モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

18世紀後半、プラントハンターのパイオニア、マッソンとミッショー

2011-04-20 07:04:06 | プラントハンターのパイオニア、マッソン
英国のプラントハンター、フランシス・マッソン(Masson, Francis 1741-1805) 、フランスのプラントハンター、アンドレー・ミッショー(Andre Michaux 1746-1802) は、18世紀末に活躍したプラントハンターであり、この二人の足跡をたどっているうちにプラントハンターというものに興味を持つようになった。

ここでは、過去に書いた原稿をリンクで取りまとめてみた。


プラントハンターが登場した背景
草花が少ないイギリスが園芸大国になったのは、18世紀の産業革命により経済的な基盤が強化され富裕層が出現したという時代背景があるが、これだけでは園芸の大衆化が進まない。世界の珍しい植物を集めたいというイギリスの知識階級をリードするバンクス卿、それを支える研究機関としてのキュー植物園、園芸の産業化を進めるナーサリーと呼ばれる育種商、世界の植物を集める冒険家としてのプラントハンター、ウォードの箱を初めとした植物を船で輸送する技術と世界をネットワークした東インド会社、そして大衆化を推進する園芸情報としてのボタニカルマガジン、これを支える植物学の知識を有するライターと植物画を描くアーティスト。さらには植物マニアが集うサロンとしての園芸協会。これらが18世紀以降のイギリスで開花した。

未開拓地で危険と飢餓に苦しみながら生命をかけて植物を採取するプラントハンターの背後には、これを支える裾野が広い仕組みが形成されつつあり、珍しい・美しい花を愛でたいという人間或いは社会の欲望を満たしはじめている。

しかし、冒険家、探検家ではプラントハンターになれない。さらに植物の知識と栽培の技術がなければ冒険家・探険家で終わってしまう。

江戸時代に日本に来た大植物学者ツンベルクとキュー植物園のプラントハンター第一号のマッソンは、南アフリカのケープ植民地で遭遇し1772年から3年間ここに滞在した。一緒に植物探索の旅もしたが、学者を目指すツンベルクは採取した植物を乾燥させ数多くの標本を作るが、マッソンにとっては標本は死んだ植物であり価値も意味もない。

採取した植物の苗木・球根・種が、長時間の輸送に耐え、本国の土壌で再生する確率をいかに高めるかまでをプラントハンターが考え行動するようであり、似ているようで冒険家・探検家・学者とは異なるようだ。

フロンティアが消滅した現在、プラントハンターは消えてしまった職業となったが、心ときめかせるロマンが我々現代人に消えずに残っている。
安全が保証されないフィールドは命がけだからこそ真剣に生きるが、キュー植物園が或いは、国家が送り出したプラントハンター達は、何のために旅したのだろうか?

名誉・お金・地位、或いは、好奇心なのだろうか?
或いは彼らプラントハンターを未開拓地に送り出したバンクス卿の“お褒め”なのだろうか? 

マッソンにしろ初期のプラントハンターは非業の死を遂げていることを踏まえると、現世のご利益を求めているようではない。ひょっとしたら、バンクス卿の志のために彼らプラントハンター達が生きたような気がする。

ということは、“フロンティアは消滅していない”ということになりそうだ。ヒトはヒトのために生きその志に報いる。ということになりそうだ。
ヒトがいて志がある限りフロンティアは健在だ。

パート1:
フランシス・マッソン(Masson, Francis 1741-1805)



南アフリカ・ケープ地方のゼラニューム、エリカ(ヒース)などの植物をイギリスに持ち込み、そして、ヨーロッパに広めたのはフランシス・マッソンに拠るところが大きい。
キュー植物園が年俸100ポンドを支出して南アフリカ・ケープ植民地に派遣したのは1772年のことであり、世界の珍しい植物を集めるキューガーデンのプラントハンター第一号がマッソンだった。

1.1770年頃の喜望峰の描写

2.フランシス・マッソンとバンクス卿

3.ケープの植物相とマッソン

4.マッソンが採取し世界を魅了した植物。==極楽鳥花

5.マッソンが採取し、キューを魅了した植物。==ソテツ

6.マッソンのプラントハンティングの旅==ツンベルクとの出会い

7.マッソンが採取した植物。==エリカ

8.マッソンが採取した植物。==イキシア(Ixia)

9.南アフリカからの贈り物 ゼラニウム物語 No1

10.南アフリカからの贈り物 ゼラニウム物語 No2 -Final

11.マッソン、ツンベルクが旅した頃の喜望峰・ケープ


パート2:
アンドレー・ミッショー(Andre Michaux 1746-1802)



フランス革命の直前1785年に、ルイ16世から王室の植物学者に任命され、さらにフランスにとって有用な植物を収集するために米国植物探索を命じられた。
ミッショーは、1785年11月にニューヨクに到着し1796年にフランスに戻るためにアメリカを去った。この間に、ミシシッピー川流域を初めとしたプレーリー地帯を探索している。ミッショーがアメリカからフランスに旅立ったその1年後の1797年にマッソンがニューヨークに到着した。

