モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

No40:セッセ探検隊⑧:セッセ探検隊が採取したサルビア

2017-02-22 15:34:29 | Sessé&Mociño探検隊、メキシコの植物探検
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No40

悲劇的だったセッセ探検隊シリーズの最後は、彼らが採取したサルビアで締めくくりたい。しかし、手がけてみると意外と混乱が待ち受けていた。

セッセ達を送り出したマドリッド王立植物園の初代教授オルテガ(Ortega, Casimiro Gómez de 1740-1818)は、リンネ(Carl von Linné、1707-1778)の「自然の体系(Systema Naturae)」の考え方を翻訳者としてスペインに導入した先駆者でもあり、リンネの考え方の真髄でもある“種の分類”を、属名と種小名でその当時の世界共通語であるラテン語で記述する二命名法をセッセ達にも実践させた。

珍しい植物を採取したら、その特徴を記述し、類似するものとの相違点をも記述する。そして新種であれば、新しい名前をつけることができる。
1800年前後は、リンネの二命名法による生物の世界地図ともなる体系が作られ始めた時でもあり、先に名づけて発表したものに命名者としての栄誉がもたらされた。
セッセとモシニョーも、ヨーロッパではあまり知られていないメキシコの植物相の体系化という栄誉を担いたいと思っていたのだろう。

しかしこれが実現したのは約100年後の1893年のことであり、この間に多くの植物がほかの人間により命名されてしまった。だから、セッセ達が命名した名前と、学名として承認された名前との付けあわせが必要となりこれが意外と難しかった。
ドゥ・カンドールがしたように、モシニョーが残したオリジナルの植物画からこの付け合わせをする以外なさそうだ。

セッセ探検隊が採取したサルビア
ハント財団のコレクションにはセッセ達がサルビアと記述した21種類の植物画が残っていた。
今はこの植物画を見ることができなくなっているがテキストは検索できる。この表を見る限り、セッセ達がつけた学名の全てが承認されていない。(100年も遅れると当然といえば当然だが。)
さらに、セッセ達が採取したサルビアの中で承認された学名とマッチングされているのがわずかであり、多くは正体不明のままだ。この中には現存していない絶滅した品種もあるのだろう。

現在の植物とマッチングされている3種について、植物画と実際のサルビアの写真とを比較して見てみよう。
(1) Salvia sessei Benth. (1833). サルビア・セッセイ


(出典)ハント財団

セッセ探検隊での命名は「Salvia fastuosa Sp. N.」で、種小名の“fastuosa”は、スペイン語で“豪華な”を意味する。
確かに命名どおりにライム色の葉、朱色の大きな花が素晴らしい。しかも4-5mの大きな潅木であることも驚きだ。
セッセ達が命名した学名は、「Salvia fastuosa Sessé & Moc.(1887)」となるが、受理された学名は、英国の植物学者ベンサム(Bentham, George 1800-1884)が1833年に命名した「Salvia sessei Benth. (1833)」が受理された。

ベンサムは、どこでこのメキシコの植物標本を手に入れたのだろうかなと疑問に思ったが、彼は、パリでドゥ・カンドール(de Candolle, Augustin Pyramus 1778-1841)のコピーを手に入れ、これに感動し植物学に邁進するようになったという。
ドゥ・カンドールはモシニョーから預かった植物画をコピーしたので、この植物画のコピーを手に入れたのかと思ったが、そうではなかった。
ベンサムが手に入れたのは、「フランスの植物相(Flore française)」(1803-1815)で、この本は、進化論で有名なフランスの博物学者ラマルク(Jean-Baptiste Pierre Antoine de Monet, Chevalier de Lamarck, 1744-1829)の著作となっているが、ドゥ・カンドールが書いていたのだ。
となると、ベンサムが手に入れたのは、現在キューガーデン、大英博物館にあるスペインの植物学者パボン(Pavón, Jiménez José Antonio Jiménez 1754-1840)のコレクションに紛れ込んだセッセ探検隊の植物標本なのかもしれない。

ベンサムは、このサルビアをセッセ達が採取したことを知っていたのだろう。だから種小名に“sessei”と名づけ彼らの栄誉を称えたのだろう。

(写真)サルビア・セッセイ(Salvia sessei)

(出典) Le Essenze di Lea

サルビア・セッセイの実写と植物画とを比較して見てみよう。
このサルビアは、メキシコ中央部の高度2100mまでの松林や森林の端に生息するというが、実写で見るサルビア・セッセイもすばらしいが、植物画も実によく描かれている。セッセ探検隊にはセルダ(Vicente de la Cerda(Juan Cerda)生年月日不明)エチェベリア(Echeverría ,Atanasio y Godoy、生年月日不明)という二人のアーティストと数人のアシスタントがいたが、残念なのは誰が描いたのかわからない。

(2)Salvia laevis Benth.(1833) サルビア・ラエビス


(出典)ハント財団

セッセ探検隊の命名は、「Salvia aegiptiaca L.」だったが、受理された学名は、「Salvia laevis Benth.(1833)」だった。

「Salvia laevis」は、メキシコに来た初期のプラントハンター、グラハム(G. J. Graham)が1830年にメキシコ、メヒコ州の州都トルーカの北西方向にある銀鉱山Tlalpujahuaで最初に採取したとなっているが、セッセ探検隊がそれよりも早く採取していた。
グラハムもなぞの人物だが、サルビア・ラエビスもよくわからない。絵から見る限りラベンダーのような感じを受けるサルビアだ。

(写真)サルビア・ラエビス(Salvia laevis)

(出典) flickr.com

このサルビア・ラビエスに関してもflickr.comでは“?”のようであり、唯一に近い植物画像だったことからみて現在は栽培されていないサルビアなのだろう。

また、セッセ達が命名した「Salvia aegiptiaca」という学名では見つからず、北アフリカ原産の「Salvia aegyptiaca (Egyptian Sage)」というサルビアがあるが、植物画から見てこれとは違うようだ。

(写真)Salvia aegyptiaca (Egyptian Sage)  サルビア・エジプチアカ

(出典) rareplants.de

(3) Salvia hirsuta Jacq. (1798). サルビア・ヒルスタ


(出典)ハント財団

このサルビアは、セッセ探検隊が命名したのは「Salvia hirsuta Sp. N.」で、学名としては、「Salvia hirsuta Sessé & Moc.(1887)」となるが、オーストリアの植物学者ジャカン(Jacquin, Nicolaus(Nicolaas) Joseph von 1727-1817)が1798年に先に命名していたので「Salvia hirsuta Jacq. (1798)」が承認された。

ジャカンは、オーストリアの皇后でマリーアントワネットの母であるマリアテレージア(Maria Theresia 1717-1780)から王室の医者として誘われて、1745年に生まれ故郷のオランダ、ライデンからウイーンに移り住んだ。彼が18歳のときであり若くしてその才能が認められていた。

ジャカンは、シェーンブルン宮殿の庭園のための植物を集めるためにフランツ1世によって1755年から1759年までカリブ海の島々とベネズエラ・コロンビアなどの中央アメリカに派遣されて、動物・植物・鉱物の大きなコレクションを集めてきた。

この探検の成功を耳にしたリンネは、“私たちが知らない世界から宝物を持ってきてくれたことを歓迎する”とジャカンに手紙を書き送った。
この成果をまとめて出版したのが『シェーンブルン宮殿の庭Hortus Schoenbrunnensis (1797-1804).』で、セッセ探検隊よりも早い時期にカリブ海・中央アメリカの植物をヨーロッパに持ち込んだ最初の成果でもあった。

ジャカンは探検が終わって帰国した後、成果を発表でき、しかも早熟の天才モーツアルトのパトロンとして豊かな生活を楽しむことができた。
スペインの探検隊との違いが際立ち、この違いは植民地を持っているか、持っていないかの違いだけではないだろうと思わざるを得ない。

