モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

フロックス 二度咲きの花

2008-08-30 18:47:58 | その他のハーブ

いま、ものすごい雷雨が降っています。

気分転換に、今朝から咲き始めたフロックスの花を!!


(写真)フロックス・バニキュラータの花


6月中旬に咲き切り戻しておいたが二度咲きとなる。
この花の特徴などはここを参照してください。
⇒ フロックス・パニキュラータの花
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その54:西洋と東洋をつなぐ喜望峰。その認識と植物相⑧

2008-08-30 08:39:05 | プラントハンターのパイオニア、マッソン
~マッソンのプラントハンティングの旅==ツンベルクとの出会い==

マッソン(Francis Masson 1741-1805)は、
1772年から1775年までの3年間、および、1786年から1795年の9年間ケープ植民地に滞在し、
南アフリカ全域をカバーするぐらいの探検を行い、1000以上の新しい種をキュー植物園に送った。
キュー植物園では、南アフリカの珍しい植物に興奮し、これらを展示するための展示室をつくった。

マッソン最初の探検は上陸後直ぐであり、季節的には春から夏へという最もいい時期で、
内陸部のステレンボッシュ地域(the Stellenbosch area)とホッテントット・オランダ山脈(the Hottentot Holland Mountains)に約2ヶ月の探検に出かけた。

もうこの探検で、ケープ地域の植生すばらしさと植物の宝庫を体感したことだろう。

ゴードン、ツンベルクとの出会い
ケープ植民地に戻ると、マッソンは意外な人物ツンベルクと出会い探検をすることになる。
マッソンとツンベルクをつないだのは、東インド会社のゴードン大佐のようだ。

ゴードン大佐(Robert Jacob Gordon 1743-1795)は、スコットランド系のオランダ人で、
南アフリカの探検家であり、オレンジ川の命名者としても知られる。
また1780~1795年は、東インド会社のケープ要塞守備隊の大佐として戻ってきた。
ゴードンは、1772~1773年にケープ植民地に来ており、ここで、マッソン、ツンベルクと出会う。

ツンベルク(Carl Peter Thunberg, 1743-1828)は、
東インド会社の船医としてケープ植民地に1772年4月に到着し、日本に行くためのオランダ語の研修を実施していたが、
ケープの東インド会社は、植物探検のための費用を出さなかったようで困窮していた。

これを救ったのがゴードンで、ツンベルクをマッソンに紹介し、マッソンはツンベルクのスポンサーとなる。
ここからが推測なのだが、プラントハンティングの費用はマッソンが持ち、
生きた植物をキュー植物園に送ってもよいが、学名などの新発見の名誉はツンベルクがもらう。
こんな契約をしたようだ。
さらに、ツンベルクはオランダの東インド会社に植物を送ることも了承させたようだ。

こう推測すると、コレクターとしても命名者としても学名への関与が低いマッソンの事実が納得できるようになる。

ちなみに、マッソンの年俸は100ポンド、活動費は200ポンドという契約のようで、
マッソンのような階級にとっては魅力的な給与のようで、さらに困窮していたツンベルクにおいても同じだろう。
活動費200ポンドは十分にツンベルクのスポンサーとなれる。

さらに余分な当時の状況だが、死亡率が高い船乗りを集めることは大変みたいで、
酔っ払って寝ていた人間をも誘拐するなどの手を使ってでもかき集めていたそうだ。
船の操縦にかかわる上級船員である士官と海兵隊員は誘拐はしない・・・・

プラントハンティングの旅
マッソンは、ゴードン、ツンベルクと3人でケープ植民地とファルス湾(False Bay)の間の山を徒歩で小旅行の探索をした。
ここで先ほどの契約が成立したのだろう。

1773年の9月にマッソンとツンベルクは4ヶ月に及ぶ長期の探検旅行をする。

マッソンは寡黙でかつ記録に残すことが多くないが、この探検日記が残っている。
ツンベルクは記録することが職業の基本である学者であり克明に日誌に残しているが、
西部劇に出てくる荒々しい山で道に迷い野宿する場面を想像して欲しい

ツンベルクは世も終わりと悲観しているが、マッソンは楽しい思い出というトーンで記述しており、
科学のために努力している英才と、趣味で稼いでいる実務家との違いが鮮明になっている。

ツンベルクは母校ウプサラ大学でリンネの跡を継ぎ教授・学長となり銅像が残った。
マッソンはカナダの荒野で凍死する。
死の瞬間の走馬灯は如何だったのだろうか?

