モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

プレモダンローズの系譜 ④ ブルボンローズの誕生

2008-12-31 08:48:36 | バラ

レユニオン島の住人A.M. Perichonは、1817年以前に島にあるバラとは異なる品種を発見し、それを育てて生垣用として配った。島では、耕作地の垣根をバラで囲っており、中国原産のコウシンバラ(パーソンズ・ピンク・チャイナ)とダマスクバラが植えられておりこれらとは異なる品種だった。
コウシンバラ(パーソンズ・ピンク・チャイナ)は、アメリカ・チャールストンでノアゼットローズの片親となっている重要なオールドローズだ。

レユニオン島の説明が必要だが、アフリカ、マダガスカル島の東のインド洋上にある島で、現在は、フランスの海外にある4つの県のうちの1つで、コーヒーの木のオリジナル種ブルボンがあることで知られる。

この島は、大航海時代の1507年にポルトガル人が発見したがこの時は無人島だった。1645年にフランス東インド会社が入植を開始し1714年からコーヒー栽培を行った。
この島でのコーヒーの栽培はシンプルだけに面白いので、興味があればUCCコーヒーのサイトで、「幻のブルボン・ポワントゥの物語」をご覧いただきたい。

コーヒーの木も同じような背景があるが、隔離された島であり二つしかないバラから生まれた第三のバラが誕生した。

ブルボンローズ
・学名:Rosa borbonica Hort.Monac. (Rosa chinensis x gallica)
コウシンバラとガリカの交雑種
・英名:The Bourbon Rose

レユニオン島の植物園長として1817年に着任したフランスの植物学者ブレオン(Jean Nicolas Bréon 1785-1864)は、このバラに興味を持って調べ、ダマスクバラの“オータム・ダマスク”と中国産コウシンバラの変種“パーソンズ・ピンク・チャイナ”との自然交雑種であると考え、1819年にこのバラから得た種と苗をフランスのルイ・フィリップ王のバラ園で働く友人のジャックス(Antoine A.Jacques)に送った。

ジャックスは、1821年に初めて開花させ1823年にはフランスの育種家に苗木を配布した。この種が、「ブルボン・ローズ」と呼ばれるもので、ローズピンクで半八重咲き芳香がある。

このブルボン・ローズは、バラの画家ルドゥテにより1824年に最初に描かれていることでも知られており、ルドゥテは、絵の素晴らしさだけでなくバラの歴史の貴重な資料として使えるほど植物画としても正確性を有していた。

ブルビンローズの重要な役割は、さらに中国産のローズと交配され「ティーローズ」を生み出し、この「ティーローズ」からフランス人のギョーが1867年に「ハイブリッド・ティ」を作出したことにある。現代のバラの多くはこの系統に続く。

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プレ・モダンローズの系譜 ③ 品種改良

2008-12-28 11:27:44 | バラ
あわただしい年末に世事と離れていいのかという気もするが、避けて通れないテーマなのでとりあげることにする。

園芸品種の開発

バラの園芸品種の育種は、偶然と必然の歴史のようだ。
偶然は発見されないと歴史に或いは記録に登場しないが、必然は、計画的に新種開発をするということだが、この新種開発は、時間とコストがかかるリスクの高いビジネスのようだ。
クルマのような人工物を作るのではなく1年という自然のリズムの上で開発をするので、気が遠くなるほどの時間を覚悟しなければならない。

この時間を短縮する方法はないが、唯一の対策は、同時に数多くの種をまき、数多くの苗を育て、そして交配をする。その中から選別して良さそうなものだけを残して育てることのようだ。バラの場合は、2万のタネを蒔きそこから絞り込んでいくようようだが、初期投資の資金が莫大となり誰でもが手を出せる代物ではなくなってきている。
何故2万ものタネを蒔くのかというと、優良な品種の出現の確率が、1万分のⅠとか二万分のⅠとかいわれているのでこの逆を行っている。“千三つ”という故事があるがそれよりも確立が悪くなるが当たって遠からずのようだ。

品種改良・新品種開発といえば聞こえはいいが、細々では偶然を待つ以外ない。
“青いバラ”をつくるというような目標を持ち、結果を出すということはリスクを前提に、リスクを如何に減じるかという“のどか”ではない裏舞台になっているという。

こうしてつくった大事な新種は、権利を保護しないと直ぐマネられる。
だから、保護される前に育種の機密を盗もうとするスパイ活動があり血みどろの争いもあったというから育種家同士は仲がよくないという。

高嶺の花の代表バラ、これらを含む植物の品種改良という知的権利の保護に関しては、工業製品が歩んできた道をおくれてたどり、知的な活動を保護する国際条約が出来たのは、1961年パリで作成された「International Convention for the Protection of New Varieties of Plants(植物の新品種の保護に関する国際条約)(略称UPOV条約)」であった。やはりフランスの伝統を国際条約で守ろうとした園芸先進国だけはある。

国内法としては1947年(昭和22年)に制定された“種苗法(しゅびょうほう)”があり、日本のバラ育種家の第一人者であった鈴木省三(1913-2000)もこの育苗法改定に尽くしたという。

http://www.hinsyu.maff.go.jp/
(参考:農林省品種登録ホームページ)