(写真) Salvia hirsute サルビア・ヒルスタ
 
(出典) conabio

このサルビアには、「Salvia amarissima Ort」という記述もあった。ちなみに実写を掲載するが、植物画とどちらが近いかよくわからない。

(写真) Salvia amarissima Ort

(出典) flickr

■ セッセ探検隊が採取したサルビア
注( )内はハント財団が推定した受理された学名

1.Salvia aegiptiaca L.  (Salvia laevis Benth)
2.Salvia coarctata spicata Sp. N. (Salvia spicata)
3.Salvia grandiflora Sp. N. ambigua ( Labiatae)
4.Salvia grandiflora pauciflora N.   (Labiatae)
5.Salvia hirsuta Sp. N.   (Salvia amarissima Ort)
6.Salvia indivisa an stricta Sp. N. (Labiatae)
7.Salvia adglutinans (Labiatae)
8.Salvia affinis  (Labiatae)
9.Salvia ajugoides  (Labiatae)
10.Salvia bulbosa  (Labiatae)
11.Salvia exserta  (Labiatae)
12.Salvia fastuosa Sp. N.  (Salvia sessei Benth)
13.Salvia leptophylla   (Salvia, Labiatae)
14.Salvia leucantha Cav.  (Labiatae)
15.Salvia macrantha  (Labiatae)
16.Salvia melissaefolia Sp. N.  (Labiatae)
17.Salvia mexicana  (Labiatae)
18.Salvia nepetoides  (Labiatae)
19.Salvia palafoxiana Sp. N. Salvia palafoxiana (Salvia, Labiatae)
20.Salvia secundiflora  (Labiatae)
21.Salvia tiliaefolia Vahl.  (Labiatae)

モシニョーが持っていた植物画だけでも21品種のサルビアを採取したことがわかるが、セッセ探検隊は、もっと多くのサルビアを採取していたのだろう。
それにしてもスペインはもったいないことをする。科学者を生かさない国だったので、下り坂を登るまでのエネルギーがなく自重で転げ落ちてしまったのだろう。

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No39:セッセ探検隊⑦:漂流するモシニョーと植物画:その2

2017-02-22 15:33:58 | Sessé&Mociño探検隊、メキシコの植物探検
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No39

ドゥ・カンドールがコピーした「ジュネーブの女性のフローラ」
ドゥ・カンドール(Candolle, Augustin Pyramus de 1778-1841)がモシニョーのコレクションとともにジュネーブに戻った翌年の1817年、モシニョーにスペイン入国の許可が下りた。
たんにスペインに戻ってきていいよ! 
ということではなく、「コレクションを持ち帰るならば、モシニョーの作品を公表・公開する」というこれまでに無い申し入れだった。

思えば、1803年に希望に燃えてスペインに凱旋したはずのモシニョーは、14年間に貧困と将来に対する絶望を味わい、スペインを捨てフランスに逃げた。今のかすかな希望は、ドゥ・カンドールによるモシニョーたちの成果の発表だけだった。

盲目になってしまったモシニョーだが、あまりの強烈な光が差し込み、目だけでなく心がクラクラとなってしまった。
モンペリエで死ぬか? スペインで死ぬか? 言い換えると、ドゥ・カンドールに期待するか? スペインに期待するか?の選択だったのだろう。

モシニョーは、スペインに戻ることにした。
結果的にスペインに“誑(たら)し込まれた”のだ。
なんと下品な言葉だが、“誑し込む”がピッタリと状況を表わしている。
“誑し込む”の意味は、女郎が甘言や色仕掛けでたぶらかす、或いは、だまして自分のものとする。ということであり、スペインの医学アカデミーはモシニョーを“誑し込んだ”のだ。

”誑し込まれた”モシニョーは、ジュネーブにいるドゥ・カンドールと連絡を取り、預けた原稿と植物画を返してもらうことにした。

一方、ドゥ・カンドールは、貴重なモシニョーのコレクションが混乱が続くスペインでは完全な形で管理が出来ないことを危惧してコピーを作ることにした。

この当時はコピーマシーンが無い時代なので人力で写す以外ない。
ジュネーブ中から植物学を学ぶ人間と、美術学校などでデッサンが出来る女性120人をかき集め、返還の約束をした10日間で1200枚をコピーしたという。
ドゥ・カンドールに渡した動植物画の総数が1400枚といわれているので、かなりの数を写し取ったことになる。
別の説では、8日間で860枚の動植物画と119枚の下書きをコピーしたとも言われているが、このコピーは、今でもジュネーブ植物園に「Flora de las Damas de Ginebra(ジュネーブの女性のフローラ)」という名で保存されているという。

モシニョーのコレクションの行方?
マドリッドに戻ったモシニョーは、貧困と失明で苦しみ、最終的にはバルセロナに住むグアテマラでの友人James Villaurrutia の家に招待され、1820年5月19日にここでなくなった。
モシニョーのコレクションは、彼が亡くなった1820年から行方が不明となる。

一説によると、モシニョーのコレクションのうち原画は、最後を看病した医師Rafael Estevaに渡ったといわれている。
また、4000種の植物標本は、1820年にマドリッドに戻り、当時のスペインの植物学者パボン(Pavón, Jiménez José Antonio Jiménez 1754-1840)のコレクションに紛れ込んだようだ。
このパボンの標本は現在はキューガーデン、大英博物館にあるという。
ちなみにパボンは、セッセ探検隊よりも早い1777-1788年に実施されたペルーとチリの植物相探検隊に植物学者として参加したメンバーであり、モシニョー同様の辛苦をなめたようだ。

「FLORA MEXICANA」と「PLANTAE NOVAE HISPANIA」の二つの原稿は、マドリッド植物園に戻り、1870年頃メキシコ自然科学協会は、マドリッドに二つの原稿があることを知りこれを手に入れようとしたが不可能で、そのコピーを手に入れ1893年に出版にこぎつけた。

(図1)Sessé y Lacasta, Martín de & Mociño y Losada, José Mariano. Flora Mexicana. [...] Editio secunda, 1893

(出典)Real Jardín Botánico, CSIC

(図2)Sessé y Lacasta, Martín de & Mociño y Losada, José Mariano. Plantae Novae Hispaniae. [...] Editio secunda, 1893

(出典)Real Jardín Botánico, CSIC

1789年のフランス革命は、スペインの植民地に独立の気運と勇気をもたらした。セッセ探検隊がメキシコを離れた7年後の1810年から独立のための闘争が始まり1821年に独立するまで続いた。
このメキシコの独立がセッセ探検隊の調査したメキシコの植物資源に目を向けさせ、彼らが活動した時から約1世紀後に日の目を見ることになった。

ドゥ・カンドールは、モシニョーの資料を検証し、1852年に出版された大作のシリーズ著書『植物界の自然体系序説』Vol.13にメキシコの植物を記述したので、彼もモシニョーとの約束を守り公開した事になるが、セッセおよびモシニョーが採取した植物であることを記述しなかったので、私自身もわからなかった。

モシニョーの植物画の出現
モシニョーが死亡した1820年以降、行方のわからなかったオリジナルの約2000枚の動植物画が1981年にバルセロナの個人の図書室で出現した。
所有していたのはTorner家で、1800枚の植物画と200枚の魚・昆虫・爬虫類・鳥・哺乳類の水彩画であり、1981年に2000ペセタでアメリカのハント財団が購入した。
所有していたTorner familyはこの価値をわからなかったようだ。

セッセ探検隊がスタートしてから200年後にモシニョーの志が日の目を見たことになる。モシニョーの執念が実ったのだろうか。

兵を生かすのは将であることは言うまでもない。
しかしスペインの場合、賢帝の後に愚帝が来たために持続した意思がなく、兵は生かされないでしまった。
そして初期の目的も、歴史的な価値も生かすことがなかった。

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No38:セッセ探検隊⑥:漂流するモシニョーと植物画

2017-02-22 15:33:35 | Sessé&Mociño探検隊、メキシコの植物探検
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No38

モシニョーの漂流

(写真)JOSÉ MARIANO MOCIÑO
 
(出典)出版本「JOSÉ MARIANO MOCIÑO」

スペインに帰還したセッセ探検隊員を待っていたのは、労をねぎらう者も、褒め称える者もいない中で差し迫った問題は、生きていくための糧をどう手に入れるかが現実の問題として起きてきた。