1.マリー・アントワネットのプラントハンター:アンドレ・ミッショー

2.星空で野営する清貧なプラントハンター

3.ミッショーのプラントハンティング

4.ミッショーのプラントハンティング費用の謎

5.ミッショーがアメリカに持って来た植物の謎解き


6.マッソンとミッショー 二人の関係

7.フランスのプラントハンター ミッショーのその後

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その70:喜望峰⑭ マッソン、ツンベルクが旅した頃の喜望峰・ケープ

2008-11-14 09:51:24 | プラントハンターのパイオニア、マッソン

国際港湾都市となった喜望峰・ケープ
喜望峰は、1652年にオランダ東インド会社のヤン・ファン・リーベックが80人の隊員とやってきて、
オランダ艦隊の補給基地を建設したことから植民地化が始まった。

ポルトガルが開拓した東洋への航路なのに、何故簡単に喜望峰をオランダに渡したのかが疑問だったが、その理由がわかった。
ポルトガルは、アフリカ西海岸にあるルアンダ(アンゴラの首都)と東海岸にあるモザンビーク以南では領土を占有しなかった。その理由は、
(1)1510年には、インド副王の任期を終えたフランシスコ・グルメイダがケープ半島北端のテーブル湾において地元の住民と争い殺された。
(2)モザンビークとケープの間の海は、嵐を呼びやすい海、激しい海流、危険な浅瀬があり経験上航海が危険であることを知っていた。
(3)金以上の価値があった東洋の胡椒を目指していたので、アフリカに余分な投資をする必然性がなかった。

一方、ポルトガルへの挑戦者オランダは、
1649年に船を失ってその冬にテーブル湾で過ごしたオランダの船員たちが
オランダ東インド会社に喜望峰の占有を提案したら、
その3年後の1652年にヤン・ファン・リーベックが艦隊の補給基地として砦を建設した。

この時代はまだ“壊血病”という存在を知らなかったが、
新鮮な野菜・果物・肉などが船乗り達の死亡を予防するという経験的な知識を持っていたのは
オランダとクック船長のようなごく一部のエキスパートだけのようだ。

オランダ東インド会社は、新鮮な野菜などを提供する補給基地が欲しくて喜望峰に目をつけた。

イギリスでも1620年にケープを占有するよう政府に提案した船長がいたようだが
無視されたほどで、イギリスでは喜望峰の価値を知らなかったようだ。

18世紀後半、マッソン、ツンベルク、スパルマンがいた頃の喜望峰
スパルマンは、1765年に船医として中国に行きその体験から博物誌を書き、
1772年初めになんと家庭教師の職を見つけたので喜望峰にやってきた。
17世紀半ば以降は、家庭教師の職があるほどケープタウンは発展していたようだが、
発展のプロセスをプロットしてみると・・・

・1652年にヤン・ファン・リーベックが80人の隊員とやってきて城砦を建設する。
・1659年東インド会社は従業員9人を解雇し、テーブル湾から10キロ南のロンデボッシュに20エーカーの土地を与え、穀物・野菜などを栽培し決められた値段で東インド会社に売る契約を結ぶ。
・これ以降積極的に従業員の解雇、オランダからの移民受け入れ、フランスからオランダに1685年以降移住したユグノー教徒を受け入れた。
・1679年まではケープ半島のみが入植地で、この年からテーブル湾から東へ48キロほどにあるステレンボッシュに入植地を拡大。
・原住民は土地を奪われたのでさらに遠くに移動するか、東インド会社の労働者として働くかの二者択一となるが身分的には奴隷ではなかった。
・1707年の入植者数(奴隷および原住民を除く)は、会社従業員700人、入植者2000人となった。
・これが、1793年には13,830人の自由市民(男4,032、女2,730、子供7,068)で入植者の多くは、オランダ、ドイツでは成功のおぼつかない低階層出身者だった。
・1793年の奴隷人口は、14,743人で自由市民を超える。ケープでの奴隷の移入は、1658年にリーベックが会社に提案した時からはじまる。東南アジア、中近東からの奴隷も多く、アフリカからの奴隷が多いアメリカ大陸と異なる。

マッソン、ツンベルク、スパルマンがいた頃のケープ植民地は、
自由市民13,830人、奴隷14,743人と原住民で3万人を超える人口になっていたようだ。
この頃には貧富の格差がはっきりし、学校などの教育制度がしっかりしていなかったので
金持ちはヨーロッパから家庭教師を採用し、スパルマンがこれに応じた。

農業だけでは成長しないが、オランダ艦隊向けの港湾施設と船舶へのサービスが拡張し、
各国の船舶にサービスを提供する国際都市として成長したので3万人強の人口となったのだろう。

都市になるとあらゆる職業が出現し、犯罪者・逃げた奴隷などは、
ケープタウン背後の1000m級の山、テーブル・マウンテンに隠れたようで、
温暖な気候、豊かな自然は自給自足の逃亡生活には適していたようだ。
マッソンもテーブル・マウンテンにはよく行き、そこで山賊に襲われたという。

物価はイギリスと変わらないが、船舶関係の修理などはべらぼうに高かったようで、
ここで利益を出していたようだが、オランダ東インド会社はずさんな経理システムのため
世界初の株式会社として1602年に誕生したが、マッソンがこの地を去った直後の1799年に倒産し
オランダが世界の海を支配した時代は終わり、イギリスに取って代わられる。
このあとのオランダは、わずかに日本との交易が残るだけとなる。

