モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

サルビア・グレッギー・ミラージュ バイオレットの花

2020-10-15 10:55:00 | セージ&サルビア
サルビア・グレッギー・ミラージュ バイオレットの花
Salvia greggii Mirage™ Violet



(写真)サルビア・グレッギー、ミラージュ・バイオレットの花


美しい紫色の花、サルビア・グレッギー、“ミラージュ・バイオレット”(Salvia greggii Mirage™ Violet)の花が咲いた。
グレッギーで紫の花があることに驚き、何かの間違いではないかと目を疑った。

親である、サルビア・グレッギー(Salvia greggii)は、メキシコ原産で原種は鮮やかな赤色の花。 
3月~10月頃まで日本のいたるところの花壇で見かけるポピュラーな花になってきた。

園芸店では、『チェリーセージ』として売られているが、ここには
① サルビア グレッギー(Salvia greggii)
② サルビア ミクロフィラ(Salvia microphylla)
③ サルビア ヤメンシス(Salvia xjamensis)  グレッギーとミクロフィラの交配種で様々な花色が誕生。
という2種類の原種及びこれらの交配種、園芸品種をまとめて表示・販売しているのでややっこしい。

昔ならば紫色のグレッギーということはあり得なかったので、赤以外ならばグレッギーとミクロフィラの交配種であるヤメンシスかな?
ということだった。

サルビア・グレッギー、“ミラージュ・バイオレット”(Salvia greggii Mirage™ Violet)は園芸品種で、英語表記で“ミラージュ”に商標(Trade Mark)表示がされているので、商標・特許がからんでいることを示している。

雌しべと雄しべで受粉させて新種を開発する昔からのやり方では、時間とコストがかかり成功の確率も低い。
古来からの“交配” “接ぎ木”だけでなく、細胞培養や放射線を利用して新たな突然変異を作りだすなど新たな新種開発の方法が登場・実用化されている。

「サルビア・センセーション」シリーズでは、イオンビームを照射して突然変異を引き起こす開発方法を取っていることを紹介した。
Salvia greggii Mirage™ではどのような開発がされているのか興味がわき 特許コードを手掛かりに文献リサーチを行なった。

(写真)サルビア・グレッギー、ミラージュ・バイオレットの葉と花


Salvia greggii Mirage™ 開発物語

1)バルミルビオ保護情報

ミラージュには、以下のような注記がされている。

'Balmirvio' Protection Information: EU PBR49562; PP29,724
(Flowering Only License)

商標ミラージュの開発コードは 'Balmirvio'(バルミルビオ)で、完成品の花卉植物の販売だけに許諾が与えられている。つまり開発等の行為は出来ないことを意味する。
このうち「pp29724」は、米国の植物特許29724番を意味し、タイ、チェンマイのTroy Thorup(トロイ ソープ)が開発者として申請し、米国イリノイ州西シカゴに本社がある世界的な園芸会社Ball Horticultural Companyに権利を譲渡している。

(写真)Troy Thorup(トロイ ソープ)


2)'Balmirvio'(バルミルビオ)開発の流れ

開発は2013年7月にカリフォルニア州グアダルーペの研究所で始まった。
その目的は、大きな花と直立した成長習慣を持つサルビアの栽培品種の開発だった。いわば、現状のサルビアの小さな花、奔放に成長する枝の欠点を是正する見栄えの良い園芸商品の開発だった。

彼らが選択したサルビア・グレッギーを自家受粉させ、1年後の2014年7月には、中程度の大きさの紫色の花、中程度の緑色の葉、適度に活発な直立成長習慣を持つ品種が発見されこの品種を選択した。

2014年7月以降は、選択した品種を “挿し木”で大量に増やし、親と同じ性質を持つかどうかを確認する段階に入った。
この“挿し木””挿し芽”は日常の園芸でも株を増やす手段として使われているが、親と同じ性質を持つクローンを増やす手法として紹介すると感情的に嫌がられるから不思議だ。
結果は、新しい栽培品種は、開発目的で選ばれた品種の特性を忠実に再現し、固定し、世代を超えて保持されることが確認されたので、新品種の誕生となった。
このことは、つまり新品種の発明となる。

Troy Thorup(トロイ ソープ)は、2017年7月17日に「Salvia plant named 'Balmirvio'」に関する特許申請を行ない、2018年2月22日にこれを認められた。

3)'Balmirvio'(バルミルビオ)から “Mirage™”へ

この園芸品種はバイオレット以外にも青系でブルー、ディープパープル、赤系でチェリーレッド、ブルゴーニュ―、サーモン、ネオンローズ、ピンク系でピンク、ホットピンク、ソフトピンク、クリーム色、白色など多様な花色を開発している。
花壇がサルビアグレッギーの園芸商品で埋め尽くされる姿すら想像できる。

日本での販売は、Ball Horticultural Companyと「㈱エム・アンド・ビー・フローラ」を合弁で作った㈱ミヨシグループ(本社:世田谷区八幡山)が行っている。



サルビア・グレッギー“ミラージュ・バイオレット”Salvia greggii Mirage™

チェリーセージ(Cherry Sage)、サルビア・グレッギー
・シソ科 アキギリ属(サルビア属)の耐寒性がある多年草・亜低木性。
・学名は、Salvia greggii.A.Gray の園芸品種で商標名がミラージュのバイオレット品種。
・グレッギーの英名がAutumn sage(オータムセージ)、和名はアキノベニバナサルビア。
・原産地は、アメリカ・テキサスからメキシコ 。原種は1848年にメキシコ・SaltilloでJosiah.Gregg (1806-1850)が発見。
・サルビア・グレッギー、ミラージュ(バイオレット)は、2017年に市場に導入された。
・庭植え、鉢植えで育てる。
・草丈は、60~80㎝で茎は木質化する。
・花の時期は、4~11月。
・咲き終わった花穂は切り戻すようにする。また、草姿が乱れたら適宜切り戻す

【後記】
これはある意味で追悼の文になるのだろう。
自重していた飲酒ではしご酒をしてしまった。しかも3軒も!
こんな時期に、というお叱りがありそうだが、やはり、罰はあった。

タクシーのお金を払い、財布をしまいつつ、玄関前の階段を昇ったら
踏み外すか、足が上がらずに躓いたかしたのだろう
階段横に並べていた多数の植木鉢と植物を破壊し
申し訳ないと額を階段にこすりつけてしまったから結構出血したみたいだ。
当然、サルビアグレッギー等は根元が少し残るくらいで折れてしまったり、数多くの植木鉢を全壊してしまった。
痛い思いをしてしまった。大事な花を破壊して・・・・
元気なころの写真を探し、記憶をとどめる為に痛い額を我慢して難行に取り組んでみた。
来年、残った根から顔を出してほしい!!
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サルビア・チェリーセンセーションの花

2020-06-19 15:19:10 | セージ&サルビア
「サルビア・チェリーセンセーション」 
「サルビア・ファイヤーセンセーション」


(写真)「サルビア・チェリーセンセーション」の花


初対面で「サルビア・センセーション」シリーズ商品には“驚き”と“違和感”を感じた。

ホームセンターの広い園芸売場に行っても、遠景で観て自分の欲しいものがある場所が大体目に入ってくるのが常だが、
5月初旬の連休明けの頃(と言っても新型コロナで外出自粛の時期だったが)、
この日は欲しいものが目に入ってこなかった。

時期外れの見切り品的なハーブ類で、これまで栽培したことがないものは手に入れたが、肝心のサルビアがない!