セッセは家族と住み、メキシコの植物についての原稿を完成させる作業を行っていたが、出版の陽の目を見ることなく1808年10月4日に死亡した。(セッセ探検隊の成果報告は、1890年代まで発表されなかった。)

モシニョー(Mociño, José Mariano 1757-1820)は、細々の年金をもらい貧困にあえいでいた。セッセが死亡する1808年或いは1809年までは、セッセ家の居候となり何とか生き延びていた。

その後、1811-1812年には司祭・政治家・博物学者のジャベ(Llave ,Pablo de La 1773 – 1833)と共にセッセ探検隊の収集した素材を検証する仕事を行っていたところ、マドリッド自然史博物館の責任者の仕事が舞い込み、ここで教えることをしていた。
やっとありついた自然史博物館の仕事は、1808年にスペインに進攻したナポレオン派が支配し、モシニョーを責任者に取り立てたのは新スペイン国王となったナポレオンの兄だったので、フランスがスペインから撤退した1812年に敵国協力者としてモシニョーが逮捕された。
生きるためには仕事を選べなかったので運が悪いと片付けることも出来ない。

モシニョーのコレクション
1812年にモシニョーは逃げることにした。
手押し車に彼が大事にしていたコレクション(原稿・植物画・植物標本など)を入れ、徒歩でフランス国境まで逃げた。
ここには、ナポレオンをして言わしめた「ピレーネを超えるとアフリカ(ピレーネのむこうはヨーロッパではない。)」1000~2000m級の山が連なるピレーネ山脈があり、相当な困難な旅だったのだろう。

モシニョーのコレクションは、1812年にピレーネを越えてフランスに渡った。
このコレクションがこれからの主題となるが、何故モシニョーがスペインから持って出れたのかが疑問でもある。
もっと厳密にすると、セッセがこれを予見して許したのだろうか?

これまでの経緯を整理すると
1. モシニョーは、ただ働きに近い状態でセッセ探検隊に加わっていた。
2. メキシコで採用されたモシニョー、アーティストのセルダ、エチェベリアなどメキシコで生れたクレオールは、働きの割りに低賃金で差別待遇をされている不満があった。
3. モシニョーは、1803年にスペインにセッセ達よりも先に到着し、この時に重要なコレクションを帯同していた。
4. セッセ探検隊は王室が出資しているので成果物を報告・納品する必要がある。マドリッド王立ガーデンに保存されているモノが納品されたものだろう。しかし、これ以外の成果物があり、セッセとモシニョーが持っていたものだ。
5. 全てを納めなかったところに理由がありそうだ。考えられるのは、正統な賃金を支払わなかったクレオール達の成果を彼らの所有とセッセが認めたのか、モシニョーがクレオールを代表して自分たちの権利を主張して作品を手放さないでいたのか、或いは、探検隊の活動を評価しなかったスペイン政府をセッセとモシニョーが見切ったのか、何らかの理由があるはずだ。
6. セッセは、モシニョーを信頼し、マドリッドに戻って貧困にあえぐモシニョーを居候として支えた。モシニョーが持っていたコレクションは、この時にセッセと共有化されたはずだ。
7. セッセに成果を公表する意志があるならば、彼の死に当たって彼が書いていた原稿をモシニョーに託するはずだが、そうではなかったようだ。セッセが著していた植物画がついていない辞書のような植物全集は、価値が劣ることをセッセはわかっていたはずだ。

ということを考えてみると、セッセは、給与を支払わなかったクレオール達の権利を認めて、植物画や彼ら分の植物標本を認めていたのだろう。と考えざるを得ない。

ドゥ・カンドールとの出会い
(写真)Augustin Pyramus de Candolle
 
(出典)wikipedia

モシニョーは、地中海に面したフランス南部のモンペリエでスイスの植物学者ドゥ・カンドール(Candolle, Augustin Pyramus de 1778-1841)と出会った。

ドゥ・カンドールは、1796年にパリに来て、パリ大学の医学部で学び1804年に医学博士の称号を取得した。この学生の頃にレリチェール(Charles Louis L’Héritier de Brutelle 1746-1800) 画家のルドーテ(Pierre-Joseph Redouté 1759-1840)と出会い、植物学と植物画を磨くことになる。
1807年には、中世の1220年に設立された由緒ある医学部があるモンペリエ大学医学部の若き有能な教授となり、1816年にジュネーブに戻ることになるが、モシニョーは最適な人物と出会ったことになる。

ただ、モシニョーがモンペリエにたどり着いた頃には、彼は貧困で苦しみ盲目に近くなっていた。
モシニョーは、ドゥ・カンドールに彼が持ち出したメキシコのフローラの原稿と植物画を見せ、ドゥ・カンドールは、その当時のヨーロッパで知られていないメキシコの植物の科学的な分類と記述、および、素晴らしい写実的な植物画の価値を認めた。

ドゥ・カンドールが1816年にジュネーブに戻る時、ジュネーブでモシニョーのコレクションを共同研究しようと持ちかけたが、モシニョーはこの申し入れを断った。
その断りが「私はあまりに歳をとり病気で、あまりに不運です。私のコレクションをジュネーブに持っていって研究し、私の将来の栄光をあなたに託します。」ということであったという。
すべてを悟ったうえでの、このままでは死ねないというモシニョーの思いが結構泣かせる。

モシニョーのコレクションは、1816年にスイスのジュネーブに渡った。

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No37:セッセ探検隊⑤:世紀の谷間に消えたセッセ探検隊の成果

2017-02-22 15:33:11 | Sessé&Mociño探検隊、メキシコの植物探検
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No37

探検は1795年まで続けられ、第四回の探検は1793年4月にスタートし、メキシコ南東のベラクルーズ方面を探検した。第五回は、1794年にグアテマラ、キューバ、サントドミンゴ、プエルトリコを探検した。
その後、セッセ探検隊は、二年間メキシコシティでまとめ作業をする。この作業には、一人離脱したロンリーウルフ、ロンギノスを除き全メンバーが参加した。

この間にモシニョーは、クレオールの医者のLuis José Montaña と共にメキシコの植物の薬効研究を二つの病院Hospital General de San AndrésとReal Hospital de Naturalesで行っていた。
この研究は、セルバンテスによって「Ensayo a la Materia Vegetal de México」というタイトルで要約され、患者に接して診断・治療を行う医学分野で、現代の臨床医学の基礎となったという。
臨床医学の先駆的なトライアルだったが、医師の仕事を監督する厚生省的な機関であるProtomedicatoによって厳しく批判された。
新しいことは“たたかれる”ことから始まるが、モシニョーも例外ではなかった。

1797年からは、セッセ探検隊はキューバの植物相の調査をしていたMopoxの探検(1797-1799)とジョイントすることになり、アーティストのエチェベリアが1797年10月からこの探検隊に加わる。この探検隊はキューバの珍しい小麦を発見したことで知られる。

スペインへの帰還
1803年にスペインに戻る準備が出来た。しかし、まだいくつかの問題を抱えていた。
セッセは家族と一緒にいたが、モシニョーは家族の問題を抱えていて旅行することが出来ない状態にあった。アーティストのセルダは、もう一人のアーティストエチェベリアがMopox探検隊と一緒にマドリッドにいるため、メキシコの当局から出航を禁止され、センセブは黄熱病にかかりメキシコに留まらざるを得なかったという。

最終的に、セッセを初めとした一向は1803年10月20日にCadizに到着した。
モシニョーは、これよりも早く1803年7月31日に送った荷物と共に先に到着していた。
セッセ達が帰還した1803年は、ヨーロッパを巻き込むナポレオンの闘いが始まる年であり、フランス・スペイン連合が英国と戦い、英国に海上支配権を奪われる途上にある年であり、植民地メキシコとの行き来も困難になるギリギリの時期だった。

