モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

その68:マッソンとミッショー 二人の関係 ②ミッショーと二人の関係

2008-10-31 07:45:40 | マリーアントワネットのプラントハンター、ミッショー

フランスのプラントハンター ミッショーのその後
植物探索の旅のために全ての資産を使い果たしたミッショーは、フランスに戻らなければならなくなった。

マッソンがニューヨークにつく1年前の1796年にフランスに向けて航海し、オランダ沖で強風のために難破してしまい命だけは助かったが、彼が収集した植物の標本のコレクション、種子及び日誌の一部を失ってしまった。

フランスの科学者達は、熱烈にミッショーを歓迎したようだが、革命政府は、ミッショーに約束したお金を払う意思がなく経済的に破綻するという現実が待っていた。ミッショーには、これらを乗り切る恫喝・詭弁・詐欺、後世では政治力とも言うそうだが、この能力がなく原稿執筆と称して内にこもっていたようだ。

ミッショはこれらから逃げ出すように、
1800年にオーストリア探検隊のNicolas Baudinに同行したが、ニコラス隊長と喧嘩をしてモーリシャスで船を降り、マダガスカルの植物調査に向かったが、
そこで熱帯病にかかり1802年に亡くなった。

(写真)ミッショー

ミッショーには、『the OAKS OF NORTH AMERICA 』『theFLORA OF NORTH AMERICA.』という2冊の著作物があるが、これらは、彼の息子が父の名前で書いたもののようだ。旅人ミッショーで終わらせるのではなく、学問的な業績と名誉を息子がプレゼントしたようなものだ。

ギリシャの時代には、薬草を求めて野山を駆け巡っている人々をリゾトモス(rhizotomos)といった。彼らは“草根採取人”とも呼ばれ、薬草に詳しい専門職ではあるが身分が低い職業でもあり、いわばその後のプラントハンターにつながる系譜でもあった。

マッソン、ミッショーとも貧しく、野山を駆け巡り、野宿をし、植物採取を行うプラントハンターを生涯の職として選びその現場で一生を終えた。
マッソンと喜望峰で一緒に植物探索をしたツンベルクは、リンネの系譜にあり
世界の植物の分類・体系化を生涯の職として選んでおり二人とは大きく異なる。

ミッショーの息子は、その後植物学者として大成する。自分の業績とするのではなく、父の業績としてまとめて出版したのは、現世の富を求めなかった父の未完成部分を十分に承知していたのだろう。

マッソンとミッショーの関係は?
ミッショーはマッソンを知っていただろうか?
マッソンはミッショーを知っていたのだろうか?
これに対する正解は事実として持ち合わせていないが、手持ちの事実から推測をするとこうなる。

1775年に喜望峰の珍しい意植物を持ち帰ったマッソンは時代の寵児となった。
英仏が如何に仲が悪くともフランスに伝わり、ミッショーは十分に承知していたと思われる。
ミッショーは、マッソンが行っていない北米での探索活動にマッソンをライバルとして認識する時間と機会が十分にあった。と言い切りたい。

一方イギリスでは、ミッショーがフランスに戻ってきた1796年頃までには、少なくともバンクス卿はミッショーを承知していたと考えるのが妥当で、マッソンの方はといえば、遅くともカナダを探検する頃までにはミッショーを認識していたと推測できる。
カナダの地を探検し、現地人から「フランスの乞食」と呼ばれたミッショーの清貧で情熱的に活動した実力を知ったはずだ。

二人は直接会うことはなかったようだが、ライバルとしてよく承知していたのだろう。
真のライバルのことは、恋人よりも全人格的にその人間を知るというが
二人の関係は恋人以上の関係だったのではないだろうかと思う。

マッソンはキュー植物園のグローバル化に貢献し、
ミッショーは、北アメリカの植物研究のメッカをパリのミッショーのコレクションが収まっている博物館に創った。
学術的な業績には二人とも欠けるが、植物のある世界をリアルに拡張するムーブメントを創ったともいえる。
日本の植物研究にはシーボルトのコレクションが欠かせない、南アフリカの、そして北アメリカではマッソン及びミッショーのコレクションが貴重な資料となっている。

ありがとうマッソン、そしてミッショー。
失われていくタフで、美しい自然。それをいま小さな4号ポットから組み立てることが出来るのは先人の情熱の恩恵であることが良くわかった。
来年のテーマはマッソンに近づき南アフリカの植物を増やしてみよう。