最後のシーンはこの通りだが、二人の出会いの最初に答えが出ているようだ。
マッソンは薄れて行く感覚で、楽しかった~と思っていたのではないだろうか!!

マッソン、ツンベルクのプラントハンティングは、実り多かった。
その成果を取りまとめるのは次回とする。

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その53:西洋と東洋をつなぐ喜望峰。その認識と植物相⑦

2008-08-28 06:37:17 | プラントハンターのパイオニア、マッソン
~マッソンが採取し、キューを魅了した植物。==ソテツ==

マッソンの帰国を迎えたバンクス卿は、
1778年には王立協会の会長となり英国の科学技術の振興を推進する栄誉を手中にした。

マッソンを送り出し成果があったことで会長職に着いたわけではないが、
それほどマッソンの成果は画期的で、根底にある思想は
1760年頃から始まっていた産業革命とシンクロし、英国のグローバリゼーション、
ごく普通に言うと帝国主義化を推進する戦略眼が確信されたとも見れる。

面白いのは、バンクス卿によるプラントハンティングの最初の契機は、
キュー植物園には、めぼしい植物がなくなりもぬけの殻だった。
ということのようだ。

この庭園を管理していた人間を国王が首にしたことが原因で、めぼしい植物がもぬけの殻になった。
国王ジョージⅢ世から相談を受けた時には、

バンクス卿は、既にキャプテン・クックとの太平洋探検航海を実施しており、
わからないことには、ヒトを派遣し、組織的に情報を収集分析することが必要ということを自ら体験していた。

後世ではこれを“Catch the roots”といっているが。
もぬけの殻を単に埋めるのではなく、わからないことを調べるというスタンスをつくりあげたから
英国がライバルよりも強国になったのだろう。

だが実際は、バンクスのカリスマ性で効果がよくわからないことに
無駄かもしれないコストを使うということが出来たようだ。

バンクス卿は1820年に亡くなるが、これ以降は金庫が閉ざされ、
キュー植物園は、ダーウィンが活躍し、世界の種の情報センター化構想がスタートするまで眠りにつくようになる。

■ キュー植物園が誇るマッソンの遺産
エンケファラルトス・アルテンステイニー

(出典)キュー植物園にあるマッソンが持ってきたソテツ





マッソンそしてバンクスの自慢の一品は、鉢に植えて1775年にマッソン自らが英国にもって帰ったソテツだ。
鉢植え植物としては、世界でも最も古いものの一つであり、
225年の時を越えていまでもキュー植物園のソテツの温室にあり来園者を迎えてくれる。

このソテツは、ツンベルクのソテツともよばれているが、
マッソンとツンベルクが、1775年に東ケープ地方の探検をした時に海岸沿いの崖で発見したという。

このソテツが珍重されているのは、植物学上のことがまずあり
2種のソテツ(E. natalensis とE. ferox)が自然に交配したハイブリッドであることと、
ソテツは雌雄異株であるためこの1株だけでは子孫繁栄とはならないが、
自然交配種であるのに、この種と同じ種の株が1株しか発見されていない。
ということで絶滅の危機にある唯一の株を持っているという緊張感がある。