サルビアの特色は、
唇状の花、
葉からはシソ科特有の薬臭い匂い、
キリッとしない姿勢、
雑草のように八方に伸びていくだらしない育ち方等にある。

このだらしない育ち方をあえて良さ気に言えば「フラクタル」的ともいえそうだ。
本来のフラクタルとは、リアス式海岸、雲の形など「部分は全体と相似形」ということを意味しているが、サルビアの場合は、部分の奔放さは全体の奔放さに通じるということにありそうだ。

(写真)サルビア・チェリーセンセーションの株立ち 


ところが、「サルビア チェリーセンセーション」は、
買ったばかりで性質が良く分からないが、
・株立ち30㎝でサルビアには珍しくキリッとした直立形で、
・濃い目の大柄な緑の葉、
・チェリーレッド色の大きなシソ科特有の唇形の花、
・香りはセージ特有の消毒液のような薬臭い香りがするがかなり薄い、

主要なものがサルビア=セージ的でなく、意外性に満ちている。

サルビアと意識しなければ、 ”これはあり!”。
しかも、商品クレジットを読む限り欠点の少ない優秀な園芸商品だと思う。

その優秀さは、『ジャパンフラワーセレクション2015‐2016 受賞品種』ということで証明されている。

この賞は、日本発の花卉の新品種の開発・市場への導入を支援するために官民あげて2004年4月に団体を作り、そのシンボルとしての賞であり、2015年の優れた新商品であることを証明している。

でもなぜかときめかない。

出来の悪い、野性的で、不揃いで、薬臭い香りの原種サルビアに対して
優秀なロボットサルビアを見ているようだ。

これが購入して1.5ヶ月ぐらいの間のファーストインプレッションだった。

サルビアの開発会社ストーリー
 


このサルビアを開発したのは横浜に本社がある『横浜植木株式会社』。
1891年(明治24年)に創業した老舗の園芸企業で、米国ワシントンのポトマック河畔の有名な桜並木、
この桜の苗木を当時の尾崎行雄東京市長の要請に答えて1912年に出荷したのがこの会社だった。

創業時の頃の横浜は、当時の日本の輸出商品の代表である生糸やヤマユリの球根などを欧米に輸出する表玄関でにぎわっており、
又、海外から日本の未知の植物を収集・採取するプラントハンター達が集まっていた園芸関係のヒト・モノ・カネ・情報が集積していたところだった。

この会社が サルビアの開発に注力しているのは何故なのだろう?
横浜植木㈱の園芸商品の主力は、ペチュニア、神戸ビオラ、多肉植物、野菜苗、そしてサルビアのようだ。
フォーシーズン対応で、サルビアには夏場を含めた春から秋が担当なのだろうと思うが、これ以外の理由がきっとあるのだろう。

開発した商品は権利を取得するために登録されるので、登録情報から横浜植木㈱のサルビア開発の動きを確認すると以下のようだった。

2011年2月22日、サルビア属『はまごろも1号』の登録を出願し、2019年10月31日には「はまごろも7号」の出願をした。
この間で合計7品種を“はまごろも”という開発コードで出願していた。
出願から登録まで2~3年かかるので、「はまごろも5号」まで登録されおり、実際の販売商品名は違ったものになっている。

「はまごろも4号」からは、開発のパートナーとして「国立研究開発法人量子科学技術研究開発機構」の名前があり、オャ! と思った。
この研究所は、放射線医学、量子ビーム(放射線、高強度レーザー、放射光)、核融合を研究しているところで、研究テーマを外部からも広く募集し開かれた研究所のようだ。
しかも、施設・機材を有料で利用できる仕組みを持っており、横浜植木㈱は、サルビアの分野で上記研究所の施設を活用し、イオンビーム照射による新品種開発をおこなっているようだ。

雄しべ、雌しべを使った古来からの方法である「交配」では時間とコストがかかる。
イオンビーム照射で「突然変異」を作り、その中から良いものを選んでいく。
種の開発の最先端はこのように変わっていたのだ。

この物語はこれでお終いではなく、これから始まるのだろうが、どんな物語が作れるのだろうか? 
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サルビア・エレガンス(Salvia elegans)の花

2019-10-18 11:14:22 | セージ&サルビア
(写真)サルビア・エレガンスの花


透きとおった上品な赤とはこの色のことを言うのだろう。
秋の終わりに咲き始めるサルビアは数少なく、今シーズンのフィナーレを飾る赤色の花の一つとなる。
葉からはパイナップルの香りがするので「パイナップルセージ」 とも呼ばれる。

また、花の形は、花粉を運んでくれる誰にでも好かれる形状ではなく、特定の昆虫・鳥にだけ好かれるようにできている。
空中に停止する飛行(ホバリング)が出来ないとご褒美の蜜が吸えないようになっており、わが庭では、ホシホウジャク(蜂雀、humming‐bird moth)が毎日巡回飛来し、蜜を集めている。
このホウジャク、蜂の種類かと思うほどだが実際はガ(蛾)の一種なのだ。

(写真)ホシホウジャク

(出典)虫の写真図鑑、スズメガ図鑑

原産地は、メキシコの標高2000-3000mの高地に自生していて、鳥の仲間のハチドリ(humming bird)が蜜を吸うために空中に停止し、花粉を運んでいる。

パイナップルセージ、命名の歴史

この素晴らしい花のために用意された学名は、「サルビア・エレガンス(Salvia elegans)」であり、
1804年にリンネの使徒の一人でもあるファール(Vahl, Martin (Henrichsen) 1749‐1804)が命名した。ファール55歳で亡くなった年でもある。
(写真)Martin Vahl
 
(出典)ウイキペディア

命名者 ファールは、デンマーク・ノルウェーの植物・動物学者であり、
ウプサラ大学でリンネに学び、ヨーロッパアフリカなどの探索旅行をし、アメリカの自然誌をも著述し、彼が最初に記述したサルビア(Salvia tiliifolia)などもある。

しかし、この素晴らしい花を誰が発見したか良くわかっていない。
記録に残っているサルビア・エレガンスの命名の歴史を振り返るとヒントが隠されていた。

ファールが命名する4年前の1800年に、スペインの大植物学者 カバニレス(Cavanilles, Antonio José(Joseph) 1745‐1804)によってメキシコ原産のパイナップルセージは、「Salvia incarnata」と命名された。
種小名の“incarnata”は、ヒガンバナのような赤色だが、“肉色”の赤を意味する。
だが、この名前は認められなかった。

(写真)Cavanilles, Antonio José
 
(出典)ウイキペディア

理由は、ドイツのニュールンベルグにあるFriedrich-Alexander・Universityで21歳になったエトリンガー(Etlinger, Andreas Ernst 1756‐1785)が、
博士号を取得するためのサルビアをテーマとした論文で1777年に 「Salvia incarnata」 という名前をすでに使用・発表していたので、カバニレスの命名は認められなかった。

エトリンガーが「Salvia incarnata」(肉色のサルビア)と命名した植物は、
実際は違ったサルビアで、正式な学名は「Salvia fruticosa」(フルーティなサルビア)という。
下の写真のような淡い色合いのサルビアに、「Salvia incarnata」(肉色のサルビア)というような名前を付けるだろうか?
御覧の通り大分大きな勘違いがあったようだ。学生だからしょうがないか! と言えばそれまでだが・・・・・。
(写真)Salvia fruticosa