(地図)マッソン及びツンベルクとのプラントハンティングの地域とケープ植民地

マッソン、ツンベルクが一緒にプラントハンティングをした旅程を描いてみたが、
ケープ植民地からかなり遠くまで旅したことがわかる。
のどかな旅でなかったことは確かだ。
自然が脅威だけでなく、人間が増えるとその人間が脅威ともなる。

プラントハンターにしろ植物学者にしろタフでなければ生き延びられなかった。

これからツンベルクとともに日本に旅しようと思うが、
文明が破壊した南アフリカの豊かさについてふれておきたい。

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その69:喜望峰⑬ 二人のスウェーデン人 と リンネの弟子達

2008-11-12 08:19:36 | プラントハンターのパイオニア、マッソン

キャプテン・クック第二回の航海で、彼が指揮するレゾリューション号が
喜望峰に到着したのは1772年10月30日のことだった。 (その49喜望峰③)

フランシス・マッソン(Francis Masson 1741-1805)が喜望峰で下船し、
代わりに一人の植物の知識を持つ人物がレゾリューション号に乗船し、
約1ヵ月後の11月22日に南極海探検に向けて喜望峰を出航した。

キャプテン・クックの航海日誌にはこの状況をこのように書いている。

『フォスター氏が植物学および博物学に何がしかの知識を持ち、われわれの船に同乗を希望するスエデン人スパーマン氏の面識を得た。フォスター氏は、航海の過程で非常な助けになる人物と考えて、乗船させたい旨希望したので、私は許諾した。』

フォスターは、クック探検隊の主任植物学者であり博物学担当の息子と参加しており、
スウェーデン人のスパーマンなる人物を助手として現地で採用した。
という内容である。

スパーマンは何者だろうか?
この人物を調べてみると驚くことがわかった。

リンネとウプサラ大学の驚異
スパーマンではなく、スパルマン(Anders Sparrman 1748-1829)という。
彼はスウェーデン人で、ウプサラ大学で医学を学びリンネの優秀な弟子の一人だった。

(写真)アンダーズ・スパルマン肖像画


ということは、この時リンネの弟子が喜望峰・ケープに二人もいたことになる。
もう一人は、マッソンと一緒に植物探索の旅をしたツンベルク(Carl Peter Thunberg, 1743-1828)だ。
ツンベルクもウプサラ大学でリンネに学んでいる。

それにしても、海外旅行が便利になった今日でも、同じ大学のゼミ出身者が
喜望峰で偶然に出会うだろうか? 

出会う確率はかなり低いと思われる。
ということは偶然ではなく必然であり、リンネの意図・意思が反映していると思わざるを得ない。

リンネの弟子達は、空白地の植物相を調べ植物の体系を完成させるという強い動機で、
ツンベルクは南アフリカそして日本へ、スパルマンは中国・南アフリカ・南太平洋などへ、
そしてまだ登場していない弟子たち、その弟子達が世界各地に探検旅行をした。

ブラジリアンセージ、サルビア・ガラニチカを採取したレグネル(Regnell, Fredrik 1807-1884)は、
リンネの孫弟子にあたる。

スウェーデン人の、ウプサラ大学出身者の、そしてリンネの系譜の人々は、
冒険心と未知の植物の探究心にあふれフロンティアを求め、そして、功名を求め活動した。
このエネルギーは何処から来ているのだろうか?
世界の植物にリンネによる二命名法(属名 種小名)での名前をつけたい。
ということなのだろうか?

レグネルは、ブラジルでコーヒー園で財を成し、
故郷のスウェーデンにブラジルの植物研究をするレグネル基金を寄付した。
ツンベルクはウプサラ大学の学長となり、
スパルマンは王立科学アカデミーのメンバーとなり植物学の教授などを務める。

(写真) スウェーデン・ウプサラの場所 (by Google)


それにしても、こんなといったら失礼だが北国から財産形成を求めるのではなく
植物の知識を求めた人々が出現したことは驚きですらあり、
園芸を産業化したオランダ、園芸を庶民レベルまで楽しみにしたイギリスとは大きく異なる。

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その67:マッソンとミッショー 二人の関係 ①マッソン編

2008-10-30 08:07:23 | プラントハンターのパイオニア、マッソン

喜望峰でゼラニュウムなど多くの新種を発見採取したイギリスキュー王立植物園のプラントハンター、マッソン。 北米で活躍したフランスのプラントハンター、ミッショー。この二人には接点がなさそうで接点があったようだ。

まずは二人の年齢を確認してもらいたい。ほぼ同時代だが、マッソンのほうがお兄さんで多少長生きしている。ミッショーは人生が短かったが、よくできた息子が父の志をリレー方式で完成させるという父を思う息子の感動ものがあった。
マッソン(Francis Masson 1741-1805)
ミッショー(Andre Michaux 1746-1802)

(写真)マッソン


マッソン、ミッショー。虚像との出会い
1785年11月、アンドレ・ミッショーは15歳になった息子とともににニューヨークに到着した。
丁度その頃、フランシス・マッソンは、再起をこめてイギリスを発ち二度目の喜望峰に向けて出発した。
同じ時期にミッショーは大西洋を西へ、マッソンは南へ旅立った。

マッソンの再起をこめてということは、喜望峰から帰ってからのマッソンは、ポルトガル、アフリカ沖の大西洋上にあるアゾレス諸島・カナリア諸島などの島々及びポルトガル、スペインなどにプラントハンティングに出かけたが目ぼしい成果がなかったようだ。氷河期にはアフリカまでが氷で覆われたようだが、この大西洋上の島々は、氷に覆われることがなかったので古い植物が生き残っている独自の植物相で貴重なところのようだ。
喜望峰も植物の宝庫でありプラントハンティングの地域の選択は間違っていなかったが幸運は続かなかったということだろうか?