実践:品種改良の方法
品種改良はタネを蒔いて育てる実生法(みしょうほう)、放射線をあてて変異を作る放射線法、バイオテクノロジーを使う方法があるが、我々でも出来る実生法を紹介する。出典は鈴木省三氏の『バラ花図譜』である。

1.花の両親を決める
元気のよい花をたくさんつける株を選び、父親となる株は色・形のよい物を選ぶ。

2.交配(交雑)する時期
春の一番咲きの時期

3.母親株の雄しべを取り除く
母親株の花が咲く1~2日前の花弁を全部取り除き、ピンセットで、雄しべを全部取り除く。風や虫による他の花の花粉がつかないように雄しべを取り除いた花に紙袋をかけておき、1~2日後に父親株から採った花粉をかける受粉作業をする。

4.父親株の雄しべから花粉を集める
父親株のつぼみの状態の花から、母親株と同じように花弁を取り除き、ピンセットで雄しべをとり、適当な容器に集める。これを日陰で乾燥させた後で冷蔵庫に保管する。2週間ぐらいは保存が利くのでこの間に受粉で使う。

5.受粉
3で雄しべを除去した母親株の雌しべが成熟(柱頭が濡れる感じ)したら、保存した花粉で受粉させる。受粉は、指先或いは筆に花粉をつけ、柱頭に塗りつける。受粉後は、他の花粉がつかないように袋をかぶせておく。受粉させた花には、両親の品種名と受粉させた年月日を書いた札をつける。

6.採果と脱粒
受精がうまくいって1ヶ月ぐらいすると子房が膨らみ受精が確認できる。(失敗した時は子房のしたが黄色くなり枯れる) 受精した花は、毎日観察し虫害や病気から守ってやる。受精後3ヶ月ぐらいで種子は発芽能力を持つので、果実が赤く色づいたところで収穫する。ナイフで中の種を傷つけないように果実を割り種を取り出す。
このタネを直ぐ蒔いてもよいが、冷蔵庫で保管し、12月から翌年3月にかけて蒔いてもよい。冷蔵庫では種子を乾燥させないように水分を含ませたガーゼの上に種子を並べた容器で保管する。

7.種まき
用土はバーミキュライトとパーライトを混ぜたものを使い、2~3月頃に蒔く。(温室の場合は11~12月頃) 過湿にならないように水分の与え方に注意する。

8.発芽と鉢がえ
発芽してから3~4週間たつと本葉が2枚になる。この時期が移植に適しているので、苗を丁寧に抜き2号鉢に1本ずつ植え替える。このときに育ちが悪くなるので子葉を落とさないように注意する。
用土は、堆肥1に赤土2の割合で混ぜたものを使う。品種・両親の名前を書いたラベルは忘れないでつけておく。

9.選抜
発芽後約2ヶ月後頃に本葉が7~8枚になり四季咲きのものは最初の花をつける。この花は咲かせないで摘み取り、苗の生育に力を注ぐようにしてあげる。
その後2ヶ月に1回のわりで開花するので、その中からいい苗を選別する。最後に残った優良な苗を芽接ぎしたりして新しい品種を増やす元として使う。


バラ以外にも応用できるので試してみてはいかがでしょうか?
いずれにしても、根気よく、記憶に頼らずに記録することが重要なようだ。

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プレ・モダンローズの系譜② ノアゼットローズ誕生の怪

2008-12-27 12:26:44 | バラ

バラの原種は世界の北半球だけに200種あるといわれている。
北アメリカにも原種が存在するが、現代のモダンローズの祖先にかかわっていない。
唯一あるとすると、「ノアゼットローズ」になる。

定説、ノアゼットローズ誕生
ノアゼットローズは、フランスからアメリカに入植したフィリップ・ノアゼット( Philippe Noisette 1773-1835 )によって1812年につくられ、これをパリにいる兄のルイ・ノアゼットに1817年に送り、兄がさらに品種改良をして販売し、1900年代の初めまで広く栽培されていた。

(写真)ノアゼットローズの花


ノアゼットローズ(The noisette rose)
・和名:ノアゼットローズ
・学名:Rosa noisettiana.Red
・英名:The noisette rose
・作出者:フィリップ・ノアゼット(Philippe Noisette 1773-1835)

このバラの親は、中国原産のコウシンバラと、同じく中国原産で濃厚なムスク香があるロサ・モスカータ(Rosa moscata)が交雑して出来たといわれているが、中国原産のロサ・ギカンテア(Rosa gigantea)の交雑ではないかと最近はなっている。
この場合は、香料を分析しての見解だが遺伝子とかの検査で親子関係を調べることが出来るので科学は恐ろしい。

ノアゼットローズの特色は、花色はピンク、赤、黄などで多花性の房咲きで、強い香りがあり、この淡いピンクの花色は美しい。
このノアゼットローズが重要視されるのは、この後に誕生するするハイブリッド・ティー・ローズに近づくハイブリッド・パーペチュアル系ローズの一方の親となり、四季咲き性・多花性・芳香を伝えたからだ。