(出典)ウイキペディア

本来ならば、パイナップルセージの原産地(メキシコ)の宗主国、スペインの方が組織的に植物のサンプルを収集し、母国のマドリード王立植物園に集めていただけに、
また、その園長を務めていたカバニレスの方が分が良いはずだが、どこかで手違いがあった。

パイナップルセージのコレクターの歴史

記録に残っている最初の採取者は、1841年にメキシコの1000mのところで採取されているが採取者の名前はわからない。
1891 年には「サルビア・レウカンサ」などメキシコの美しい花を採取したプリングル(Pringle, Cyrus Guernsey 1838‐1911)も採取している。

カバニレスが命名したパイナップルセージを採取したのは、
マラスピーナ探検隊(期間:1786 to 1788、1789 to 1794)に植物学者として参画した ニー(Née, Luis 1734-1801) だった。
1791年10月にメキシコ中央北にあるケレタロで採取し、この標本をカバニレスがニーの自宅で見た。ということが分かっている。

・※マラスピーナ探検隊とは、スペイン国王チャールズ三世(Charles III 1716-1788)がスポンサーとなり、イタリアの貴族でスペインの海軍士官・探検家マラスピーナ(Malaspina ,Alessandro 1754 – 1810)を隊長に、太平洋・北アメリカ西海岸・フィリピン・オセアニアを科学的に調査する探検隊を派遣した。この探検隊に二人の植物学者、Neeとチェコの植物学者・プラントハンターのTadeo Haenke(1761-1816)が参加した。

(写真)Née, Luis (1734 - 1803)

(出典)Australian National Herbarium

しかし、カバニレス程の大学者が命名ミスをしてしまったが、他国の大学の博士論文まで目が行き届かなかったのだろう。ましてや見た目から想像できない名前までチェックできなかったのだろう。
カバニレスは、玄人・プロが陥るわなにはまってしまったようだ。

更に気になる学名があった。
『Salvia longiflora Sessé & Moc. 1887.』だった。
1787‐1803年までの16年間に及ぶセッセ探検隊の、
セッセ(Sessé y Lacasta, Martín 1751-1808)モシニョー(Mociño, José Mariano 1757-1820)がパイナップルセージに「Salvia longiflora」 (longiflora=長い花)と命名していることだ。

メキシコ到着の時期からみても、ニー(Née, Luis)よりも早く到着し探検していたセッセ達がおそらく最初の採取者だったのだろう。
ただ残念なことにセッセ探検隊の成果は、歴史の谷間に沈み込み、再発見された1887年に発表されたので正式な学名として認められなかった。

パイナップルセージは “elegans(優美な)” が最も似合うサルビアだと思う。
カバニレスの“incarnata(肉色)”、セッセ達の“longiflora(長い花)”でなくて良かったと思う。 

スペインの大植物学者 カバニレスにとっての邪魔者エトリンガーは、パイナップルセージにとって最高の働きをしたと思うがいかがだろう?
彼がいなければ、パイナップルセージは “肉色のサルビア”になっていた。

園芸市場に出現したのは1870年の頃といわれていて、今では世界の秋をエレガントに魅了する花となっている。

育て方は夏場の水切れと冬場の霜対策が厄介だが、これ以外はいたって簡単で育てやすい。

(写真)サルビア・エレガンスの葉と花


サルビア・エレガンス(Salvia elegans)
・シソ科アキギリ属の半耐寒性の常緑低木。
・学名は、サルビア・エレガンス(Salvia elegans Vahl, 1804)、英名・流通名がパイナップルセージ(Pineapple sage)。
・原産地はメキシコ。標高2000~3000mの高地に生息。
・丈は成長すると1m前後。鉢植えの場合は、摘心して50cm程度にする。
・耐寒性は弱いので、冬場は地上部を刈り込みマルチングするか軒下などで育てる。
・耐暑性は強いが乾燥に弱いので水切れに注意。
・開花期は、晩秋から初冬。短日性なので日が短くならないと咲かない。
・花は上向きにダークが入った濃い赤で多数咲くので見栄えが良い。
・葉をこするとパイナップルの香りがする。
・茎は木質化するまでは非常にもろく折れてしまいやすいので、台風などの強い風の時は風を避けるようにする。

【付録 ハチドリ】
新大陸アメリカでは ハチドリ(Hummingbird) 、オセアニア・旧大陸では タイヨウチョウ 、日本では、ホウジャク(蜂雀、 humming‐bird moth)が、毎秒50回以上の高速羽ばたきをし空中に止まるというホバリングをし、大好物の花の蜜を食べる。
このホバリングする鳥、蜂、蛾に最適な蜜を吸いやすい構造に進化したのがサルビア・エレガンスの花の形態だ。

そういえば、ペルーのナスカの地上絵にもハチドリの絵が描かれている。

(写真)ナスカのハチドリの絵

(出典)ウイキペディア ナスカの地上絵

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サルビア・レプタンス(Salvia reptans)の花 と 命名者ジャカンの時代

2019-09-30 08:17:01 | セージ&サルビア

(写真)サルビア・レプタンスの花


「サルビア・レプタンス」は、英名では“コバルトセージ(Cobalt Sage)”と呼ばれ、
コバルトブルーのような色合いの花が咲く。
この濃いブルーの色はなかなかない。渋めで重いようなブルーであり、冬の海を連想するほど重い。

この“コバルト”という金属元素は1737年に発見され、ドイツ語で“地の妖精”を意味する“Kobold”に由来するという。
顔料としてガラスの原料にコバルトを入れるとブルーに染められるが、コバルトの量が多いほどブルーの色が濃くなるという。
なるほどという納得がいくネーミングだ。

原産地は、テキサスからメキシコの2000m前後の高地で石灰質の乾燥した荒地であり、
細長い葉の先に花穂を伸ばし1㎝程度の口唇型の小花が下から上に向かって多数咲きあがる。
匍匐性のものもあるようだが、これは立ち性で、摘心しなかったので1mぐらいまでになってしまった。

この花に、「サルビア・レプタンス(Salvia reptans Jacq.)」という学名を1798年につけたのが
オランダ・ライデンで生まれ、神聖ローマ帝国の首都ウィーンに移住した医者・植物学者のジャカン(Jacquin ,Nikolaus Joseph von 1727-1817)だった。

日本ではまだ珍しい品種でもあるが、1800年代初頭には、園芸品種としてヨーロッパの庭に導入され普及し始めたようだ。

命名者ジャカンの時代 : ハプスブルグ家とリンネとモーツアルト
オランダ・ライデンで生まれたジャカンがウィーンに行ったのは、
直接的には中部ヨーロッパを支配したハプスブルグ家の財産を相続したオーストリアの女帝マリア・テレジア(Maria Theresia 1717-1780)から宮廷の医師兼教授の職を提供されたので、1745年に移住することになった。
彼が18歳の時なので、早くから才能を認められていたようだ。

フランス革命でギロチン刑にあったルイ16世の王妃マリー・アントワネット(Marie Antoinette1755-1793)は、このマリア・テレジア女帝とその夫である神聖ローマ帝国皇帝フランツ一世(Franz I. 1708-1765 )との15番目の子供にあたる。