1787年から1803年までの16年間のセッセ探検隊は、
送り出したカルロス三世(Carlos III, 1716-1788、在位:1759-1788)は亡くなり、メンバーを選んだオルテガ(Ortega, Casimiro Gómez de 1740-1818)は失脚し、マドリッド植物園の園長は、カバニレス(Cavanilles, Antonio José 1745 - 1804)に取って代られ、1801年から彼が死亡する1804年まで務めていた。
またカルロス三世の後を引き継いだ息子のカルロス四世(Carlos IV, 1748-1819、在位:1788-1808)は愚鈍であり、科学には興味すら示さなかったようだ。

セッセ探検隊の成果
セッセ探検隊の完全な成果は現在把握できていない。
王立マドリッドガーデンに保存されているのは、図面が1335、3500種の標本(内200種が新しい属で、2500品種が新種)であり、地理学・地質学・民俗学的な記述がされているという。

王立マドリッドガーデンに保存されているものはセッセ探検隊の成果の一部のようで、モシニョーが所持していた動植物画はハント財団が所有し、これをコピーした図面がジュネーブにあるという。また、植物標本の一部は、当時のスペインの植物学者パボン(Pavón, Jiménez José Antonio Jiménez 1754-1840)のコレクションに紛れ込んだようだ。この標本は現在キューガーデン、大英博物館にあるという。

スペインに戻った一行は、1803年から時代の波に翻弄され1世紀、或いは2世紀も忘れられることになる。

1870年頃メキシコ自然科学協会は、マドリッドにセッセ探検隊の成果報告書である二つの原稿があることを知りこれを手に入れようとしたが不可能だった。そのコピーを手に入れることで満足した。これが元になり、1887年にメキシコでやっと出版がされた。
『Sessé y Lacasta and Joseph Mariano Moçiño, Plantae Novae Hispaniae』 (Mexico City: I Escalante, 1887).
『Sessé y Lacasta and Joseph Mariano Moçiño, Flora Mexicana 』(Mexico City: I Escalante, 1887).

また同じことが起こってしまった。
エルナンデスの時(メキシコ探検期間1571-1577)も200年間忘れられていて、この完成を目指したはずのセッセの探検隊も200年近くしてやっと全貌が明らかになった。

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No36:セッセ探検隊④:仲たがい

2017-02-22 15:32:45 | Sessé&Mociño探検隊、メキシコの植物探検
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No36

■ 登場人物
1. セッセ(Sessé y Lacasta, Martín 1751-1808):探検隊長兼メキシコ王立植物園の責任者。
2. セルバンテス(Cervantes ,Vicente (Vincente) de 1755–1829):メキシコ王立植物園最初の植物学教授。
3. センセブ(Jaime Senseve  ?-1805):薬剤師、薬学者として参加。途中から植物園に異動させられる。
4. ロンギノス(Longinos, Martínez, José 1756-1802):セルバンテスの弟子、ナチュラリストとして参加。探検隊を脱退する。
5. キャスティリョ(Castillo ,Juan Diego del 1744-1793):プエルトリコの王立ガーデンのコミッショナー、植物学者として参加。著作後病死。
6. セルダ(Vicente de la Cerda(Juan Cerda)生年月日不明)、主任アーティストとして参加。
7. エチェベリア(Echeverría ,Atanasio y Godoy、生年月日不明)アーティストとして参加。メキシコ出身。
8. モシニョー(Mociño, José Mariano 1757-1820)植物学者として1790年から探検隊に参加。セッセと並ぶ中心メンバーとなる。
9. マルドナド(Jose Maldonado)植物学者としてモシニョーと同時期に参加。モシニョーの学友。

センセブの解任とモシニョーの台頭
(写真)1628年頃のアカプルコ

(出典)  Commons.wikimedia

第二回の探検旅行は、1789年5月14日から始まった。コースはメキシコシティから南南西の太平洋側にあるゲレーロ州アカプルコを目指し、途中クエルナバカ、メキシコ独立の英雄Vicente Guerrero (1783 - 1831) の出身地Tixtla、現在はメキシコシティとアカプルコの高速道路があるChilpanzing、そしてアカプルコを訪問した。

アカプルコは、メキシコを征服したコルテスが1523年以降この一帯を征服する部隊を送り出し発見したという説があるが、1531年にはメキシコシティとの間の幹線道路を作り、フィリピンとアカプルコ間のガレオン貿易が1550年代に始った。そして東洋との唯一の貿易港として1573年からメキシコが独立する1821年まで栄えたところだ。

この探検旅行では、問題を起こすセンセブを探検隊員からはずし、メキシコ王立植物園で植物標本や剥製を作る仕事に異動させた。
代わりに、セルバンテスが教えた学生の中からこの探検隊のセッセと並び中心となるモシニョー(Mociño, José Mariano 1757-1820)とマルドナド(Jose Maldonado)が1790年から参加する。二人ともメキシコ出身なのでアーティスト同様に年俸が500ペソぐらいの安い報酬だったのだろう。

センセブは、スペイン王室にもつコネを使いモシニョー達の探検隊参加を阻止しようと動き、これが認められる指令が届いたが、探検隊は既に第三回の探検に出発していたので後の祭りとなり反古となった。
これで、一人目の問題児が消えることになる。

後にセッセ探検隊の主役となるモシニョーは、スペイン人の両親からメキシコで生まれその生い立ちは貧しかった。勉強するために多くの仕事をし、1778年に神学校のSeminario Tridentino de Méxicoを卒業し神学と論理学の学位を授与された。この年にDoña Rita Rivera y Melo Montaño と結婚し、オアハカで神学校の教師として務めた。
しかし、地方での教育に満足できずにメキシコシティに戻りPontifical 大学で医学を学び、さらにサンカルロス美王立術学院で数学を学んだ。1787年には医学士として収入を得、セルバンテスが教えるメキシコ王立植物園の植物学のコースでも学び目立った存在となった。モシニョーのこのキャリアは、まるでレオナルド・ダ・ヴィンチを目指しているように思われる。

この時の学友がマルドナドで画家のエチェベリアと共にセッセに見出されることになり、モシニョー33歳の時にセッセの探検隊に正式に加わることになる。
実際は、1788年にセルバンテスが植物学を教える王立植物園が出来ているので、この学生としてモシニョーが参加し、セッセのために植物を採取することを行っていたので、彼の能力は見極められていたようだ。
モシニョーは、太平洋北西部のカリフォルニア、オレゴン、ワシントン、アラスカ、カナダの行政区のブリティッシュコロンビアを探検し、重要なコレクションを作ったが、しかし実際はほとんど報酬が支払われなかったようだ。
スペイン王室がモシニョーの雇用を認めていないので出せなかったのだろうが、どうして暮らしていたのだろうか?

センセブがモシニョーたちの参加に猛反対したのには、自分より優れたメンバーが参加すると自分のポジションが亡くなってしまうという明確な理由があったことがこれでわかる。
さらに言えば、センセブには人種的な階層意識が強かったのかもわからない。メキシコは、移民してきた白人、メキシコで生れた白人同士の子供(クリオーリョ)、インディオ及び黒人、及びその混血が進みカースト制のような階層社会であり、これを乗り越えるのは困難だったようだ。この時代になると人口構成からもクリオーリョの社会進出を認めざるを得なくなるがトップにはなれなかった。

センセブの階層的なプライドと能力が秤にかけられ、セッセはモシニョーなどのクリオーリョ達の実力を取ったのだろう。

ロンギノスが離脱、キャスティリョが病死
(写真)古都グアダラハラの風景

(出典) Truth With a Camera Workshop Blog

第三回の探検は、1790年5月17日にスタートした。目的地はメキシコシティから北西540㎞にあるメキシコ第二の都市グアダラハラで、スペイン領の北西部を探検する。グアダラハラは歴史ある街で、テキーラの原産地として知られるテキーラがこの近くにある。