そこでマッソンは、華々しい成果があったいい思い出の喜望峰・南アフリカに10年間留まり、1795年にイギリスに帰ってきた。イギリスに戻ってからしばらくした1797年の早い時期に、元の上司だった王立協会会長バンクス卿がマッソンを口説き始めた。
「カナダ北部の探検をして欲しい。君しかいない。」と、こんな感じだったのではないかと思う。

王立協会会長としてイギリスの科学・技術領域で絶大な権力も持っていたバンクス卿に逆らえるわけがなく、マッソンはいやいやながらもこれを受け入れ、1797年9月カナダに向かって航海した。嵐とフランスの海賊船のためニューヨークに到着したのはその年の12月だった。

ミッショーから12年遅れてマッソンもニューヨークの地に着いた。
ミッショーは、マッソンの栄光を知り自らの栄光を求めて北米に出発したが、マッソンは、ミッショーの影と出会いこれを追いかけることになったのではないだろうか?


カナダ探検企画の不可解さとマッソンのカナダ探検
バンクス卿がカナダ北部の探検を企画したのは何故だろうか?
カナダはフランス領でありイギリスにとっては入り込めないところであるが、これだけではなくミッショーの成果が気になったのだろうか? 或いは、フランス同様に、自国の気候に合う新たな木材資源の開発が急務になったのだろうか?
謎は尽きないが、ミッショーの探索の成果が影響している可能性が高い。
と思われる。
この不可解さを、探検地と採取した植物などから検証してみよう。

(写真)ミッショーとマッソンのプラントハンティング地

ミッショー:黄色とオレンジの押しピン マッソン:オレンジの風船

マッソンとミッショーの探検地域を地図にプロットしたが、
マッソンは、モントリオールをベースキャンプにナイアガラ滝から五大湖周辺の探検を行っている。いわばアメリカ、フランス、イギリスの領土の境界線上を探検しており、ミッショーのようにカナダの北方へは行っていない。

マッソンがバンクス卿におくった採取した種子・植物は、
オンタリオ湖周辺で採取した種子1箱とワイルドライス(wild rice)の標本
(注)wild rice:Canada rice, Indian rice and water oats
ミネソタのグランドポテージへの旅では、生きた水生植物と123種の植物の種
ケベックのハーブと潅木及び90種の植物の種
モントリオール周辺で果物・ナッツ・ヤナギの木の見本

イギリスのバンクス卿に送った採取した植物類、採取場所から見ると、ミッショーが行かなかった空白地での新奇植物を幅広く集めているようであり、バンクス卿の世界の植物情報を集積する一環でなおかつフランスのミッショー対抗という性格が強そうだ。
頑固で一徹で負けず嫌いなバンクス卿の性癖が、フランス何ものぞという意識で、ミッショー対マッソンという構図を作ったとしか思えない。

マッソンは、イギリスに帰ろうと思っていたようだが、1805年12月23日のイブの日にモントリオールで死亡した。プラントハンティング中に野営し凍え死んだのかとばかり思っていたが、John Gray(モントリオール銀行の初代頭取?1755-1829)の家で亡くなったようだ。
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その66:喜望峰⑫ 南アフリカからの贈り物 ゼラニウム物語 No2 -Final

2008-10-21 08:57:21 | プラントハンターのパイオニア、マッソン

ゼラニュウムはややっこしい。という話をまとめてみた。まずはゼラニュウムの大昔の歴史からはじめよう。

ディオスコリデスが名づけた “ゼラニュウム”

ゼラニウムという名は、ギリシャ語で“鶴(つる)”を意味するゲラノス(geranos)からきている。
実がなったゼラニュウムの立ち姿は、まるで、鶴が長いくちばしをつきたてているようであり、これから鶴のくちばしに見立ててゲラノスと呼んだ。

英語ではこの草花を “クレーンズ・ビル”(cranes bill) といい、これもまたギリシャ語同様に“鶴のくちばし”を意味する。
現代的には、高層ビルの建築では、一番上にクレーン(起重機)があり、この姿も鶴のくちばしに似ている。

さて次の植物画は何に似ているだろう!  そう、鶴に似てますね!!