というのが定説になっているが、初期のところでだいぶ違う説があるのでこれも紹介すると、

お人よしのチャンプニーがつくったという説
ヨーロッパ系でなくアメリカ系の文献を読むと、バラの祖に関わっていないというコンプレックスがあるためか、我田引水型のこれから説明する説の強調が目立つ。

サウスカロライナ州チャールストンのコメ栽培者チャンプニー(John Champney)は、
1802年にコウシンバラ系のパーソンズ・ピンク・チャイナ(Parsons' Pink China、中国名桃色香月季)とロサ・モスカータ(Rosa moscata)の交雑に成功し新種を作った。

これをチャンプニーズ・ピンク・クラスター(Champneys' Pink Cluster)と呼び、夏だけ開花する枝振りが悪い低木のバラだったが、何故かしら栽培して市場に出す気がなかったので、隣に住むフィリップ・ノアゼットに交雑の元となったパーソンズ・ピンク・チャイナをもらったお礼として苗をあげたという。

ノアゼットは、もらったチャンプニーズ・ピンク・クラスターからカットをつくり、1811年に実生(みしよう=種)を得ることに成功した。これらから出来た種と苗木をフランスの兄に1817年送った。これがマルメゾン庭園で開花してルドゥテによって描かれた。
となっている。

後半は一緒だが、前半がまったく異なるストーリーとなっている。
チャンプニーは、バラの歴史に残る栄誉を知らなかったお人よしのようだった。

(写真)ルドゥテの描いたノアゼットローズ


パーソンズ・ピンク・チャイナがチャールストンにある謎
パーソンズ・ピンク・チャイナ(Parsons' Pink China、中国名桃色香月季)は、
不思議なバラで、イギリスのパーソンズの庭に1793年(一説には1789年)にあり、バンクス卿がこのバラの存在を発表している。
伝来のルートがわからず、無関係と思われるバンクス卿が登場し、しかも、1802年にはチャールストンにも伝わっていた。

ちょっと整理をすると、
・パーソンズピンクチャイナは伝来のルートがわからないが1793年(又は1789年)以前にパーソンの庭にあった。
・パーソンとの関係がよくわからないが当時のイギリスの科学者のトップにいたバンクス卿がこのバラを発表している。
・1802年までには、アメリカのチャールストンに渡っていた。
・別の文献では、チャールストンにはフランスからパーソンズ・ピンク・チャイナが渡ったとある。

疑問は、中国からヨーロッパにどういうルートで誰が持って来たか?そしてアメリカには誰が持っていったか? である。

ミッショーとバンクス卿の謎
ここで思い出すのがフランスのプラントハンター、アンドレ・ミッショーである。
ときめきの植物雑学「マリー・アントワネットのプラントハンター:アンドレ・ミッショー」シリーズで、ミッショーはフロリダ半島の付け根のやや上で大西洋側に位置するチャールストンに大規模な育種園・農園を確保しここを拠点に北米の植物探索を行った。
チャールストンは、フランスからの移民が多いので、ミッショーもここを拠点とした。

18世紀末から中国原産のバラがヨーロッパに入るが、これがフランスに渡り、フランスからチャールストンにも伝わっていた。
どんなルートでチャールストンに渡ったのか不思議に思っていたが、
ミッショーが絡んでいた可能性を否定できない感が強まってきた。

ミッショーは、中国の原種であるツバキ、サルスベリ、チャなどをチャールストンに持ってきている ことがわかっている。

いつ持って来たかが定かでないが、1790年の北米での活動履歴がないので、この年にヨーロッパに戻るか、(ヨーロッパ経由で)中国に行った形跡がある。

ミッショーが1790年に中国に行き、パーソンズ・ピンク・チャイナ(Parsons' Pink China、中国名桃色香月季)をも含めてチャールストンにもって帰り、この一部がバンクス卿に流れたと考えてもつじつまが合いそうだ。
バンクス卿は出所を明らかに出来ずにパーソンに栽培を依頼した。だからバンクス卿がこれを発表できたというストーリーだ。

この当時はフランス革命の最中であり、フランスと英国は敵対関係にあったが、革命政府から活動費を出してもらえないミッショーが自活せざるを得なくなったということを考慮すると、チャールストンのスポンサーだけでなく、バンクス卿もスポンサーとなりえる。

こんなところでミッショーに出会うとは想像すら出来なかった。

ミッショーは1796年にアメリカチャールストンを後にし故郷フランスに旅立った。
マッソンは1797年12月にニューヨークについた。しかもバンクス卿に口説かれて。

この事実は、切り替えのタイミングが良くとても偶然とは思われなくなった。
1790年頃にミッショーはバンクス卿と内密で会っていたというのが推理だ。
この推理は、事実として突き止められていないが謎のピースがうまくはまる。

ミッショーはバンクス卿と会っているな?