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その64:マリー・アントワネットのプラントハンター:アンドレ・ミッショー⑤Final

2008-10-18 09:15:09 | マリーアントワネットのプラントハンター、ミッショー

ミッショーがアメリカに持って来た植物の謎解き

サルスベリ(百日紅)を書いていて、原産地の中国からこの植物を北米チャールストンに持ち出した人間がいた。

この時はフランス人が持ち出したので不思議だな~と感じていたが、
この人物が、ミッショーだった。

ちなみにサルスベリでの原稿では、
サルスベリは今では世界に普及している植物となったが、西欧への普及は、1790年の頃であり、フランスの植物学者アンドレ・ミッショー(Andre Michaux)が、中国・韓国原産のサルスベリを、米国サウスカロライナのチャールストンに持ち出したという。」

前号(その63)では、ミッショの北米での活動で1790年の記録がなく
何をしていたのだろうという疑問があったが、
もしかしたら中国に来ていたのかもわからない。

1789年にフランス革命が勃発し、その後の身の振り方に悩んだに違いない。
ミッショーは、チャールストンの富豪で大農場を所有するドレイトン家、ミドルトン家と親交があり、
1786年にミドルトン家を訪問した時にアメリカ初の“つばき”を手土産として持って行った。

ドレイトンホール、ミドルトンプレイスは、チャールストンの観光名所となるほどの景観を有するが、
ミッショーの1791年からのプラントハンティングの活動資金は、
この2つのファミリーから出資されたのではないかと思われる。

“つばき”のような新しい東洋の木・植物への投資があった。と考えるのが合理的な推測になりそうだ。

ミッショーは、わかっているだけでも次のような中国原産の植物をチャールストンに持ってきている。
ツバキ、サルスベリ、ミモザ又はネムノキ、お茶植物、サザンカ、イチョウなどである。
いつ、どのようにしてもってきたのか確認が取れていないが、二つしか考えられない。

① 1786年にチャールストンに大農園を確保した時に、フランスから持ってきた苗をニューヨク郊外の庭園から移動した。この仮説はミドルトン家の記録に1786年にミッショーが“ツバキ”を持ってきたと記載されている

② 1790年頃に中国に行って持って来た。或いは中国の苗があるヨーロッパから持ってきた。この説を裏付けるのが“サルスベリ”のケースでありまた1790年のアメリカでの活動記録がないことにある

アメリカの植物探索に来ていたミッショーが中国原産の植物・樹木をアメリカに導入すること自体不可思議だ。

もしあるとすれば、ミッショーを送り出したフランスの当事者トーイン(Andre Thouin 1746-1824)
の研究テーマが、世界各地の植物を移植して育てる最適な技術の開発研究であり、
このためにアメリカに植物・樹木を持ち込む可能性がある。
しかしこの場合は、中国原産の植物である必要がなくヨーロッパの植物でもよいはずだ。
中国原産の樹木を最初からアメリカに持ち込むこと自体が考えにくい。

そうすると、仮説の②が浮かびあがってくる。
中国まで行って樹木を持って帰るほどの時間はないはずだが、スポンサーを獲得せざるを得ない。
と考えると、ミッショーの相当の必死さが伝わってくる。
ヨーロッパ経由で、喜望峰、中国というコースで船旅をしたのだろうか?

もしこれが史実だとすると、ミッショーは相当な探検と冒険をした人物で、
花卉植物のマッソンに匹敵する樹木でのプラントハンターだといえる。


ミッショがアメリカに持って来た樹木一覧

1.サルスベリ(1790年にチャールストンに導入)
ここを参照
・ミソハギ科サルスベリ属の落葉中高木。耐寒性は強くない。
・学名は、Lagerstroemia indica。英名はCrape myrtleで、ミルテのような花弁がクレープのように縮れているのでつけられた。
・ミルテの和名はギンバイカ(銀梅花)
・和名がサルスベリ、別名百日紅(ヒャクジツコウ)
・原産地は、中国南部で熱帯、亜熱帯に分布する。
・開花期は8~10月で、紅、ピンク、白などの花が咲く。花弁は縮れており百日咲いているので百日紅と名付けられたが、実際は次から次へと咲いている。
・樹高4~5メートルで、今年伸びた枝に花がつく。
・剪定にコツがあるようで、太い枝を剪定し、細い枝を残すと自然の形状が維持できるようだ。この逆はこぶが多くなるという。