マッソンとツンベルクはラッキーにも唯一に近いソテツに出会ったようだ。

さらに、
マッソン、ツンベルクそしてバンクス卿の世界的な植物フロンティアの夢があり、
“やはり”という驚きと必然とも思いたくなるめぐり合わせに出会った。

ソテツは数年に一度子孫繁栄の準備をする。
マッソンが持ってきたソテツは、これまでにたった一度だけこの準備をし、

 
円錐形の球果といわれるマツカサをつけた。

なんとそれは、1819年でキュー植物園に持って来られてから44年後であり
バンクス卿もこれを見に来たという。

翌年バンクス卿は他界した。
それから190年が経過したが一度としてマツカサをつけることがないという。

【出典】
キュー植物園のソテツ



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その52:西洋と東洋をつなぐ喜望峰。その認識と植物相⑥

2008-08-26 09:31:17 | プラントハンターのパイオニア、マッソン
~マッソンが採取し世界を魅了した植物。==極楽鳥花==

フランシス・マッソンは、南アフリカに2度植物探検に出かけているが、
この南アフリカからキュー植物園に1,000以上もの珍しく新しい種をもたらしたという。
しかもその後、世界に広がるほどの人気となる植物が多く、マッソンは永遠の名誉を手に入れた。

マッソンがキュー植物園に送った植物で著名なのは、
いまではヨーロッパを彩るゼラニュウム(南アフリカ原産はペラルゴニウムと呼ばれる)、
ケープ・ヒースと呼ばれるエリカ、世界に普及したグラジオラス、オキザリス、イキシアなどもマッソンが採取したものだ。

プラントハンティングの旅、そこでの出来事、採取した植物などは次回とし
マッソンの花として代表的な植物を可能なかぎり紹介したい。
植物類については、実写がないのでリンク中心となるがご勘弁いただきたい。

(写真) ストレリチア・レギナエ(出典:キュー植物園)


■ Bird of Paradise Flower (極楽鳥花)

『ストレリチア・レギナエ(Strelitzia reginae)』 、和名ではゴクラクチョウカ(極楽鳥花)
英名も同じ意味を持つBird of Paradise Flower
(大きな写真はこちら)


この花は、マッソンが1773年にキュー植物園に送り、
学名の『ストレリチア・レギナエ(Strelitzia reginae)』は、
バンクス卿がジョージⅢ世の王妃の出身家の名前をつけた。
王室の金庫から資金が出ているので当然といえないこともないが、
このへんがわがままバンクス卿の素晴らしさでしょうか。

植物の属性としては、
バショウ科の常緑多年草で、草丈は2mまで成長し、大きく広く丈夫な葉、
花は長い丈夫な茎の先端にまるでパラダイス(天国、極楽)の鳥のように咲く。
まず、茎に対して直角に鳥のくちばしのようなさやが伸び、ここに花がつつまれており、
ここから一つずつ花が出てくる。

花は、オレンジ色をした3つの萼片と3枚の青紫の花びらからなり
この形と配色は、自然がつくったのか神がつくったのかどちらでも良いという造形美ではないだろうか?

花がつつまれていたくちばしのようなさや(仏炎苞、ブツエンホウという)は、
蜜を吸いにくるタイヨウチョウの止まり木となる。
タイヨウチョウは、 種としてはアメリカ大陸に生息するハチドリに近いが、空中飛行で停止して(ホバリング)蜜を吸うことが出来ないタイプのようだ。

派手さでひきつけるだけでなく、しっかり花粉をつけてもらう止まり木を用意している賢い花でもある。

そういえば、バーにも止まり木というものがあるが、
酔いつぶれて崩れ落ちないためのものではないことに今気づいた。
酔わないで飲むか、酔い潰れたら崩れ落ち、客の回転をよくするためのもののようだ。
これも賢いかなと思ってしまう。しかも止まり木というのが素晴らしい。

【参考】
フランシス・マッソンが採取した極楽鳥花を描いたバウアー(Franz Bauer 1758-1840)の植物画
キュー植物園:ストレリチア・レギナエ(Strelitzia reginae)

(追記)
この極楽鳥花、日当たりが良いリビングの窓際に置いているが、まだ一度として花を咲かせたことがない。
鉢だけがだんだんと大きくなり、緑の葉を楽しむ観葉植物化している。
2019年には花を咲かせてみたいものだ。