グアダラハラで、二つのグループに分かれ、第一のグループは、モシニョー、キャスティリョ、アーティストのエチェベリア、マルドナドの4名でグアダラハラの北にある温泉があるところで知られたAguas Calientes、鉱山からの富で出来た街Álamos、少数先住民タラウマラ族が住むTarahumaraに向かった。セッセは、北西メキシコの太平洋側にあるシナロアから南下して第一のグループと合流する計画となっていた。

この探検隊には、ロンギノスが参加していないが、彼はセッセなどと口論をして探検隊から離脱し、1791年1月-1792年9月まで単独でカルフォルニアの探検をする。

これでオルテガが組織した五人のうち二人がいなくなることになる。
原因は良くわからないが、ロンギノスが残した原稿・メモなどから記述が表面的で不正確なモノがあるということがわかっているので、セッセ或いはマドリッド植物園時代の師匠に当るセルバンテスからこの点を指摘されていたのだろう。

旅の途中のアグアス・カリエンテス(Aguas Calientes)で、カルロス四世(Carlos IV, 1748-1819、在位:1788-1808)からの指示が待っていて、北アメリカ北西部バンクーバー島近くのヌートカ湾(Nutka)の自然誌を調査するようにという命令があった。
このあたりは英国とスペインの間で領有権での争いがあり、資源調査の意味もあった。
モシニョー、キャスティリョ、アーティストのエチェベリア、マルドナドの4名が向かうことになったが、キャスティリョが壊血病で倒れたので三人で向かった。

モシニョー達は、1792年4月29日から9月21日までヌートカ湾で先住民のヌートカ族の生活・風習をまなび、最初のNootkan―スペイン語の辞書、動植物のカタログ、エチェベリアによる水彩画などを作成し、モシニョーが「Noticias de Nutka」としてまとめた。
このオリジナルは紛失したが、コピーが1880年にメキシコの図書館で見つかり、1913年に100部だけ再出版されたという。
このように第三回の探検は、1790年から1792年まで2年間実施した。

仲たがいの結果として
センセブは探検隊から外れたことで消息がわからずに歴史から消えてしまった。きっと消えるべくして消えていったのだろう。

ロンギノスは一匹狼となったが、カルフォルニア、グアテマラ、ユカタン半島を探索し、マドリードの政府にボックスで多数の標本を送って自然史博物館の前身ガビネット自然歴史館を組織することになる。1803年にユカタン州カンペチェで死亡する。
ロンギノスのメモのオリジナルは100年以上も忘れられたが、カルフォルニアの初期探検者でもあるのでカルフォルニアの鉄道王が残したハンティングトン(Huntington Library)図書館が取得して保存している。これをまとめた本が1938年にシンプソン(Lesley Byrd Simpson)により出版された。
協調性は無いようだが筋を通した生き方だと思う。

キャスティリョは、アグアス・カリエンテスで執筆をし「Plantas descritas en el viaje de Acapulco」を著した後の1793年7月26日この地で壊血病で死亡した。
キャスティリョの偉いところは、セッセ探検隊の成果報告「Flora Mexicana」のために多額の出版費用(4万ドルという?)を残したという。

キャスティリョのこの行為は、芭蕉の辞世の句『旅に病んで夢は枯野をかけ廻る』を思い出させる。

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No35:セッセ探検隊③:準備・第一回の探検(1787-1788年)

2017-02-22 15:32:17 | Sessé&Mociño探検隊、メキシコの植物探検
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No35

セッセ探検隊の背景
2009年のメキシコの人口は1億7百万人で、人口減少に転じた日本の1億2千7百万人をいつか抜く時が来るだろう。
しかし、時代をセッセが活躍した1800年前後に戻すと、コロンブス以降のメキシコの人口は大幅に減少した。この最大の原因が、ヨーロッパ人及び奴隷として連れてこられたアフリカ人が持ち込んだ感染症系の病気(コレラ、インフルエンザ、マラリア、麻疹、ペスト、天然痘、結核、腸チフスなど)で、免疫性がないネイティブが大量に死亡した。
付け加えておくと、鉱山・農場などでの過酷な労働により死亡した人数も結構多く、メキシコの人口は20世紀までコロンブス以前に戻らなかった。

特効薬が発見されていないので、自然界からの薬草・鉱物などを試す以外ない。現代では当たり前になっている患者を診察して治療する臨床医学の始まりは、医者であり植物学者のチームであるセッセ探検隊のメキシコでの実践からスタートしたという。

(図)コロンブス以降のメキシコの人口

(出典) HISTORICAL REVIEW「Megadrought and Megadeath in 16th Century Mexico」
(注)1545年と1576年のcocoliztliは、メキシコネイティブの言語ナワ語でウィルスによる出血熱を意味する。

逆に、コロンブスは、ヨーロッパにハイチの風土病といわれる梅毒を持ち込んだという説が有力であり、日本にはヨーロッパ経由で1512年に入ってきたという。帆船の時代に20年で世界を一周するほどの猛スピードで広まった。

200年前にエルナンデスがメキシコの植物相を調べたが、その成果は共有されずに膨大なコストをどぶに捨ててしまった。
生贄を神に奉げるアステカの宗教とそれに関わった薬草などを根絶やしにしようとした方針がエルナンデスの薬草などの調査研究を活かさなかったが、ここまで人口が減るとメキシコの原始からの医療を研究する機運も出てくる。

メキシコからの王室の収入は、銀などの鉱業、染料の原料、成人男性のネイティブと混血の一部に課された人頭税(年間3~5ペソ)などであり、スペインからの輸出貿易も人口減の影響を受け停滞する。
人口減の原因となっている病を治癒する方策、つまり、エルナンデスが調べたメキシコの原始医療で使われていた薬草とその効用の再調査に踏み切ったのだろう。

セッセの探検隊スタート
■ 登場人物
セッセ(Sessé y Lacasta, Martín 1751-1808):探検隊長兼メキシコ王立植物園の責任者
セルバンテス(Cervantes ,Vicente (Vincente) de 1755–1829):メキシコ王立植物園最初の植物学教授。
センセブ(Jaime Senseve  ?-1805):薬剤師、薬学者として参加。
ロンギノス(Longinos, Martínez, José ?-1802):セルバンテスの弟子、ナチュラリストとして参加。
キャスティリョ(Castillo ,Juan Diego del 1744-1793):プエルトリコの王立ガーデンのコミッショナー、植物学者として参加。

探検の準備は1787年から始まる。
1780年から軍医としてメキシコに来ていたセッセは、国王から許可が下りた1787年3月20日以降にサント・ドミンゴ、プエルトリコ、キューバの病院を訪問し、セッセのテーマである同じような寄生虫病の研究がなされているのを学んだ。そしてメキシコシティに戻り、オルテガが選んだメンバーとジョイントした。

他のメンバーの動向だが、センセブは、メキシコにいてサンアンドレスの病院で薬局のアシスタントとして働いていた。
セルバンテスは、新しく創立するメキシコの王立ガーデンで植物学を教えるための準備で忙しく、師でもあるオルテガが著したリンネの方式に基づく植物学の本などを取り寄せる準備をしていた。
ロンギノスは探検隊に参加するために、1787年7月1日にカディス(Cádiz)を出航し、11月28日にメキシコシティに到着した。

セッセのノートには、探検のスタートを1787年10月1日と書いていた。それはきっとこの旅行から始ったのだろう。
ロンギノスがまだ到着してはいなかったが、セルバンテスがメキシコの植物園で教育を始めるための彼の準備をしている間、セッセとセンセブは、現在は国立公園となっているメキシコシティ郊外にあるロスレオネス砂漠で短い採集旅行をした。

(写真) Desierto de los Leones

(出典)10000birds.com

1788年3月27日には、メキシコ王立植物園をオープンさせ、直ぐ結果を出したが探検隊のメンバー同士での喧嘩が絶えなかった。問題児はセンセブのようだ。

メキシコの最初のBotany探検は、1788年5月2日に始まり、セッセ、センセブ、ロンギノスの三人がメキシコシティの南方にあるモレロス州を6ヶ月間旅行した。
キャスティリョは、1788年7月17日にプエルトリコからメキシコシティに到着し、8月10日から遠征旅行に参加する。また、メキシコシティへの期間の時に素晴らしい植物画を残した二人のアーティスト、セルダ(Vicente de la Cerda(Juan Cerda)生年月日不明)、エチェベリア(Echeverría ,Atanasio y Godoy、生年月日不明)が参加した。また、セルバンテスによって訓練される学生も参加させられた。

