea Benth.(1833) サルビア・キアネア
「Salvia cyanea」には、命名者が3人いる。
年代順では、1808年にドイツ生まれでロシアのサンクスペテルブルグ植物園園長となったフィッチャー(Fischer, Friedrich Ernst Ludwig von 1782-1854)、1833年に英国の植物学者ベンサム(George Bentham 1800-1884)、1892年にはスペインのメキシコ探検隊セッセとモシニョー(Sessé & Mociño)を記念して名づけられている。

サルビア・キアネアの最初の採取者は定かではないが、セッセ探検隊であった可能性が高い。その後に採取したものはヒントンだけであり、彼が採取したのは1932年8月にメヒコ州でこのサルビアを採取している。
しかし、ヒントンが採取した「Salvia cyanea Benth.(1833)」は、「Salvia concolor Lamb. ex Benth. (1833).」であり、花とそれを支える萼の色が同じなので“concolor”と名づけられたという。
一方の、フィッチャーが命名した「Salvia cyanea Fisch.(1808)」は、「Salvia lamiifolia Jacq.(1798).」だった。
この二つのサルビアの写真を見比べると、葉・花ともよく似ているが、花の色合いが異なり、萼にいたっては完全に異なり別種であることに納得する。

(写真)Salvia concolor Lamb. ex Benth. (1833).
 
(出典)flickr

(写真)Salvia lamiifolia Jacq.(1798).
 
(出典)ecflora

さらに気になる事があった。
「Salvia cyanea」は「Salvia concolor」であり、「Salvia divinorum Epling & Játiva,(1962) (サルビア・ ディヴィノルム)」に近い。という説がある。

(写真)Salvia divinorum Epling & Játiva,(1962)
 
(出典)brainz.org

写真写りの差はあるが、確かに似ている。

「サルビア・ディヴィノルム」は、その葉を煎じて飲むと覚醒効果があるので近寄らないほうが良い植物として知られるようになって来た。
エプリング(Epling, Carl Clawson 1894-1968)が命名者でありこの植物の覚醒効果の研究をしていたので詳しくはエプリングのところで取り上げるが、スペイン人が来る以前のメキシコでは、マサテック族の宗教儀式で利用されていたという。
これをマサテック・シャーマニズム(Mazatec shamanism)というが、呪術師、或いは巫女が信者をトランス状態にし、霊との交信を行うというものであり、トランス状態にするためにキノコの一種、アサガオの一種、サルビア・ディヴィノルムが使われていたということが20世紀中頃からやっとわかってきたという。

カトリック教を野蛮な植民地に普及させることを目的のひとつにしていたスペイン人は、ネイティブの宗教を否定し、儀式で使っていたあらゆるものを禁止した。
しかし、1571-1577年に実施したエルナンデスのメキシコの博物学的な探検、1787年から1803年までの16年間に実施したセッセの植物探検隊などを通じて、現地宗教或いは医療に使われていたハーブの把握はしていたようだ。
だが、見たくないもの・都合の悪いものを封印してしまったようだ。

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18世紀後半、プラントハンターのパイオニア、マッソンとミッショー

2011-04-20 07:04:06 | プラントハンターのパイオニア、マッソン
英国のプラントハンター、フランシス・マッソン(Masson, Francis 1741-1805) 、フランスのプラントハンター、アンドレー・ミッショー(Andre Michaux 1746-1802) は、18世紀末に活躍したプラントハンターであり、この二人の足跡をたどっているうちにプラントハンターというものに興味を持つようになった。

ここでは、過去に書いた原稿をリンクで取りまとめてみた。


プラントハンターが登場した背景
草花が少ないイギリスが園芸大国になったのは、18世紀の産業革命により経済的な基盤が強化され富裕層が出現したという時代背景があるが、これだけでは園芸の大衆化が進まない。世界の珍しい植物を集めたいというイギリスの知識階級をリードするバンクス卿、それを支える研究機関としてのキュー植物園、園芸の産業化を進めるナーサリーと呼ばれる育種商、世界の植物を集める冒険家としてのプラントハンター、ウォードの箱を初めとした植物を船で輸送する技術と世界をネットワークした東インド会社、そして大衆化を推進する園芸情報としてのボタニカルマガジン、これを支える植物学の知識を有するライターと植物画を描くアーティスト。さらには植物マニアが集うサロンとしての園芸協会。これらが18世紀以降のイギリスで開花した。