北米がモダンローズに名を残すことが出来たのは、ノアゼット・ローズが誕生したことではあるが、中国原産のコウシンバラの変種パーソンズ・ピンク・チャイナがチャールストンに来ていたからだ。と言い換えてもよさそうだ。

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クリスマスの後は、千日小坊の花

2008-12-26 00:43:36 | その他のハーブ

もう昨日になるが、売れ残りのケーキを買いクリスマス気分を味わいました。

あまりの甘さに驚いてしまい胃袋がひっくり返ってしまいました。
右も左もOKだったが、いつの間にか左によって(酔って)しまったようだ。

甘さが貴重で美味しいという幼少時代を経験し、コーヒーを飲む頃でも砂糖・ミルクをたっぷり入れたものでした。感覚的には、コーヒーに砂糖を入れるのではなく、砂糖にコーヒーを入れるというぐらい甘さを求めたものでした。

しかし今は、甘さは不味いという贅沢な愚痴が言えるようになりました。

確か織田信長がギヤマン(diamante)の容器に入った砂糖の小さなかけらを
大事そうに褒美で与えるというシーンが浮かぶぐらいに、16世紀頃に輸入で入った貴重品でした。

それが、たかだか50年で“美味い” から “不味い”に変わってしまって申し訳ないような・・・
皆様はいかがだったでしょう?

さて、クリスマスが終わったので、
本題の、飾り物を取り替える必要があり物色しましたが、
センリョウ(千両)、マンリョウ(万両)ほどおめでたくはありませんが、「千日小坊」の渋めの赤にすることにしました。

(写真)千日小坊の花


草丈120㎝以上で支柱を立て強制的に立たせていますが、半分から弓なりに枝垂れています。

枝の先には渋めの赤い花がついていますが、枝は、3→3→3というように3つに枝分かれしその先につきます。
この重みでたわみ幾何学的な美しさを味わうことが出来ます。

丈を80cm程度になるように詰めておけば、支えることなく自分でパノラマを展開できるので、
多少失敗したかなと反省です。

栽培の植物データーなどは、以前のブログを参考にしてください。

(写真)千日小坊の立ち姿



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プレ・モダンローズの系譜 ①全体の俯瞰図

2008-12-25 10:01:41 | バラ

「プレ・モダンローズ」とは??
ジョゼフィーヌのマルメゾン庭園にバラが植えられたのは、1801年が初めてという。
翌年には大規模なバラ園がつくられ、世界各地からあらゆるバラが集められた。
そして、ジョゼフィーヌが支援した園芸家アンドレ・デュポンにより、
初めて人工交雑によるバラの新種がつくられた。

ここから自然交雑ではないバラの品種改良が進み、
現代のバラの祖ともいうべきハイブリッド・ティー・ローズ(略称HT)が誕生する。
第一号のHT「ラ・フランス」が誕生したのが1867年であり、
フランスの育種家ギョー(Jean-Baptiste Guillot)によって作出された。

(写真)最初のハイブリッド・ティー・ローズ「ラ・フランス」


この1867年は、パリ万国博覧会が開催されており、
「ラ・フランス」は、会場となったシャン・ド・マルスの庭園で展示され、
大輪で花弁がたくさんある香り豊かなピンクのバラは注目を集めたようだ。
フランスにとっては、園芸が産業化された記念すべき年でもある。

オールドローズ達が交配され、この「ラ・フランス」誕生までをモダンローズが誕生する前夜“プレ・モダンローズ”と呼ぶことにし、園芸品種の改良の歴史を追ってみる。
品種改良の歴史的な記録がきちっと残っているのはバラだけのようで、他の園芸品種は省みられないか秘匿されたようだ。

ちなみに品種改良はバラの品種数に反映しており、
1791年のフランスのバラカタログには、25種しかなかったというが、
この人口交雑によりフランスのバラ育種業が活発になり、1815年には2000種もの品種を販売できるようになり、1825年頃には5000種まで拡大し、米国南部ミシシッピー周辺にまで輸出していたという。
別の記録では、1829年にはケンティフォーリア系2682種、モス・ローズ系18種、ガリカ・ローズ系1213種、アルバ・ローズ系112種が記録されており、オールドローズの系統の品種交雑の展開が伺える。

このようにジョゼフィーヌが亡くなった後でもマルメゾン庭園は、バラの栽培を続け、バラの発展に寄与しただけでなくフランスの花卉産業を勃興させ、美しいイメージの国にした。

プレ・モダンローズの主要なバラ年表
四季咲きで花の色も形も美しい「ラ・フランス」が誕生するまでにいくつかの道がありこれを簡単に整理すると次のようになる。
(オールドローズに関しては、当ブログ『バラの野生種:オールドローズの系譜①~⑨』を参照ください。)

(1)西アジア、中近東を経由して地中海沿岸・ヨーロッパに自生していた数系統のバラ(R.アルバ、R.ケンティフォーリア、R.ダマスケナ、R.ガリカ、R.フェティダなど)
(2)18世紀末にヨーロッパに入ってきた中国・インド原産のコウシンバラ、および、日本にも原生するノイバラ、ハマナスなどの系統。