2.ツバキ(1786年チャールストンに導入)
・原産地は中国、朝鮮、本州以南の日本、台湾
・学名は、Camellia japonica L.。和名は、ヤブツバキ、別名ヤマツバキ。
・暖かい沿海地に生息し、樹高は10mを超える
・葉は長卯形で厚く硬い。濃い緑色で光沢がある。
・春先に枝先に1個ずつ赤い花が咲く。

3.ミモザ
・オーストラリア原産
・学名 Acacia decurrense var.deaibata。和名フサアカシア、別名ミモザ。
・樹高10m以上になり葉はネムの葉のように対になり小さな葉が30対ほどある。
・春先に濃い黄色の花を多数つけ、全体が黄色でかすむ。

オーストラリア原産ではなく、台湾・フィリピン原産の「タイワンアカシア」ではないだろうかと思う。
「タイワンアカシア」別名ソウシジュ(相思樹) 学名Acacia confusa Merr.

4.ネムノキ
・原産地は、南アジアおよび日本
・学名はAlbizia julibrissin Durazz.
・樹高は10mまでになり、梅雨時の代表的な花木である。
・初夏に枝先に頭状花序をつけ、赤い色をした3~4cmの雄しべの花糸が美しい。
・葉は薄暗くなると垂れ下がって閉じ、眠ったように見える。

5.お茶植物、tea-olive、チャノキ(チャ)
・原産地は中国南西部で広く分布
・学名は、Camellia sinensis (L.)O.Kuntze
・常緑低木で、葉は楕円形で肉厚。
・花は10~11月頃に下向きにうつむく感じで白い花が咲く
・日本には、800年代の初期に唐から最澄が持ち帰ったとする説がある。また別の説では、1191年に僧栄西が中国から持ち帰ったという説もある。
原文では、「tea-olive」と記載されているが、これは、シマヒイラギをさす。

6.山茶花、sasanqua
・原産地は本州以南の日本
・学名は、Camellia sasanqua Thunb.でツンベルクが命名
・山茶は中国ではツバキのことを言う。

7.イチョウ
・原産地中国といわれるが中国での自生地は確認されていない。
・学名は、Ginkgo biloba Linn.
・古くに渡来し神社仏閣に植えられる。
・雌雄別株
・花期は4月で花の色は、雄花は淡い黄色、雌花は緑色。これは気づかなかった。

(リンク) ボタニックガーデン
ツバキ、ネムノキ、チャノキ、サザンカ、イチョウ

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その63:マリー・アントワネットのプラントハンター:アンドレ・ミッショー④

2008-10-16 08:05:54 | マリーアントワネットのプラントハンター、ミッショー
ミッショーのプラントハンティング費用の謎

植物探索は、これを育成する土地と、プロジェクトメンバーを移動させるコストがかかる。
南アフリカ喜望峰では、ツンベルクが資金がないため探索の旅に出れないで困っていた。
マッソンがこの資金を提供し二人で植物探索を実施したように
スポンサー(資金提供者)がいないと植物探索は困難になる。

1789年のフランス革命の勃発は、ミッショーにとって最大のピンチだったろうと思う。
王室が崩壊したのでミッションも消え、活動資金だけでなく生活費のメドもなくなってしまったのだから。

ミッショーは、フランスに戻らずにアメリカにとどまり植物の探索を継続する決断をした。
しかし、革命新政府は貧乏でミッショーのミッション・資金まで都合する余裕がないはずで、
資金面はどうしたのだろう??

わかった事実から積み上げて行くと、フランス革命が勃発した翌年の1790年は活動記録がなく、
1791年からアメリカを離れる前年の1796年まで活発に活動している。

ジョージア、カナダ、アパラッチ山脈、セントラルピートモント山、セントルイスからミシシッピ東岸と
アメリカの地図(その62参照)にプロットしたエリアで長期間の探索旅行を行った。

このようなドキュメントを見ると、採取した植物を担保とした地元の園芸家の資金提供があったのではないかと思われる。
また実現はしなかったが、ジェファーソンにアメリカ東岸の探検の提案をしており、
アメリカ政府からも資金を獲得しようとしたようだ。

植物探索の熱意は落ちていないが、資金は心細かったようで、
彼の行くところは、全て未開拓地であり川、湖、海などでは、カヌー1艘に積めるだけの荷物で
カナダの場合は6ヶ月の旅行をした。
陸路の場合は馬1頭に積めるわずかの荷物であり、星を見ながら野営をしていたようだ。

これでは、原野にある動植物を現地調達するいがい生きられない。
アメリカ滞在の12年間、清貧そのもののプラントハンター生活のようであったが、
大満足だったのではないだろうか?