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タカサゴユリの花

2008-08-24 12:17:33 | その他のハーブ

(写真)タカサゴユリの花


秋の気配を感じてかタカサゴユリの花が咲き始めた。
このユリは、カサブランカが消えるといつの間にか代わりに出現し鎮座している。
今年で4年目になるが種を飛ばして盛んに増殖している。

(写真)4年目の本命君はまだつぼみ


(写真)水分がない壁際に咲いたユリ


(写真)水遣り付近に咲いたユリ


4年目の本命君はまだつぼみ状態だが、
昨年定着し今年で2年目の“壁際のユリ”は、
この周囲でさらに子供を殖やしつつ2個の花と2個のつぼみをつけている。

今年新たに進出したのは、庭の給水のところにある鉢、そして庭の隙間。

この繁殖力の強さは脅威でもあり、日本のユリが席巻されるかもわからない。
すでに、テッポウユリとの雑種が現れ区別がつかなくなりつつある。

また、ヤマユリの場合は、花をつけるのに5年ぐらいかかり、年に1個づつ増えていく。
それだけ貴重品でもあるが、
このユリの場合は、1年目だけは1個の花しかつけないが、あっという間に増える。
子孫を残すという点では、タカサゴユリが優れている。

台湾にタカサゴユリ、沖縄諸島ではテッポウユリ、鹿児島県川内市の甑島(こしきじま)ではカノコユリと生息地のラインが浮かび上がる。
そしてそれぞれに日本を訪問したプラントハンターが絡んでいる。

【参考】
その45:西欧をときめかした日本のユリ①

その46:西欧をときめかした日本のユリ②

(写真)庭の隙間狙いのユリ、赤紫の筋が入る


高砂ゆり・細葉鉄砲ゆり
・ユリ科ユリ属の多年草。関東以西では越冬する耐寒性がある。
・学名はLilium formosanum。英名は、Formosa lily, Taiwan lily。
・原産地は台湾で、繁殖力が強く日本各地に帰化しテッポウユリとの交雑もあり区別が難しい。
・世界で96種類のゆりがあり、日本では15種類のゆりが自生。
・耐寒性に強いが、高温多湿は苦手。
・草丈1.5~2m
・開花期は、8月下旬で花の時期は意外と短い。
・つぼみの時に外側に赤紫の筋が入る。
・テッポウユリと花が似るが、葉が違う。テッポウユリは葉が太めで、タカサゴユリは細長い。

タカサゴユリの採取者
タカサゴユリは日本に大正時代に入ってきたようだが、
このユリを採取したのは、キュー王立植物園から派遣されたオルダム(Richard Oldham 1838-1864)で、
1864年台湾のフォルモサで採取した。
オルダムは、1861年から1863年まで日本に滞在し、日本の植物を多数キュー植物園に送った。

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その51:西洋と東洋をつなぐ喜望峰。その認識と植物相⑤

2008-08-22 08:00:59 | プラントハンターのパイオニア、マッソン
~ケープの植物相とマッソン

ケープ・タウン、いま、昔
マッソンが降り立ったその日の喜望峰を
キャプテンクックの航海日誌ではこう表現している。

1772年10月30日
『午後2時喜望峰を見る。ケープ・タウンのうしろにそびえるテーブル・マウンテンは東南東にあり距離12ないし13リーグ。午前7時テーブル湾に停泊。・・・(略)・・・
我々の到着を総督に知らせるため士官を一人派遣し、彼が帰還した時、要塞に向けて11発の礼砲を撃つと答礼があった。」
(注1)1リーグは3海里で1海里は1852mなので約5.6㎞。12リーグは約66㎞となる。
(注2)船舶での一日は、その日の12時に始まり翌日の12時までをいう。

(写真)海から見た喜望峰by google


ケープタウンから喜望峰までは、目と鼻の先と思いがちだが70kmも離れており、
両者の間には、テーブル・マウンテンと呼ばれる標高1000m程度、長さ3kmで、
頂上がテーブルのように平らな山がある。