これらが交雑され次のようなバラが誕生する。
<主要な年表>
・1812年ころ: 「ノアゼット・ローズ」が発表される。
・1817年: 「ブルボン・ローズ」が発表される。
・1837年:フランスのジャン・ラフェイ、パリ郊外のベルブゥの庭で、最初のハイブリッド・バーベチュアルである「プリンセス・エレネ(Princes Helene)」を発表。
・1838年:最初のティ・ローズ「アダム(Adam)」が発表される。
・1864年:ノアゼット・ハイブリッドの代表種「マレシャル・ニール(Marechal Niel)」がブラデルにより作られ発表。
・1867年:最初のハイブリッド・ティー(HT) 「ラ・フランス(La France)」がギョー(Guillot)によって作られ今日のHTの基礎が確立した。

(続く)

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レビュー2008年を振り返って:10のトピックス

2008-12-23 09:58:20 | ニッポンの政治
(写真)一輪だけ咲いているムエレリ


2008年を振り返って印象の強い出来事を10ピックアップしてみました。
さてあなたは・・・・

1.政治の私物化・幼稚化がすすんでおり、同族たらいまわしで経営危機をもたらしている。政党助成金が“ノホホン”国会議員を育ててしまったようなので廃止すべきかも!

2.アメリカ金融帝国が先端技術におぼれて自滅。世界を道連れに。そして私たちをも。

3.一次産業の逆襲、原材料の高騰と食糧危機が現実に。世界同時不況でおさまった感があるが成長の時に顔を出してくる。

4.目的レスの通り魔殺人がふえる。コメントしようがない危なさ。

5.ノーベル賞、久々の大量受賞。30年後に花開くヒトを育てられるか?

6.オリンピックの女子ソフトボール、フェンシングでメダル受賞。マイナースポーツに光を当てる。おお~久しぶりの感動モノだった。

7.アメリカ独立後232年で初めてのアフリカ系大統領が誕生。差別の国がね~。ということはやれば出来る。

8.2007年新潟中越地震に続き2008年は岩手宮城内陸地震。どこか危ない足元。

9.地球温暖化。ボディブローのように効いてくる。孫にも(いませんが)残したい美しい地球。

10.楊逸(ヤンイー)さん、日本人以外で初の芥川賞受賞。選考者に拍手。差別がなくなった手始めだろうか?

番外.関東大学ラクビーで帝京大が完全優勝。(悔しいけどおめでとう)、三浦皇成くん武豊のJRA新人年間最多勝記録を大幅に塗り替える。(来年はお世話になろうかな!)

(写真)葉の緑と花のブルーが濃くなりつつあるセミアトラータ


世界は狭くなった。というのが実感です。日本だけでは生きられないということを実感した年ではないでしょうか?
2008年は、日本の政治も経済もダメな年でした。突破する“考え”がなかったからでしょう?この停滞はしばらく続くと考えざるを得ません。考えが形になり技術や商品になるにはさらに時間が必要だからです。
タネを蒔かなければ芽は出ません。今できる種を蒔きましょう。政治には期待できません。自民党は選挙をしたくないので“よどみ”は来年の衆議院選挙まで続くことは間違いないでしょう。しかし政治が変われば、突破口が開ける可能性がありますが、予算の裏づけに四苦八苦しているようで、予算を使いどんなコトをするのかという突破口を感じさせる方針でタネを蒔かないから幻滅しているということを理解できないようです。来年は、一線を退いてもらいまともな情報収集をし、政権再獲得のために日本をデザインしてもらいたいものです。

ということは、身の丈での辛抱の時期が長くなるということす。こんな時だから、助け合う社会を小さなところから創っていきたいものです。
私たちに出来ることをやる。まずは小さなことから。
「自助・自立・互恵」が、フランス革命の上からの思想「自由・平等・博愛」に匹敵する私たちの2009年のコンセプトのようです。
成果主義を一人だけ生き残ればよいと間違って理解した是正をしましょう。社会は一人では生きていけません。家族で、仲間で、チームで、組織で、地域で、日本で、世界でが社会です。わすれていた助け合い、“互恵”を実行してみたいものです。
私たちは地球号に乗っている仲間だからとは誰かが言いましたが、まさにそうだと思います。

2009年の私のテーマ:『暖かいまなざし』としました。反省を込めて。

(写真)パイナップルセージもまだ頑張っています。


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クリスマス・ホーリー(Christmas-holly)の実

2008-12-22 08:58:36 | その他のハーブ
A merry Christmas.

今週はクリスマス・ウィーク。
そのクリスマスの飾りとしても使われる、クリスマス・ホーリーは、
邪悪から私たちを守る幸運の象徴です。

今年お世話になった皆様に! そしてブログをご覧になっていただいたあなたに!
感謝とともにクリスマスのお祝いを!!