(写真)鶴のくちばし

(資料)Charles Louis L'Héritier de Brutelle「ゼラニュウム論」(1787-1788)

この名前をつけたのが、ディオスコリデス(紀元40-90年頃)で、彼の薬物誌には次のように書かれている。

『ゲラニウムの葉は、アネモネに似ているが、鋸歯がありアネモネの葉よりは長い。根は丸みがあり食べると甘く1ドラム(約4.37グラム)をぶどう酒とともに服用すれば、子宮の炎症がおさまる。 これは、またアルテルム・ゲラニウム(Alterum geranium)「もう一つの(第二の)ゲラニウム」とも呼ばれる。細かくて短い茎には細かい毛がたくさんあり、長さは2スパン(約46㎝)である。葉はゼニアオイに似ている。枝の先には上を向いた一種の副次発生のものがつく。これは嘴のある鶴の頭あるいは犬の歯のような形をしているが薬用にならない。』
『ディオスコリデスの薬物誌第3巻131 GERANION Geranium tuberosum』


「ゼラニュウム」を『ペラゴニウム』に改名した男

1772年から南アフリカからイギリスのキューガーデンに大量のゼラニウムを送ったのは フランシス・マッソン(Francis Masson1741-1805)で、これが遠因で名前を変えることになった。

それまでは、ディオスコリデスが名付け、リンネが学名として採用した“鶴を意味するゲラノス(geranos)”を語源とする “ゼラニュウム”であったが、南アフリカから入ってくるゼラニュウムが膨大なので、新しい属名を作り ペラルゴニウム(Pelargonium)と名づけた。

この属名を変えたのが レリティエール・ド・ブリュテル(L'Héritier de Brutelle, Charles Louis 1746-1800 )で、フランスの裕福なアマチュア植物学者で判事だった。アマチュアとプロの線引きは、職業としなかっただけだと思うが業績は十分にある。

レリティエールは、1787-1788年に『ゼラニュウム論』を書き

それまでのゼラニュウムを3つに分けて
1.南アフリカから入ってきたゼラニュウムをペラルゴニュウムに変更
2.それ以外のクレーンズビル(cranes bill)をゼラニュウム(ギリシャ語のgeranos鶴を語源)とする
3.高山植物をエロディウム(ギリシャ語のerodiosサギを語源)
とした。

ペラルゴニウムという名は、ギリシャ語のペラルゴス(pelargos)からきたものでコウノトリを意味する

ツル・コウノトリ・サギと名前のつけ方はいい加減のようではあるが、区別することが重要で、この区別が浸透していないというのも現実だ。特に、園芸品種が多いためさらにわかりにくくなっている。

ペラルゴニウムの花の特色は、 7本のおしべと上が2枚下が3枚の花びら で、上2枚には網脈のようなしみがついていて春だけの一季咲きとなる。
ゼラニュウムの場合は、10本のおしべを持った整斉花で大部分が北半球の耐寒性がある植物からなる。

レリティエールは、フランス革命後も治安判事を務めていたが1800年に暗殺された。
原因はわかっていないが、彼のそれまでの業績とかかわっていたのだろう。

トピックスとしては、レリティエールは、自分の著書の植物画を描く挿絵画家を探していて、王立植物園博物館で絵画技師をしていた若き画家を発見し、この人間を育てた。

1789年に、友人から預かった植物標本をフランス革命の破壊から守るために
イギリスにこれをもっていった。この時、若き画家も連れて行き銅版画技術を学ぶ機会を与えた。彼は、絵から輪郭線を取り除く技術を学び、これにより上品なグラデーションが可能となった。
この若き画家は、あの官能的な美しい 『バラ図譜』 などを描いたピエール・ジョセフ・ルドゥーテ(Pierre-Joseph Redoute 1759-1840)であった。
※ バラ図譜は米国議会図書館の“レアブックルーム”にある原本。左下コーナーでページを選び真ん中上及び右上で拡大で見る。

ボタニカルアートの頂点でもある彼の絵は、レリティエールと出会ったことにより科学的な植物解剖学の知識を教えられ、これを表現する技術をイギリスで学び、リアルを切り取る写真では表現できない官能的な美を生み出した。

しかし、レリティエールは、イギリスから帰国後投獄され釈放後に暗殺された。
友人の植物標本は、この採集に協力したスペインから権利を主張され返還請求があったが、これからも逃れるためにイギリスに持っていったことがかかわっていたのだろうか?

南アフリカからペラルゴニウムを大量に採取したプラントハンターのマッソンにしろ
暗殺されたレリティエールにしろ、 “Catch the roots”は、命がけだった時代があったのだ。

(写真) レモンローズゼラニュウムの花

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その65:喜望峰⑪ 南アフリカからの贈り物 ゼラニウム物語 No1

2008-10-20 08:07:10 | プラントハンターのパイオニア、マッソン

フランシス・マッソンの最大の功績は、ゼラニウムの発見といっても良さそうだ。このゼラニウムについては、かつて記載したものがあるのでこれを再編集した。

南アフリカとゼラニウム

センテッド・ゼラニューム或いはニオイゼラニュームといわれているグループは、
葉・花に独特の香りがあり、四季咲き性がない。
花は春だけのものだが、葉からの香りは年中楽しめる。

(写真)早春の花ジンジャーゼラニウム


ゼラニュームは南アフリカが宝庫であり、陽射が強く乾燥した冷涼なところが適地となる。この南アフリカ喜望峰が発見されたのは、大航海時代の1488年のことであり、ポルトガル人のバルトロメウ・ディアス(Bartolomeu Dias, 1450頃 - 1500年)が発見した。
これにより、1497年にはポルトガルの探検家ヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama, 1469頃-1524)がインドに海路到着することが出来た。

ポルトガルは香辛料を求めインドに向かい、スペインは黄金を求め逆周りでジパングを目指しアメリカ大陸に着いた。しかし、南アフリカ、アジアの植物をヨーロッパに持ってきたのはイギリスであり、このゼラニュームがヨーロッパに伝播したのは18世紀のことだった。