この二人は当時としては珍しい恋愛結婚のようであったが、
ハプスブルグ家の財産を引き継いだマリア・テレジアが頑強に政治を主導したので、気の優しい夫であるフランツ一世はうしろに引き、財政・科学・文化・芸術などに傾倒し、
ウィーンのシェーンブルン宮殿の庭造りなどをも趣味としていた。
現代でも婿養子は同じような構造のようでもあるが、王家の家臣からは主人として扱われず客以下でもあったようだ。

ジャカンはこの庭でフランツ一世と出会い、1755-1759年の間、カリブ海の西インド諸島及び中央アメリカに植物探索の旅に派遣され、植物・動物・鉱物などの膨大な標本を収集した。
ジャカン28‐32歳の時だった。
「サルビア・レプタンス」との出会いはこの探検旅行であったのだろう。

リンネ(Carl von Linné、1707-1778)は、この探検のことを聞きおよびお祝いの手紙を出し、ここから生涯のメール友達となった。
もちろん、未知の植物を知りリンネの植物体系を完成させるだけでなく自分の体系を普及する戦略的な意義もあったのだろう。

ジャカンは、1768年にはウィーン植物園の園長、大学教授となり、1774 年にナイト爵に叙され、1806年には男爵になり名誉だけでなく豊かさも手に入れた。

モーツアルト(Wolfgang Amadeus Mozart, 1756-1791)との出会いは1780年代で、
ジャカンの娘のピアノ教師としてジャカンの邸宅に出入りし、ジャカンの息子Emil Gottfried (1767–1792)とは友人でもあり彼のために二つの歌曲(K520、K530)を作曲したが、版権を売るほど貧乏をしていたので“ゴッドフリートの名で出版された。
また、かなりの作品をジャカン家に捧げたという。

モーツアルトには毒殺されたという謎があるが、“でる釘は打たれるという” 諺どおりに才能のわりには恵まれず35歳という若さで死んだ。
天才少年と誉れ高かったモーツアルト6歳の1762年に、ウィーン、シェーンブルン宮殿にてマリア・テレジアの前で演奏をし、
この時7歳のマリー・アントワネット(正しくはマリア・アントーニア)と出会い愛をささやいたという早熟なエピソードがある。

フランツ一世、モーツアルトとも“妻”という存在に悩んだようだ。
夫のほうから見るとこれを悪妻というが、ここから逃れるためにか功績を残すことになる。
フランツ一世は、ハプスブルク家がもうちょっと長持ちする財政基盤と文化・芸術そしてジャカンを残し、
モーツアルトは数多くの楽曲を残した。

(写真)サルビア・レプタンスの葉と花
        

サルビア・レプタンス(Salvia reptans)、コバルトセージ(Cobalt Sage)
・ シソ科アキギリ属の落葉性多年草で半耐寒性。
・ 学名はサルビア・レプタンス(Salvia reptans Jacq. )、英名がコバルトセージ(Cobalt Sage)、別名はWest Texas cobalt sage。
・ 原産地は北アメリカ、テキサスからメキシコの乾燥した荒地。
・ 草丈は、80-100cmで、花が咲く前に摘心をし、丈をつめ枝を増やすようにする。
・ 開花期は、9~11月で、美しいコバルトブルーの花が咲く。
・ ほふく性と立ち性のものがある。これは立ち性。
・ やや乾燥気味でアルカリ性の土壌を好む。
・ 関東では、冬は地上部が枯れるが腐葉土などでマルチングをして越冬できる。
・ さし芽、或いは、春先に株わけで殖やす。

命名者:
Jacquin, Nicolaus(Nicolaas) Joseph von (1727-1817)、1798年
コレクター:
Harley, Raymond Mervyn (1936-)
Reveal, James Lauritz (1941-) 1975年10月13日採取

        

「サルビア・レプタンス」発見の不思議
キュー植物園のデータベースでは、「サルビア・レプタンス」は、1975年10月にメキシコで発見されている。
発見者は二人で、一人は、キュー植物園の Harley, Raymond Mervyn (1936~) と
もう一人は、メリーランド大学の教授を経てメリーランドにあるNorton Brown 植物園の名誉教授 Reveal, James Lauritz (1941~) となっている。

これが公式なのだろうが、 「ウエストテキサス・コバルトセージ」と呼ぶほどテキサスの花としての誇りを持つ人たちは、自国の発見者ストーリを展開している。

発見時期は明確ではなかったが、「サルビア・レプタンス」を発見したのは、
テキサス生まれのパット・マクニール(Pat McNeal、Native Texas Plant Nursery)で、西テキサスにあるデイビス山脈(the Davis Mountains)で発見したという。

デイビス山脈のマニアのサイトを読んでいると、多様な植物相を持ちえる気候環境化にあり魅力的と感じた。
ここなら、もっと様々なセージなどの目新しい植物があるのではないかと思う。

(写真)デイビス山の光景
 
(出典)ウイキペディア
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サルビア・パテンス(Salvia patens)の花

2017-06-07 08:03:45 | セージ&サルビア
(写真)サルビア・パテンスの花


サルビア・パテンスの美しいブルーの花が咲いた。

このブルーの色を称してジェンシャン・セージ(gentian sage)とも呼ばれる。

サルビアの中では5㎝ほどの大柄な花で、対になって二個の花が咲き、この花が咲くと初夏を感じさせる。

これまでは、冬場の扱いに失敗し2年目の花を見たことがなかったが、今年は大成功で多年草である証明が出来た。

(写真)一対の花


サルビア・パテンスの詳しい情報はこちら

サルビア・パテンスの園芸品種ケンブリッジ・ブルー’の花

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カナリア・アイランド セージ(Canary Island Sage)の花

2017-06-01 07:08:11 | セージ&サルビア
(写真)サルビア・カナリエンシス(Salvia canariensis)の花


アフリカ大陸の北西沿岸、イベリア半島の南西方向の大西洋上にある島、カナリア諸島原産のサルビア、カナリア・アイランド・セージ(Canary Island Sage)の花が咲いた。

サルビアには珍しい赤紫色系のマゼンタ(magenta)色とでも言うのだろうか? 
そろそろ咲くのではと期待しつつ、その初めての出会いは驚きと感動があり、初めて栽培する植物の初めての花は何時も印象深い。

(写真)カナリア・アイランド・セージ:銀緑色の葉と赤紫の苞(ホウ)


このカナリア・アイランド・セージは、四角く綿毛に覆われた角ばった茎に銀緑色の細長い葉が対生に生えているだけでも存在感があったが、この後の開花を予告するように赤紫色の苞が出現したときは、これだけでも十分という感じだった。

久しぶりに二度楽しめたサルビアだった。

(写真)カナリア・アイランド・セージ:葉と花


カナリア・アイランド セージ(Canary Island Sage)
・シソ科アキギリ属(サルビア属)の耐寒性が弱い多年草
・学名は、サルビア・カナリエンシス(Salvia canariensis L. 1753)、コモンネームがカナリア・アイランド・セージ。
・原産地は、アフリカ北西部沿岸の大西洋上にあるスペイン領のカナリア諸島。
・草丈は1.2m程度で株張り1.0mと大きく育つ。
・葉は銀緑色で細長く対生し、開花期に赤紫色の苞が茎の先端につく。
・開花期は5~9月。赤紫色系のマゼンタ(magenta)色の口唇形の花を次から次へと咲かせる。
・日差しのあるところで乾燥気味に育てる。
・丈が伸びるので花を飾るついでにカットすると良い。