オルテガが選んだメンバーが出揃ったが、ますます仲が悪いのが明確になり、また、メキシコ副王国の行政府とのトラブルが絶えない惨憺たる出発だった。
どこがもめたのだろうか推測すると、探検隊での地位と給与なのかもしれない。セッセとセルバンテスは最後まで残るが、1000ペソの他の三人は分裂することになる。

(続く)
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No34:セッセ探検隊②:メキシコ植物相探検プロデューサー、オルテガと隊員

2017-02-22 15:31:41 | Sessé&Mociño探検隊、メキシコの植物探検
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No34

カルロス三世(Carlos III, 1716-1788、在位:1759-1788)は、1787年3月20日にマドリッド王立ガーデンの初代教授オルテガ(Ortega, Casimiro Gómez de 1740-1818)に特許状を交付し、エルナンデスの原稿の更新、つまり失ったエルナンデスのメキシコの薬草などを集大成するという事業の完成とその出版を命じた。(No33より)

フェリッペ二世の探検は、期待した利益をもたらしていないというカルロス三世の認識は正しく、メキシコの天然資源を科学的に再評価して貿易の拡大、原始医療に役立っていた薬草の発見などを指示した。

メキシコ植物相探検プロデューサー、オルテガと隊員
オルテガは、メキシコでの植物相調査の探検隊を組織することになり、1777年から1788年まで実施したペルー&チリ植物相調査探検隊の経験を活かし、そのミッションの設定、財政的な支援、メンバーを選んだ。

オルテガが選んだ人材は、隊長としてセッセ(Sessé y Lacasta, Martín 1751-1808)、植物学の教授としてセルバンテス(Cervantes ,Vicente (Vincente) de 1755–1829)、ナチュラリストとしてロンギノス(Longinos, Martínez, José ?-1802)、植物学者としてキャスティリョ(Castillo ,Juan Diego del 1744-1793)、薬学者としてセンセブ(Jaime Senseve  ?-1805)の五人だった。
セルバンテスはオルテガの弟子にあたり、ロンギノスはマドリッド王立ガーデンでセルバンテスの弟子と直系で脇を固め、責任の重いところには傍系のセッセを配置した。

これを給与から見るとメンバー間の格付けが良くわかるので参考に記すが、セッセ2000ペソ、セルバンテス1500、残りの三人が1000ペソだった。探検期間中にはこの倍額が支払われたという。
役割としては、セッセが植物調査隊だけでなくメキシコ王立植物園創立の責任者で、セルバンテスは、探検隊には加わらずにメキシコ王立植物園創立後の初の植物学教授としてバックヤードを支えることになる。
オルテガのプロデューサーとして優れていたところは、メキシコに植物学の研究・教育機関としての王立植物園を作るミッションと人材を送り出したことだ。

セッセと並んでこの探検の中心となるモシニョー(Mociño, José Mariano 1757-1820)及び素晴らしい植物画を描いた画家エチェベリア(Echeverría ,Atanasio y Godoy、生年月日不明)、セルダ(Vicente de la Cerda(Juan Cerda))などはメキシコでの現地採用となる。三人ともメキシコで生れたネイティブのようであり、本国対植民地という内部対立構造を含むことになる。

アーティストの二人は、1781年に彫刻科が創立されたアメリカ大陸初の芸術学校リアル・アカデミア・デ・サンカルロスの卒業生で、彼らには600ペソが支払われるはずだったが、最終的には500ペソになり大きな不満を残した。この金額は、先行しているペルー探検隊のアーティストの待遇よりも悪かったという。
メキシコ人の給与が低く処遇されたこのあたりも、探検隊の成果である素晴らしい植物画の行方に影響を与えたのかもわからない。

結論を急ぐと、
1803年にセッセとモシニョーはスペインに探検の成果を持って戻った。
栄光が待っているはずのスペインでは、評価もされず、成果を出版することも出来ず、冷遇されたという。
何故かというと、命令者のカルロス三世は亡くなり、その子供のカルロス四世(Carlos IV, 1748-1819、在位:1788-1808)が国王となっていたが、狩り以外は興味がなく妻と国王としての仕事を宰相のゴドイ(Manuel de Godoy y Álvarez de Faria、1767-1851)に乗っ取られた愚鈍な国王だったようだ。
さらに、1808年から1814年まではナポレオンがスペインを統治し、国内は内乱状態になっていたので関心すらもたれなかったようだ。

その結果が、1890年代まで成果報告は出版・公表されなかった。
さらに、モシニョーが持っていた美しい植物画は、彼の死後行方不明になり、1980年までその所在と価値がわからないでいた。
この植物画などの図面はバルセロナのTorner家の図書室にあり、ハント財団(Hunt Institute)が1981年に購入した。
この素晴らしさには驚く。

(図)  Agave americana L.

出典:Hunt Institute

この植物画「アガベ・アメリカナ(Agave americana)」は、テキーラの原料となる「アガベ・テキーラナ(Agave. tequilana)」の仲間で、植物の中心に甘い液体が集まり、これを発酵させて竜舌蘭酒をつくる原料としていた。今では健康によい甘味料として利用され始めているようだ。

植物画は、植物の特徴を知るには、写真よりも情報量があり、乾燥した植物標本ではわからないことがリアルにわかる。この絵を水彩で描いたアーティストの給与が500ペソで植物学者として参加した者が1000ペソと倍なのに納得できるだろうか?

(続く)
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No33:セッセ探検隊①:偶然から始ったメキシコ植物探検隊

2017-02-22 15:30:59 | Sessé&Mociño探検隊、メキシコの植物探検
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No33
セッセのメキシコ植物相の科学的な探検(1787-1803)は、偶然の重なりがあってキックオフすることになる。

ことの発端は、
1759年に即位したカルロス三世(Carlos III, 1716-1788、在位:1759-1788)が、歴史家でスペイン領新大陸の実情を把握する官吏、世界形状誌学者ムーニョ(Juan Bautista Muñoz1745-1799)に、アメリカの歴史を書けと1779年に命じたことから始まる。

(写真) ムーニョ(Juan Bautista Muñoz)

(出典) Biblioteca Valenciana Digital

カルロス三世には、いまの日本と同じ状況の国家財政改革を行うために、
地元植民地の権益を守ろうとするメキシコの副王の首を切り、汚職・腐敗を一掃しようとした。
また、植民地ごとに分散していた資料を一元化して評価・管理を容易にし、統治しやすい体制を構築したいという願望があった。
当然、過去の資料を集めなければならないので、メキシコ、ペールなどの行政府・議会に了解を取り付け資料の公開・提供をしてもらわなければならない。

植民地の行政府としては、見せたくないものがあるので嫌々ながら応じたという。
現代で言えば会計検査院と国税庁の査察が入るようなものであり相当の抵抗と邪魔が入ったのだろう。
しかし、ムーニョは、アメリカ大陸に何度も旅行をし、植民地での出版差し止めなどの妨害もありながら1793年にマドリッドで「Historia general de las Indias e Nuevo Mundo(新世界インド諸島の一般歴史)」の出版にこぎつけた。

この時に副産物があった。
この資料調べをしていたムーニョは、メキシコの王立図書館で追放したイエズス会士のコレクションを調べていたところ、1571-1577年までメキシコの植物相を調査したエルナンデス(Francisco Hernandez)の原稿の一部を発見した。
エルナンデスの探検から200年が経過しているが、オリジナルが消失している中での発見でありかなり劇的だったのだろう。