イギリスのプラントハンター、フランシス・マッソン(1741-1805?)によるところが大きく、18-19世紀はイギリスの時代であり、南アフリカ・東アジアからの植物を
イギリス・キュー王立植物園に移植するプラントハンターが活躍した。

日本へは、江戸時代末期にオランダから伝播され、外国(唐天竺)から来たアオイに似た葉を持つ植物ということで、テンジクアオイと命名された。


ゼラニュウムを見つけたのは、キュー王立植物園のプラントハンター第1号マッソン
ヨーロッパを彩る鮮やかなゼラニュウムの赤は、ジメジメしていない澄んだ空気を突き抜けて目に飛び込んでくる。この花がなかったらヨーロッパの街並みは殺風景になり、魅力もチョッとは下がったことだろう。

南アフリカ原産のゼラニュウムがヨーロッパに、そして世界に広まったのはカナダで植物採集の途上に凍死した一人のプラントハンターの活躍があった。
フランシス・マッソン(Francis Masson1741-1805) だ。

1759年に宮殿付属の植物園としてスタートした後のキュー王立植物園。マッソンは、そこのプラントハンター第一号でもあった。キュー王立植物園は、世界の新しい植物を組織力で集め世界の植物情報センターとして今では存在しているが、マッソンなどの冒険者の活躍がその基盤を作った。

1772年南アフリカ喜望峰の地にたったマッソンは、それから約3年強の期間に50種類のゼラニュウムをキュー植物園に送った。
その園芸種が今では世界の庭と窓を飾っている。キューの責任者ジョセフ・バンクス卿は「ゼラニウムに関しては、マッソンの尽力が大きい」と評価している。

マッソンは、年100ポンドの給料で、世界の植物をハントするプラントハンターであった。彼は、アフリカの奥地では鎖でつながれた脱走囚人に追いかけられたり、西インド諸島のグレナダではフランスと戦う地元の軍の捕虜になったり、北アメリカへの航海中にフランスの海賊に捕まったり、
最後にはカナダに向かいそこで1805年のクリスマスの日に凍死した。

彼は引っ込み思案の人間のようで、現世での名誉を求めなかったようで
彼の名前が残っているのは、マッソニアという珍しい品種のユリ科の植物だけとなる。
http://www.botanic.jp/plants-ma/maspus.htm (参考:ボタニカル・ガーデン)
だが、ゼラニュウムの歴史には、マッソンの種名が刻まれていないが、彼が発見した事実は永久に記憶に残される。

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その56:喜望峰。その認識と植物相⑩

2008-09-05 13:02:38 | プラントハンターのパイオニア、マッソン
~マッソンが採取した植物。==イキシア(Ixia)==

マッソンが採取したイキシアの種名とその数がよくわからなかったが、

イキシアは、アヤメ科に属し約50種があり、南アフリカの南西部と南部地方に生育する。
冬場に成長し夏場は休眠するというからオキザリス・パーシーカラーと同じ生態だ。

このオキザリスもマッソンが多数キュー植物園に採取して送っており、その数48種とも言われる。

マッソンが送ったイキシアは、ハイブリッド種が開発され18世紀後半にはヨーロッパに普及し
今では世界中に普及している。

庭植えは手間が大変なので、鉢植えが適している。
休眠中の夏場は涼しいところで水を与えずに乾燥させたままにする必要があるので、
移動性がある鉢が適し、常識による情けの水は非常識になってしまうので注意が必要だ。

このイキシアの中で緑の花を咲かせる珍しい種がある。
これを発見したのは、マッソン同様にケープの植物相の豊富さに魅了された男で
この発見の紹介をすると・・・・

南アフリカに魅了された男が発見した絶滅種
1883年12月30日、ドイツ生まれの一人の男がケープに到着した。
マッソンから111年後で、この男は、薬剤師としてケープの会社に勤めた。

彼は、ケープ、テーブルマウンテンに魅せられ、植物採取をするようになり、
それからは一直線で、時間が取れるように自営業となり植物採取の範囲を広げていった。
彼の名前は、マルロス(Marloth, Hermann Wilhelm Rudolf 1855-1931)

マルロスは、西ケープの山のなだらかな傾斜で、緑色の花が咲く植物を見つけた、
この植物が “イキシア・ビリディフローラ(Ixia viridiflora Lam.)” で、
この花は、ヨーロッパを魅了することになる。

(写真)イキシア・ビリディフローラ(Ixia viridiflora Lam.)の花
 
(出典)wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Ixia_viridiflora

だが、この花の原種は。いまでは絶滅危惧植物の仲間入りをしている。
滅びゆくもの必ずしも美しいとはかぎらないが、これは美しい。

イクシア(Ixia)の名前の由来
イキシアという属名の由来は二つあり、
一つ目は、それが粘りけがある液から鳥もち、ヤドリギ(viscum)を意味しているギリシア語のixosからきている。
もう一つは、古いギリシャ語で花の色が変わる植物につけられた名前からリンネがつけた。
という二つの説があり、Ixia属は花の色が変わるので二番目の説明が適切のようだ。