フランス革命という大激動から距離を置き、20代中盤以降から学んだ植物学の最前線で過すことが出来た。
新しい植物の発見は、精神を高揚させ、飢えと疲れを忘れさせるハイ状態に入ったのではないかと思われる。


マリーアントワネットとミッショー

マリーアントワネットは、1793年10月16日、断頭台で亡くなった。


※マリーアントワネットの幽閉中の貴重な画像

シリーズ「その24:コーヒータイム⑤ “近代”を創ったコーヒーハウス」では、
このコーヒーハウスでフランス革命の種が育ち、コーヒーを飲みながら断頭台での処刑を見物したということを紹介した。

フランス革命の遠因としてマリーアントワネットの浪費による国庫の疲弊と
重税による国民の疲弊・反発などがいわれているが、次の数字から判断してもらおう。

フランス革命前の1788年のフランスの財政
歳入 :5億3百万リーヴル
歳出 :6億2千9百万リーヴル
赤字 :9千9百万リーヴル

歳出の内訳
債務と利子支払い :3億1千8百万リーヴル(50.6%)
軍事費      :1億6千5百万リーヴル(26.2%)
宮廷費      :  3千6百万リーヴル(5.7%)

歳出から見ると、マリーアントワネットの浪費を含んだ宮廷費が年間歳出の5.7%であり、
これが原因で革命が起きたわけではなさそうだ。

借り入れの元本と利子の支払い、軍事費が重く、
1778年にアメリカ独立戦争に参戦した際の戦費20億リーヴルは、
国家財政の4年分にあたり、この債務と利子支払いが重荷となっていた。

この財政状態では、いずれにしても崩壊せざるを得ない政治体制であり、
戦争は、勝ち組にも厳しい現実が待っていた。 
ということだろう。
これから先の米国が三つ子の赤字をどう克服するか? 現実的な大問題だ。

ミッショーは、「マリーのいないフランスに戻ってもしょうがない。」
ということでアメリカに残ったのだろうか?
そんなことはないと思うが、もしそうであるならば、マリーの“思いつき”に
野営地で星を見上げながら思いをはせていただろう。

ミッショーの夜は長く、宇宙のかなたまで見透していたはずだ。
彼の肖像画(その61参照)がそれを示している。
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その62:マリー・アントワネットのプラントハンター:アンドレ・ミッショー③

2008-10-15 07:36:58 | マリーアントワネットのプラントハンター、ミッショー

ミッショーのプラントハンティング

(写真) ミッショーの植物探索した主要な場所

(注)赤のピン:庭園の場所、黄色のピン:植物探索の場所

チャールストンに拠点を移したミッショー(Michaux, André 1746-1803)は、
アメリカでの博物学での第一人者ウイリアム・バートラム(William Bartram 1739 -1823)
探索したルートをたどる旅からスタートした。

ウイリアム・バートラムには、自分の旅の記録を書いた博物誌があるがこれは、
イギリスの詩人ワーズワースなどに影響を及ぼす名作としての評価がされている。
一部分を読んでみたが確かに情景が浮かぶほどの写実的でかつ格調が高い。
自然を美しく切り取るのは写真だけではないことに気づかせるモノがある。

ミッショーの旅は、チャールストンから海沿いに草原地帯を突き抜け、
サバンナ川をさかのぼり高原の荒地でこの川の源流にたどり着いた。
そこで彼は貴重な植物を発見し、その後50年間も存在さえ知られない幻の植物の標本をつくった。

この植物はオコニー・ベル(Oconee Bells)と呼ばれる。

(写真)Oconee Bells (Shortia galacifolia)
 
(出典)Carolina Nature by Will Cook

丸い光沢があるダークグリーンの葉を持った非常に珍しい常緑草本の多年生植物で、
1839年にパリを訪問していたアメリカの若い植物学者A・グレイ(Asa Gray 1810 - 1888)が、
ミッショーの標本が陳列されている博物館でこれを発見した。
ミッショーが発見してから50年間誰も標本も実物をも見たことがない幻の植物だった。