22.12 2008
Tetsuo shiga

(写真)常緑の葉と赤い実のクリスマス・ホーリー


この木をヒイラギとばかり思っていたが、セイヨウヒイラギ(=ホーリー)で、
まったく特徴が異なる植物だ。

ヒイラギは、木に冬と書いてヒイラギ(柊)と読むが、なんて素晴らしい漢字だろう。

ヒイラギはモクセイ科、セイヨウヒイラギはモチノキ科と属するところが異なり、
ヒイラギは、葉にトゲがなくキンモクセイのような葉をしているところが大きく違う。

ホーリーの原産地は、ヨーロッパ。
このヨーロッパでは、針葉樹を除き冬に緑を保つ樹木は少なく、貴重な緑だ。
さらに赤い実がつくので宗教と結びついて尊重され、
キリスト受難の血を象徴するくすんだ赤となっている。

日本では、朱色をした美しい赤をしている、センリョウ(千両)、 マンリョウ(万両)が
正月の飾りとしてお祝い事に利用される。

棘をもったいかり肩のホーリー、やさしい葉を持ったたおやかなセンリョウ・マンリョウ
風土と歴史の差は歴然とありそうだ。
2009年は日本のオリジナリティを発揮する年でありたいものです。

(写真)クリスマス・ホーリーの木


クリスマス・ホーリー(Christmas-holly)
・モチノキ科モチノキ属の耐寒性がある常緑小木。(日本のヒイラギはモクセイ科)
・学名は、Ilex aquifolium.L.。英名は、ホーリー(holly)、English holly、和名はセイヨウヒイラギ、ホーリー。流通ではクリスマス・ホーリー(Christmas-holly)。
・学名の種小名aquifoliumは、“針のような葉をした”という意味。
・原産地はヨーロッパ(英国)北アフリカ、南西アジア。
・品種改良され111種も登録されているので、様々な品種がありそうだ。
・雌雄異株だが、雄株にも実がつく。開花は4月頃からだがまだ見たことがない。
・四角張った濃い緑色の葉には強いトゲがあり、生垣などの防災に利用される。
・クリスマス頃までに、赤い実がなりクリスマスの飾りなどに使われる。ヨーロッパでは魔よけがあると信じられている。
・刈込にも強く強健。

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バラの歴史を変えたジョゼフィーヌ,No3

2008-12-21 10:40:08 | バラ

5.確率を超えた運命的な出会い

ジョゼフィーヌ、ナポレオンの生い立ちを見ると歴史の偶然と必然にぶち当たる。
歴史に“ If ”ということはないが、ちょっとした手違いが世界の歴史を大きく変えたかもわからない。それが二人の誕生日にあった。

ナポレオンは、1769年8月15日コルシカ島の最下級貴族の家に生まれた。
このコルシカ島がジェノバ共和国からフランスに割譲されたのは、ナポレオンが生まれる1年3ヶ月前だった。
しかし、コルシカ島の住民はフランスの支配を嫌い、1年以上も反乱をした。父シャルル・ボナパルト、母レティツィアもナポレオンをお腹に宿し反乱に加担して戦ったという。そして、実質的にフランス領を受け入れたのは、ナポレオンが生まれる直前のことというからかなりギリギリでフランス国籍を取得したことになる。
ナポレオンがイタリア人だったらヨーロッパの歴史・地図は今とは大きく異なっていただろう。

一方、ジョゼフィーヌは、1763年6月23日カリブ海に浮かぶマルチニック島で生まれた。
祖父がナポレオン家同様にフランスの最下級の貴族であり、新天地を求めマルチニック島に移住した。この島は、コロンブスが発見し“世界で最も美しい”といわれたところで、現在はフランスの海外県の一つだが、フランスとイギリスがこの島の領有を争っていて、イギリスに占領されたマルチニック島がパリ条約でカナダと交換でフランス領に戻ってきたのは1763年2月10日だった。ジョゼフィーヌが生まれる4ヶ月前だった。
1年後には再びイギリスに占領されるので、これもきわどいところでフランス国籍を取得したことになる。

こんなきわどい出生をした二人は、歴史を書き換える大革命をすることになる。
ナポレオンは政治の世界で、ジョゼフィーヌは植物学・バラの世界で。
 
(写真)皇后ジョゼフィーヌ


6.ジョゼフィーヌのマルメゾン庭園の夢

『庭に外国の植物がどんどん増えていくのは大きな喜び、マルメゾンが植物栽培のよきお手本となり全国諸県にとってマルメゾンが豊かさの源泉になって欲しい。南方や北アメリカの樹木を育てているのはこのためで、10年後には私の苗床から出た珍しい植物を一揃い持つようになることを願っている。』(出典:『ジョゼフィーヌ』安藤正勝 白水社)

ジョゼフィーヌは本気だった。ということがよくわかる。
マリーアントワネット同様に結構浪費したようだが、下級貴族から皇后になっただけにお金の価値と相場を知っていて、“殖産興業”をも知っていたようだ。


「ジョゼフィーヌ。用心するがよい。ある夜、ドアを蹴破り、私がいるぞ!」というナポレオンからの警告があったのは、1796年の頃であり、遊び人からここまで変身したジョゼフィーヌはまるで別人となったようだ。
「身持ちがよくなった、思慮深くなった、こんなジョゼフィーヌはジョゼフィーヌではない」と言い切って最後の文章を書いたのは『ナポレオンとジョゼフィーヌ』の作者ジャック・ジャンサンだった。

ナポレオンはジョゼフィーヌと結婚したがゆえにイタリア戦争に勝利したようであり彼に運をもたらしたことは間違いなさそうだ。
だが、離婚によりナポレオンは、自分の血筋を求めるという同族経営を目指し破綻する。
お払い箱されたジョゼフィーヌは、バラの新しい血筋を作り出す出発点に立ちバラたちに運を分け与えた。
ナポレオンも一緒にバラを栽培していたら違った世界が開けただろう。

歴史に“ If ”はないが、相当の低い確率で運命的に二人は出会い、男の革命と女の革命を行った。
ナポレオンは、革命を旧体制化して守ろうとしたので破綻し、ジョゼフィーヌは自己改革に追い込まれたのでバラにたどり着いた。 
という男と女の革命の結末だったのだろうか?