【付録:原産地 カナリア諸島について】
カナリア諸島は、水深2000mもの大西洋上に浮かぶ火山島という。実際はものすごく深い海底からマグマが吹き出てそれが固まって出来た島だが、途中で折れないかなと心配するが誰も心配していないようだ。

大陸移動時前には、カナリア諸島があるアフリカ北西部と北アメリカ、ボストン等があるニューイングランド辺りが接していたので、新・旧大陸の植物の関係が近いところだという。
さらに、ヨーロッパ、北アフリカが氷河でおおわれた時には、カナリア諸島にはこの氷河による影響がなかったため生物の固有種が多いところだという。

【カナリア諸島 原産の植物】
カナリア・アイランド セージ(Canary Island Sage)、レースラベンダー(ピナータ・ラベンダーPinnata Lavender)は、このブログでも取り上げた。

有名なのは、高さ3mにもなりその外形から「宝石の搭」と呼ばれるエキウム・ウィルドプレッティ(Echium wildpretii)で、これは巨大なアリ塚のように見えるが、良く見ると薄い赤色の花が密集して咲いている。

(写真)エキウム・ウィルドプレッティ(Echium wildpretii)

(出典)ウイキペディア

まるで炎のようだが、オウムのくちばし(parrot's beak)が正解です。
マメ科の匍匐性がある多年生植物で、そういえば近所の道路にも庭から脱走して一面に広がっていた。身近にカナリア諸島の固有種が浸透しているようです。

(写真)ロータス マクラツス(lotus maculatus)

(出典)CalPhotos is a project of BSCIT University of California, Berkeley

【カナリア諸島の由来】
井上陽水の歌に「カナリア」という曲があり、カラオケで覚えようかなと思っていたが、最近は飲みに行くのに飽きてしまったので歌う機会が極端に減ってしまった。
この、小鳥の「カナリア」は原産地カナリア島に由来している。

さて、島の名前の「カナリア」はと言えば、カナリア諸島7島の紋章が、7つの島を真中にして両サイドに1対の犬が向かい合っている。
ラテン語で“Insula Canaria”は、“犬の島”を意味し、諸説あるが、古代ローマの学者、大プリニウスが、島に多くの野犬がうろついていることを最初に伝えたことにより“犬の島=カナリア島”となったと言う。
カナリア諸島のイメージが、 “鳥”から “野良犬”に代わると 大分幻滅するが、陽水のカナリアを口ずさみながらイメージの再構成をしようと考え直した。

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エルサレムセージ(Jerusalem sage)の花

2017-05-29 19:09:38 | セージ&サルビア
(写真)Phlomis fruticosa(エルサレムセージ)の花


待ち望んでいたエルサレムセージがやっと咲いた。
この花は、持ち歩いているためにボロボロになった山と渓谷社のポケットブック『ハーブ』の中で手に入れようと思っていた一品でこの10年来気になっていた。
2年前に閉店セールを行っていたハーブショップで、灰緑色の葉が隅のほうで“私をつれて行って!”とばかりに輝いて見えた。これがエルサレムセージだった。

昨年は開花しなかったので“おや! 2年草かな?”と思ったが、そうではなかった。多年草というよりは株丈1mにもなる小潅木だった。1年目は開花準備に株を整えることにエネルギーを使い、翌年開花するという代物だった。
鉢植えの場合は丈をコントロールできるが、地植えの場合は場所を選ぶ必要がありそうだ。

灰緑色で銀に縁取りされた葉と、ハーブ図鑑ではカナリア色に見えた花色が抜群に良かったが、実際の花色は色見本と較べると“菜の花色”のようだ。

黄色の花では、夜咲く「イブニングプリムローズ」の色合いも良いが、エルサレムセージのようにちょっとバターが入った洋食系的な色彩も良いかなと思った。

栽培方法としては、原産地が、サルジーニャ島、クレタ島、キプロス島等の島々及びギリシャ、トルコ等の地中海周辺地域となるので乾燥気味に育て、カット・挿し木で増やす。暑さには強いが、湿気・寒さには弱いので梅雨と冬場は対策をする。

エルサレム・セージ(Jerusalem sage)の再発見者“シーバー(Sieber)”

学名フロミス・フルティコサ(Phlomis fruticosa L.1753)は、1753年にリンネによって命名された。それ以前は、エルサレム・セージ(Jerusalem sage)として呼ばれており、これは、1548年に英国の植物学の父と言われるターナ(William Turner1508-1568)の著作物によっても確認されている。

属名Phlomisは、紀元1世紀のディオスコリデス(Pedanius Dioscorides c. 40 – 90 AD)の頃から使用され、葉がランプの芯に利用されたので“炎”を意味する。
種小名fruticosa はラテン語で“低木状の”を意味する“shrubby”から来ている。

というように、学名からも何故エルサレム・セージと呼ばれたのかは良く分からないが、

このエルサレム・セージは、2013年に英国王立園芸協会が優れた品種を表彰するAward of Garden Merit賞を受賞している。
つい最近の受賞だが、英国では400年以上も前の1600年代には背丈が高く黄色の花を咲かせるエルサレム・セージが経験豊かな庭師によって庭園で栽培されてきたという。
アルプス以南の植物を寒冷地英国で育てるには技術が必要な時代だったので当然なことだろう。

地中海周辺が原産地の植物は、最初の採取者が分かりにくい。
リンネがエルサレム・セージにフロミス・フルティコサ(Phlomis fruticosa L.1753)と学名をつけた1753年以降にこの花を採取した気になるプラントハンターがいた。

(写真)Sieber, Franz Wilhelm 1789-1844


プラハ生まれのプラントハンターで博物学者でもあるシーバー(Sieber, Franz Wilhelm 1789-1844)だ。

彼は、いつ及び何処でエルサレム・セージを採取したか不明だが、リンネ以降の学名に『Phlomis fruticosa Sieber ex C.Presl(1822)』として命名者に登録されていた。
これは、同郷の後輩プレッスル(Presl, Carl Boriwag 1794‐1852)が、シーバーが既に命名していたが発表していないので代わって1822年に命名したことを意味する。
つまり、1822年以前にシーバーが地中海周辺のところに旅して、エルサレム・セージを採取したことを知っていたことを示している。

プラントハンティングの新時代を作ったシーバー

Franz Wilhelm Sieber (1789 – 1844)は、1789年というからフランス革命の年に現在のチェコ共和国プラハで生まれた。
このフランス革命は、ハプスブルク家が統治する隣国オーストリア帝国の支配下にあり、弾圧と搾取がされてきたチェコ人の民族復興運動に火をつけた。
しかしこの思いが実現するのはソ連共産圏が崩壊した後の1993年のチェコ共和国の誕生まで200年以上も待たなければならなかった。

シーバーはこんな社会・政治環境の中で成長し、グラフィックアートの才能に恵まれ最初は建築を学びエンジニアを志したが、最終的には植物学に軸足を置いたプラントハンタービジネスを展開する。

シーバーのユニークなところは、採取国・地域ごとに特定のプラントハンターと契約し、珍しい植物・動物・鉱物等の供給体制を構築したところにある。そして、それら全てを“Sieber”ブランドで統一して販売したので、数多くの標本が世界の植物園・標本館・ミュージアム等に流れ込んだ。