アフリカ南部は、500~1000mの平らな高地が続いていて、いきなり海に絶壁の崖として落ちる。
砂岩・石灰質の土壌は、海の中で洗われ削られて平らになり、そして隆起して出来たのがアフリカの大地であり、
地球誕生、いや神がデザインしたとしか思えない創造物=南アフリカがそこにある。

アフリカ西海岸は絶壁が海岸線まで迫っており、港には適していないところが多いが、
喜望峰は、海岸から50~100mの高台状の大地であり、
さらに、ケープタウンの年間平均気温は15度で、乾燥した地中海地域に近い快適なところだ。

マッソンはラッキーだった。
ラッキーその1
ケープ地区は植物の宝庫で、ここにしかない原種が多数ある世界にまれなところだ。
これは、気候条件が異なる植生環境がそろっているからで、
地中海性気候のケープ・タウン、その背後に1000mのテーブルマウンテンには高山植物・温帯の植物があり
ケープ地区の北部大西洋側には本物の砂漠といわれるナミブ砂漠があり、
その途中はカール台地と呼ばれる潅木地帯がある。
これだけ異なる植生環境がそろったところはあまりない。

しかも、南アフリカからアフリカ東岸周辺には、人類の先祖といわれるホモ・サピエンスの生活の痕跡があり、
ケープ・タウンから300kmほど東のインド洋に面する海岸の洞窟(ブロンボス洞窟)からは、
7万5千年前の人類最古のデザインといわれる作品が出土している。
というぐらい、人類史で最も古い生活エリアでもある。

ラッキーその2
キャプテン・クックの第二回の航海では
「マディラ島で乗員が必要なだけのぶどう酒を積んだら、喜望峰に直行し、必要とする補給品を搭載せよ」
という指令を受けており、喜望峰が実質的な最初の寄港地であった。
これもラッキーだが、このぐらいの遠距離航行が出来るほど船の大型化と航海術が向上していた。
そして上陸したところが植物の宝庫と来ているので成果が出ないわけがない。

ラッキーその3
このシリーズの最後のほうで取りあげる予定だが、ツンベルクがケープ植民地にいて、
日本に来るためのオランダ語の学習をここでしていた。

マッソンとの大きな違いは、ツンベルクはリンネの弟子であり学者だったということだ。
リンネの植物体系を強化するための未開拓地での植物収集に力を入れているが、
それが、生きている必要がなかった。標本・植物情報でよかったのだ。

マッソンはイギリスで栽培でき人々が求める植物の生きた実物を求め、
学名に名を残すなどの名誉を求めていなかった。
オランダの植民地でライバルでなかったことが決定的にラッキーだった。

ケープでのマッソンの採取の旅と採取した植物を次回から紹介する。

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サギソウ(鷺草)の花二輪

2008-08-21 09:38:15 | その他のハーブ

二日おくれで2個目の花が咲いた。

“つれさぎ”というそうだがなかなか美しい。

これはつれあいなのだろうか、子供なのだろうか?

それとも・・・・・

写真だけの掲載で我慢いただきたい。


(写真)“つれさぎ”の図3点







サギソウ(鷺草)
・ラン科ミズトンボ属の多年草。
・学名は、Habenaria radiata。英名はEgret flower、和名がサギソウ(鷺草)。
・原産地は、本州以西から台湾・朝鮮半島の日当たりが良い水辺や湿地に生息。
・園芸商品であり品種は「金星」
・草丈、10~20㎝で、地下茎で次の年の球根をつくる。多肥を好むので週に1回液体肥料を与える。
・開花期は8月頃で、茎の先にサギのような白い花を2~3個咲かせる。翼を広げた花の大きさは2cm程度。
・原生地によって開花期が違い東北地方産は早く、九州地方産は遅い。
・水草ではないので、根ぐされにならないように注意する。
・開花後は切り戻して、ミズゴケが乾燥しないように毎日水をあげる。
・冬場は、腐葉土でマルチングをし、湿らせておく。

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グレープフルーツミント(grapefruit mint)の花