未開拓地で危険と飢餓に苦しみながら生命をかけて植物を採取するプラントハンターの背後には、これを支える裾野が広い仕組みが形成されつつあり、珍しい・美しい花を愛でたいという人間或いは社会の欲望を満たしはじめている。

しかし、冒険家、探検家ではプラントハンターになれない。さらに植物の知識と栽培の技術がなければ冒険家・探険家で終わってしまう。

江戸時代に日本に来た大植物学者ツンベルクとキュー植物園のプラントハンター第一号のマッソンは、南アフリカのケープ植民地で遭遇し1772年から3年間ここに滞在した。一緒に植物探索の旅もしたが、学者を目指すツンベルクは採取した植物を乾燥させ数多くの標本を作るが、マッソンにとっては標本は死んだ植物であり価値も意味もない。

採取した植物の苗木・球根・種が、長時間の輸送に耐え、本国の土壌で再生する確率をいかに高めるかまでをプラントハンターが考え行動するようであり、似ているようで冒険家・探検家・学者とは異なるようだ。

フロンティアが消滅した現在、プラントハンターは消えてしまった職業となったが、心ときめかせるロマンが我々現代人に消えずに残っている。
安全が保証されないフィールドは命がけだからこそ真剣に生きるが、キュー植物園が或いは、国家が送り出したプラントハンター達は、何のために旅したのだろうか?

名誉・お金・地位、或いは、好奇心なのだろうか?
或いは彼らプラントハンターを未開拓地に送り出したバンクス卿の“お褒め”なのだろうか? 

マッソンにしろ初期のプラントハンターは非業の死を遂げていることを踏まえると、現世のご利益を求めているようではない。ひょっとしたら、バンクス卿の志のために彼らプラントハンター達が生きたような気がする。

ということは、“フロンティアは消滅していない”ということになりそうだ。ヒトはヒトのために生きその志に報いる。ということになりそうだ。
ヒトがいて志がある限りフロンティアは健在だ。

パート1:
フランシス・マッソン(Masson, Francis 1741-1805)



南アフリカ・ケープ地方のゼラニューム、エリカ(ヒース)などの植物をイギリスに持ち込み、そして、ヨーロッパに広めたのはフランシス・マッソンに拠るところが大きい。
キュー植物園が年俸100ポンドを支出して南アフリカ・ケープ植民地に派遣したのは1772年のことであり、世界の珍しい植物を集めるキューガーデンのプラントハンター第一号がマッソンだった。

1.1770年頃の喜望峰の描写

2.フランシス・マッソンとバンクス卿

3.ケープの植物相とマッソン

4.マッソンが採取し世界を魅了した植物。==極楽鳥花

5.マッソンが採取し、キューを魅了した植物。==ソテツ

6.マッソンのプラントハンティングの旅==ツンベルクとの出会い

7.マッソンが採取した植物。==エリカ

8.マッソンが採取した植物。==イキシア(Ixia)

9.南アフリカからの贈り物 ゼラニウム物語 No1

10.南アフリカからの贈り物 ゼラニウム物語 No2 -Final

11.マッソン、ツンベルクが旅した頃の喜望峰・ケープ


パート2:
アンドレー・ミッショー(Andre Michaux 1746-1802)



フランス革命の直前1785年に、ルイ16世から王室の植物学者に任命され、さらにフランスにとって有用な植物を収集するために米国植物探索を命じられた。
ミッショーは、1785年11月にニューヨクに到着し1796年にフランスに戻るためにアメリカを去った。この間に、ミシシッピー川流域を初めとしたプレーリー地帯を探索している。ミッショーがアメリカからフランスに旅立ったその1年後の1797年にマッソンがニューヨークに到着した。