販売方法は、同郷の先輩植物学者で古生物学の父といわれるシュテルンベルク(Sternberg, Caspar Graf 1761-1838)から教えられた方法を採用した。
“Centuria(世紀)”とネーミングした植物などのカタログを100セット作製し、顧客の注文をとるという販売方式だった。

シーバーは、1811~1812年にオーストリアとイタリアの調査旅行をしていて、この販売方法は、1813年ボヘミアの植物標本の販売で始まり、シーバーの活動領域がボヘミアから地中海世界(1816~1818年クレタ島・エジプト・イスラエル探検)、アフリカ・オーストラリア(1822~1825年、南アフリカ・モーリシャス・マダガスカル・オーストラリア)へとプラントハンティングの世界が広がるにつれてプラントハンターとのネットワークも広がっていった。

シーバーのクレタ島 調査・探検旅行

最初は、彼が22歳の時の1811年~1812年にオーストリア及びイタリアを旅し、1816~1818年にはクレタ島、エジプト、パレスチナを旅した。

(地図)イタリア北東部の港町トリエステ、クレタ島、エルサレム

どんな旅をしたかをクレタ島旅行で垣間見ると、
1816年12月シーバーは、従者と庭師フランツ・コウォート(Franz Kohaut ?~1822年)の3人でイタリア北東部、スロベニアと国境を接する港町トリエステ(Trieste)を出発しクレタ島に向かった。

(地図)クレタ島での拠点


翌年1817年1月にオスマントルコ人が支配するクレタ島に到着した。
現在の州都イラクリオン(Heraklion)で疲れを休め、ガイドを雇い島内唯一の交通手段、ロバにまたがり島内を旅行した。
この当時のクレタ島はヨーロッパ社会にとって情報鎖国の国であり、ヨーロッパの科学者がクレタを訪問し調査したのは、1700年4月にフランスの医者で植物学者のトゥルヌフォール(Joseph Pitton de Tournefort、1656-1708)が訪問以来久しぶりのようだ。

トゥルヌフォールは、リンネ以前に植物の体系を考えた科学者で、植物を草と木に分け、それぞれを花の形でさらに分けるという体系を提案したえらい学者だが、フランス国王ルイ14世の出資によりディオスコリデスが紀元1世紀に書いた「De Materia Medica libriquinque(薬物誌)」の現在を調査し、地中海沿岸での有用な植物を発見・収集するためにクレタ島などを探検した。

シーバー達はこのトゥルヌフォール達の目的同様に、有用な薬用植物の調査・採取及び現在の学問で言えば“文化人類学”的なクレタ島の文化と人々の暮らしに興味を持ち調査を行った。
トゥルヌフォールの調査でも明らかになったが、科学進歩が停滞した中世ヨーロッパならいざ知らず、
アメリカ大陸・オセアニア大陸などを発見し新世界が開けた1700年では、ディオスコリデスの「薬物誌」のリニューアルに期待した地中海世界の再調査は失望する結果となった。
ましてや1817年のシーバーとなると新しい薬草の発見はなかったのだろう。

シーバーは、1823年にドイツ語でクレタ島の旅行記を出版したが、植物の記載は少なかったが、エルサレム・セージ(Jerusalem sage)の採取は、原産地でもあるこのクレタ島での旅行の時なのだろう。

(写真)真上から見たエルサレム・セージ


シーバーのプラントハンティングの変遷

地中海沿岸国の探検旅行だったここまでは、資産家の若者が学問で身を立てるための冒険旅行という感じだが、この後の探検旅行から激変する。

シーバーは、庭師フランツ・コウォート(Franz Kohaut ?~1822年)を、1816~1818年クレタ島・エジプト・イスラエル探検に同行させ、1819~1822年のカリブ海のマルティニク島では、プラントハンターとしてシーバーのために働かせた。
ここで集めた植物標本にはきちんとフランツ・コウォートにお金を払い、“Herbarium Martinicense”として販売した。
ここではまだ“Sieber”ブランドは登場していないので、身近な庭師としてのフランツ・コウォートへの配慮があったのだろう?

1822年からは一気に世界展開が始まる。
カリブ海のトリニダード・トバゴ島でFranz Wrbna がプラントハンティングを行い、
アフリカ大陸最西端にあるセネガルでは、フランツ・コウォートの他に新しいプラントハンターのAndreas Döllinger及びJ・Schmidtの三人が取り掛かったが、フランツ・コウォートは仕事が完了する前にここで亡くなった。
一方、シーバーはインド洋上にあるアフリカに属する島、モーリシャスにゼーハー(Zeyher, Karl Ludwig Philipp 1799-1858) と1822年8月に旅立った。
ゼーハーは10歳年下だが、シーバーがクレタ島に出発する1816年に、現在のオペラフアンなら行ってみたいシュヴェツィンゲン音楽祭が開催されるドイツ西南部の都市の庭園で出会い、
“急成長している産業である自然史標本の収集と販売を目指してパートナーシップ”を交わしたという。

しかし、ゼーハーは南アフリカ、ケープタウンで途中下車をし、ケープタウンでプラントハンティングをすることになった。

シーバーは、マダガスカル、モーリシャス及びオーストラリアに向かい、
オーストラリア、ポートジャクソンに1823年6月1日に到着し、7ヶ月間プラントハンティングを行い645本の現地の植物を採取した。
シーバーは1824年4月にケープタウンに戻り、ゼーハーが採取した植物相が豊かな南アフリカの植物標本を受け取り、支払いを約束したが、空約束でシーバーからは支払いが全く無かった。
未来を共有したパートナーシップはこの現実で破綻してしまった。

プラントハンティングビジネスの変遷とシーバー

シーバーは1822~1824年に世界一周旅行にステップアップし、ここからプラントハンターの元締め業という新しいビジネス形態に踏み込む。

①これまでは博物館・植物園・美術館など国が運営資金を提供しているところ、ナーサリー・庭園・造園業などの私企業、億万長者が個人の庭園を飾る植物収集等で、プラントハンターを雇い、派遣する形だった。(雇い主1→プラントハンター1)

②費用が巨額になるに従い、雇い主が複数になり成果物である植物標本・種子・現物などをシェアーする形態が出てきた。(雇い主複数→プラントハンター1)

③そして、この逆の形態も出現した。つまり、プロのプラントハンターが見本・カタログ・メニュー等を作りそれに値段をつけて注文をとるという形態になる。(植物標本などの購入者複数←プラントハンター1)

④シーバーが編み出したのは、プラントハンターをプロデュースする機関が(シーバー、Sieber)プラントハンターの給与・経費を支払うためのマーチャンダイジングを行い、顧客と顧客の新たなニーズを創造するという近代の商業的手法だった。

英国・オランダ・フランス等の園芸大国は、美しい・珍しい植物にスポンサーと大口の投資があったが、ボヘミア(チェコ)ではお金が集まらなかったのだろう。
そこで小口の資金を数多くのスポンサーから集めるために顧客の多様なニーズに答え、プラントハンターを様々な地域で活動させることにたどり着いたのだろう。
しかし、支払いがされないという現実でこの素晴らしい考えが崩壊した。

ヨーロッパの辺境国出身のシーバーは世界のひのき舞台に登場するために無理を重ねて生きてきたのだろう。晩年は 14年間精神障害に苦しみ55歳でプラハ精神病院で亡くなった。