種名のviridifloraは、ラテン語でビリディフローラ『緑色の花』viridi+floraを意味する。

マルロスが南アフリカで集めた植物サンプルはドイツに送られ、
Heinrich Gustav Adolf Engler (1844 – 1930)などによって
ベルリンで"Plantae Marlothiana(マルロスの植物)"としてまとめられた。

アドルフ・エンゲラーは、リンネの植物分類法をより自然に近づけた分類体系を提唱し、
“エンゲラーの分類法”で知られる。

マルロスは、後に南アフリカの大学で植物学教授に就任するが、
南アフリカの植物のすばらしさに魅了されてイラスト入りの南アフリカの植物誌を出版する。

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その55:喜望峰。その認識と植物相⑨

2008-09-02 11:24:20 | プラントハンターのパイオニア、マッソン
~マッソンが採取した植物。==エリカ==

==ケープのヒース、エリカ==

“ヒース(heath)”は、イギリス北部・アイルランドの泥炭地のような作物が育たない荒地に
背が低い植物が生えるがこれをヒースと呼んでいる。

1847年に発表されたエミリー・ブロンテの長編小説『嵐が丘』は、
ヒースが群生するイギリス北部ヨークシャーの荒野に立つ館「嵐が丘」を舞台としている。
雪と強い風と低い雲そして見渡す限りのヒース。ここには圧倒的な厳しい自然しかない。

ヒースはこんな厳しい自然の象徴でもあるが、
ケープ地方にも“ケープヒース”と呼ばれる荒地に育つ植物がある。
その数735種というから驚きだ。
マッソンは、そのうちから88種をキュー植物園に送ったという。
このケープヒースの属名をエリカと呼ぶ。

マッソンが送ったエリカの代表としてErica cerinthoides L.(エリカ・コリンジェイド)に登場願うが、
Erica cerinthoides は、 “Fire Erica” とも呼ばれ、南アフリカの乾燥した荒野に広く点々と分布している。
 
(出典)ウイキペディア

種名のcerintheは、ギリシャ語の『ろう状+花(ceri+nthe)』で、
ceriは、ギリシャ語『蝋、ワックス、蜜ろうを意味する"keros"が由来』

ツツジ科のこのヒースは、ケープ地域の荒地でブッシュを形成し
落雷など周期的に起きる火事で自らをリニューアルする知恵で生き延びているという。
最近では、人為的に15年に一度は燃やしているようだ。

マッソンがイギリスに導入したエリカは、1794年にボタニカルマガジンで取り上げられ
18世紀後半から19世紀全般には、ケープのエリカは人気が出たようだ。

(写真) フランシス・マッソンを記念したErica massonii

(出典)Wikimedia Commons

キュー植物園には、フランシスマッソンを記念して命名した“エリカ・マッソニア”がある。
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その54:西洋と東洋をつなぐ喜望峰。その認識と植物相⑧

2008-08-30 08:39:05 | プラントハンターのパイオニア、マッソン
~マッソンのプラントハンティングの旅==ツンベルクとの出会い==

マッソン(Francis Masson 1741-1805)は、
1772年から1775年までの3年間、および、1786年から1795年の9年間ケープ植民地に滞在し、
南アフリカ全域をカバーするぐらいの探検を行い、1000以上の新しい種をキュー植物園に送った。
キュー植物園では、南アフリカの珍しい植物に興奮し、これらを展示するための展示室をつくった。

マッソン最初の探検は上陸後直ぐであり、季節的には春から夏へという最もいい時期で、
内陸部のステレンボッシュ地域(the Stellenbosch area)とホッテントット・オランダ山脈(the Hottentot Holland Mountains)に約2ヶ月の探検に出かけた。

もうこの探検で、ケープ地域の植生すばらしさと植物の宝庫を体感したことだろう。

ゴードン、ツンベルクとの出会い
ケープ植民地に戻ると、マッソンは意外な人物ツンベルクと出会い探検をすることになる。
マッソンとツンベルクをつないだのは、東インド会社のゴードン大佐のようだ。

ゴードン大佐(Robert Jacob Gordon 1743-1795)は、スコットランド系のオランダ人で、
南アフリカの探検家であり、オレンジ川の命名者としても知られる。
また1780~1795年は、東インド会社のケープ要塞守備隊の大佐として戻ってきた。
ゴードンは、1772~1773年にケープ植民地に来ており、ここで、マッソン、ツンベルクと出会う。

ツンベルク(Carl Peter Thunberg, 1743-1828)は、
東インド会社の船医としてケープ植民地に1772年4月に到着し、日本に行くためのオランダ語の研修を実施していたが、
ケープの東インド会社は、植物探検のための費用を出さなかったようで困窮していた。

これを救ったのがゴードンで、ツンベルクをマッソンに紹介し、マッソンはツンベルクのスポンサーとなる。
ここからが推測なのだが、プラントハンティングの費用はマッソンが持ち、
生きた植物をキュー植物園に送ってもよいが、学名などの新発見の名誉はツンベルクがもらう。
こんな契約をしたようだ。
さらに、ツンベルクはオランダの東インド会社に植物を送ることも了承させたようだ。

こう推測すると、コレクターとしても命名者としても学名への関与が低いマッソンの事実が納得できるようになる。

ちなみに、マッソンの年俸は100ポンド、活動費は200ポンドという契約のようで、
マッソンのような階級にとっては魅力的な給与のようで、さらに困窮していたツンベルクにおいても同じだろう。
活動費200ポンドは十分にツンベルクのスポンサーとなれる。