グレイはこのあとアメリカを代表する植物学者として活躍するが、
この植物を探す努力はしたが貧乏でお金が続かずに探索を断念したところ、
1877年に17歳のジョージ・ハイアムス少年がこの植物の実物を再発見した。

この植物の名前は、グレイが「Shortia galacifolia Torr. & A. Gray」と名付けた。

ミッショーは数多くの北アメリカの新しい植物を発見し名前をつけていったが、
重要な植物にはミッショーの名前が残っていない。
彼は学者でなく新種の生きた植物を発見し栽培することを生き甲斐とするプラントハンターだった。

わき道にチョッと入るが、1858年頃、A・グレイは日本の植物標本を見ていて、
Oconee Bells」と同一の植物があることに気づいた。
和名では、 「いわうちわ (岩団扇)」 (学名:Shortia uniflora (Maxim.) Maxim.)という。

(写真)「いわうちわ(岩団扇)Shortia uniflora 」
 
(出典)commons.wikimedia

北アメリカの東部のごく一部と、日本にだけ生息している同一の植物。
これは19世紀中頃のセンセーショナルな謎で
ミッショーは、地球の植物相の変化・歴史の大きな謎を彼の植物標本のコレクションに残し
気づくヒトを博物館で待っていたようだ。

(補)グレイが見ていた日本の植物標本は、ペリー艦隊の植物学者がアメリカに送った標本のようであり別途のテーマで取り上げる。
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その61:マリー・アントワネットのプラントハンター:アンドレ・ミッショー②

2008-10-14 08:10:55 | マリーアントワネットのプラントハンター、ミッショー
星空で野営する清貧なプラントハンター

ものめずらしい植物のコレクションが欲しいという
マリー・アントワネットのおねだりが契機で
アンドレ・ミッショー(Michaux, André 1746-1803)はアメリカに行くことになった。

(写真) アンドレ・ミッショ


(出典):wikipedia


ミッショーは、フランス革命の4年前の1785年11月にニューヨークに着いた。
この植物採取旅行には、15歳になった彼の息子のフランシス(Francois André 1770-1855)と、
トーインが鍛えた若い庭師ピエールポールソーニエ(Pierre Paul Saunier)が同行した。

このアメリカ植物探索プロジェクトの仏でのリーダーが、トーイン(Andre Thouin 1746-1824)のようだ。
彼は、ミッショーの先生でもあるジュシュー(Bernard de Jussieu 1699-1777)から植物学をならい、
パリ植物園に植物学校を創設し、世界の植物の合理的な移植技術の研究を行った。
また、人間に破壊された森の自然を回復させる重要性を主張したことで知られる。

このことは、世界の植物を集めるプラントハンターが必要であることを意味する。
また、.第三代の米国大統領になるジェファーソン(Thomas Jefferson 1743 - 1826)と親交があり、
ミッショーの植物探索の米国側でのキーマンでもあった。

ここに登場したミッショー、トーイン、ジェファーソンは同世代でもある。

ベース基地の構築
植物探索の基本は、採取した植物を保管したり、育てて種を採取したりするスペースが必要だ。
これは江戸時代に日本に来たツンベルク、シーボルトなども狭い長崎の出島に庭を確保したり、
お寺の庭を借りたりとか工夫をしている。

ミッショーは、この拠点を短時間に2箇所確保した。
フランス革命前の王室が存在した時に構築できたので結果的に大正解だった。

最初に確保したのは、
ニューヨークの郊外ニュージャージーのハッケンサック近くに30エーカーの農場を確保し、
ニューヨーク近郊の探検から始めた。
このハッケンサックは今では全米でも裕福なところで、日曜日祝日には店が営業禁止となり、
黒装束のユダヤ教徒が礼拝に向かう姿だけが目に付く一種違和感がある光景があったが
あそこがハッケンサックだったかと今になって気づいた。

1786年9月にミッショーは、ハッケンサック庭園を一緒に連れてきた若い庭師ソーニエに任せ、
ニューヨーク到着1年もたたないうちに、サウスカロライナ州のチャールストンに彼の息子と船に乗り移動した。
ここで111エーカーの大きな庭を確保し、次の10年間の基地・拠点として活用した。
この庭は、東京ドーム9.6個分にあたるので、かなり広いスペースを確保した。