2008-08-20 09:58:45 | ミント

(写真) グレープフルーツミントの花


昨年よりチョッと遅めのようだが、薄紫色の上品な花が咲き始めた。
やはり花があると一段とバランスが良くなる。

というのは、グレープフルーツミントは、葉が素晴らしく、
明るい緑色の葉は、うっすらとした綿毛とシワシワで光を優しく返す。
葉に当たる光の変化を眺めていると癒し系のミントとなる。

朝早く葉を見ると、露に濡れたように根から吸い上げた水分を涙として放出しており
感情を持ったミントなのかなと錯覚したりする。

葉からは、かすかに青臭い柑橘系のにおいがし、
シャーベットなどに1~2枚添えると涼を楽しむことができる。

焼酎は、香りを愉しむところがあるのでやめたほうがよいが、
ジンなどのホワイトスピリッツ系のロックに入れるとおいしそうだ。
ロックグラスにジンと氷と緑色のミント。
口に持ってくるときに青臭い柑橘系の香り、脳を刺激し、悪酔いをさせないかも??
もちろん飲みすぎは脳死に至る。

(写真)グレープフルーツミントの葉


グレープフルーツミント(grapefruit mint)
・シソ科ハッカ属の耐寒性がある多年草。
・学名は、Mentha suaveolens x piperita(M.スアウェオレンス×ピペリタ)、英名がGrapefruit Mint (グレープフルーツミント)
・アップルミント(M. suaveolens)とペパーミント(M×piperita)の交雑種
・草丈は30~40cm。
・明るい緑色のシワシワが入った卵形の葉は、薄い綿毛で覆われており縁に切れ込みがある。
・グレープフルーツのような青臭い香りがする。
・開花の時期は7~9月頃だが8月末に咲く。茎の先の穂状花序に円錐形に薄紫色の小花が密集してつく。
・ハーブティ、サラダ菜として料理などに使える。

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宙を舞う サギソウ(鷺草)の花

2008-08-19 07:27:21 | その他のハーブ

(写真)サギソウの花


野草・山草には手を出していないが、名前が気になって育ててみた。
毎日水をあげるということと、週に1回の液肥を薄めたものを与えるということ以外は
難しいことがない。

それで、こんなに怪しげで、美しい花が咲く。

通常は、2~3輪咲くようで、これを“つれさぎ”と呼んでいるが
この花にかぎっては、1輪のほうが良さそうだ。

江戸時代にかかなり完成した園芸商品となり、産地名で表示されたようだ。
園芸商品があったので、生育する自然環境が減っても絶滅を免れている。
また悲恋の物語があるようでこれは紹介しないほうが良さそうだ。

一匹で天高く飛んでいるタカのように見てあげたいが
この花の情緒には獰猛さが似合わない。

南アフリカには、フランシス・マッソンが発見したゴクラクチョウカ(極楽鳥花)という美しい花があるが、
日本にはサギソウがあったのだ。

(写真)サギソウ立ち姿


サギソウ(鷺草)
・ラン科ミズトンボ属の多年草。
・学名は、Habenaria radiata。英名はEgret flower、和名がサギソウ(鷺草)。
・原産地は、本州以西から台湾・朝鮮半島の日当たりが良い水辺や湿地に生息。
・園芸商品であり品種は「金星」
・草丈、10~20㎝で、地下茎で次の年の球根をつくる。多肥を好むので週に1回液体肥料を与える。
・開花期は8月頃で、茎の先にサギのような白い花を2~3個咲かせる。翼を広げた花の大きさは2cm程度。
・原生地によって開花期が違い東北地方産は早く、九州地方産は遅い。
・水草ではないので、根ぐされにならないように注意する。
・開花後は切り戻して、ミズゴケが乾燥しないように毎日水をあげる。
・冬場は、腐葉土でマルチングをし、湿らせておく。

(写真)横から見たサギソウの花
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その50:西洋と東洋をつなぐ喜望峰。その認識と植物相④