さらに余分な当時の状況だが、死亡率が高い船乗りを集めることは大変みたいで、
酔っ払って寝ていた人間をも誘拐するなどの手を使ってでもかき集めていたそうだ。
船の操縦にかかわる上級船員である士官と海兵隊員は誘拐はしない・・・・

プラントハンティングの旅
マッソンは、ゴードン、ツンベルクと3人でケープ植民地とファルス湾(False Bay)の間の山を徒歩で小旅行の探索をした。
ここで先ほどの契約が成立したのだろう。

1773年の9月にマッソンとツンベルクは4ヶ月に及ぶ長期の探検旅行をする。

マッソンは寡黙でかつ記録に残すことが多くないが、この探検日記が残っている。
ツンベルクは記録することが職業の基本である学者であり克明に日誌に残しているが、
西部劇に出てくる荒々しい山で道に迷い野宿する場面を想像して欲しい

ツンベルクは世も終わりと悲観しているが、マッソンは楽しい思い出というトーンで記述しており、
科学のために努力している英才と、趣味で稼いでいる実務家との違いが鮮明になっている。

ツンベルクは母校ウプサラ大学でリンネの跡を継ぎ教授・学長となり銅像が残った。
マッソンはカナダの荒野で凍死する。
死の瞬間の走馬灯は如何だったのだろうか?

最後のシーンはこの通りだが、二人の出会いの最初に答えが出ているようだ。
マッソンは薄れて行く感覚で、楽しかった~と思っていたのではないだろうか!!

マッソン、ツンベルクのプラントハンティングは、実り多かった。
その成果を取りまとめるのは次回とする。

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その53:西洋と東洋をつなぐ喜望峰。その認識と植物相⑦

2008-08-28 06:37:17 | プラントハンターのパイオニア、マッソン
~マッソンが採取し、キューを魅了した植物。==ソテツ==

マッソンの帰国を迎えたバンクス卿は、
1778年には王立協会の会長となり英国の科学技術の振興を推進する栄誉を手中にした。

マッソンを送り出し成果があったことで会長職に着いたわけではないが、
それほどマッソンの成果は画期的で、根底にある思想は
1760年頃から始まっていた産業革命とシンクロし、英国のグローバリゼーション、
ごく普通に言うと帝国主義化を推進する戦略眼が確信されたとも見れる。

面白いのは、バンクス卿によるプラントハンティングの最初の契機は、
キュー植物園には、めぼしい植物がなくなりもぬけの殻だった。
ということのようだ。

この庭園を管理していた人間を国王が首にしたことが原因で、めぼしい植物がもぬけの殻になった。
国王ジョージⅢ世から相談を受けた時には、

バンクス卿は、既にキャプテン・クックとの太平洋探検航海を実施しており、
わからないことには、ヒトを派遣し、組織的に情報を収集分析することが必要ということを自ら体験していた。

後世ではこれを“Catch the roots”といっているが。
もぬけの殻を単に埋めるのではなく、わからないことを調べるというスタンスをつくりあげたから
英国がライバルよりも強国になったのだろう。

だが実際は、バンクスのカリスマ性で効果がよくわからないことに
無駄かもしれないコストを使うということが出来たようだ。

バンクス卿は1820年に亡くなるが、これ以降は金庫が閉ざされ、
キュー植物園は、ダーウィンが活躍し、世界の種の情報センター化構想がスタートするまで眠りにつくようになる。

■ キュー植物園が誇るマッソンの遺産
エンケファラルトス・アルテンステイニー

(出典)キュー植物園にあるマッソンが持ってきたソテツ





マッソンそしてバンクスの自慢の一品は、鉢に植えて1775年にマッソン自らが英国にもって帰ったソテツだ。
鉢植え植物としては、世界でも最も古いものの一つであり、
225年の時を越えていまでもキュー植物園のソテツの温室にあり来園者を迎えてくれる。

このソテツは、ツンベルクのソテツともよばれているが、
マッソンとツンベルクが、1775年に東ケープ地方の探検をした時に海岸沿いの崖で発見したという。

このソテツが珍重されているのは、植物学上のことがまずあり
2種のソテツ(E. natalensis とE. ferox)が自然に交配したハイブリッドであることと、
ソテツは雌雄異株であるためこの1株だけでは子孫繁栄とはならないが、
自然交配種であるのに、この種と同じ種の株が1株しか発見されていない。
ということで絶滅の危機にある唯一の株を持っているという緊張感がある。

マッソンとツンベルクはラッキーにも唯一に近いソテツに出会ったようだ。

さらに、
マッソン、ツンベルクそしてバンクス卿の世界的な植物フロンティアの夢があり、
“やはり”という驚きと必然とも思いたくなるめぐり合わせに出会った。

ソテツは数年に一度子孫繁栄の準備をする。
マッソンが持ってきたソテツは、これまでにたった一度だけこの準備をし、

 
円錐形の球果といわれるマツカサをつけた。

なんとそれは、1819年でキュー植物園に持って来られてから44年後であり
バンクス卿もこれを見に来たという。

翌年バンクス卿は他界した。
それから190年が経過したが一度としてマツカサをつけることがないという。

【出典】
キュー植物園のソテツ



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