チャールストンは、大西洋側のフロリダ半島の付け根部分の上に位置し、
ルイ14世によって迫害が始まった新教徒ユグノーのコミュニティが移住し建設した裕福な都市だ。

ついでだが
フランシス・マッソンが植物探索で行った南アフリカ喜望峰、ケープタウンにも
ユグノー教徒が移住し南アフリカ建国の基盤を創ることになる。
イギリスに逃れたユグノー教徒を含め、
植物を愉しむ価値観を世界に拡散・普及したのがユグノー教徒でもある。

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その57:マリー・アントワネットのプラントハンター:アンドレ・ミッショー①

2008-09-21 09:31:43 | マリーアントワネットのプラントハンター、ミッショー

アズレア・ブルーセージの命名者にスポットを当て
フランスのプラントハンター“アンドレ・ミッショー”の足跡を追ってみる。



ミッショーが活躍した時代背景
米国独立戦争とフランス革命のはざ間で活躍したアンドレ・ミッショー
1773年12月16日、ボストン港に停泊している英国東インド会社の船に侵入した、
インディアンに化けた植民地の住民は、積荷の紅茶を海に投げ捨てた。
世に名高いボストン茶会事件であり、アメリカ13州が英国からの独立を図る戦争の始まりだった。

この戦争にアメリカ側に立って参戦したフランスは、年間歳入の半分がこの戦争の借金で消えていくほど重い負担であり
1789年7月14日にパリバスティーユ牢獄が襲撃されフランス革命が勃発した。

この二つとも重い税金とその使途に不満を持つ市民が立ち上がった革命であるといわれている。
18世紀の後半は、こんな時代でありイギリスにフランスが挑戦し、市民が貴族に挑戦する時代でもあった。


フランスの植物学者・プラントハンターのアンドレ・ミッショー(Michaux, André 1746-1803)
フランス革命の直前1785年に、ルイ16世から王室の植物学者に任命され、
さらにフランスにとって有用な植物を収集するために米国植物探索を命じられた。
そして歴史の表舞台に登場してきた。

それ以前のミッショーはあまりよくわからない。
1770年、ミッショーが24歳の時、前年結婚したばかりの奥さんが、息子を生んで亡くなった。
この出来事を契機としてか、彼は植物学を勉強するようになった。

18世紀後半は、リンネ(1707-1778)ビュフォン(仏、1707-1788)が活躍した時代だが、
この二人は天敵のようで、リンネがパリに来た時に親交を結んだのは、ビュフォンの前任者である
ベルナール・ド・ジュシュー(1699-1777)だった。
ジュシュー最後の弟子にあたるのがミッショーで、ベストな先生に学ぶことが出来たようだ。
ミッショーは既に24歳を過ぎているようであり決して若くはなかった。


ミッショーのアメリカ植物相の探索の目的は、有用植物の探索と収集であったが
有用な植物の代表は、『木』であった。
フランスは、イギリスなどとの競争で、軍艦を建造するために森を破壊してきており、
森を作り変える必要を感じていた。
その苗木を採取するために独立戦争(1775-1783)で支援したアメリカの植物相探索となった。
後のミッショーとジェファーソン(Thomas Jefferson)との関係から見て、
両国間には、盗むのではなく合意が形成されていたものと思われる。

イギリスでは、バンクス卿によりマッソンが南アフリカ探索を命じられたのが1772年なので、
遅れること13年で、フランスも国策としてのプラントハンティングに着手した。と見ても良い。

これで筋は通るが、しかし、実態は違うようだ。
何か革新的なNewが始まる時にこの歯車をまわしたエネルギーは、理性ではなく感情だったりする。
これを隠すために、後日大義名分をつけたり、もっともな辞令を出すための優秀な官僚の作文だったりする。

本線は、マリー・アントワネットが、“自分の庭に目新しい植物が欲しかった”ということが動機のようだ。

ジュシューは、ベルサイユ宮殿のトリアノン庭園の管理者として、
リンネとは異なる分類体系(自然配列)で庭園の植物を分類配置していたことで知られるが、
マリー・アントワネットのエゴイズムの人選にかかわった可能性がある。

ミッショーにとっては、大チャンスが舞い込んできた。

(Next)
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