2008-08-18 08:14:57 | プラントハンターのパイオニア、マッソン
~フランシス・マッソンとバンクス卿
フランシス・マッソン(Francis Masson 1741-1805)をレゾルーション号に押し込んだのは、
ジョセフ・バンクス卿(Sir Joseph Banks 1743 -1820)だった。

ところが、キャプテン・クックの航海日誌にはマッソンのことは何も書かれていないだけでなく、
幽霊人員が1名いた。

第二回航海の旗艦レゾルーション号と僚船のアドヴェンチャ号の人数・役職などを確認すると
プリマス出港時の1772年7月13日時点では、レゾルーション号の乗員は、士官92名、海兵隊20名で定員計112名。
ジェントルマンと従者は定員外で、天文学者と従者1名。ドイツの植物学者フォスター父子と従者1名、
風景画家ウイリアム・ホジスの6名で乗員合計118名となる。
アドヴェンチャ号は全部で83名で、天文学者ベイリと従者1名がその中に含まれる。

7月15日に船の全乗員を点呼したところ、定員より1名多いことを発見。
これは秘書官が誤りを犯したためだ。と書かれているが、
この1名がマッソンのようだ。

このような乗員名簿に載らずに乗船する無茶が出来たのにはワケがあり、バンクスを説明する必要がある。

キュー植物園の戦略的なポジションを創始したバンクス
バンクスは、クック探検隊が出発した翌年の1773年にキュー植物園の責任者になり、
その後英国の科学技術の総本山である王立協会の会長として
英国の科学技術を推進した人物であり、英国の躍進を支えたキーマンでもあった。

彼は、膨大な資産を相続し、腕白そのもので、学歴というものがなく、
私費で興味を持った植物学の一流の学者を雇い勉強するような型破りの人物でもあった。

彼が25歳の時、キャプテン・クックの第一回の太平洋航海に膨大な寄付を行い
博物学者・植物学者そしてパトロンとして同行した。

帰国後は、時代の寵児として宮廷・社交界などでもてはやされたが、
科学的な思考とそのマネジメントはこの時代をリードできるモノがすでにあった。
いまの時代は当たり前だが、情報を集めるために自前の金を使い
組織的に人材とシステムを整備していくところが素晴らしい。

そして集まった情報は秘匿せずにオープンに公開したので、利用者は、お礼の情報を持ってくるので、
植物の情報が集まるセンター化していった。
これがバンクスの書斎であり、そして、キュー王立植物園だ。

マッソンが名簿に載っていないのは?
バンクスは、太平洋探検の第二回は自分が指揮者と決めていた。
快適に船旅が出来るように自分の船室の大改造を希望し、そのとおり改造したところ
バランスが悪くなり沈没しかねなくなったので、バンクスに断りなく元に戻した。

これがバンクスの怒りをかい、ドタキャンとなった。
バンクスは、16名もメンバーをそろえていたので、このメンバーとフィンランド探検に出かけた。

かわりに、マッソンを押し込んだ。というのが流れだが、
このときは、バンクスはキュー植物園の責任者でもないので、
自分のお金でマッソンを押し込み、翌年1773年にキュー植物園の責任者になったので、肩書きを後日修正したというのが筋のようだ。

わがままなバンクスがイギリスの科学技術の基盤を創ったというから面白い。

キャプテン・クックは、わがままなバンクスの上を行っているようで、
バンクスのわがままに反論せず、船が沈没する可能性が高いのを承知していたのではないかと思われる。
当時の海軍大臣サンドゥイッチ候は、バンクスの幼少からの無二の友だが、
最後は、キャプテン・クックを取らざるを得なかったようだ。

こんなドタバタ劇があったからマッソンが歴史に登場し記録として残るチャンスが出たともいえる。
マッソン、クック、バンクスとも損のなかったドタバタ劇のようだ。

成長・発展などは、振り返ってみるとこんな個人の、わがままの争いを内包しており
それぞれが生き残るから成長したのだろう。
余裕がないところは、資源を配分しない理屈として“選択と集中”を採用するのでわかりやすい。

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