1.マリー・アントワネットのプラントハンター:アンドレ・ミッショー

2.星空で野営する清貧なプラントハンター

3.ミッショーのプラントハンティング

4.ミッショーのプラントハンティング費用の謎

5.ミッショーがアメリカに持って来た植物の謎解き


6.マッソンとミッショー 二人の関係

7.フランスのプラントハンター ミッショーのその後

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No43:ヒントンが採取したサルビア①

2011-04-17 11:05:53 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No43

ヒントン(Hinton,George Boole 1882-1943)は、死亡するまでのわずか十数年で16,300品種もの植物をメキシコのゲレーロ州・ミショアカン州・メヒコ州で採取し、その中には300以上の新種と4つの新しい属が含まれていたという。
植物採取で生計を立てるプロのプラントハンターとなったのが1936年でヒントン54歳の時だったが、キュー植物園、ニューヨーク植物園、ハーバード大学、ミズリー大学などを顧客としていた。
ここには、ヒントンが採取した植物が保管・記録されており、ミズリー大学では、13192種類の標本があり、その中には356種ものサルビアが含まれている。

これまで取り上げなかったメキシコのサルビアを可能な限り調べていくことにする。

1. Salvia agnes Epling (1938) サルビア・アグネス

(出典)Flicker.com

サルビア・アグネスは、コンパクトなサルビアで8月から霜が降りるころまで、ブルーの小さな花を多数咲かせる。

このサルビア・アグネス(Salvia agnes)の最初の発見者は、メキシコの政治家を祖父に持つ米国の女性探険家・植物学者メキシア(Mexia, Ynes Enriquetta Julietta1870-1938)で、1927年6月29日にメキシコのハリスコ州サン・セバスチャンで採取している。
ヒントン(Hinton,George Boole 1882-1943)より一回り年長だが、彼女が51歳の時から植物学の世界に入ってきているのでヒントンとの共通点もあり、この点でも興味をそそられる人物でもある。
この「メキシコのサルビアとプラントハンター物語」の最終章は、このサルビアの命名者エプリング(Epling, Carl Clawson 1894-1968)か、メキシアのどちらかにしようと思い始めた。
一方、ヒントンがこのサルビアを採取したのは、1939年10月4日で、ミチョアカン州のCoalcománで採取している。

しかし、フンボルトとボンプランが先に発見して1818年にクンチ(Kunth ,Karl(Carl) Sigismund 1788-1850)によって「Salvia lavanduloides Kunth (1818)」と命名されていたのでこちらが正式な学名となる。種小名の “lavanduloides”は、“ラベンダーのような ”を意味する。

(写真)Salvia lavanduloides Kunth (1818).

(出典)Flicker.com

2.Salvia albiflora M. Martens & Galeotti(1844)サルビア・アルビフローラ

「サルビア・アルビフローラ」は、草丈1.5mで、葉は披針形という竹の葉のように平たくて細長く先のほうが尖っている形をしていて、10-25cmの花序を伸ばし、白い花をつける。と書かれている。しかし、実物の写真は見当たらない。
種小名の“albiflora”は、“白い花”を意味し、例えてみると、「Salvia officinalis "Albiflora"」のような姿をしているのだろう。

(写真)Salvia officinalis "Albiflora"

(出典)Flickr.com

このサルビアを最初に発見したのは、ベルギーのプラントハンター、ガレオッティ(Galeotti, Henri Guillaume 1814-1858)で、1840年6月にメキシコのベラクルーズで採取している。
ガレオッティに関しては、ここを参照。

ヒントンは、100年後の1938年7月22日にミチョアカン州シタクアロでこのサルビアを採取している。

3.Salvia albocaerulea Linden (1857) サルビア・アルボカエルレア


(出典)meemelink.com

この植物画は、ベルギーの園芸家・園芸誌編集者・プラントハンターのLouis van Houtte (1810-1876)が創刊した園芸誌“Flore des serres et des Jardins de l'Europe”の1858年13巻に掲載した「Salvia albocaerulea」で、この雑誌には1845-1883年までの間に2000枚以上の植物画が描かれたという。

Salvia albocaerulea は、 “No30:プリングルが採取したサルビア その12”にも記載したが、この植物画のとおりであるならば、なかなか素晴らしいサルビアだと思う。

ヒントンはこのサルビアを1932年から1938年までに多数採取しているが、彼以前にはプリングルだけしか採取記録が残っていない。

Louis van Houtteは、ベルギーでナーサリー(育種園)を経営し、ランや海外の珍しい植物をヨーロッパ中の顧客に販売して成功を収めているが、若いころはブラジルにプラントハンターとして探検を行っている。
彼が、このサルビアをどこで手に入れたかが謎だが、1845年から中南米にランや珍しい植物を集めるためにプラントハンターを送り出した実績があるので、このプラントハンターが集めてきたものか、或いは、似たような経歴を持つベルギーの園芸家・プラントハンターのリンデン(Linden, Jean Jules 1817-1898)が1857年に「Salvia albocaerulea」と命名していることからして、リンデン達から手に入れたという可能性も否定できない。
しかし、実写が見つからなかったことから、現存してないサルビアのようだ。