余 談
20世紀までは、偉大な人たちが歴史を構成してきた。ナポレオン、ジョゼフィーヌたちのように。
記録され、発信されるメディアが希少であり・高価であるため捨てるものを多くつくらなければならなかったことも一因としてある。
現在は、未来に残るかどうかは別として、記録され、発信できる環境にあり“私の歴史”を残すことが可能になった。

きっと男と女の物語が数多く記録されているのだろう。


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バラの歴史を変えたジョゼフィーヌ,No2

2008-12-19 08:23:22 | バラ

3.ジョゼフィーヌと『リー&ケネディ商会』
ジョゼフィーヌ御用達の栽培業者は、18世紀ヨーロッパNo1の栽培業者『リー&ケネディ商会』であり、ジェームズ・リー(1715-1795)と、ルイス・ケネディ(1721-1782)が1745年に設立した。

18世紀のイギリスは産業革命が進行した世紀だが、一方で、世界の花卉植物が愉しめる時代でもありマッソンのようなプラントハンターと、採取してきた植物を育成栽培する栽培業者(nurseryman)が勃興活躍した。

ジョゼフィーヌと交流があったのは、2代目のジェームズ・リー(1754-1824)で、南アフリカでのプラントハンティングのベンチャービジネスに共同出資もしていたようだ。
ジョゼフィーヌはバラだけでなく、南アフリカケープ地方のヒースマニアでもあり、1803年からのジェームズ・ニーヴン(1774-1827)の南アフリカケープ地方でのプラントハンティングに、ジェームズ・リーなどと共同出資し、その成果をヒースなどの新種という現物でも受け取っていた。ジョゼフィーヌのヒースの収集は、1810年頃には132種まで増えたという。

この2代目のジェームズ・リーは交際範囲が広く、アメリカ大統領のトーマス・ジェファーソン、さらには、なんとフランシス・マッソンとも相当親密な交際をしていたようだ。
『リー&ケネディ商会』No1の実力は、顧客の質だけでなく、世界的な花卉植物の仕入れが可能だから出来上がった。そこには正式ルートだけでなく裏ルートも存在したようで、ジェームズ・リーとマッソンの交際も種子・球根などの横流しで疑われたようだ。

マッソンとジョゼフィーヌの接点は確認できていないが、ケープ地方のヒースを採取した第一人者はマッソンであり、ジョゼフィーヌにとっては、憧れのヒトであったかもわからない。

いつの時代でも趣味という領域は意外な人物を結びつけ、その先にさらに意外な人物が連なるという面白いネットワークをつくる。
善意の人たちのネットワークは、意外な力を発揮するが、悪意を持ったヒトがかかわると食い物にされるもろさがある。ジョゼフィーム、マッソンは食い物にされる善人のようだが、ジェームズ・リーはどうだったのだろう?
この商会は、卓越した個人技でNo1を構築したため、卓越した個人が消えた1899年に154年の歴史を閉じた。

4.ジョゼフィーヌの履歴書
ジョゼフィーヌ(Joséphine de Beauharnais, 1763 - 1814)は、1804年にナポレオンが帝位に就いたのでフランスの皇后になった。

彼女の生い立ちは、フランス出身かとばかり思っていたが驚いたことにコロンブスが発見しコロンブスにして“世界で最も美しいところ”と言わしめたカリブ海に浮かぶマルチニック島(現在はフランスの海外県)の貴族の家に生まれた。

1779年16歳のときにパリに出てきて、植民地長官の息子アレクサンドルと結婚したが1783年に離婚。1894年にアレクサンドルが革命政府に処刑されてからナポレオンと知り合い、1796年に結婚した。
ナポレオンと結婚しても、遊び癖は直らずパリでは有名な遊び人だったようだ。

ほんの一例が、1722年に完成したエリゼ宮は、フランス革命の激動を乗り越える際に
ダンスホールとゲームセンターになった時期がある。
ルイ16世のいとこにあたるルイーズ=バチルド・ドルレアン公爵夫人が生活苦に陥ったため1階部分を貸し出したためである。

このダンスホールでひときわ目立ったセクシーで目立つた美人がいた。エジプト、イタリアなどに遠征しているナポレオンの妻ジョゼフィーヌで、彼女が来るパーティやダンスホールなどは商売として成功するといわれるほどの有名人で相当な遊び人だったようだ。