(写真)エルサレムセージの立ち姿(丈:40cmメールぐらい)


エルサレムセージ(Jerusalem sage)の花
・シソ科フロミス(和名オオキセワタ)属の耐寒性が弱い小潅木、挿し木で増やす。
・学名:フロミス・フルティコサ(Phlomis fruticosa L.1753)。1753年にリンネ(Carl Linnaeus 1707-1778)が命名する。
・1822年に学名は同じだが命名者が異なる名前が公表されている。Phlomis fruticosa Sieber ex C.Presl(1822)意味としては“1822年以前にSieberが何らかの理由があり発表していないのでC.Preslが公表する”となる。
・コモンネームは、エルサレムセージ(Jerusalem sage)。セージのような葉と匂いがあるがセージ(サルビア属)の仲間ではない。
・原産地:サルデーニャ島、クレタ島、キプロス島、ギリシャ、イタリア、トルコ等の地中海沿岸が原産地。
・株丈は、90-120cm、横にも広がる。鉢の場合40~60cm程度で抑えられる。
・葉は灰緑色で銀色に縁取られ、綿毛で覆われる。
・開花期は春から夏、黄色の花が咲く。
・1年目は茎・葉が成長するのみで、開花は2年目からとなる。
・暑さには強いが耐寒性は弱いので冬場は霜に当てないようにする。
・乾燥した日当たりの良い場所を好む。
・ドライフラワー、ポプリに適している。
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メキシカン・ブッシュセージ‘FerPink’(Salvia leucantha 'FerPink')の花

2016-11-01 18:42:31 | セージ&サルビア
(写真)メキシカンブッシュセージ'FerPink'の花


メキシカンブッシュセージの変異種サルビア・レウカンサ‘フェアピンク(Salvia leucantha 'FerPink')の花は、真っ白なうぶげが生えている萼からピンクの花が咲き、ファンタスティックな情景を作り出している。
濃い緑の細長いゴワゴワとした葉が醸しだす荒々しさに対して、ピンクの花がギャップを創り、他のピンクの花と異なる品の良さがあり、1m前後の大株に育った時の楽しみを感じさせてくれる。

このメキシカンブッシュセージ‘フェアピンク(Salvia leucantha 'Ferpink')は、南アフリカ、リヒテンバーグのIan Smithが同国のサルビアの専門家Jenny Ferreiraのウエリントンにある彼女の庭園で育っているメキシカンブッシュセージの変り種に目をつけ、苗を育てたことからはじまったという。時期的には2003~2004年頃と思われる。

イアン・スミスとジェニー・フェレーラは、このピンクの花を咲かせる変異種には、スミスの娘を記念して“Danielle's Dream”という名前を付け、白い花を咲かせる変異種には“White Mischief”と名付けた。

(写真)Salvia leucantha 'White Mischief'


商標登録の過程で最終的には開発パートナーのJenny Ferreiraの名を生かし、ピンクの花の変異種は'FerPink'、白い花の変異種は'FerWhite'となり、2011年2月に米国で商標をとった。

日本では、この商標に抵触しないように“メキシカンブッシュセージ・フェアリーピンク”とか“メキシカンブッシュセージ・ピンク”と逃げたというよりは海賊版的な表示をしている。
まだ珍しいサルビアのようだが、日本でも速いスピードで普及すると思われる。その先にはきっと商標権のトラブルが待ち受けているのだろうなと思われる。

メキシカンブッシュセージのこと
Salvia leucanthaの栽培品種には素晴らしいものが幾つかある。原種のSalvia leucantha.(leucanthaは“白い”を意味する。)は、1791年にスペインの大植物学者カバニレス(Cavanilles, Antonio José 1745‐1804)によって命名され、赤紫の萼に白い花咲く。

余談だが、このメキシコ原産のサルビアを採取したのは誰かが分からない。カバニレスが1791年に白い花のサルビア(Salvia leucantha)と命名しているので、これ以前にスペインに植物標本を送った者がいなければならない。
1787年~1803年までメキシコの植物相を調べたセッセ&モシーニョ探検隊も、このサルビアを採取しているので彼らが最初の採取者なのかも分からない。

この栽培品種の逸品としてサルビア・レウカンサ‘ミッドナイト’(Salvia leucantha 'Midnight')があり、萼・花とも濃い赤紫色で違いが分かりやすく、この二種を混裁すると秋の庭の中心においてもおかしくない存在となる。

さらに、今回のピンクの花が咲く「Salvia leucantha 'FerPink'」、白い花が咲く「Salvia leucantha 'FerWhite'」など混裁されている庭を想像するとワクワクしてくる。

(写真)メキシカンブッシュセージ'Ferpink'の葉と花


Salvia leucantha 'Ferpink'
・シソ科アキギリ属(サルビア属)の半耐寒性の多年草。
・原種はメキシコ原産のSalvia leucantha Cav.(1791)で、その変種として南アフリカ、リヒテンバーグのIan Smithが作出した。作出の時期は不明確だが、2006年には米国カルフォルニアのSan Marcos Growersがテスト栽培でこの品種を入手しているので2003年頃になるのだろう。
・品種名は、サルビア・レウカンサ‘フェアピンク’(Salvia leucantha 'Ferpink')で2011年に米国で商標特許を取得した。
・草丈は90-120cmで、株張りは60-120cmで、葉は濃い緑色で細長く薬臭いシソ科独特の良い香りがする。
・開花期は秋、9月~11月頃まで。白い産毛のある萼からピンクの花が顔を出す。
・乾燥にはやや強く、日当たりの良い水はけの良い土壌で乾いたらたっぷり水をやる。
・耐寒性があるとは言え、冬場は根本を腐葉土などでマルチングし根を保護する。

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初夏の花、ブルーが美しい サルビア・パテンス(Salvia patens)

2016-07-06 18:45:03 | セージ&サルビア
(写真)サルビア・パテンスの花


7月に入り、ブルーの色が美しいサルビア・パテンスの花が咲き始めた。
対で二個 蕾をつけ、二日後には同時に咲き、開花後二日ほどで萎んでしまう。
まさに美しい花は短命の典型のようだ。しかも5㎝ほどの大柄な花なので美しい時間の短さが強烈に残る。

この色合いを色の百科事典「イエロペディア」から探すと、“シュプリーム(supreme)”というブルー系の色に似ている。イギリスでは最高の名誉や至高を意味する色のようであり、園芸家ウイリアム・ロビンソン(William Robinson 1838-1935)が「英国のフラワーガーデン」1933年版で“園芸品種の中で最も素晴らしい植物のひとつ”と絶賛した理由が想像できる。

(写真)サルビア・パテンスの蕾


この美しい花を翌年も見るために大事に育ててきたが、翌年まで生き残ったことが無く、多年草として扱うよりは一年草としての扱いがよさそうだ。夏と冬場の扱い方に問題があったのだろうか?