4.Salvia angustifolia Michx.(1803) サルビア・アングスティフォリア

サルビア・アングスティフォリアはいくつもの顔を持つ。ということは、似て非なるものに同じ名前をつけてしまった歴史がある。
種小名の“angustifolia”は、“ラベンダーのような尖った細長い葉も持つ”という意味を持ち、唯一見つかった植物の姿は、オランダの植物学者・アーティストのAbraham Munting(1626-1683)が描いた「Salvia Angustifolia Cretica」だった。
確かに、ラベンダーのような感じがする。

(写真)Salvia Angustifolia Cretica

(出典)philographikon.com
画:Abraham Munting作

ヒントンが1932年8月にメヒコ州テマスカルテペックで採取した「Salvia angustifolia」は、1803年にフランスのプラントハンター、ミッショー(Michaux, André 1746-1803)が命名者となっているが、今では、サルビア・アズレア「Salvia azurea Michx. ex Vahl, Enum.(1804)」のことを指す。
葉は確かに細長いが、花は異なる。

(写真)サルビア・アズレア Salvia azurea

(出典)モノトーンでのときめき

このサルビア・アズレアは大好きなサルビアのひとつで、命名者ミッショー、これから登場する英国キューガーデンのプラントハンター第一号フランシス・マッソン、セッセ探検隊など花も人物もそろってしまった感がある。

ミッショーが命名したチョット前に、スペインの植物学者カバニレス(Cavanilles, Antonio José 1745-1804)が「Salvia angustifolia Cav.(1797)」を命名している。
カバニレスは、メキシコ原産のダリアを1791年にヨーロッパで始めて開花させた人物であり、1801年からはマドリッド王立ガーデンの初代教授オルテガ(Ortega, Casimiro Gómez de 1740-1818)の後を引き継いで園長となる。
この「Salvia angustifolia Cav.(1797)」と命名した植物は、セッセ探検隊(1787-1803年)がメキシコで採取し、スペインに送ったものなのだろう?
しかし、カバニレスが命名した「Salvia angustifolia」は、いまでは、サルビア・レプタンス「Salvia reptans.Jacq.(1798)」と呼ばれている。

(写真)サルビア・レプタンス Salvia reptans.

(出典)モノトーンでのときめき

ビジュアルで比較できる時代になると、確かに違いが良くわかり別種であると気づくが、1800年前後のころは乾燥した標本と記述された特徴で分類していただろうから違いが良くわからなかったのだろう。
ちなみに、命名者ジャカンは、1755-1759年に、ウィーンのシェーンブルン宮殿ガーデンのために西インド諸島・中央アメリカにプラントハンティングに行ったので、カバニレスとの違いである“百聞は一見にしかず”が出てしまったのかもわからない。

三番目の「Salvia angustifolia Salisb.(1796)」は、英国の植物学者ソールズベリー(Salisbury, Richard Anthony 1761-1829)が1796年に命名したが、よくよく調べると、1789年に命名された「Salvia dentata.Aiton(1789)」だった。
このサルビアを採取したのは、英国キューガーデンから南アフリカケープ植民地に派遣されたフランシス・マッソン(Francis Masson 1741-1805)だった。

(写真)サルビア・デンタータ Salvia dentata

(出典)Robins salvias

全てに共通しているのは、葉がラベンダーのように細長いということであり、1700年代から1800年代初期のヨーロッパの主要国、オランダ、英国、スペイン、フランス、オーストリアがそれぞれの国家の戦略で植物資源を求めて海外に探検隊を派遣した時代でもあった。
それにしても、サルビア・アングスティフォリア(Salvia Angustifolia)はどこに消えてしまったのだろうか? 
最も早く記述した、オランダの植物学者・アーティストのAbraham Munting(1626-1683)が描いた「Salvia Angustifolia Cretica」は幻だったのだろうか?
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