エリゼ宮は今では国家元首が住む宮殿となっているが、最初にここに住んだ国家元首はナポレオンだった。

こんなジョゼフィーヌが、ナポレオンとの離婚後は、或いは、マルメゾンの館を買ってからは、庭造りと植物学にのめりこむ。

(写真)マリールイーズの花


そして、1813年、マルメゾンの庭園でダマスクローズの園芸品種が誕生し、このバラに『マリー・ルイーズ』と命名し、別れた夫の再婚相手マリー・ルイーズに捧げた。

ナポレオンが再婚したマリー・ルイズは、神聖ローマ帝国フランツ二世の娘であり、マリーアントワネットの姪に当たる。

そして1813年は、ナポレオンがロシア進攻に失敗し翌年退位、エルバ島に島流しとなる時期であり、また、ジョゼフィーヌも翌年に病気で亡くなる。

フランス革命があったからこそカリブ海の一植民地の娘がフランスの皇后になれることが出来、離婚後は、庭造りと植物学に熱中しバラの歴史に革命をもたらした。
このエネルギーは何処から来ていたのだろう?

ジョゼフィーヌの本名は、マリー・ジョゼフ・ローズだった。
ナポレオンがフランス風に変えた“ジョゼフィーヌ”から“ジョゼフ・ローズ”に戻ったのだろうか?

激動期にマルメゾンで誕生したバラは、大きなうねりをつくり新しい血筋として未来に向かっていった。
彼女の名前には "ローズ”があり、そのバラが歴史に足跡を残した。
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バラの歴史を変えたジョゼフィーヌ,No1

2008-12-18 10:08:48 | バラ
モダンローズのシリーズに入る前に、ここからバラは大きく変わったという、ジョゼフィーヌシリーズを2+1回で再掲する。バラバラに掲載したため、ドキュメントとしてのまとまりに欠けた。
このシリーズをお読みになった方は、3番目に掲載するNewからお願いします。

1.ジョゼフィーヌが変えたバラの歴史
日本で愛されている花の代表は、カーネーション・キク・バラと言ってもよい。
キクは一度取り上げたが、原産地と原種がわからないほど雑種化され園芸品種が増えている。バラも同じようで、いま手にしている豊富な色彩、花形などの美しいバラは園芸品種だ。
その園芸品種の始まりからバラストーリーをスタートする。

1813年、パリから西に20㎞のところにあるマルメゾンの庭園でダマスクローズの園芸品種が誕生した。ここからバラの世界は大きく変わることになる。世界で初めて人工交配による品種改良が行われ、幾多の新品種がここマルメゾンで育成された。
ジョゼフィーヌがバラの歴史を変えることになる。

マルメゾンの館は、ナポレオンとその妻ジョゼフィーヌが1799年に購入した。あまりにも高額でナポレオンには払えなかったが、しかし、ジョゼフィーヌは諦めなかった。“憧れの英国のキューガーデンのような自然庭園を作りたい”これがジョゼフィーヌの動機で、ナポレオンの尻をたたいて手に入れてしまった。

ナポレオンの出世とともに、世界中から高価なバラの苗木を集め、ナポレオンと離婚した1809年から彼女の死亡までの間ここに住みバラ園をつくった。
ジョゼフィーヌのバラ園には、世界中から集めた250種があったというから驚きだ。



2.マルメゾンの庭園に使ったお金の総額は国家予算レベル??
ジョゼフィーヌのバラ園には、世界中から集めた250種があったというが、一体いくらぐらい使ったのだろうか? というのが素朴な疑問としてわいてくる。

ジョゼフィーヌが、遅れていたフランスのバラ育種産業をイギリスと並ぶように育てたくらいだから相当使ったようだ。これを趣味・贅沢・浪費などというが、産業を振興した政策コストでもあり、最近の2兆円バラマキとはだいぶ違う。これは浪費でも政策コストでもなく無駄という。

この時代のヨーロッパNo1の育種業者は、イギリスの「リー&ケネディ商会」で、マルメゾン庭園のバラはここから仕入れていた。
1806年にイギリスとヨーロッパ大陸との通商を封じ込めるために“大陸封鎖令”をナポレオンが出した。イギリスと通商が出来なくて困るのはジョゼフィーヌもしかりで、特権を使い抜け道を作った。
それは、ベルギーのジョゼフ・パルマンティエを経由して苗木を手に入れたようだ。植物へのほとばしる情熱をナポレオンですらとめることが出来なかった。

マルメゾンのバラ園には、赤バラのガリカ、ダマスク、白バラのアルバ、日本産のハマナスなどオールドローズが集積しただけでなく、ジョゼフィーヌはデメス、元郵便局員のデュポンなど多くの園芸家を支援し、より美しいバラづくりに打ち込ませたという。

これらの費用は、一説によると国家財政の三分の一にのぼる負債を残したともいわれるが、ナポレオンがやった戦争ほどお金がかかるものはないので、一説とするが、かなりのものをバラのために使ったことは間違いない。

マリーアントワネットは1793年に断頭台に消えていったが、無聊を慰める庭造り・バラの収集は、マリーアントワネットから引き継いだのだろう。
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