このニュースは、植物情報の統括者でもあったマドリッド・ガーデンのオルテガ教授にも届き、もっと完全な形での原稿がないかということでの再調査を、メキシコの司祭・植物学者José Antonio de Alzate(1737-1799)、医師・メキシコ王立大学の数学教授Joseph Ignacio Bartolache (1739-1790)、セッセ(Sessé y Lacasta, Martín 1751-1808)に依頼したが見つからなかった。

この段階で、若いセッセが選ばれたのには理由があった。

偶然に偶然が重なる
セッセは、スペインの医者・植物学者で、29歳の時の1780年に軍医としてメキシコに着任していた。
1785年5月にニューメキシコの王立植物園のコミッショナーに任命され、メキシコ領の中央アメリカを探検した経験から植民地の近代的な医療に役立てるためにメキシコの植物相調査をするべきだという提案をマドリッド・ガーデンのオルテガに手紙を出していたのだ。

ムーニョの発見を受けたカルロス三世は、1787年3月20日にオルテガに特許状を交付し、エルナンデスの原稿の更新、つまり失ったエルナンデスのメキシコの薬草などを集大成するという事業の完成とその出版を命じた。
オルテガは、メキシコでの植物相調査の探検隊を組織することになり、提案を出していたセッセを主任植物学者として選ぶことになる。

イエズス会の追放により、200年も経ってエルナンデスの原稿が発見され、これがセッセとメキシコで結びつくことになった。まさに偶然が雪だるま式に転がり重なって実現した探検でもあった。

最初のきっかけとなったイエズス会派の追放は1767年のことであり、スペインとアメリカ大陸スペイン領からイエズス会を追放した。
何故追放したかといえば、イエズス会の修道士達は先住民を虐待・略奪から保護したので、これが気に入らない人々がカルロス三世を動かし追い出したのだが、この法律によって先住民からもっと略奪がしやすくなったという。メキシコだけで678名のイエズス会修道士が追放されたという。
カルロス三世は、長期衰退するスペインを一時的に復興させた名君のようであったが、現代から見ると悪法もあったのだ。
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No32:カルロス三世とマドリッド王立ガーデン・植物園

2010-12-12 08:12:34 | Sessé&Mociño探検隊、メキシコの植物探検
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No32

フランシスコ・エルナンデス(Francisco Hernandez 1514-1587)のメキシコの博物学的な探検は、1571-1577年に実施された。
この時の国王はフェリペ二世(Felipe II 1527-1598、在位:1556-1598)で、ポルトガルを併合することによりスペインの領土が拡大し、国力が絶頂期でもあった。

フェリペ二世の視点はシンプルで、征服地から金・銀・宝石などを略奪するだけではなく、開拓を視野に入れていたようで、薬草などの有用植物を発見し、これを育成栽培することにより貿易収支の改善などを意図していた。
このような考え方があったから、王室の出資でエルナンデス探検隊が実現した。

その後、このような探検隊を派遣することもなくなり約200年が経過した。
これは何故なのだろうという疑問があった。エルナンデス探検隊の成果、報告書を使いこなせなかったためなのか、提唱者フェリペ二世が亡くなったので一件落着で忘れ去ったのか、組織として定着しにくいことをしたのか、引継ぎが出来ない国民性があるのかなど疑問は解決していない。

もっとも、この200年間のメキシコでは、領土の拡大とフロリダ、テキサス、カリフォルニアへの進出に忙しく、その過程で銀山が発見され(1545ペルーポトシ、1546サカテカス、1548シナロア、サルガード、1592サン・ルイス・ポトシなど)、花よりは銀の方がお好みだったのだろう。

新世界探検王といってもよいカルロス三世


(出典) wikipedia

エルナンデスから200年後のカルロス三世(Carlos III, 1716-1788、在位:1759-1788)の時代になってからまた突然に新世界の科学的な植物探検が始まる。

カルロス三世が出資した次のような植物探索の探検隊が三つもこの時期に集中して実施され、その他にも太平洋の調査などがされた。
1.Real Expedición Botánica a los reinos de Perú y Chile(王立植物探検ペルー&チリ1777-1788)
2.Real Expedición Botánica del Nuevo Reino de Granada(王立植物探検グラナダ新王国1782-1808)
3.Real Expedición Botánica a Nueva España(王立植物探検メキシコ1787-1803) 

200年間も眠っていたスペインのこの突然変異的な変わり方には、一体どうしたのだろうという驚きがある。この組織だった動きは、後に世界の園芸市場を動かすことになる英国以上のダイナミックさがある。さらに論理的で戦略があった。

戦略的な拠点は、マドリッド王立ガーデン・植物園
マドリッド王立ガーデンは、1755年にカルロス三世の前国王の時に設立された。1759年に宮殿併設の庭園として設立された英国の王立キューガーデンよりもちょっとだけ早く設立されたことになる。

カルロス三世は、このガーデンを庭園として珍しい植物を展示するだけでなく、植物学を教え、新しい植物を発見・採取する探検を促進する拠点と考えていたという。

何時ごろからこのような考えを持つようになったか定かではないが、庭園から植物園の方向に機能を拡張したのは1770年頃なのだろう。
このガーデン初の植物学教授に任命されたのがオルテガ(Ortega, Casimiro Gómez de 1740-1818)であり、彼は1771年から60歳までの1801年までこの職についていたことから推測できる。

そして、カルロス三世のビジョンの二番目は植物の研究機能を高めることで、ヨーロッパの探検隊が集めた植物の新種の収集と研究をオルテガに委任した。
三番目のビジョンが新しい植物を発見・採取する探検隊を発信・推進することであり、1777年にペルーとチリの植物相を調査する探検隊を出発させ、1782年にはグラナダの植物相調査、そして、カルロス三世が亡くなる1年前の1787年にはメキシコの調査をスタートさせた。

先王が作ったマドリッド王立ガーデンを劇的に変化させ、先進植物学の拠点となったマドリッド王立ガーデン、その中心となり推進したオルテガは、スペイン王室がスポンサードしたペルー・チリの探検隊が収集した植物について広範囲に研究成果を発表している。
わき道にそれるが、晩年のオルテガは、彼の同時代のライバルで1801年からマドリッド植物園の園長となったカバニレス(Cavanilles, Antonio José 1745 - 1804)に蹴落とされる。

三つの探検隊の成果を見ることなくカルロス三世は亡くなったが、カルロス三世の考えは、イギリスの科学・探検を組織的に推進したバンクス卿(Sir Joseph Banks, 1743 –1820)と同じ時期の相通じる発想であり先見性があった。
しかし、上り坂にあるイギリスと下り坂を転げ落ちているスペインとの国力の差が継続性で違いがでたのか、植物相が豊かなスペインと貧弱なイギリスとの願望の強さの差がついたのか後世に引き継がれなかった。
長続きしていれば素晴らしい果実を手に入れられたのに、続かないところがスペインらしいのだろう。やっぱりカルロス三世は突然変異だったのだろう。

こんな背景で、セッセのメキシコの植物相調査・探検が始まる。

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No31:スペインの絶頂期にメキシコを探検したエルナンデス

2010-12-08 18:31:35 | Sessé&Mociño探検隊、メキシコの植物探検
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No31

メキシコのサルビアを始めとした植物の採取記録は1800年代からしかわからない。
ということは、コロンブスから300年間、空白の期間がある。
征服者・統治者スペインは何もしなかったのかという疑問があるが、ここに焦点を当ててみたい。
価値を認めない限り、或いは、意図を持たない限り行動に至らないことはいうまでもない。植民地を増やすための探検、自国にはない原材料を入手するための探索、自国で生産した商品を販売するためのマーケット調査など、ヨーロッパの重商主義、産業革命の進展にともなってフロンティアの獲得競争が熾烈になる。
そのトップに君臨したスペインは、何もしなかったわけではなかった。メキシコで二回の大規模で科学的なアプローチによる植物・動物などの調査を行った。
初めての調査は、1570年代であり、二回目が1780年代からのセッセの調査だった。
何回かに分けて彼らの活動をフォローしてみることにする。