(写真)サルビア・パテンスの葉


このサルビア・パテンスの葉は、写真では良さそうに見えるが、美しさとは無縁に雑然と育ち汚らしい。雑草のほうがきれいかなと思えるほどだ。
この葉と根があの美しい花を咲かせているのかと思うと、ウイリアム・ロビンソンように手放しでほめられない。

(写真)サルビア・パテンスの花


サルビア・パテンス(Salvia patens)
・シソ科アキギリ属の耐寒性がある多年草。
・学名は Salvia patens Cav.(1799)、英名はゲンチアンセージ(gentian sage)、和名ソライロサルビア。
・原産地はメキシコ。1838年にイギリスの園芸市場に登場したようだ。
・耐寒性は強いが耐暑性は弱い。梅雨の時は花を出来るだけ雨に当てない、夏場は風通しの良い半日陰で育てる。
・草丈50~60㎝
・開花期は6~10月、大柄なブルーの花が数少なく咲き、2日程度で散る。
・夏場は無理に花を咲かせないようにすると秋に咲く。

サルビア・パテンス発見の歴史 (補完版)
ミズリー植物園のデータベースに記録されているコレクター(発見・採取者)で最も早いのは、1863年に場所は不明だがメキシコで採取したエンゲルマン(Engelmann, George 1809–1884)で、パリー(Charles Christopher Parry 1823-1890)とパルマー(Edward Palmer 1829 - 1911)のパーティは1878年にSan Luis Potosíで採取している。

しかしこの時期では、スペインの植物学者カバニレス(Cavanilles, Antonio José 1745-1804)が1799年に命名しているので、スペインから派遣された探検隊の誰かでなければ時間が合わない。

セッセ(Sessé y Lacasta, Martín)及びモシーニョ(Mociño, José Mariano)達もこのサルビアをおそらく1790年頃に採取し本国スペインに送っているはずだが、セッセ達はこのサルビアを「Salvia grandiflora Sessé & Moc.(1887)」と命名したようだ。だが、出版されたのは彼らの原稿が見つかった1887年頃だったので、カバニレスの命名のほうが早いのでこちらが採用されることになる。
ということは、もう一人誰かがいることになる。

コレクターは、フランス生まれでスペインで働いた植物学者ニー(Née, Luis 1734-1801or1807)がメキシコで採取したようだ。

Néeはどんな経緯でメキシコに行ったかといえば、スペイン国王チャールズ三世(Charles III 1716-1788)がスポンサーとなり、イタリアの貴族でスペインの海軍士官・探検家マラスピーナ(Malaspina ,Alessandro 1754 – 1810)を隊長に、太平洋・北アメリカ西海岸・フィリピン・オセアニアを科学的に調査する探検隊を派遣した。この探検隊に二人の植物学者、Neeとチェコの植物学者・プラントハンターのTadeo Haenke(1761-1816)が参加した。

この探検隊は、1789-1794年の間に行われ、南アメリカ大陸を廻りメキシコのアカプルコに到着したのが1791年で、そして、カルフォルニア・アラスカを探検してアカプルコに戻ってきたのが1792年なので、Néeがメキシコの植物を採取したのは1791年から1792年のこの時期だろう。

英国の場合は、プラントハンターと植物学者は分業と協業の関係にあり、新種と同定し学名をつけるのは植物学者の役割だった。Neeは、この探検隊での同僚のチェコの植物学者Tadeo Haenkeが採取した植物について記述・命名してスペインの科学ジャーナルに1801年に発表しているので、単なるプラントハンターでもなく植物学者としての向上心があったようだ。

彼らは、この探検で数多くの植物を採取したが、サルビア・パテンスがそうであったように、Neeが採取した植物の大部分は、大植物学者カバニレスが命名し栄誉を得ている。

スペインに帰国後のNeeの足跡が良くわからない。また死亡時期も文献によって異なる。Née の死亡時期を1801年と書いたが、カリフォルニア、アラスカなどで採取した植物の記述がこの時期にされているのでおかしいことになる。1803年又は1807年死亡という説が妥当であり、晩年が良くわからないがスペインに失望し、ナポレオン革命が進行中のフランスに戻ったという説がピッタリとくる。苦労して採取した手柄を奪われ、怒り・絶望でスペインを離れたという説があるが、さもあらんと思う。こんな美しいサルビアにも、世俗の争いがあったようだ。

この「サルビア・パテンス」を1838年に園芸市場に持ち込んだのが、ロンドン園芸協会からメキシコに1836年に派遣されたプラントハンター、ハートウェグ(Hartweg, Karl Theodor 1812-1871)のようだ。

この「サルビア・パテンス」に関心が向くのは、自然で野性的な庭作りを提唱したウイリアム・ロビンソン(William Robinson 1838-1935)が「英国のフラワーガーデン」1933年版で“園芸品種の中で最も素晴らしい植物のひとつ”と絶賛してからであり、それまで忘れられていたようだ。
また、英国の園芸家Graham Stuart Thomas(1909 –2003)は「園芸で最高の植物」とパテンスを賞賛した。

そして今年もこの素晴らしい花に心をときめかされてしまった。

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ブルー&ホワイトが美しい、サルビア・ファリナセア‘ストラータ’(Salvia farinacea 'Strata')の花

2016-06-21 15:59:15 | セージ&サルビア
(写真)サルビア・ファリナセア‘ストラータ’(Salvia farinacea‘Strata’)


サルビア・ファリナセアとして園芸店で売られていたが、サルビア・ファリナセアの園芸品種‘ストラータ’(Salvia farinacea‘Strata’)で、オールド品種は花と萼が同系統の濃いブルーだが、園芸品種ストラータは、萼が白く、花色は、オールド品種より淡いブルーなので区別がつけやすい。写真のようにこの組み合わせでコンパクトな花穂に数多くの花の密集が美しい。

このブルー&ホワイトは、エーゲ海のクルージングで廻るロードス島などの島々の漆喰の白と海の青さ、ブルー&ホワイトを彷彿させ、湿度の高いジメジメした日本の梅雨から夏場の一風の清涼となる。

(写真) エーゲ海とサントリーニ島の風景

(参考)サントリーニ島

サルビア・ファリナセア‘ストラータ’(Salvia farinacea‘Strata’)のブリーダー(生産者)は、英国ノーフォーク州ドレハムのFloranova社で、この作品を1996年の全米の品評会AAS(All-America Selection)に出品し、金賞(Flower Award Winner)をとっている。それから20年経過した今でも輝きが衰えることなく、全世界に普及した逸品となっている。

(写真)サルビア・ファリナセア‘ストラータ’の立ち姿


サルビア・ファリナセア‘ストラータ’(Salvia farinacea 'Strata')
・シソ科アキギリ属の耐寒性が弱い多年性小木。日本では、耐寒性が無いため1年草として扱われる。霜に当てないように越冬させると関東以南では多年草として来年も期待できるようだ。
・学名はサルビア・ファリナセア‘ストラータ’(Salvia farinacea 'Strata')。種小名のファリナセアは“粉をふくと”という意味。
・ 英名ではMealy-cup sage 'Strata'“粉状のセージ”と呼ばれる。
・原産地はメキシコ北部からアメリカ・テキサス。
・丈は50cm、横幅30cm程度で直立。茎は白い産毛で覆われ、粉をふいている。
・20cm程度の花柄を伸ばしその茎に淡い部ブルー色の花を多数咲かせる。開花期は初夏~晩秋で夏場は木陰で休ませると良い。
・葉はコンパクトで、披針形。
・冬場は水をあまりやらずに、室内又は霜の当たらない暖かいところで管理する。
・どんな土壌でも育つというタフで、育てやすい植物だが、腐葉土を入れた水はけのよい土が推奨。
・作出は英国ノーフォーク州ドレハムのFloranova社。
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