大航海時代のスペイン王室の国庫は空っぽ!
医師・植物学者フランシスコ・エルナンデス(Francisco Hernandez 1514-1587)は、1567年スペイン国王フェリペ二世(Felipe II 1527-1598、在位:1556-1598)の私的侍医となる。

(写真)Francisco Hernandez 1514-1587
 

フェリペ二世は、1580年にポルトガルを併合し、1588年にエリザベス一世のイングランドに無敵艦隊が破れここから下り坂になるが、スペイン最盛期の国王であった。
しかし、国王に就任した1556年には父親から多額の借金も引継ぎ、王室の国庫はデフォルト(借金踏み倒し)を何度か行いしのいでいる状況であった。

だから、アメリカ大陸の植民地経営には関心が強く、新世界の有用植物を貴金属と同じように資産として捉えていた。
特に薬用植物に関しては、高価であり輸入に依存していたので、国庫負担を減らすことでも関心が高かった。
ジャガイモ・サツマイモ・トウモロコシ・チリ唐辛子・カボチャ・トマト・インゲン豆など新世界の食用植物は、いまではメガ級の世界でも重要な食材となっているが、これらに関してはあまり関心がなく、タバコを除き利権化することが出来なかった。

プラントハンターの元祖、フェリペ二世
1570年 フランシスコ・エルナンデスを植民地全域の薬用植物情報を集める特命に任命した。
コロンブスが新大陸に到着してから78年も経過したが、この間に、輸入に頼っていた高価な“しょうが(生姜)”を、1530年頃にメキシコにもって行き、植民地での栽培に切り替えることに成功した。
など小さな成果はあるが、フェリペ二世の期待値には届かない。

フェリペ二世の指示は明確で、
・ 薬草に詳しい全ての人間から情報を収集すること
・ 薬草など個別の特徴などの内容を得ること
・ 植物(苗)・種子を得ること
薬用植物をターゲットとしたプラントハンティングそのものであった。
これが、組織的・戦略的な“プラントハンター”の始まりでもあり、新世界の資源・資産を把握・評価する手法の第一歩でもあった。
この点では、16世紀末のスペインは、プラントハンターの独走的なトップランナーであった。

“しょうが(生姜)”は、いまでは日本食には欠かせない食材となっているが、インドなどを原産地とした熱帯植物で、この当時は、非常に高価な香辛料であった。
しかも中継貿易を支配していたヴェニス、ポルトガルの商人に利益を搾り取られていた。
この状況を、植民地の薬草を使って変え、既存利権構造の破壊が目的となる。

わき道にそれるが、重商主義時代の国家間の争いには、背後に植民地での植物が絡んでいる。
スペインのタバコ利権を壊すためにイギリス・オランダが挑戦し、
オランダのコーヒー利権を壊すためにイギリスが紅茶を育てかつ争い、
イギリスが確立した紅茶に対しては植民地アメリカが戦った。
など、植民地という新しい経営資源を使った国家間の競争戦略でもあった。

これをマーケティング的にパターン化すると
・ 原価ゼロの構築(コスト優位性の構築)
・ 代替物・競争物の構築(競争優位性の構築)
・ 強権での集権化(選択と経営資源の集中投下)
昨今の企業戦略と同じことを異なるフェーズでおこなっていたことになる。

フェリペ二世は、統治と意思決定に優れたセンスを持った国王のようであった。
書類王とも言われ、晩年に修道院で隠遁するまで、決裁の連続であったという。
新世界メキシコの組織だった動植物の調査研究がなされたのは、フェリペ二世の英明と思う。

プラントハンターのパイオニア、エルナンデス
1570年、医師・植物学者フランシスコ・エルナンデス(1514-1587)は、スペイン国王フェリペ二世から植民地全域の薬用植物情報を集める特命に任命された。
やはり、金・銀・宝石を略奪する腕っ節が強い海賊タイプだけでは物事が進まないことがわかり、植物・薬草の専門家を送り込まなければならなくなったのだろう。

1571年8月、彼は、息子のJuanを連れてメキシコに行き、1572年2月にベラクルーズに到着した。中央メキシコなどを3年間精力的に歩き、薬草及びその情報の収集、サンプルの収集・分類、先住民などからのヒアリングなどを行い、1577年にメキシコを去るまでに800の木版画を取り入れた38冊の原稿を2年間で作成した。
しかし、エルナンデスの探検旅行の日記・メモなどは保存されていないので、どんな調査を行ったかということがわからない。

新世界メキシコの動植物を記述した博物誌としては初めてであり、フェリッペ二世は、ナポリの出版業者Nardi Antonio Recchiにこの簡潔な要約版を作るように依頼したが、途中で死亡したので、最終的には1651年まで完成しなかった。

また、このエルナンデスのオリジナル原稿は、Escorial王立図書館に保存されていたが、残念ながらこの王立図書館が火事になり原稿は1671年に消失した。
しかし、部分的な原稿は筆写であるがRecchiのところとメキシコに残っており、メキシコの聖ドミンゴ修道院の修道士によってラテン語からスペイン語に翻訳され、エルナンデス死後の1615年にメキシコで出版された。この版はペーパーバックのように廉価版なので結構普及したようだ。

(タイトル)Quatro libros. De la naturaleza, y virtudes de las plantas, y animales que estan receuidos en el vso de medicina en la Nueua España… Mexico: Viuda de Diego Lopez Daualos. 1615.

(出典) The Internet Archive
※インターネットアーカイブ:Hernández, Franciscoの作品群が収録されている。作品画像をクリックするとページ内容が閲覧できる。

マドリッドで原本から筆写したイタリアの医師・出版業者Nardo Antonio Recchiは、1580年代にラテン語のダイジェスト版を制作し、この写本が彼の死後に手を加えられ1651年に出版された。
それまでの薬草などが書かれた傑作は、ディオスコリデス(Dioscorides紀元40-90年頃)の薬物誌で15世紀まで医学の世界で使われていた。この本には約600種の薬草などの薬が説明されているが、Recchiのダイジェスト版には、エルナンデスが記述した新世界の3000種ものハーブなどが収録されていたので驚きをもって迎えられたという。

(タイトル)Rerum medicarum Novae Hispaniae thesaurus, Rome: Vitalis Mascardi, 1651.

(出典) The Internet Archive

同時代、モナルデス「新世界の薬草誌」
エルナンデスと同時期のスペインの医師・植物学者でマドリッド植物園長のモナルデス(Nicolas Monardes 1493-1588)は、新世界に旅行はしなかったが、メキシコなどから帰国した兵士・水夫・商人などから植物の苗・標本などを購入したり聞き取り調査をし、1565年に「Historia medicinal de las cosas que traen de nuestras Indias Occidentales(新世界の薬草誌)」を出版した。この本は1577年にJohn Framptonによって英語に翻訳され出版されたので、エルナンデスの本が出版される前の新世界の植物を取り扱っていたので影響力があった。
特に、タバコは20以上の病気を治し空腹や渇きを軽減するとタバコ擁護論を展開し、タバコの普及に弾みをつけたことでも知られる。
(タバコの参照)ときめきの植物雑学:その28:コロンブスが見落としたタバコ(Tobacco)

また彼は、コロンブス後のスペイン人が1510年頃スペインに持ち込んだヒマワリをマドリッド植物園長で育て、ヒマワリの育ての親といわれているが、機密保持のガードが固くスペイン国外に持ち出されるには100年以上の時間がかかったといわれている。


当時のグローバルNo1のスペインは、結構しっかりしていたなという感想を抱いたが、エルナンデスの調査結果を生かしきれたのかなという疑問も残る。
エルナンデスは、土着の薬草とその活用を調べたので、今日まで残っていたら新薬を生み出す貴重な情報が含まれていただろう。
生贄を奉げる宗教を根絶やしにするためにその宗教と結びついたハーブ類まで根絶やしにされたようだ。エルナンデスは、伝承が消えかかるギリギリの時代にメキシコを調査していたのでよけいに貴重な情報のような気がする。


(この稿は、「ときめきの植物雑学」シリーズ、 その31 にフェリッペ二世とエルナンデスに関して記載した記事を再編集した。)
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